たとえば琵琶法師がかつて『平家物語』をストリートで弾き語る存在だったように、クボ少年はストーリーテラーとして、音楽と語り、そして折り紙を使った伝説の武士とその敵となる怪物というキャラクターで民衆を惹きつける存在として登場します。彼のエンターテナーっぷりを見せつけるハイライトが始めの方に用意されているんですが、ここがいきなり凄まじいんですよ。クボが三味線を奏でると、観客たちが取り囲むサークルの中に積まれた折り紙が見る間に折られてミニチュアの武士が現れる。それが動き出したと思ったら、今度は火を吹くめんどりがまたスルスルとひとりでに折られていく。クボによって魂を吹き込まれた折り紙が路上で生きているかのように戦いを繰り広げる。僕は今「魂を吹き込む」という表現を使いましたが、これこそアニメーションの本来の意味。それだけだと動かないものにアニマという魂が与えられて動き出すのがアニメーションなんです。
この作品はコマ撮りをベースにCGを組み合わせて作られています。コマ撮りというのは、原初的な特撮で、1秒あたり24コマ、それだけだと動かないキャラクターを少しずつ動かし、そのコマを高速で再生することで動いているように見せる手法です。実際に人形を動かしてるんですね。このライカスタジオは世界トップレベルのテクニックと膨大な労力を惜しみなく投入しているから、動きはとても滑らか。でも、それでも、フルCGアニメとはどうあがいたって違う、作り物感が残るんです。不完全なんです。その完全じゃないってことが実はコマ撮りの大きな魅力で、たとえば僕らが人形浄瑠璃を観る時と同じように、観客のアクティブな想像力が入り込む余地も出てくる。この作品では、手のひらサイズの人形が、さらに小さな折り紙人形を動かしてストーリーを語るところを僕らが観ているという入れ子構造になってるんです。スタッフのインタビューを読むと、「不完全さの中に存在する美というのは、わびさびにつながる価値観じゃないか」と言ってる。舞台を日本にするだけじゃなく、日本文化の価値まですくい取っているというリスペクトぶり。嬉しいじゃないですか。
クボに戻ると、彼の大道芸にはいつもエンディングがない。実は彼にもわからないんですよ。なぜなら、彼が物語っているのは、彼も知らない、自分ののルーツの話でもあるから。そこで、旅に出るわけです。
三味線というのは、一の弦は父親、そして二の弦は母親にたとえることがあるらしいんですが、言わば三の弦のクボはまさにその二本の弦の秘密を探り当てようとする。この映画ではお盆の灯篭流しが大事なモチーフとして出てきます。クボは三種の神器ならぬ三種の武具を巡るイニシエーション的な旅の果てに成長し、この映画の終わりに、自分の命の先祖からの流れを知る。そして、そのルーツが彼が語ってきた物語の結末、死とは何か、さらには僕ら人間にとって物語が必要な理由ともリンクする。しかもそれは、ここ日本を中心とした東アジアの死生観を反映している。僕ちょっとお盆の意味を「そうだそうだ」って考え直しましたもん。そんな作品がアメリカで作られた嬉しさときたら。
とまぁ、作品全体のテクとか構造について話してきましたけど、そんな小難しいこと抜きに、誰が観てもワクワク面白い映画です。浮世絵や版画のような構図。黒澤映画のアクション。宮崎駿的ダイナミックなファンタジー展開が一緒になった日本昔ばなしを、どうぞあなたも劇場で!
予告にもチラッと出てきますが、気の遠くなりそうな労力の一端を知ることができるこのメイキングを見るとさらにこの映画が好きになるはず。
ただ、クボっていう名前はないわ! 言わずもがなだけど、ファースト・ネームじゃないやん! とりあえず、文句はそれだけ! 「三種の武具の意味ってあれだけ?」なんて声があるけれど、あれはイニシエーションだから。アイテムそのものよりも、そのプロセスに意味があるんじゃないでしょうかね。