京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

映画館よ、どこへ行く。いや、動かなければならないのは僕たちの方だ。 

 ボローニャのペッリッツァ・ダ・ヴォルペード通りから大阪の豊中市に引っ越して、早いもので半年が過ぎました。ノスタルジーに浸る間もなく奔走したおかげで、帰国直後特有の忙しさと慌しさには何とか決着をつけることができました。ところが間髪を置かずに、長すぎた学生生活にとどめを刺すべく家に閉じこもって学業に専念していたので、それをようやく片付けた今になって、実のところ、帰国後の生活がまったく軌道に乗っていないこと、その足元がぐらついて倒壊寸前であること、そしてそれは目をそむけることができないほど緊急であることに直面して愕然としています。

 悲しいかな、そんな生活にあっては、果てしなく遠いところに映画はあるわけで、日本に戻ってから鑑賞した作品数は20本にまったく届きません。映画三昧だったボローニャの日々が、現実的にも比喩的にも今の自分とはあまりにかけ離れていることに焦りのような不安を感じずにはいられません。

 なにはともあれ、ようやく呪縛のような論文執筆から解放されたときに、やっぱり最初にしようと思ったことは映画を見ることでした。社会に向けられた窓である映画のスクリーンを、社会復帰の第一歩、この上ないリハビリのように位置づけるのは自然な成り行きです。とはいえ、鞭打った体にとっては、上映室の暗闇はどこまでも柔らかな揺りかごでしかなく、サウンドトラックは心地よい子守唄でしかありませんから、たっぷり睡眠をとってから、大阪梅田のガーデンシネマへ出かけることにしました。

 体中が痛むほど眠っていざ出陣。しかし、なぜこんなにも足が重い? 鈍る出足。最寄り駅までの徒歩15分が恐ろしく長く感じられます。もっとも近い駅を遠いなあと思ってしまってはもうだめです。改札は頭を雲の上に出す壁となり 、電車に乗ってからの12分間はもはや永遠のように想像されました。梅田駅からガーデンシネマのある梅田スカイビルまで続く地下道は、一度入ったら二度と陽の光を見ることを許さぬ地獄への階段のように感じられました。気がつくと、豊中駅のすぐそばにあるミスタードーナッツで、オールドファッションをかじっていました。映画についての論文を書くために映画を見る時間を削る というジレンマから解放され、ようやく映画を見れると思ったときに、映画館があまりにも遠いところにあることを思い知らされた象徴的なできごとだったわけです。

 2008年の新作ドーナッツ、チョコパフで口をモグモグさせながら考えていたのは、暮らすならば映画館のある街に、ということです。ボローニャでの生活の前後で変わってしまった意識があるとすれば、映画と自分の距離のとらえ方のようなものだと思います。映画は好きだけど、たかが映画のために電車に乗っていたくはない。電車賃を払ってまで、チケット代の高い映画館には行きたくない。言い換えれば、映画館は散歩がてらに、あるいは少なくとも自転車で行けるくらいのところにあってほしい。つまり、映画と映画館をそれくらい身近に感じていたい。1年9ヶ月暮らしたボローニャでは、チネテカが家から自転車で20 分、最寄の映画館ローマ・デッサイは5分のところにありました。そんな生活に慣れてしまうと、映画を見に行くことが「ちょっとしたお出かけ」になることが煩わしい。現に映画館から足が遠のいたという意味で間違いなく、バスかモノレールでしか行けない千里中央にしか映画館がない豊中市に暮らす僕にとっては、これは悲劇的な意識改革ではあったと思います。しかし、視点を変えればこれは、この先、映画とつき合っていく上での態度や覚悟の表明というか、そういう心の持ち方についての革命宣言みたいなものだとも考えています。映画に、より近づきたい、と。

 『ニューシネマパラダイス』(Nuovo cinema paradiso、ジュゼッペ・トルナトーレ監督、1989年)のトトみたいに、映写技師の見習いが自転車の荷台にフィルム缶を積んで回って、フィルムのやり取りをしていた時代ではありません。どこの町にも映画館があるなんてことが、もはや人々の記憶と夢でしかないこともわかっています。となれば、動かなければならないのはフィルム缶ではなく、映画を見たがっている僕たちであるということは自然に理解できます。でも、その移動範囲は極力小さくしていたい。僕は根っからの田舎者ですから、「大阪シティ」になんかに行った日には、それだけで骨まで疲弊してしまいます。映画どころではなくなってしまうのです。映画を求めて駆け回ってた経験がないわけではなく、ベルイマンの特集をやっていたシネ・ヌーヴォには毎日往復60キロの道のりを小さなバイクで移動しましたし、ゴールデンウィークには毎年のように東京のイタリア映画祭に参加しますので、映画をめぐる旅の一切を否定するわけではありません。そうした移動がごくごく小規模に、大げさになることなく、暮らしの一部として組み込まれる生活を求めるわけで、ボローニャでの日々がまさにそれだったとも言えるはずです。特集上映や映画祭はあくまで例外なのです。

 人口37万人のボローニャ市の中心部は、かつての城壁に囲まれた旧市街地を指します。ここがいわゆるボローニャで、イタリア人にボローニャと言えばほとんどの人がこの地区を想像するはずです。そこには、チネテカを含め11の映画館があり、総スクリーン数は20にも及びます。旧市街地の外にも興味深い単館系の映画館があり、シネコンがあり、ピンク映画館があり、映画クラブがあり、野外上映があり、あの街に暮らす人々は、映画に関しては(劇場も美術館もそうですけど)ものすごく幅広い選択肢が約束されているわけです。その充実振りは、映画館は上記の千里セルシーシアターの1館1スクリーンしかない、人口がほとんど同じ(およそ38万人)豊中市を比較対象にするまでもありません。のみならず、ボローニャの旧市街地はそれほど大きくありませんから必然的に移動距離も短くて済む。最近になって店頭から忽然と姿を消したハニーオールドファッションを想いながらポン・デ・黒糖に手を伸ばし、そんなボローニャでの暮らしをひとつの理想郷とする一方で、この先どうやって映画と日本の映画館との関係を持つか、そんなことを考えるのです。

 大きなスクリーンで、しかもフィルムによる上映を、とりあえず現時点では「映画」と位置づけている僕にとって、映画館を求めて彷徨い歩く、大なり小なりの旅は、デジタルのホームシアターをも映画として同定してそれを自宅に設置するまで続く宿命です。その宿命から解き放たれることを望むのであれば、さっさとフィルム原理主義から脱却するか、長距離の移動に値する映画の出現を指をくわえて待つか、あるいは見たい映画を上映する映画館を自分で作ったり、そんな映画館のある街に引っ越したり、映画館に職を求めたりすればいいのでしょうけど、それについて考えるには場を改めなければならないようです。

 エミーリア地方、ボローニャ生まれの作家であり、映画監督でもあるチンツィア・ボモル(Cinzia Bomoll)がおもしろいことを書いていたのを、ポン・デ・黒糖のやさしい甘さが思い出させてくれましたので、それを解釈の余地ある示唆として引用して、今回は結ぶことにしましょう。

Non c’è mai stato un mare da guardare qui, per noi. Il mare che si muove e fa rumore. Sennò sarebbe stato più facile. Qui è sempre tutto fermo e silenzioso. Siamo noi che ci siamo dovuti muovere. Non potevamo aspettare che si muovesse il resto. In questa Emilia.
  (Cinzia Bomoll, Lei, che nelle foto non sorrideva, Fazi, 2006)

私たちにとって見るべき海は、ここには一切なかった。うねりを上げて波音を響かせる海は。もしそんな海がここにあったなら、もっと楽だったはずだから。ここではすべてが止まっていて、いつも静かだ。動かなければならなかったのは、私たちだった。周りが動き出すのを待っていることはできなかった。このエミーリア地方では。
(チンツィア・ボモル、『写真の中では笑わなかった彼女』、訳は筆者 )

※オールドファッション幹太のブログ KANTA CANTA LA VITA