京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

世界のシネマテークにしねまっていこ その3(後編)

 昨年11月の後半から、都合4回にわたり休載させていただきました。今回から何とか復活です。これまでの人生を賭して取り組んだ仕事もひと段落つき(完了したとは言いますまい)、新しい年も始まって、今年はどんな楽しいことをしようかと考える日々です。

 パリ、シネマテーク・フランセーズ、上映室「アンリ・ラングロワ」。無声映画『ラ・クーパーブル』(La coupable、André Antoine監督、1917年)が、伴奏も活弁もなくスクリーンに映し出される上映室の無音を切り裂いたのは、ヒソヒソ声のおしゃべりを大音量で叱責する男の声でした。静寂を破った男の大声の後も、何がしかを話す女の子の声は依然止まなかったのか、再び同じ男が「静かにしろ!」と叫び、それと同時に、堰を切ったように一斉に「しー!」とか「ちっ!」とか「ふ〜っ!」とか抗議の音があちこち響きました。怒りの声にかき消されたおしゃべりはすでに僕には聞こえず、むしろスクリーンへの集中を妨げたのは、おしゃべりを戒める怒号、怒号に対する罵声、さらに罵声に対する批判、緊張を失った上映室に対する嘆息でした。「放り出されたいのか!」とすごむ声が聞こえたり、立ち上がって上映室を後にする者がいたりと、暗闇の中に穏やかでない雰囲気が漂いました。日本ではほとんど見ることのないこうした光景、つまり上映中のおしゃべりとそれに対する怒りの声とその応酬は、似たものをボローニャのチネテカでも経験したことはありますが―――イタリア人は上映中よくしゃべるのです―――、パリのそれは明らかに過激で深刻で、暗闇の中に散る比喩的な火花の中に、より禁欲的な、否、むしろ映画に対するあくなき貪欲さゆえの真摯な態度のようなものを感じました。

 アムステルダム、フランクフルトと続いたシネマテークをめぐる冒険は、それぞれの街でそれぞれに興味深い経験を僕に与え、最終目的地パリのシネマテーク・フランセーズでもそれは同様でした。陽のあるうちに施設内の図書館と書店と博物館をおおかた堪能し、それでいて一向に飽き足りることはなく、夜は夜で見たことも聞いたこともない作品の上映がある。あの日の僕に満たされない思いがあったとすれば、それは一日では到底満喫し尽くすことのできない豊か過ぎる展示、そして過去と現在と未来の日替わり上映プログラム、さらにすべてを周ることなどまったく不可能なパリ中の映画館の数々、それらに対する飢えでした。すでに記したように、怒涛のように押し寄せる展示は時に消化不良を起こすほどで、休憩という名の胃薬を求めてさまよい歩く街には目移りを禁じえない映画館、また映画館。知らないことが多すぎて、にもかかわらずそれを喜びに換えてしまうような欲張りな映画好きにとって、やはりこの街はほとんど歓楽街であるようで、ふらりとやってきた旅行者をたった一日では満足させない、むしろ満足させてたまるかと言わんばかりのこの街の映画的豊かさは、言い換えれば、映画史のあらゆる局面をリードしてきたこの街のプライドのようなものなのではないかという気がします。映画に対してどこまでもハングリーで、映画を汚染するものに対してはどこまでもストイックなシネマテーク・フランセーズにおける映画鑑賞の姿勢は、映画を阻害するおしゃべりは決して許さず、邪魔を制することによって邪魔してしまうという、矛盾とも過剰とも思える「映画愛」が満ちみちた上映室に、罪のない無邪気なおしゃべり鑑賞者の居場所はなかったのです。シネマテーク・フランセーズのラングロワ・ホールで体験した、パリの誇りの表れとも言えそうなこの一件は、オランダでもドイツでも、イタリアでも経験しなかった、まさにシネマテーク・フランセーズ的な出来事として記憶しています。

 ところで、このコラムでも何度か紹介しましたが、他でもない『映画愛』という名の本があります。フランス、あるいはパリが映画史をリードしてきたのであれば、そのリーダーシップの一端を間違いなく担ってきたシネマテーク・フランセーズとその創始者アンリ・ラングロワについての伝記です。原題は “A Passion for Films; Henri Langlois and the Cinematheque Francaise”。そして、村川英によるその訳書が『映画愛』です。その中で、序文を提供したフランソワ・トリュフォー(François Truffaut)が面白いことを書いています。

 「憑かれた」男がみなそうであるように、アンリ・ラングロワは世界、人間、事件を二つの陣営に分けた。(1)シネマテーク・フランセーズにとって良いもの。(2)シネマテーク・フランセーズにとって悪いもの。彼は十年来の友人に対しても、まず様子を尋ねたり家族はどうかを問いかけるようなことで時間をつぶしたりはしなかった。(中略)例えば「ハロー、アンリ、変わりはないかい」「非常に悪いね。ヴァロワ街(文化省)は三月十七日の総会を記名投票のためにキャンセルしたがっている。だが私は会計監督官のパスケに、もし大臣が七月二十三日の決議を考慮しないようであれば、クールセル街の建物を閉鎖するし、また、ロカルノ宣言の三十五B決議の結論としてFIAFのために準備したノヴァク報告を聞く小委員会のメンバーを招集するだろうと話したんだ。そして去年の四月二十九日にやってくれたことを三月十一日には私にしてくれなかったとバスカフェに告げるようにとヴィクターに言っておいた」(訳:村川英


 トリュフォーによる「例え」であるとはいえ、曲がりなりにも映画のことを学んでいる僕にも、何のことが話題になっているのかさっぱりわかりません。しかし、トリュフォーに言わせれば、そういうことはラングロワの回りでしばしば起こったことで、ラングロワは対話者の反応をまったく気にかけることなく、のべつ幕なしにシネマテークについてしゃべり続け、それでも相手はその彼に喜んで耳を傾け、そうでない場合はラングロワを単なる偏執狂とみなしていたそうです。そしていずれの場合にも、ついに知ることになるのは、ラングロワが結局は正しかったということ。それがもっとも明らかになるのが、前回も少し書いた68年の「ラングロワ事件」なのだとトリュフォーは記しています。政治的な悪意と利権にまつわる欲望に翻弄されるシネマテーク・フランセーズを、限りない「映画愛」、あるいは燃え盛る「パッション・フォー・フィルムズ」と、それに対する世界中からのシンパシーによって守り抜いたアンリ・ラングロワ、彼の生涯を緻密な研究で追跡したリチャード・ラウドの『映画愛』は、多くの人が読むことを期待される名著だと思います。

“Ce dragon qui veille sur nos trésors.”(彼は僕らの宝の上に住むドラゴンさ)


 パリ左岸、第6区にあるモンパルナス墓地を訪れ、映画の写真のコラージュを施されたアンリ・ラングロワの墓石を眺めると、ジャン・コクトーJean Cocteau)のこんな言葉が記されているのに気づくはずです。僕らの宝、それは言うまでもなく映画のことで、映画の守り神、守護神としての竜として、コクトーはラングロワを讃えています。フィルムの上の竜神が、その灼熱の吐息であらゆる批判を黒焦げにし、吐息がさらに舌鋒鋭い炎となって論客を焼き尽くす。あるいはその両翼の巻き起こす疾風が、すべての「シネマテーク・フランセーズにとって悪いもの」をなぎ倒す。映画を汚す者には牙をむき、容赦なく鋭い爪を振りかざす。善悪の境界線を司る荒れ狂うドラゴン亡き後も、悪しきものを焼き続ける業火の精神はこの街で燃え続け、シネマテーク・フランセーズに通う竜の子供たちに再び宿って灯る。そんなことを想像していると、ラングロワは依然としてパリで生きているようにも思えるのです。

 あれから半年が過ぎ、2007年7月のシネマテークをめぐる旅を記したノートだけが手元に残りました。フランクフルトから夜行バスに乗ってパリに着いたその朝に、なにかにつけて「さすがパリ!」と言ってしまう自らへの警告として、「パリパリ言うな!」とノートに書きました。パリを見ることなく、何をそんなに有り難がっているのだ、と。しかし、竜神ラングロワが眠りながら生き続けるパリは、結局のところ遅かれ早かれ巡礼することになった街であり、この街のあらゆる見所に優先するシネマテーク・フランセーズはやっぱり僕にとっては聖地なのです。歓楽街であり聖地であるパリを必要以上に有り難がることなく、上手に距離感を保つことができるのであれば、精神的なよりどころ、目指すべきものを持つことは、場合によっては健康的でもあり、何より居心地がいいです。相変わらずの不勉強で、依然シネマテーク・フランセーズとラングロワについての無知はほとんど絶望的ですが、翻って、「知るべきことは多く、知りたいことはさらに多い」と言ってそれを希望とすることで前進することはできると思います。たった一度きり迷い込んだ聖地の上映室で目の当たりにした、ドラゴンの残した火花は、幸か不幸か僕にも延焼し、オリンピアの聖火の如くボローニャ経由で今こうして大阪に届けられました。火の発見が吉と出るか否かは、それを使う人間次第であることは、すでに歴史が教えている通りです。  (おわり)

 ※オールドファッション幹太のブログ  KANTA CANTA LA VITA