京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『シチリアーノ 裏切りの美学』待望のベロッキオ最新作公開!

60年代から活躍するイタリア映画界の巨匠マルコ・ベロッキオの新作『シチリアーノ 裏切りの美学』が日本で観られる! 僕はすぐさま宣伝の担当者に掛け合って、ポスターを取り寄せ、事務所のチルコロ京都に掲示した。この密な構成。意味深な花びらの配置。ゾクゾクするではないか。原題はシンプルに「裏切り者」(Il traditore)。悪名高きシチリア・マフィアの組織コーザ・ノストラに忠誠を誓ったはずの男が、なぜ裏切ったのか。いや、国や地域のことを思えば、彼は英雄ではないのか。前半はダイナミックな編集で逮捕に至るまでの道程が描かれ、後半はジリジリとした法廷劇へと様変わりする。

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マフィア映画はロマンティシズムで様式化されたものや、克明かつドライに血なまぐさい逃走劇に仕立てるものが多かったように思うが、少なくともイタリアでは、今世紀に入ってから、『マフィアは夏にしか殺らない』『俺たちとジュリア』『シシリアン・ゴースト・ストーリー』『愛と銃弾』など、日本で上映されたものだけでも描き方が多様化していることがわかる。コメディー、ファンタジー、ミュージカルといったジャンルと掛け合わせることが多くなっている。大きな物語≒歴史の中の個人にこれまで何度も焦点を合わせてきたベロッキオ監督は、映画内の時間を場面ごとに伸び縮みさせながら、実在したブシェッタという男の虚無をあぶり出していく。その点で、マフィア映画に新たな語り口の可能性が加わったのかもしれない。8月28日(金)の全国公開を記念して、今回は女性のメンバーふたりが作品を鑑賞して感想を寄せた。 (野村雅夫)

1980年代初頭、シチリアではマフィアの全面戦争が激化していた。パレルモ派の大物トンマーゾ・ブシェッタは抗争の仲裁に失敗しブラジルに逃れるが、残された家族や仲間達はコルレオーネ派の報復によって次々と抹殺されていった。ブラジルで逮捕されイタリアに引き渡されたブシェッタは、マフィア撲滅に執念を燃やすファルコーネ判事から捜査への協力を求められる。麻薬と殺人に明け暮れ堕落したコーザ・ノストラに失望していたブシェッタは、固い信頼関係で結ばれたファルコーネに組織の情報を提供することを決意するが、それはコーザ・ノストラの ”血の掟” に背く行為だった……  (公式サイトより) 

「知っているイタリアの映画といえば『ゴッドファーザー』かな」という話を耳にすることがあります。同作は50年近くも昔の1972年にアメリカで制作された映画ですが、それくらいマフィアの映画といえばイタリアというイメージが強いようです。実際にイタリアの映画には大なり小なりマフィアを取り上げるものは多く、近年では市民目線でのマフィアを描いた2013年の『マフィアは夏にしか殺らない』や、私たち京都ドーナッツクラブが字幕制作を担当したノワール・ミュージカルの2017年『愛と銃弾』などでもマフィアの存在が描かれています。ただし、マフィアと一言でいっても、その組織はひとつではなく複数の個別の組織が存在します。前者で取り上げられたのはシチリアコーザ・ノストラ、後者ではナポリのカモッラであり、イタリアでは区別して認識されており、カラブリアンドランゲタ、プーリアのサクラ・コローナ・ウニータと合わせてイタリアの四大犯罪組織と言われています。今回紹介する映画は、シチリアコーザ・ノストラの一員だったトンマーゾ・ブシェッタを取り上げた作品です。

愛と銃弾 マフィアは夏にしか殺らない(字幕版)

ブシェッタはコーザ・ノストラを裏切って検察側に寝返った代表的人物として有名な存在。映画の前半は銃撃戦に逮捕・拷問といったザ・マフィア映画なシーンが繰り広げられ、後半はブシェッタが法廷でかつての仲間たちと争うシーンを中心に描かれています。画面に現れる死者のカウンターや拷問されて血まみれのブシェッタといった強烈なシーンが続く一方、印象に残ったのは彼の使う「裏切り」という言葉でした。ブシェッタは組織にとって裏切り者であり、この映画の原題も『Il Traditore(裏切り者)』です。彼が自供を経て故郷のパレルモに戻った夜も一番に目に入るのは大きな「TRADITORE」の文字の落書き。法廷で投げかけられる「裏切り者!」という罵声。実の姉も夫を組織に殺されブシェッタの名すら名乗りたくないと嘆く。誰にとってもブシェッタは裏切り者なのです。

 

しかし映画が進むにつれ、原題である「裏切り者」はブシェッタ一人ではないように思えてきました。法廷での主人公は、自身をコーザ・ノストラに忠誠を誓った「名誉ある男」のままであり決して改悛などしていないと主張し、本当の意味で「コーザ・ノストラ」を裏切ったのは自らが告発したかつての仲間たちだと訴えます。彼にとっては、目先の金に目をくらませ女子供まで無差別に殺め組織を堕落させていった人物こそが「裏切り者」でした。名誉ある社会であったはずのコーザ・ノストラは裏切り者たちに殺されたも同然であり、真実を口にしたのは組織が自身が誓いをたてたものとは別のものに成り下がってしまったからでした。「何を」裏切ったかという視点を変えてみると、裏切り者はあちらにもこちらにも存在します。そして終盤に法廷の場に現れるのは超大物の政治家。首相や大臣職を何度も務めたイタリア政界のドンである彼は、コーザ・ノストラと深い関係があったと言われており、複数の事件の黒幕として実際に起訴されています。彼もまた裏切り者であったとしたら、いったい何を裏切ったのでしょうか。

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©IBC MOVIE/KAVAC FILM/GULLANE ENTRETENIMIENTO/MATCH FACTORY PRODUCTIONS/ADVITAM

ところで、私のイタリア映画を観る楽しみのひとつは登場人物の身振り手振りの観察です。イタリア人の豊かな感情表現とジェスチャーとは切っても切り離せない関係。興奮する弁護士、動物園のような場を取り仕切る裁判官、監房の柵に隔たれた被告たち。裁判の行方も気になりますが、それぞれが言葉では足りないと言わんばかりに上下左右させる手にも目が奪われます。スパダーロ被告と弁護士の手だけの会話には思わずにやりとしてしまいました。「イタリア人を黙らせるには手を縛ってしまえばいい」という言葉を耳にしたことがあるのですが、各所に散りばめられる「口ほどにものを言う」登場人物たちの手の動きに注目しながら鑑賞するもの一興です。 

(文:チョコチップゆうこ)

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©IBC MOVIE/KAVAC FILM/GULLANE ENTRETENIMIENTO/MATCH FACTORY PRODUCTIONS/ADVITAM

見応えのある2時間半だった。イタリア文化やイタリア語を知っていく過程で、「マフィア」は必ずと言っていいほど出会う話題ではないだろうか。ハリウッド映画の「ゴッド・ファーザー」でシチリア=マフィアがいる場所というイメージをお持ちになった方もいるだろう。現在もマフィアとイタリア社会との関わりは深く、イタリア映画界では定番の題材となっている。

 

本作は、シチリアのマフィア組織「コーザ・ノストラ」で1980年代に激しくなった内紛から1994年の「ファルコーネ判事暗殺事件」、マフィアの大量検挙に至るまでの史実を、告発者トンマーゾ・ブシェッタの視点から描いたものだ。エンドロールで断り書きがあるように、演出上の誇張や創作が入っているとはいえ、ピエルフランチェスコ・ファヴィーノ演じるトンマーゾの「人間味」にすっかり魅了されてしまった。善人であるかについてはさておき、格好よかった。原題はIL TRADITORE(裏切者)であるが、トンマーゾは「自分は裏切者ではない」と断言する。邦題のとおり、シチリアーノ(シチリア人)としての美学を貫き、組織に本来の秩序を取り戻そうとした。彼の立ち居振る舞いにぜひ注目してほしい。

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©IBC MOVIE/KAVAC FILM/GULLANE ENTRETENIMIENTO/MATCH FACTORY PRODUCTIONS/ADVITAM

場面は、キリスト教の行事を祝う華やかなパーティーから始まる。男たちの間にある独特の緊張感と交わされる視線は、何かが起こりそうだと観客に予見させる。その後、殺人による権力争いから主人公が逃れ潜伏先のブラジルからイタリアに送還されるまでが、アクセルを吹かすように一気に展開、主人公がローマの警察署でファルコーネ判事と出会うころから徐々に作品のテンポ、そしてトンマーゾ自身が落ちついてきて、観客側もじっくりと状況を見守る態勢になっていく。

 

観終わってすぐに、もう一度観たくなった。私がこの有名な事件の数々を詳しく知らなかったことも大きいと思うが、多彩な登場人物それぞれの立場を知ったうえで「あの時あの人はどんな動きをしていたのか」と解明しながら観る2回目以降は、きっともっと楽しめるだろう。当時の警察のマフィアに対する処遇、裁判の様子などもとても興味深く、音楽の効果も見事なので物語の世界をたっぷりと堪能できると思う。自分とは全く次元の違う話に感じていたが、事件や裁判の日付が画面に出るたびに、自分は当時日本で子ども時代を過ごしていたのだと気づいて、同じ時間を生きていたことになんとも不思議な気持ちになった。

(文:あかりきなこ)