京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

コロッセオの近くに

 初めてできたぼくのイタリア人の友達は、ダニエーラという名前の女の子でした。地方から出てき学生で、ローマのモンティ地区に下宿し、大学では日本語、日本文化を勉強していました。そんな彼女の家に遊びに行ったときのことでした。コーヒーでも飲みに行こうと二人で表に出て、コロッセオが奥に見えるセルペンティ通り(画像下)を歩いていると、ふと思い出したのか、彼女がこう話し始めました。
 
 「まだ子供のころ、学校の遠足で、一度だけローマに来たことがあったわ。友達たち3人グループでいてね、ちょうど今歩いているこの辺で迷子になったの。次の目的地がコロッセオっていうことだけ覚えていたから、道の奥に見えるコロッセオ目指して、必死に歩いたわ。あの頃はローマに住むなんて思ってもみなかった」
 彼女は現在、大学を卒業したものの同じ家に住み続け、ある旅行会社で、いつ終わるとも知れないインターンシップを行っています。
 コロッセオを下から眺めるように広がるモンティ地区。歴史と日常が混在するその町では、ダニエラのような若者たちが多く暮らしています。そして、 1900年以上変わらずそこに佇み続けるコロッセオには、周りの町や人々まで飲み込んでしまうような存在感があり、まさにローマという都市を象徴しているように思えます。
 
 『コロッセオの近くにモンティがある(訳は筆者)』(Vicino al Closseo c’è Monti、画像下はそのポスター)というタイトルのドキュメンタリー映画が、現在(2008年9月5日)行われているヴェネツィア映画祭で発表されました。監督は、長年にわたりモンティ地区で生活しているマリオ・モニチェッリ(Mario Monicelli)です。今年で93歳になる彼は、40歳下の妻で、イラストレーターでもあるキアーラ・ラパッチーニ(Chiara Rapaccini)の提案で、22分の短いドキュメンタリー映画をつくりました。モニチェッリは言います。 
 
 「映画はだいぶ前に死んでしまった。トーキーが発明されたとき、死んでしまった。映画とは、動きあるイメージの芸術だ。しゃべる言葉や音響は、なにもかもダメにしてしまう。無声でなければならない。あの白黒のイメージのほうが、どんなカラー映画よりも意味深いのだ」。コロッセオのすぐ近く、ローマでもっとも古い地区であるモンティを撮るという行為。それはつまり、テクノロジーによって退化してしまった映画という芸術の復権を願う意味合いがあるのではないでしょうか。今回の作品について、彼はこう説明しています。

 私は、誇張するのではなく、穏やかな調子で、モンティについて語りたかった。職人たちのいる小さな店、古い石畳の道、行楽を祝う広場、ダンスや演劇の学校などなど。隠された魅力を探したくなるように、すべてを、素早く、ほんの少しづつ語りたかった。 

 映画の現状を憂うモニチェッリ(画像上)が初めて映画に携わったのは、1934年のことでした。大企業家アルノルド・モンダドーリ(Arnoldo Mondadori)の協力で、短編映画を撮影したのがことの始まりです。第二次世界大戦中には、ナポリから、北アフリカへ派遣される途中に逃走し、ローマに隠れ住みます。戦争が終わると、ステーノ(Steno)と共に、コメディー映画をつくり始めます。二人で共同制作した映画は計8本、ナポリの喜劇俳優トト(Totò)を起用するなど、どれもテンポの速いドタバタ劇が特徴です。
 陽気でユーモアあふれる敗戦国イタリアをテーマに映画を撮ったモニチェッリは、1958年『いつもの見知らぬ男たち』(I soliti ignoti)でアカデミー外国語映画賞にノミネートし、皮肉やブラック・ユーモアが特徴の「イタリア式コメディー」の最たる作り手と言われるようになります。
 その後も彼は、テレビ番組や脚本なども手がけながら、映画監督のキャリアを続けます。そして2006年、91歳にして、第二次大戦中のリビアを舞台にした、『砂漠のバラ(訳は筆者)』(Le rose del deserto)を世に送り出します。今までイタリア映画が取り上げることのなかった、「リビアで起こった戦争」を映画にしたかった、とモニチェッリは語ります。
 『砂漠のバラ』の原作である、『リビアの砂漠(訳は筆者)』(Il deserto della Libia)が出版されたのは、終戦から6年経った1951年のことでした。作者はモニチェッリと同郷で友人でもあるマリオ・トビーノ(Mario Tobino)。リビアの風土、風俗、そして現地人と侵略者であるイタリア人の交流を語ったこの作品は、戦争について批判的な目で描かれており、1911 年以降、10万人の犠牲者をだしたと言われるイタリアのリビア侵攻を考える上でも、重要な資料と言えるでしょう。
 
 そして、何十年もの時が経ち、作品はモニチェッリの手によって映画となりました(画像上はそのポスターで、イラストはやはりラパッチーニ)。さらに、映画化から2年が経った今年の8月30日、度重なる交渉の末、50億米ドルの賠償金を含む協定が、リビアとイタリアの間に結ばれました。リビア侵略はまさに、20世紀を貫いてイタリアが孕んでいた問題だったのです。
 このように、ローマの下町風景からリビアの戦争、敗戦後のドタバタ喜劇まで、マリオ・モニチェッリはいつも、示唆的な対象物にカメラを向けます。過去から現在まで、彼のつくった作品を追ってみることで、イタリアという国そのものまでも浮かび上がってくる気がします。