読者のみなさん、お久しぶりです。ファンシーゆずが、2年のローマ滞在を終えて、大阪へ戻ってまいりました。これだけ長い間外国に暮らすのは初めての体験だったので、行きもそうだったけれど、帰りはある意味予定通りのバタバタでした。予想はばっちりしていたにもかかわらず、対策はそこまでばっちりではなかったというのが実際のところで、私史上未体験ゾーンに突入した忙しさのあまり、ローマとのお別れも中途半端にしかできずに大阪の土を踏んでしまったように思われてなりません。そのせいなのかはわからないけれど、トラブルが充満した混沌の町ローマが既に懐かしいのが今の心情です。
ところで、この『チネチッタ滞在記』は今月で終了し、来月からは新タイトルで装いも新たに始めるつもりです。チネチッタ界隈での映画話を綴ってきたこのコラムですが、最後となる今回と次回は、編集を学んでいた私がなぜか俳優として参加した映画撮影について書きたいと思います。前口上はこのくらいにして、いつもの調子で本文へ入ります。
2年前の秋、私はおっかなびっくりしながらチネチッタの扉を叩いた。実際に扉をくぐり中に入るだけでも一苦労だった(詳細は、コラムアーカイブで2006年1月2月分をご覧ください)。特に映画について深い知識があるわけでもなく、口をつくのはつたないイタリア語だけという状況で、映画の都の内側にある映画学校へ通うことになったわけだ。
編集を学ぶことになった私だが、イタリアにおけるここ最近のアジア・ブーム、さらには日本ブームの影響を受けてのことだったのだろうか、在学中には監督コースや撮影コース、または俳優コースの人たちに頻繁に話しかけられ、時にはそんなセミプロの友人たちが制作する映画に出演を依頼されることがあった。なかでも実際に私が引き受けたなかでも初めてにしてもっとも大がかりだった作品のエピソードを紹介する。
出会いはトイレだった。考えてみるまでもなく、用は誰でも足すわけで、トイレは普段会わない人とクロスする場所である。と言うと、同性に限られそうなものであるが、出入り口やトイレへの通路まで含めると異性にも当然出会うわけで、私はそんなチネチッタ内のあるお手洗いへの通路で監督の男性に声をかけられた。話を聞くと、1ヵ月後にクランクインする映画に出演してくれるアジア人女性を探しているという。演技経験は無いに等しいと突っぱねてはみたものの、それでも大丈夫だとか君の容姿が必要なんだとかうまいこと言われると不思議なもので次第に首を縦に振ってしまうものである。俗に言う安請け合いだ。
撮影に入る前に、スタッフが監督の家に集ってちょっとしたフェスタ(ホームパーティー)を催すというので行ってみた。メンバーはほとんどが私の通っていた学校のOBやチネチッタ内で働き始めた映画界の卵たちだった。監督はふたり。自己紹介が始まった。塚本晋也やウォン・カーワイ(王家衛)を信仰しているこのふたりは映画学校に通う傍ら、チネチッタ内で意欲的にコネ作りに励み、あちこちの撮影現場でタダ働きをしながら経験を積み、映画業界に人脈を広げていったらしい。そんな情熱的なふたりでも、長髪をなびかせるタトゥー男として風貌の面でもかなり特異なシモーネはイタリア系イスラエル人で、イスラエルではアモス・ギタイ(Amos Gitai)の助手を経験し、アメリカではTV局に勤めるなどした実力者だった。「大丈夫かな、あたし……」。
物怖じしつつも、フェスタは続く。他にやってきていたのはカメラマン、俳優、音声さん、メイクさん、衣装さんなどなど総勢20名ほど。監督は食事をしながらこれまでのいきさつを熱く語ってくれた。自分たちのアイデアを実現するためにスタッフ一人一人に声をかけて説得し、みんなでなけなしの金をはたきあって共同出資のグループを結成し、束となって20世紀FOXやらコダックやらテクニカラーやらあちこちからの援助を取り付けながら、ようやく35mmのフィルムで撮影するところまでこぎつけたのだそうだ。見せられた絵コンテは実に緻密で完璧なものであったし、デジタルビデオカメラで撮影されたリハーサル映像はそれだけで既に立派な作品になっていて、これは自主制作の領域を軽く超えているなと思わせるには十分なものだった。「ほんとに大丈夫かな、あたし……」。
ストーリーは実に意外なものだった。主人公である細菌研究者は時々刻々と細菌兵器に侵されていく世界を救おうと日夜研究に励んでいるのだが、悲劇的なことに彼自身もまたその細菌に毒されていく。そんな希望が絶たれた闇の世界はどうなるのか? 博士は世界を救えるのか? 近未来を舞台とした完全なSFものだ。意外というのは、まさにそのジャンルである。皆さんはイタリア映画にどういったイメージを持たれているかわからないけれど、少なくともSFが得意というような印象を持っている人はかなり少ないのではないかと思う。そこへ敢えてSF。いったいどういうことなのか? 彼らはこう力説する。「イタリアにはダリオ・アルジェント(Dario Argento)やマリオ・バーヴァ(Mario Bava)のフィルムのようなホラー映画の系譜は確かにあるけれどそれも今となってはきちんと受け継がれているとは言い難いものがあるし、SFなんてことになるとイタリア映画には伝統と呼べるようなものは存在しないに等しいだろう? 俺たちはそこに目を付けたのさ。そういう事実関係を整理することと並行して、自分たちの目指すものがどれだけ本格的なSFでありホラーであるかということを強気でアピールしたのさ、配給会社やフィルム会社、思いつく限り片っ端からね。こういうまだまだ隙間のある分野で俺たちみたいな若手の手腕を試してみないかと持ちかけたんだ。ここにいるメンバーはローマだけじゃなくって、イタリア全土から集めたよ。今はお互いに信頼し合ってるから、用とあらば万難を排してローマへ駆けつけてきてくれる。実に頼もしいね」。頼もしさなんて微塵もない私は、肥大化する心配に否応なく支配されていた。脳内でつぶやく言葉は知らず知らずのうちに方言になっていた。「ほんとに大丈夫とやろか、あたし……」。「いやいや、やばいやろ」。冷静な突っ込みはやはり関西弁ですかさず入る。長崎の私と大阪の私は果てることなく上記のやり取りを繰り返している。はぁ。今更ながらの安請け合いに後悔する私。本当に大丈夫なのか?