京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

須賀敦子とナタリア・ギンズブルグ 〜『ある家族の会話』を読んで〜その1

きっちり足にあった靴さえあれば、自分はどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。
ユルスナールの靴』(須賀敦子河出書房新社、1996年)

 須賀敦子さんの本に出会ったのは高校3年の春だった。日曜の早朝に放送されていた30分ほどの短い旅番組のなかで、真野響子さんが須賀さんの『ミラノ 霧の風景』(白水社、1990年)を手にミラノを散策していた。どんな旅番組だったかは、よく憶えていない。ただ、真野さんが、街角で立ち止まる時々に朗読した文章にひどく惹かれた。

 その前の年、幼く身勝手なものだったかもしれないが、わたしは行き詰まり、不登校になっていた。それまで、何が好きで何が嫌いかなんて考えずに大きくなってきていた。すべきものをして、そうあらねばならないとした姿をたもつことが自分のほとんどだった。そうすればおのずと安泰と呼ばれる何かに乗れると思っていた。わたしが思春期を迎えるまでの80年代から90年代初めはそんな時代だったと思う。

 そして高校生になった頃、その頃はちょうど、バブルがはじけて数年した時で、よい大学を出て大企業に就職することや公務員になることが幸せという価値観は擦り切れ、リストラの増加や就職氷河期が始まっていた。自分の周囲や、その延長上にある世間が急にギスギスとしてきたのがわかった。子どもながらに、戦後の時とは比べ物にならないかもしれないけれども、ひとつの時代の価値観が崩壊し、次はなにをよりどころとしていけばよいかわからない不安な時に入ったのを、敏感に感じ取っていたと思う。自分の親以外の一番身近な学校の先生たちも、ほんの数年前は、一種能天気に言い切ってしまえたことも、わたしが高校に入った頃には、言葉の端々を飲み込むような感じだったような気がする。大人も柔軟には変われなかった。

 そんななかで、初めて好きな人ができた。人を好きになると、自分を嫌いになった。好きになればなるほど、自分のなかに汚いヘドロのような部分が湧いて出てくる気がした。それがきっかけだったと思う。何もかも急に焦りだし、いままで作り上げてきた殻に気づくこともできずに簡単に行き詰った。その後、不登校になり、数ヶ月間、南半球の自然が溢れる島国に行った。自分の寸法が少しずつわかりだしたようで、随分と肩の力が抜けて楽に息ができるようになっていた。須賀さんの文章に出会ったのはそんな頃だった。

 テレビで須賀さんの文章にふれた数日後、学校の図書館の新刊のコーナーに並んでいる『ミラノ 霧の風景』をたまたま見つけた。年配の司書の女性をせかして借りたと思う。鞄に大切に入れ、騒がしい電車では読まずに、夕方ひとり部屋の中で息をつめて一気に読んだ。ページをめくる度に、どんどん惹かれていった。一文一文に魅せられて、すぐに虜になってしまった。この人のようなものの見方がしたい、この人のように深く考えられる人になりたいという気持ちが溢れてきて、須賀さんの世界に少しでも近づきたいと、イタリア語を学べるところに進学することに決めた。母に進路を告げたのは、『ミラノ 霧の風景』を読み終わって数分後だったと思う。こんなにも何かに憧れるのは初めてだった。

 その後、受験勉強の合間に貪るように須賀さんの著作を読んだ。彼女が、自分と同じようにサンテグジュペリの作品を愛していることなど、小さな共通点を見つけてはとても嬉しく、彼女の著作を何度も読み返し、なんども彼女が描き出した世界、記憶をなぞり、彼女の知性に裏打ちされた、激しさが隠れた、あたたかい品のある美しい旋律の文章を読んできた。大学時代も、社会人になった今もそれは変わらない。彼女が多いとは言えず残した書評の数々の本たちは、読書のみちしるべになった。デュラスもダイベックユルスナールもアン・リンドバーグ日野啓三長田弘も、須賀さんの書評から知った。いまだ枝葉のようにこれらの作家を通じて、次に愛する作家に出会える。とてもとても幸せなことだ。でも、こんなにも彼女の作品を読み、彼女の愛する作家の作品を読んでも、まだまだ読めたという気がしない。まだまだ、だめだ。ただバリバリと咀嚼しているだけのような気がいつもする。須賀さんのファンといっても、彼女の多くのファンの一番後ろのほうをまろびながら一生懸命ついていっているだけのファンである。彼女のいう靴さえはけているのかどうか。このまま裸足のままかもしれない。

 それでも、すこしでも彼女の世界にふれたいと思ったあの高校3年の春の日の気持ちのまま、これから、彼女が愛し、翻訳したナタリア・ギンズブルグ(Natalia Ginzburg)の『ある家族の会話』(Lessico Famigliare、1963年)を原文と翻訳を見ながら、名訳と呼ばれる彼女の訳を少しずつたどっていけたらと思う。次回から、『ある家族の会話』を読む。  (つづく)
ユルスナールの靴 (河出文庫) ミラノ霧の風景―須賀敦子コレクション (白水Uブックス―エッセイの小径) ある家族の会話 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)