京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

小説『最後の手紙』レビュー 〈核〉に人生を翻弄された女性の物語

どうも、僕です。ポンデ雅夫こと、野村雅夫です。 先月手に取ったのが、イタリアの作家が日本を舞台に書いた小説『最後の手紙』。帯にも出てくる言葉「別れがつらいのは、それだけ多くのものを受け取ったから」は、丸10年僕が在籍したFM802での最後の生放送で引用させてもらいました。

 

 

訳は例によって例のごとく、関口英子さん。小社のメンバーのほとんどが学んだ大阪外国語大学(現在の大阪大学国語学部)イタリア語学科の大先輩なわけですが、今回は共訳。僕に面識はないんですが、横山千里さんも、やはり先輩とのこと。しかも、著者のアントニエッタ・パストーレさんは、かつて我が外大で教鞭をとり、訳のお二方はその教え子なのだとか。なかなかない座組ですよ。静かに興奮した僕は、せっかくならと、女性のメンバー、シナモン陽子にレビューを依頼しました。彼女も僕の同級生なので、後輩である僕たちがリスペクトを込めてお届けする。

 

別れた夫の思い出のみを胸に戦後を生きた女性。
その遺品の手紙が語り出す、悲しい真実とは。
イタリア人の目を通して描く、実話に基づいた「原爆と戦争」の傷跡――

日本人男性と結婚したイタリア人の著者は、結婚の挨拶に広島を訪れた。
義理の叔母ゆり子と話すうち、別れた夫を想い続けるゆり子に興味をひかれていく。深く愛し合っていたふたりは、なぜ引き裂かれてしまったのか。

村上春樹作品の翻訳者が綴った感涙のノンフィクション・ノベル

「二人の悲劇を歴史のせいにするのは、虫が良すぎる事だと分かっています。ですが、幸せになる事は、強い人間だけに与えられた権利なのでしょうか。」
(本文より) 

 

最後の手紙

最後の手紙

 

   『最後の手紙』は、「わたし」によって語られる「ゆり子」の物語である。

 

イタリア人である「わたし」がゆり子と初めて会ったのは1979年のことで、その時、ゆり子は57歳であった。二人がそこから親しい関係を築いていったわけではない。頻繁に顔を合わせる間柄でもなかった。広島県出身の日本人男性とパリで知り合い、結婚した「わたし」は、夫の母親である眞砂子と気が合った。ゆり子は彼女の妹であった。

 

1977年から生活の拠点を日本に移した「わたし」は、1979年、大阪の眞砂子の家で初めてゆり子に会う。再会したのは3年後の1982年で、「わたし」が眞砂子と一緒に数日間、広島の江田島を訪ねたときであった。ゆり子は、この島にある広い平屋造りの生家にひとりで暮らしていた。

 

「わたし」は、ゆり子とそれ以上の接点を持っていない。だが、彼女の持つ雰囲気やその佇まいに「わたし」は惹かれるものを感じていた。ゆり子はいちど結婚したけれど別れたという断片的な情報や、周囲の人たちが彼女に見せる気遣いから、過去に何かがあったことを「わたし」は察する。ゆり子に何があったのか? 江田島で過ごした数日間の出来事を通して、そして眞砂子から聞く話によって、「わたし」はゆり子の来し方を少しずつ理解してゆく。

 

かつてゆり子は、海軍兵学校の学生であった島津嘉昭と知り合い、心を通わせた。1944年春に結婚する頃には士官となっていた彼は、やがて出征する。彼からの便りが途絶えて久しくなった頃、ゆり子は連絡船に乗って広島へと渡った。それが、1945年8月6日の朝のことであった。「本能的に、あと三十分早く着いていたら、自分も命を落としていただろうと悟っていた」。1947年に甲状腺に悪性の腫瘍が見つかり、しばらくしてさらに白血病も発症した。

 

「わたし」はその後離婚し、1993年にイタリアへ帰国。だが眞砂子とは連絡を取り続けていた。この二人の揺るぎない信頼関係こそが物語を成立させている。

 

1995年、ゆり子は73歳でこの世を去った。生前、彼女が誰にも明かすことのなかった秘密を、その4年後に「わたし」は眞砂子から知らされる。原題『愛しいゆり子へ』(Mia amata Yuriko)と邦題『最後の手紙』はこの秘密に関係している。

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著者アントニエッタ・パストーレによる付記では、この小説が実話に基づいていることが明らかにされている。何も語らずに亡くなった一人の被爆者の人生が、表現者を得て、このような物語として紡がれた。そのめぐり合わせに驚く。

 

この作品は、日本と深く関わりをもったパストーレ自身の記録でもある。ほぼ著者自身のものと思われる日本社会の観察や戦争に関する考察は、本書の読みどころのひとつである。

 

付記によれば、この小説は2011年3月の原発事故を受けて書かれた。現在またあらたに、核に生を翻弄される人々がいることへの危惧が本書には込められている。

 

文:シナモン陽子

 

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↑ イタリアでももちろん大人気の村上春樹を多く訳しているアントニエッタ・パストーレ。彼女の翻訳術に迫ったインタビューはこちら。イタリア語だけど、興味のある方はぜひ。

いかがだっただろう。広島・長崎に続き、福島という美しき土地の名を、FUKUSHIMAというアルファベットで、そう、核と放射能の代名詞として世界に知らしめることになるにいたったことに、僕は改めてうなだれてしまいもした。読後、パストーレさんが筆を執った意味に、あなたも思いを致してほしい。