京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

須賀敦子とナタリア・ギンズブルグ 〜『ある家族の会話』を読んで〜その2

 ナタリア・ギンズブルグ(Natalia Ginzburg)は1916年に、トリエステ出身のユダヤ系イタリア人で大学教授である父と、ミラノ出身の母の間に五人兄妹の末っ子として、トリノで生まれている。ブルジョワ家庭のしきたりで、小学校課程を母の個人教授で済ませている。そんな静かな幼少期から書くことを心の支えとしていたらしい。彼女の短編が初めて文芸誌に載るのはわずか17歳の時である。社会主義を信奉していた彼女の父や兄たちが、反ファシズム運動に身を投じ、運動家として逮捕や亡命を繰り返すなか、1938年、反ファシストグループのリーダーであったレオーネ・ギンズブルグ(Leone Ginzburg)と結婚している。混沌の時代の波がひたひたと打ち寄せ、周囲が不安と苦痛で崩れていく中、彼女の周りには、反ファシストであった家族や夫、そして今やイタリアで最も権威ある出版社のひとつとなっているエイナウディ社(Einaudi)の創設期のメンバーである友人たちがいた。彼女は執筆を続け、1940年に夫が南イタリアの寒村に流刑になった翌年には偽名を使い、彼女の最初の小説を発表している。1944年に夫レオーネが拷問の末獄死し、その後、トリノへ戻り、エイナウディ社で編集の仕事を手伝いながら執筆活動を続けた。その後、2度目の結婚、ローマへ移住と環境が変わった1957年には『ヴァレンティーノ』(Valentino)という作品でヴィアレッジョ賞(Premio Viareggio)*1を受賞している。

 しかしながら、彼女を一躍有名にしたのは1963年に出版されたこの『ある家族の会話』(Lessico famigliare、1963年)だった。文学賞のひとつストレーガ賞(Premio Strega)*2を受賞しただけではなく、多くの批評家や、大衆の共感を得た。そしてこの作品は、1972年に中学生の教材のテキスト採用されている。19世紀にイタリアが統一国家として誕生したとき、全国民に共通な国への帰属意識を育成するため、当時の文科省が、ダンテ(Dante Alighieri)の『新曲』(Divina Commedia)とマンゾーニ(Alessandro Manzoni)の『いいなづけ』(I promessi sposi、1823年)を中等国語教育の読み物として選んで以来、国民間に共通の帰属意識を共有できるような国民的文学作品が中等教育の国語教材に選ばれてきたという伝統を考えると、彼女のこの作品がイタリアの近代史の一つの象徴であり、20世紀前半を生きた多くのイタリアの人々の記憶を内包した作品と認められたということだろう。
ある家族の会話 (白水Uブックス―海外小説の誘惑) 神曲 地獄篇 (集英社文庫ヘリテージシリーズ) いいなづけ 上 (河出文庫)    

 家族間でしかわからない家族の共通の記憶や言葉たち。それをめぐるひとつひとつの小さな出来事が語られていくなかで、やがていやおうなしに絡み合い家族の流れと一つとなっていく戦禍の流れ。この作品がくれるものは、その当時を生きたイタリアのごく個人の生活の思いや手触りであり、俯瞰してみた歴史ではない、生きた時の匂いである。つまり、生きた現代史が浮かび上がってくる。ただ、それだけの価値の作品では決してない。個性的な家族とやさしい友人たちの物語が、当時とは形を違えた不安や諦めに息を詰まらされているわたしたちを勇気づけてくれる。遠くにいるけれど力強い心の友人、そんな存在になってくれる作品である。

 この作品は、作者の記憶のまま、一つの時代を生きた彼女の家族や友人について書かれたものである。それぞれの家族の持つ雰囲気と同じようにつかみどころがないけれども、確かにこの言い回しは自分の家族の誰々のものであるといえる、そういった口癖や洒落が溢れている。

 また、家族や友人についてのエピソードが、ふつりふつりと記憶が湧き上がるリズムで、単調に、ネックレスに石をひとつひとつ通していくように描かれている。一つのエピソードはわずか数行であるものも多い。しかしながら、一個のエピソードの中のには生き生きとした様々なリズムがある。

 この作品の原文と須賀敦子の日本語訳を照らし合わせた際、つくづくと訳文のうまさに感心する点は、このリズムを壊すことなく見事に自然な日本語に移し変えているところである。特有の口癖や洒落のイメージを豊かな含みを持って訳している点、個々に異なるトーンを持つエピソードの連鎖を不自然さなく繋げていっている点に、この翻訳のすばらしさを感じる。そういった巧さを感じる小さな例。

 『ある家族の会話』の原文より、作者の父親が家族に向かって、自分の気に入らない行いを叱責している場面。

..... -Non siete dei negri! Non fate delle negrigure!- ci gridava continuamente. La gamma delle negrigure era grande. Chiamava ≪ una negrigure ≫ portare, nelle gite in montagna, scarpette da città; attacar discorso, in treno o per strada, con un compagno di viaggio o con un passante; conversare dalla finestra con i vicini di casa; levarsi le scarpe in salotto, e scaldarsi i piedi alla bocca del calorifero; lamentarsi, nelle gite in montagna, per sete, stanchezza o sbucciature ai piedi; portare, nelle gite, pietanze cotte e unte, e tovaglioli per pulirsi le dita. ......

 例えば私が訳してみると、

 「お前たちはニグロじゃないだろう。ニグロのようなことはするな。」父は始終叫んでいた。ニグロっぽいことの範囲は広かった。山でのハイキングに街用の靴を履くとニグロみたいなと言われた。また、電車に乗り合わせた人や道であった人に話しかけたり、窓から近所の人と会話したり、客間に靴で上がったり、暖房の口に足を乗せて暖めたり、喉の渇きや疲れや足の擦り傷なんかでハイキング中にぶつくさ言ったり、煮てあったり油っぽかったりする食べ物や手を拭くためのナプキンを持っていったりしたときもそうだった。

 須賀訳(『ある家族の会話』、1995年、白水社)では、

「ニグロみたいなことをするなっ!ニグロじゃあるまいし!」そういって父は私たちを叱った。この「ニグロ沙汰」には、実にいろいろな種類のことが含まれていた。タウンシューズで歩くこと。汽車の中や道で、近くにすわった人や通行人に話しかけること。窓から近所の人と話すこと。応接間や人前で靴をぬいだり、ラジエーターに足をのせて温めること。山歩きのときに、のどが渇いた、疲れた、足の皮がむけた等々、泣き言をいうこと。ピクニックに、煮物や油のべとべとしたものや手拭などを持参すること。これらがすべて父にいわせると「ニグロ沙汰」であった。

 外国語を翻訳する際、その外国語の語順どおりに訳すことは、その文章のリズム移すためには必要なことだと思う。ただ、須賀訳では、語順を守りながらも、Chiamava ≪ una negrigure ≫を最後に持ってきて、同格で以下に続いていくニグロ沙汰な内容のことを、「これらがすべて父にいわせると「ニグロ沙汰」であった。」としめることで、一つのエピソードを完結した一つの記憶にまとめている。わたしの訳であれば、文意は間違っていなくても、次に出てくるエピソードは異なる内容のものであるのに、また父が「ニグロ沙汰」とする内容が続いていきそうでしまりがない。この作品では、近い色合いを持ったエピソードが少しずつそのトーンを変えながら、しかしながらそれぞれ独立した記憶として数珠のように繋がっている文章であるからこそ、ひとつひとつのエピソードの歯切れのいい独立性がリズムを生んでいるのだと思う。

 そして、須賀訳では、家族の共通する記憶や言葉を特徴とするこの作品の意図を汲み、訳語が口語体で不自然なく語るように流れるよう細心の注意がなされている。読んでいく際に不必要な突っかかりがないよう、どの単語も洗練してある。

 彼女の訳出した文章をただ読んでいるときは、新鮮な空気がすいすい肺に入っていくように、何も考えず読んでしまうが、数行こうしてよくよく味わうと、作品に対する彼女の細やかな愛情が伝わってくる。  (つづく)

*1:1929年にトスカーナ州の都市ヴィアレッジョにて創設されたイタリアで最も誉れの高い文学賞。実際、文学作品に賞が授与されたのは1931年から。第二次世界大戦中は一時的に中断された。対象は、小説、詩、エッセイ。戦後は、イタロ・カルヴィーノ(Italo Calvino)やアルベルト・モラヴィア(Alberto Moravia)などが受賞者として名を連ねている。この賞の成立過程や受賞作のリストについては、ハムエッグ大輔のコラムアーカイブから『魔女は本を読むためにほうきから下りた』シリーズをご一読ください。

*2:「日曜友の会」(Amidi della domenica)として 日曜の午後に、この賞の起案者であり、出資者であるベッロンチ氏の家に集っていた作家、ジャーナリスト、アーティストらのグループが1947年に創設。対象は、イタリア人作家の小説作品。受賞者には、チェーザレパヴェーゼ(Cesare Pavese)、ディーノ・ブッツァーティ(Dino Buzzati)、ウンベルト・エーコ(Umberto Eco)などがいる。