京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

ラジオに耳ったけ     (旧ウェブサイトコラム『ローマから遠く離れて』)

 もともとあまりない記憶力を総動員して、がんばって思い出してみた。初めて聴いたラジオ番組ってなんだろう? 耳にしたというレベルなら、まず間違いなく2・3歳くらいまでさかのぼらなくちゃならないわけで、いくらなんでもそれはもはや記憶中枢から完全に抹消されているはずである。だから、自分で聴こうとして聴いたラジオということになる。これならおぼろげながら思い出せてきた。広島の祖父母宅で聴いた漫才である。NHKか何かの演芸番組だったのだろう、残念ながらコンビ名は忘れてしまったが、ボケとツッコミの役割分担がくっきり明瞭でわかりやすい、スタンダードな東京のしゃべくり漫才だったことは忘れていない。さおだけ売りとその客の素っ頓狂な問答のくだりはかなり笑えた。8歳か9歳だったように思う。ひとりで新幹線に乗って広島へ向かった僕。親元から離れることは淋しさよりも開放感を僕に与え、のぞみと比べればずいぶんゆったりだったひかり号の車窓を流れる景色を眺めたり、隣のやさしいおじさんとおしゃべりをしたり、持参した冒険小説を読んだりと、ずいぶんご機嫌な旅だった。そんな僕をプラットホームで待っていたのは、喜びよりも安堵の勝った祖母の顔だった。

「雅夫ちゃんは、ひとりでおりこうさんじゃったんじゃねぇ。おりこうさんは阪神の試合を見終わったら早く寝るんよ。2階に寝床を作っておいたけぇねぇ」。小さかった僕にはとてつもなく広く感じた旧家の2階の大広間。「あすこで寝るのか…」。僕は縮みあがった。遊撃手平田の蝶の如く堅実な守備をテレビでチェックしながらも、僕はトランジスタラジオ(画像上のようなもの)をどうやって2階に持って上がるかという策を練りはじめていた。要するに、誰もいない床の間に水墨画があるような和室で、聞こえてくるのはただただサウンド・オブ・サイレンスという状態でひとりでおちおち寝てられるかということである。僕には音がほしかった。布団の中に隠し置いたラジオから、小さな音ではあったけれど(もちろんばれるといけないから音量を落としていたのだ)、どこかの演芸場で繰り広げられたばかばかしいやり取りが耳に届いた瞬間、僕はそれまでのこらえきれない恐怖心から逃れ、今度は逆に笑いがこらえられなくなってしまっていた。だめだだめだ。声を漏らしたらどやされるぞ。僕はいっそう布団にもぐりこみ、ラジオに耳をピタリと寄せながら、笑いを含み笑いにとどめるよう努めたものだ。

 ラジオとのつきあいにはそんな馴れ初めがあり、僕たちの仲は中学から高校時代にかけてひとつの絶頂期を迎えた。中学入学とともに僕の伴侶となったダブルラジカセ(画像右のようなもの)。なんと心躍ったことか。勉強するよと母親に言いつつも、自室に引っこむと、僕はただひたすらにラジオと向かい合った。野球中継、基礎英語、オールナイトニッポン。当時から何かと反メジャー・反主流だった僕の耳をより喜ばせてくれたのは、お隣の町京都のKBS京都の芸人さんの番組であり(とりわけ、雨上がり決死隊バッファロー吾郎の『京都発!吉本決死隊』、つボイノリオのハイヤング京都、松竹のTKOが巣立っていった『青春ベジタブル』のオンエアー時には文字通りラジオにかじりついていたくらいだ)、こちらとしては邦楽が聴きたかったのだけれど、あまりかけてくれないものだから、知らず知らずのうちに僕の洋楽趣味の間口を広げてくれたエフエム京都α-STATIONであった。僕とラジオはとにかくいつも寄り添っていた。テレビなんて目じゃなかった。ラジオはいつも僕に耳よりな情報を届けてくれたからだ。語彙も増えた。話し手のよどみない話術にあこがれた。ぜひとも僕も何らかの形で関わりたい。はがき職人(これはもう半死半生語だな…)とまではいかないにせよ、折にふれて渾身のネタを官製はがきにしたためた。それがたまに採用されると、僕は「えっへん!」とばかりに友だちや母親に自慢し、「いつかは仕事でラジオ局に足を運んでやるぞ」と息巻いていた。

 大学生になって一人暮らしをするようになってからは、週に何度催せば気が済むんだという飲み会に次ぐ飲み会。不規則かつ自堕落な生活がたたって、規則的にラジオを聴くという機会が激減してしまった。今思えば不覚である。悔いが残る。ただ、初めてのひとりでの海外渡航の際、トランジットで6時間ほど滞在したフィンランドヘルシンキで聴いた彼の地のFM放送は実に刺激的だった。当時僕の持っていたカセットテープのウォークマンにはラジオを聴取できる機能が付属していて、何とはなしにスイッチを入れてみたら、当然と言えば当然の話だが、テンションの高いフィンランド語が僕の耳に飛び込んできた。まったくもって意味はわからないわけだが、それでもかなり楽しめた。たまには意味の類推できる単語も聞こえてきたりして、なじみの薄いフィンランドポップスも耳をもって体験できたりして、退屈な乗り換え待ち時間は、ジェット機並みのスピードであっという間に過ぎてしまった。

  同様にして、イタリアに深く関わるにつれ、僕はあちらのラジオにも興味を持つようになった。その頃にはインターネットが既にブロードバンド化していて、リアルタイムでイタリアの放送が受信できるような環境が整っていたことは幸いだった。ラジオを取り巻く環境は日本とはずいぶん違うようで、国営放送をはじめとして、イタリアではかなりの数の放送局がインターネットでの配信を行っている。権利の問題がどうなっているのかは定かではないが、リスナーにとってはそんなことは知ったことではない。時差を気にしながらではあるが、大阪にいながらにしてイタリアのラジオを生で聴けるというのは何にも代えがたい喜びであった。ラジオにはもちろん映像が伴わない。だから、より言語に集中できる。遠い遠いイタリアの最高の情報源であるのみならず、格好の語学教材でもある。しかも無料。最新のイタリア音楽を満喫したければ、僕が何かとゆかりのあるリグーリア州ジェノヴァの独立系放送局バッボレーオ(Radio Babboleo)、教養あふれるトーク番組を聞きたければ国営第3放送のライ・トレ(Rai Tre)、といった具合に、ザッピングすらできるのだから、このテクノロジーの飛躍的な進歩には感謝を通り越して、ただただ唖然とするばかりである。

 さて、大阪ドーナッツクラブを結成した直後から2年にわたって生活したローマでも、僕のラジオ・ライフは継続した。当時綴っていたコラム「ローマで夜だった」にもたびたび登場した愛車「はじめちゃん」にはラジオなんぞ搭載されていなかったので、僕はすぐさまラジカセを購入した(はじめちゃんについては、コラム・アーカイブ内のフラスカーティについて書かれたものをお読みください)。老成の極みに達したフィアット「ウーノ」にそれを積み、ハンドルを操作しながら聴くローマのラジオは格別だった。いよいよ自分がローマにいるんだということが肌で感じられ、DJのトークを無意識に真似たものだ。

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 そこで気づいたことがある。イタリアのラジオ局の数の多さだ。ポンコツ車で移動していると、かなり揺れが激しいので、しょっちゅうチューニングの微調整を強いられることになるのだが、ほんの少しつまみを動かしただけでまったく違う電波が押し寄せてくるのだ。「いったいいくつあるんだよ」。気になったので調べてみると、ざっと50はくだらない。80近くあるようだ。ラジオというのは、テレビと違ってかなりシンプルなマスメディアである。機材をある程度そろえれば、誰にだって自前の放送を行うことが可能だ(実は僕も中学生の頃に試みたことがある。ラジオ発信キットのようなものを購入して、相当意気込んだ。「自宅からたった半径500メートルくらいしか聞こえないとしても、れっきとしたラジオじゃないか。開局してやるぞ!」。ただ、はんだ付け作業の途中に無残にも火傷を負ってあえなくくじけてしまったのではあるが…)。その気になれば、自分の主張を誰にも邪魔されることなく世間に知らしめることができる。イギリス・フランス・イタリアあたりの国々では、60年代くらいから自由ラジオなる運動が盛んになり、若者たちは異議申し立ての手段としてヘッドホンをつけ、マイクに向かって唾を飛ばした。この辺の事情については、マルコ・トゥーリオ・ジョルダーナ(Marco Tulio Giordana)監督の『ペッピーノの百歩』(I cento passi、2000年)でその一端を垣間見ることができる。この名残もあるのだろうし、イタリアという国はそもそも「おらが町一番」志向の強いところであるから、メディアの都心集中を嫌うということも影響しているのだろう。夥しいとすら言えるラジオ局の数もさることながら、数年前の調査で「テレビよりもラジオのほうが好きだ」と答えた人が40%くらいいたというのだから、イタリアはちょっとしたラジオ天国であるわけだ。

 こうやってラジオに慣れ親しんできた僕が、この4月からDJ・MASAOとしてエアーデビューをした。しかも、思春期にリスナーだった先述のα-STATIONで。しかも、明るいトーンとはきはきとしたトークでリスナーに元気を与え続け、海外のニュースから下ネタまで硬軟織り交ぜたトピックスを自在にこなしながら関西のエフエムを牽引し続ける久米村直子さんとのダブル・キャストで。自分で監督した映画内でDJとして声だけの出演をしたことがあるのだが、DJに憧れを抱いてきた僕は、それだけで本懐を遂げたと感無量だったのだ(詳しくは2005年のコラム『CREVASSE』を参照ください)。それがどうしたわけか、あろうことか本物のスタジオで自分の声を電波に乗せているのだから、これはもう感無量を通り越して、毎回卒倒寸前である。とは言え、やるからには真剣に取り組んでいるし、実際のところ楽しくて仕方がない。イタリアの話題もたくさん紹介させていただいているのだからなおさらだ。毎週日曜日14時からの2時間は、ぜひともαステーションの周波数89.4MHzにチューン・インして、Swingin’ Sundayに耳を澄ませていただきたい。FMとAMの垣根を取っ払った、ゆるいかけあいとイタリアの音楽も含めたイカした洋楽ナンバーで新しいスタイルの放送をお送りしてくので、読者の皆さんにもおつきあいいただきたいと思う。

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 ラジオへの想いをのらりくらりと書き綴った今回のコラムだったが、僕はこれからもラジオに首ったけ、いや、耳ったけで充実した暮らしを送るつもりだ。そんな人が増えることを願ってやまない。ここらでキーボードから手を放して、トム・ウェイツTom Waits)がクールかつとぼけたDJ役を演じたジャームッシュ(Jim Jarmusch)監督のフィルムを鑑賞することにしようと思う。『ダウン・バイ・ロー』(Down by Law、1986年)と『ミステリー・トレイン』(Mystery Train、1989年)の2本立てだ。こいつは最高の夜だぜ、みんな!