イタリアはボローニャの夏の訪れを祝い、バカンス目前のこの街をにぎやかにするは、「再び見出された映画」(Cinema Ritrovato)という名の映画祭、ボローニャ復元映画祭です。当コラム『シネマテークにしねまっていこ』でも、第15回と16回のそれぞれで紹介と報告という形で触れました。各国の映画アーカイヴがそれぞれの成果を持ち寄るこの映画祭は、シネマテークのお祭りとも言える気がします。
今年の復元映画祭の目玉のひとつに「アスタ・ニールセン特集」がありました。アスタ・ニールセン(Asta Nielsen、画像下の右)は、無声映画時代のドイツを代表するデンマーク出身の映画女優です。その名を知るばかりで、彼女の出演作は映画祭で初めて見たという僕にとっては、「再び見出された」という言葉は厳密には間違っていますが、僕の個人的な映画史の穴埋めを可能にすると同時に、映画史としてのニールセンについて再考察と再評価の機会を世界に提供する、それがこの映画祭の趣旨であり、そのためにアーカイヴの復元と保存の仕事は欠かせないのです。
アスタ・ニールセンについての幾許かを、僕はボローニャの映画祭中に作品に触れることによって知るに至りました。しかしその喜びの反面、ニールセンのみならず、この映画祭で見知った作品や映画人を日本で見直す機会はそれほどない、増して、これほど一挙に見る機会はこの先きっと少ない、そうした予感が頭をかすめ、それぞれの上映と映画祭それ自体の終了には、ある種の寂しさを感じたものです。家庭用ソフトに慣れ切ってしまっている僕は、心のどこかで、「また見ることができる」と無意識に錯覚していて、終幕直後の余韻が過ぎ去って初めて、それまで見ていたものが巻き戻し再生やチャプター・セレクトが可能な種類の映画ではないことに気づき、愕然とするのです。
ニールセンの『女ハムレット』(Hamlet、Sven Gade/Heinz Schall監督、1920年)の発見もそうした経験のひとつではあったのですが、この出会いの幸運は、映画祭の火照りのようなものがまだ体内に残る7月下旬、ドイツはフランクフルトを訪れた時にやってきました。
フランクフルトの正確な名前は、フランクフルト・アム・マイン(Frankfurt am Main)。「マイン川の側のフランクフルト」という意味だったかと記憶しています。映画好きがこの街を訪れる理由は、そのマイン川沿いにあるドイツ・フィルムミュージアムで、動機としてはそれだけで十分正当であるはずなのに、僕はそれをさらに、ソーセージとビールと旧友との再会でもってさらに正当化の上塗りをしました。入館前からすでにモチベージョンは完璧です。
フィルムミュージアム。ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、前回のコラムでは、アムステルダムのフィルムミュージアムで、僕の勘違いに端を発するちょっとしたズッコケ劇を演じたことをネタにしました。スケジュール上、実際にはつい3日前のできごとであるにもかかわらず、「フィルムミュージアム」という名前ですでにある程度満足しているとは、まったく反省の色すら見えません。記憶が正しければ、ドイツ語で映画は「キノ」だったはずですから、「フィルム」の「ミュージアム」であるならば、僕の求めるタイプの映画博物館ではない可能性が十分あります。
ところがフランクフルトの映画博物館は、トリノのそれに比すればやや規模は小さいものの、紛れもない映画博物館であることが判明し、飛び上がるように僕は喜んだわけです。飛び上がったついでに、右手にビール、左手に両端からソーセージがはみ出したパンを握り締め、マイン川南岸の古物市を冷やかしながら、館に向かいました。ついに来ました、映画博物館としてのフィルムミュージアム。
手に入る限りの紙資料を集め、1階のチケット・カウンターで発券してもらい、隣の物販コーナーでパラパラ漫画のサンプルをひとしきり楽しんだ後で、2階の博物館入り口を目指しました。
最初のフロアは映画最初期の機材などの展示です。僕はこうした機材を眺めるのが大好きで、2006年にサン・ジミニャーノ(San Gimignano)で開催された家庭映画の祭典*1で特集されていた20年代から30年代にかけての装置の展示や、トリノ国立映画博物館の展示では、そうした美しき遺産の前でずいぶんな時間を過ごしたものです。これらの素材の何が魅力的と言って、その構造をある程度理解すると、それがとてもシンプル明快であることに気がつき、その反面、結局は理解を超えた残像という映画の基礎構造に直面して、抗し難い映画とフィルムの魔力の虜になることでしょう。この日も、ゾーエトロープ、ミュートスコープ、プラキシノスコープと楽しんだ後で、フェナキスティスコープに目を輝かせる我が身を鏡の内にとらえ、ようやく正気に戻ったほどです。
上の階に進むと、そこからようやく、実際の作品や役者、技術の歴史を通じて映画史が展開されています。大好きなルイーズ・ブルックス(Louise Brooks)の『パンドラの箱』(Die Büchse der Pandora、Georg Wilhelm Pabst、1929年)のポスター、フィルムの構造やフォーマット、ムビオラやスプライサーといった編集器具、ハリーハウゼン(Ray Harryhausen)を引用した特殊撮影の説明、戦前戦後の映写機が所狭しと並びます。映画館を模した上映室ではローレル&ハーディ(Raurel & Hardy)の短編が上映されています。メモを取ったフィルムのフォーマットは17種類にも及びました。
そして、この階のハイライトが、先に触れたニールセンの『女ハムレット』の復元の解説だったです。“DER ABSTURZ”(Ludwig Wolff監督、1922年)や “ERDGEIST”(Leopold Jessener監督、1923年)といったニールセン作品と並び、この夏ボローニャで興味深く鑑賞した『女ハムレット』は、その邦題どおり、ハムレットは実は女性だったという解釈(嘘か真か、作品冒頭、その解釈をしている研究家について、インタータイトルで説明されます)に基づいてドラマは進められます。ハムレットの苦しみ、ホレイショーとの友愛、決闘とクライマックス、そうしたものがすべて、「ハムレットは女だった」という新事実のもとに描かれるという珍作と言えます。30代後半とは思えないニールセンの若々しい演技や、その表現とも言えるような鮮やかなフィルムの色彩*2は必見で、再見を望んだ多くの作品の中のひとつです。この『女ハムレット』、映画史をのぞいて見ると、長年、失われたとされた作品で、今回の復元プリントの上映はその意味でも意義のあるものだったようです。にもかかわらず、ボローニャの映画祭のパンフレットではそれほど詳しく解説されているわけではなく、むしろ他の作品に比べ、フィルムの出処や復元作業の説明がない分、「興味深いのによくわからない作品」という地位に甘んじておりました。それがこうして、フィルムミュージアムのひと部屋の大部分を使って、専用のコーナーが作られている。そして、それにめぐり会えた幸運。アスタは僕を待っていた! シネマテークの申し子であることをうれしく思ったものです。
屏風状に仕立てた復元の細かい工程表を僕ほどに熟読(ドイツ語とは言え、何となくわかるんです)する者は他になく、ライトボックスに並べられた染色フィルムたちに、「きれいだよ、君たち」とつぶやく者の姿は僕以外にありません。劣化したフィルムの展示に、「よく生き残ったね」と涙ながらに話しかけ、そうした展示のひとつひとつのメモを取っているのは僕だけでした。そして、もっとも楽しんだのは、並べられたふたつのモニターに映し出されるふたつの『女ハムレット』。左がドイツ語オリジナル版(欠損多し)、右はアメリカのニューヨーク近代美術館(MoMA)所蔵の輸出版。いずれも展示用に編集されたダイジェストですが同じシーンです。冒頭とクライマックスで複数のショットの持続時間が違い、モンタージュにも相違がありました。何より、カメラのアングルやフレーミングがまったく違っています。無声映画時代には、ひとつのシーンを並べた複数のカメラで撮影したり、国内版のアウトテイクで輸出版を作る習慣があり、それがこうしたバージョン違いを生み出すことは、ボローニャ大学の「映画の文献学」で学びました。シュトロハイムの『愚かなる妻』(Foolish Wives、Erich von Stroheim、1922年)がその時は引用されたはずです。そんなわけで、『女ハムレット』を研究することは、映画作品の復元から映画史と映画の技術を学ぶことができる好例とも言えるのです。「ありがとう、アスタ。また来るよ」。
アムステルダムでの若干の欲求不満を取り返すかのように見学に没頭したあとで、地階での上映のために1階の物販コーナーに戻りました。パラパラ漫画や簡易ゾーエトロープで遊んでいると、親子連れが集まり始めました。この日は土曜日、親子映画鑑賞会の日です。「キノ〜」、そう歌いながら5歳くらいの女の子が、父親の手を引きながら、上映室に降りていきました。お父さんと映画館に来たことがうれしくてしかたがない様子です。僕は一人旅でしたが、アスタ・ニールセンに見守られてるような気がしてうれしくて、家族に続いて上映室に入りました。「キノ〜!」僕もそう叫んでいたことは言うまでもありません。
※オールドファッション幹太のブログ KANTA CANTA LA VITA