京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『LOGAN/ローガン』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年6月9日放送分
『LOGAN/ローガン』短評のDJ's カット版です。

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マーヴェル・コミック原作で、特殊能力を持ったミュータントたちが活躍するヒーローチーム「X-MEN」。2000年の映画化から、本体が6作品発表されていますね。その中でも、鋭い反射能力と超回復能力、そして何より出し入れ可能な刃を手に備えて人気を誇るキャラクターがウルヴァリン。これは、彼を主人公にしたスピンオフの3作目にして、17年にわたってそのウルヴァリンを演じてきたヒュー・ジャックマンのシリーズからの引退作であると言われています。ローガンというのは、ウルヴァリンがかつて記憶喪失だった頃に呼ばれていた名前ですね。

X-MEN (字幕版) ウルヴァリン:X-MEN ZERO (字幕版)

さて、今回、ローガンはヒーローとしてではなく、しがないという言葉が似合うリムジンの運転手として登場します。しかも、アルコール依存症です。もはや彼の能力は衰え、メキシコ国境付近で貧しい生活を送っています。ミュータントたちは既に絶滅寸前の近未来。ある日、メキシコ人女性から、ローラという組織から追われている少女をノースダコタまで連れて行ってほしいと頼まれたローガンは、やむなく彼女を引き受けます。もともと匿っていたプロフェッサーXと彼女を連れ、ローガンは長い旅に出る。
 
監督は、ウルヴァリンシリーズからラブコメ、そして西部劇まで幅広く手がけるジェームズ・マンゴールドです。
 
それでは、制限時間3分間の映画短評。今週もいってみよう!

ローガンは老眼だった。これは、先週の番組終わりに、僕がスタッフに言ったダジャレなんですけど、実際に映画を観て、ローガンが何度も老眼鏡をかける姿を目の当たりにしながら、「本当に老眼じゃねえか!」って声に出しそうになりましたよ。どうでもいいと思うかも知れないけど、これ、画期的なんですよ。アメコミのスーパーヒーローが老眼鏡ですよ? ミスターX-Men akaヒュー・ジャックマンが、シリーズに決着をつけるわけです。有終の美を飾ると言ってるわけです。ヒーローものって、続けるのは比較的簡単だけど、終わらせるのって難しいわけです。そこで、監督のジェームズ・マンゴールドは「画期的な」要素を用意して、ヒュー・ジャックマンに花道を用意しました。つまり、老いさらばえたヒーローという枯れた味わいを出してきたわけです。アメコミですよ? なのに、ローガンはFワードを連発するし、グロデスク描写もやりたい放題。彼が同行する女の子もとんだ殺人マシンです。いくらミュータントとは言え、10代の女の子がばんばん人殺しってのは、普通はアウトです。もちろん、R指定。こんなの、避けるのが常套手段です。ヒーロー映画好きなティーンエイジャーは観られなくなるから、興行的に響くもの。でも、せっかくなら、最後くらい、目先の利益じゃなくて、10年20年先も記憶に残るものを作りたいという映画人の矜持を僕は感じました。

シェーン [DVD] マッドマックス 怒りのデス・ロード(字幕版)

監督が参照したのは、劇中で引用される『シェーン』に代表される西部劇です。今回、三世代のロードムービーとして3人がボロ車で移動するのは、そのほとんどが荒野。ただし、これは近未来のお話。だから、文脈はずらしてあります。X-Menシリーズは、かねてから言われているように、突然変異したミュータントたちを社会のマイノリティーのメタファーとして描いているわけです。その意味でメキシコ国境付近に絶滅寸前のミュータントを住まわせる設定はたぶんにトランプ政権への目配せを感じます。さらに、ミュータントたちが絶滅の危機に追い込まれている理由や、途中で出てくる畑のまるで工業製品を生産するような農業のあり方が、完全に遺伝子操作の恐怖を前提としたものであることを考えれば、これがどれほど現代社会への批判であるか、すぐにわかります。しかも、ミュータントを迫害する一方で、殺人兵器としてのミュータントをこれまた遺伝子操作で人為的に「生産」するという恐ろしさ。敵は公権力というより、合理性をとことん追求する資本であるというのが鋭いですよ。この、人間を「もの」として「生産して利用する」存在がいて、舞台が荒野であるという点で、僕は『マッドマックス怒りのデスロード』を思い出したりもしました。
 
この映画において、主人公は、もはやウルヴァリンではなく、ローガンなんです。つまり、ミュータント的な側面よりも、人間臭さが強調されているんです。僕が確認した限りなので正確ではありませんが、字幕にこそ「正義」という言葉はあるものの、英語ではジャスティスという言葉は出てきません。老いさらばえたヒーローにとって、そんな大上段に構えた議論は意味が無いんです。目の前にいる人や、たとえ行きがかり上であっても身近な人を守りたいという想いにこそ正義が宿るのだと、ぐちぐち悩むのではなく、行動で示す姿が実に西部劇的でした。ただ、いくら正義感に基づいていようとも、人を殺すのは重いことなわけです。いくら正当化したって、そこには哀しみと罪の意識が付きまとう。だからこそ、殺人の場面は軽くできないし、しっかり意味と重みのあるグロデスク描写は避けて通れないわけです。
 
行き過ぎた合理主義、そして政治よりも大資本が支配する世界の末路をこれでもかとえぐり、なおかつヒーロー映画をラディカルに問い直してみせる本作は、映画史のミュータントとして特筆すべき作品だと思います。

予告で使われていたのが、こちら。ナイン・インチ・ネイルズの曲をジョニー・キャッシュがカバーしたものでした。この選曲も、監督が映画の方針を反映しています。
 
Twitterでツイートもしましたが、ワンショット内で、ピントを手前から奥、あるいはその逆に移動させるフォーカス送りという手法もよく使われていて、印象に残りました。極端な使い方をするから、画面が歪むような気すらするんです。スタイルと言っていいレベルだったと思います。精緻に分析してるわけじゃないけど、そもそも西部劇において視線の移動はとても大事だし、ローガンは老眼なわけで反射能力も見事に衰えてますから、今回はいつも気づくのが遅いんですよね。
 
多くの人が言及していますが、劇中にX-MENのコミックを登場させるメタ演出にも驚きました。ここまでやるのかと。「現実世界では、人は死ぬんだ」みたいなことをローガンに言わせるなんて! 何度も確認するけど、これ、アメコミだよね? 


さ〜て、次回、6月16日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『パトリオット・デイ』です。まだ4年前、記憶に新しい事件の映画化です。あなたも観たら #ciao802を付けてのTweetをよろしく!