京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

小説『靴ひも』レビュー

イタリアの小説で日本語訳が出たものは、その存在を知りうる限り、理解の及ぶ限り、漏らさず読みたい。ずっとそう思って本屋パトロールはしつつも、なかなか読書にあてる時間が確保しきれず、書斎デスク脇の積ん読タワーはうず高くなるばかり。ただ、僕の誕生日に合わせるような日取りで出版されたとなると、プライオリティがグンと上がるというもの。しかも、ミステリー仕立ての家族もの。好物だ。矢も盾もたまらず、リュックに入れてどこへ行くにも持ち歩き、かなり早いペースで「結び」にたどり着いたのが、『靴ひも』だ。ニューヨーク・タイムズが選ぶベストブック2017で注目の本とされ、30カ国以上での翻訳が決まっている作品だ。

Lacci  靴ひも (新潮クレスト・ブックス)

構成はかなり変わっている。一応、現代に軸をおいて、ある4人家族の物語が紡がれるのだが、大きく3つのパートに別れていて、それぞれに時代、性別、空間、何より語り手も文体も違うのだ。

 

たとえば、最初は1974年の妻。彼女は、女を作ってナポリの自宅を出てローマに行ったきりの夫に宛てて、立て続けに手紙を送っている。ふたりの子どもはどうするのか。感情はかなり波打ち、言葉も要求も目まぐるしく変化する。僕たち読者は、家族の変化を妻の言葉からしか知ることはできない。夫からの返事(たとえあったとして)を読むことはかなわないのだ。ただただ一方通行の書簡文学としてこのパートは成立する。

 

続いては、2014年の夫。場所はローマの自宅で、前のパートの騒動から40年を経て、ふたりの関係がどうなっているのか、ここは感情的な妻の言葉とは違い、インテリ老年男性の努めて知的かつ冷静な文体で、妻になじられた過去の弁明を交え、現在の状況が描写される。70代になった夫婦ふたりが、ささやかなバカンスから戻ると、どういうわけか家が荒らされていて、飼い猫が忽然と姿を消している。誰の仕業なのか。目的は何なのか。その謎が読者の好奇心を喚起しながら、語り手は娘へとバトンタッチする。

 

こちらも2014年なのだが、40代半ばになった彼女のパートは、兄との会話を交えながら、たった数時間のできごとを時系列に進めていく。およそ半世紀にわたる家族の話が、最後にはわずかな時間でダイナミックに大きく弧を描くのだ。謎は明かされ、ドスンと来る結末が用意されているのだが、作家の角田光代が本書に寄せた短い文章にあるように、「読み手を絶望させない。人生というものを、嫌悪させない」絶妙なバランスの余韻をもたらす。 

靴ひも (新潮クレスト・ブックス)

靴ひも (新潮クレスト・ブックス)

 

先述したように、どのパートも語り手が違うので、センテンスの長さも語彙も違う。原文をチェックしたわけではないが、関口英子さんの訳はさすがにこなれているのが、すごい。読み進むにつれてわかってくるのは、この家族全員と夫が関係をもった女性がそれぞれのパートで言及されること。章によって(この本では章ではなく第一の書、第二の書と、あたかも独立した書物であるかのように扱われるのも興味深い)一人称が異なるが故に、彼ら/彼女らの生き方や価値観がどんどん立体的に浮かび上がってくるのが印象的だ。

 

タイトルの「靴ひも」は、大方の予想通り、家族の関係性の比喩として機能する。結んでは緩み、気を抜くとほどける。下手をすれば、切れることもあるだろう。ほどけたら、また結ぶのか。もうやめだと別の靴に履き替えるのか。そして、僕たちの「読むという行為」が、それぞれの「書」を結わえていく。

 

ところが、比喩でも何でもなく、靴ひもがダイレクトに大事な役割を果たす場面が不意にやって来る。一風変わった癖のある靴ひもの結び方をする息子。それを彼に教えたのは誰か。意外なところから、物語はさらに一歩深いところへと進んでいくのだ。人間関係の緒(いとぐち)がそんなところに、という作劇のうまさには舌を巻いた。

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それにしても、作者のドメニコ・スタルノーネというカナ表記は、これまで見かけなかったなと思ったら、やはりこれが初邦訳。1943年にナポリ近郊で生まれ、高校教師を経てから、新聞記者として、主に左派系の紙面に文章を寄せた後、作家に転じた。映画業界にも積極的に関わっていて、原案や脚本でクレジットされている作品は、優に20本を越える。中にはイタリア映画祭で日本でも上映されたものもある。アレッサンドロ・ダラートリ監督の『マリオの生きる道』(La febbre、2005年)がそうだ。

La Febbre by Valeria Solarino

なるほど、本書も言葉に重きを置いた文学らしい文学だと言えなくもないが、他方、空間を強く意識させる描写が多く、登場人物が発するセリフとそのトーンが肝になるという意味では、映画的、あるいは演劇的とも言えるかもしれない。いずれにしても、これだけの筆力だ。他の作品の訳が待たれる。たとえば、「教壇から」(Ex cattedra e altre storie di scuola、2006年)なんてどうだろうか。この本については、京都ドーナッツクラブの元メンバーで、翻訳家として活躍している二宮大輔がかつて僕らのフェイスブックに寄せた文章で言及されているので、最後にそのリンクを貼っておく。興味のある方は参照されたい。 

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