京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『ダンケルク』短評

FM802 Ciao! MUSICA 2017年9月15日放送分
『ダンケルク』短評のDJ's カット版です。

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1940年。イギリス・フランスを中心とした連合軍の兵士40万人が、ドーバー海峡に面するフランス北端の町ダンケルクで、南から攻め入るドイツ軍によって包囲されていた。敵が迫る中、兵士たちは海を越えてイギリスへ撤退するべく策を講じます。イギリス側では、民間船の協力も得ながら、救出作戦を開始。空軍パイロットも、戦闘機の数が圧倒的に足りない中を出撃していく。

インセプション (字幕版) インターステラー(字幕版)

 ダークナイト』『インセプション』『インターステラー』などで知られる現代の名匠クリストファー・ノーランが、初めて史実、そして戦争を映画化したものとして話題となっています。脚本もノーラン。音楽は、こちらも世界トップクラスのハンス・ジマー。これまで担当してきた「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズ最新作『最後の海賊』の音楽を弟子筋に作らせ、ジマーは『ダンケルク』に集中するという力の入れよう。フィオン・ホワイトヘッドハリー・スタイルズケネス・ブラナートム・ハーディーらが出演。

 

CGを極力排することで知られるノーランですが、今回は1500人のエキストラを動員した他、なんと厚紙を切り抜いて兵士や乗り物を作るというアナログな方法も導入。撮影は、2017年現在世界で最も解像度の高い映像を撮影できるIMAX70mmフィルムで行われました。
 
それでは、『ダンケルク』ばりに時間との戦いとなる3分間の映画短評、今週もいってみよう!

「こんな戦争映画見たことない!」みたいなことが言われてます。僕もそう思いました。その場にいるかのような臨場感とか、IMAXのデカいカメラを実際の戦闘機に載せて撮影した「リアリティー」の追求ということもあるけれど、僕がここで注目したいのはふたつです。ひとつは、脚本と編集が織りなす珍しい構成。もうひとつは、それがもたらす戦争映画というジャンルそのものへのノーランの批評精神です。
 
まずは、構成から。映画初出演となる、ワン・ダイレクションのハリー・スタイルズなどやケネス・ブラナーなど、俳優陣の名前にも事前情報として目を引かれると思いますが、作品を見始めてしばらくして気づくのは、この映画に主人公はいないということです。陸海空、各エピソードの主役はいるんだけど、その人達が映画全体を貫く主人公とは言えない群像劇です。それ自体は珍しくもないけれど、斬新だったのは時空間の配置。まず大きくふたつの立場があります。連合軍とドイツ軍、ではない! 実はドイツ軍の姿は、一度たりとも出てきません。敵は見えない。ここ重要なんだけど、後でまた触れるとして、じゃあ、どのふたつの立場か。ダンケルクで救助を待つ陸軍兵士。そして、彼らを救う人々。救う側が、さらにふたつに分かれます。つまり、海からと空から。以上、大きく分けてふたつ。そして、それが派生してみっつのエピソードが同時進行します。
 
ここまでも、形式としては比較的普通です。驚かされるのは、クライマックスというか、救出作戦が終了する物語のゴールへ向かう、3つのエピソードのタイムスパンがそれぞれ違うことなんです。救助を待つ側は、1週間。海から救助する側は1日。空から作戦に関わる武隊は、一番短くて1時間。1週間の話と、1日と1時間が同時に語られるわけだから、当然、映画の中では、シーンが変われば、場所が移動するだけでなく、時間も過去に戻ったり、その過去からみればback to the futureになったりと、かなり目まぐるしい、はっきり言えば、混乱を招く構成になってるんです。しかも、ノーランの過去作と照らしてみても、圧倒的にセリフが少なく、状況説明も最低限度までなくしてある。こうすることによって、僕たち観客は、それぞれのエピソードのマズい局面に毎度毎度いきなり放り込まれることになります。だから、先が読めず、ただただ座席でビクビク、オロオロするばかり。これは史実だから、マクロの視点に立てば、いつかどこかで作戦が集結することを僕たちは知っています。でも、ミクロの視点(これが映画の視点)に立てば、この映画に出てくる人々のうち、誰が生き残ることができるのか、それはさっぱり予想できない。まとめれば、この特殊な構成によってノーランが目指したのは、戦争というシチュエーションを借りたサスペンス・スリラーなんです。その恐怖を高めるには、敵は見えないほうがいいということですね。
 
では、なぜノーランはそうしたのか。それが、僕の注目するもうひとつのポイントである、戦争映画というジャンルそのものへの彼の批評精神になります。『ダンケルク』には、たとえば最近のものだと『ハクソー・リッジ』や、既にクラシック化している『プライベート・ライアン』のような血生臭さはありません。常に戦闘中だけれど、グロテスクな描写に重きはまったく置かれていない。
 
この映画への批判として、状況を描くばかりで、ドラマやノーランのメッセージが感じられないというものがありますが、僕は少なくともメッセージは明確にあると思っています。コピーに「生き抜け」とあるように、この映画が僕たちに伝えているのは、戦争のような命に関わる苛烈な状況において、生きて帰ること、撤退することもまた勝利なんだということです。逃げるは恥だが役に立つ。生きること。生かすこと。それが戦争において大事なんだ、と。そして、バットマンも手掛けたノーランですが、戦争映画にはいわゆるわかりやすいヒーローは必要ないと考えたんでしょう。
 
一見、為す術がない絶望的な状況で何を為せばいいのか。これを描くためには、マクロな視点はわずかでいい。むしろ、ミクロ、名も無き登場人物たちと小さな修羅場を次々と共有するような演出を積み重ねることで、それぞれの持ち場での作戦終了時のカタルシスが生まれる。それぞれのタイムスパンが並走するラストでは、僕は目頭が熱くなりました。
 
結論。『ダンケルク』は、スタンダードな演出を良しとしないノーランが生み出した、戦争映画としては異端だが、誰しもが命を賭けさせられる無慈悲な戦争の営みをモザイク画のように構成してみせた、「真に映画的な」意欲作です。

さ〜て、次回、9月22日(金)の109シネマズ FRIDAY NEW CINEMA CLUBで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、ついにエピソード0が来てしまった『エイリアン:コヴェナント』です。怖いよぉ。ヤダよぉ。なんてビクビクしながら、戦慄を覚えてくることにします〜。あなたも #ciao802を付けてのTweetをよろしく!