京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

映画作家想田和弘さんインタビュー その1 @十三第七藝術劇場(2011年7月30日)

 『選挙』『精神』に続いて、観察映画第三弾となる最新作『Peace』(公式サイトはコチラ)が公開中の映画作家想田和弘さん。FM802 NIGHT RAMBLER MONDAYの取材で、大阪での公開日に十三第七藝術劇場の控え室にてじっくりとお話をうかがうことができました。番組でお伝えできなかった興味深いやりとりもたくさんありましたので、3回にわけてその内容をお届けします。

野村:僕自身映画論を大学で研究していましたので、著書『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』を大変興味深く読ませていただきました。日本のドキュメンタリー論って、最近、二極化してきているなぁと思っていまして…。みんながドキュメンタリーと言った時にイメージする客観性みたいなものと、森さんや田原さんが言われている「反動としての、あるいは極論としての主観性」に分かれていることにびっくりしています。田原さんが撮影された昔のドキュメンタリーを最近テレビで観る機会があって、ここまで主観なんだぁ〜、とちょっとびっくりしました。バンバン作りこんでいますよね。
なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書)
想田監督:僕の作品も含め、あらゆるドキュメンタリーは主観で撮られるしフィクション性を内在してますけど、フィクション性をどんどんプッシュしてますね。

野村:その辺のドキュメンタリー論に関して、ニューヨークにお住まいでいらっしゃる想田さんは、作り手として日本の状況を気にされていますか?

想田監督:そうですね… 佐藤真さんの本に影響されたり、森さんの本も読んでいます。また、実際に日本のドキュメンタリー作家と話していると、客観主義の反動として始まった「主観でいい、フィクションでいい」という議論がどんどん純化、尖鋭化しているように思います。その議論はすごく面白いんですけど、違和感も感じますね。だって、ドキュメンタリー=フィクションだったら、フィクションとドキュメンタリーを分ける必要ないじゃん!「ドキュメンタリー」という言葉自体が消滅してもいいじゃん!と思っちゃいます。ある意味、ガラパゴス化しているのかな。英語では耳にしない議論が展開している(笑)。日本語だけで議論されているから、英語で話されていることと日本語で話されていることが全然交わらないので、日本語の環境の中で純化していっているんじゃないかな。

野村:「ドキュメンタリー=記録する」からスタートしていますけど、その言葉のまやかしがあるのでは? そこに固執するが故に反動があり…想田さんの著書を読みましたが、非常によくわかる…。
「どうしてこれまで誰もこのような意見を言わなかったのか」と思います。とても真っ当だなと思いました。

想田監督:「ドキュメンタリー=客観的真実」という言説に対する反発は僕も感じてるし、それへの反動があることは、ある意味健全だと思うんですけどね。でも、僕は普段からアメリカやヨーロッパでの議論も耳にしてますから、日本での議論とは少し距離を置きやすいんだと思います。後は、自分がドキュメンタリーがなぜ好きかを問えば問うほど、ドキュメンタリーならではの「わくわく感」があるはずだ、と言わざるをえないですよ。そうじゃなければ、フィクションを撮ればいいんですから。

野村:フィクションは大学の時は撮られていたんですか?

想田監督:撮っていました。フィクションにはフィクションの良さがあるんですけど… なぜドキュメンタリーというジャンルが生き残っていて、ドキュメンタリーが好きだと言えるのかといえば、ドキュメンタリー的な何か、ドキュメンタリー的魅力というのがあるはずなんです。そしてそのことを追求していかないとドキュメンタリーは先細りしちゃうというか…。いや、フィクションと同じだよとばかり言っていてると、じゃあ、フィクション撮ればいいじゃんってことになって、ドキュメンタリーそのものがどんどん弱体化すると思う。べつに弱体化してもいいけど、僕自身ドキュメンタリーが好きだから、じゃなんで好きなんだろうということを考えたくなる。そうすると出てくるのは、フィクションにはどうしてもない魅力がいくつかあるって…。
ひとつは、ドキュメンタリーは偶然性に翻弄され、作り手のプラン通りには進まないということ。起きうることにオープンでいればいるほど、とんでもないことが起きたり、予想もつかないことが起きて、そこから思ってもみない発見がある。それはフィクションでは難しい。いや、フィクションでもできないことはないけど、それはいわゆるドキュメンタリー的要素を取り入れたフィクションの作り方をすれば初めて可能になるのであって…。やっぱり一番偶然性を取り入れやすいのは、ドキュメンタリーだと思うんです。
あともうひとつ何がおもしろいのかと言うと、みんなドキュメンタリーだっていう前提で観るから、映像が力を持ち得るんだと思います。何しろ、生身の人間の実際の状況を撮ってるわけですからねえ。俳優が台本に沿っていくら派手な喧嘩をしてもどうってことないけど、ドキュメンタリーで誰かが喧嘩し始めると、ただの口論でも俄然面白い(笑)。

野村:まさにジャンルのある種の魅力なんですよね?

想田監督:そう。「これはドキュメンタリーで、生身の人間を撮ってます」という前提そのものを壊しちゃうと、ドキュメンタリーそのものの魔力が崩壊する。そこはお約束として、ある意味、ゲームの規則というか…。決まり事みたいに守った方が楽しく遊べるし、よりドキュメンタリーの豊かさ、可能性を追求できると思うんですよね。

★★★

次回は、想田さんが提唱されている観察映画という手法に迫っていきます。