FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 10月27日放送分
映画『スパイの妻 劇場版』短評のDJ'sカット版です。
1940年。日本の軍国主義化か進み、街にもきな臭いムードが漂ってきている神戸。貿易会社を営む福原優作は、仕事で訪れた満州でとある国家機密に触れてしまう。それが許せなかった彼は、自らの正義に基づき、これを国際社会に知らしめるべく動き出します。満州から謎の女を連れ帰った他、油紙に包まれたノートや金庫に隠したフィルムなど、途端に秘密を抱えだした夫を不審に思う妻、聡子。憲兵たちからも目をつけられたこの夫婦の命運やいかに。
第77回ヴェネツィア国際映画祭で監督賞にあたる銀獅子賞を獲得したこの作品。監督は、黒沢清。脚本は、東京芸術大学大学院教授としての、彼の教え子である濱口竜介、野原位(ただし)と一緒に書き上げました。聡子を蒼井優、優作を高橋一生、聡子の幼馴染である憲兵を東出昌大が演じた他、夫婦の理解者、野崎医師には笹野高史が扮しています。
僕は先週金曜日の午後に、MOVIX京都で観てきました。『鬼滅の刃』に乗り切れない映画ファン層を取り込んだのか、ヴェネツィア効果なのか、とにかく入ってましたね。すばらしい。それでは、今週の映画短評、いってみよう。
優れた映画はあらすじにまとめきれないところに魅力があるもの。この作品もそうです。理解の肝は、優作が道楽で映画を撮影しているアマチュアの映画作家であること。これが、物語のアクセントどころか、物語をより深く理解するための鍵になっています。
黒沢清監督は、これまでだいたい現代の東京を舞台にした映画を撮ってきましたが、今回は故郷の神戸を舞台にした時代もの。ロケもあるけれど、セットを作る必要もありました。お手伝いさんが住み込んでいるような金持ちの夫婦が主人公ってのもこれまでなかったことですが、このふたりと夫優作の甥っ子で部下の男が、会社の忘年会で披露するためにと、スパイものの自主映画を撮っているんです。当時の9.5ミリというフォーマットの小型映画のフィルムで、聡子が女スパイに扮して、暗闇で金庫を開けているところを何者かに見つかって仮面を剥がされる。素人ながら、舶来の映画も好きなんだろうなあという、なかなかのカメラワークと照明使いで、夫婦と親戚でキャッキャやってるなという、物語のスパイス程度に僕も当初は眺めていました。ところが、ここで既に首をもたげていたのが「演じる」あるいは「仮面をかぶる」という、実は全体を貫くアクションなんです。
その同じカメラを優作と甥っ子が満州に持ち込んで次に捉えることになるのは、優作にとって看過できなかった、関東軍の機密事項。帰国してからの夫の様子がおかしい。夫は何かを隠しているのではないか。女の影もある。嫉妬心に駆られる聡子。監督はここでいかにも思わせぶりな演出をします。もしかすると、優作は本当に女とできたのでは? 急に持ち上がる三角関係。さらに、東出昌大演じる憲兵も優作にいよいよ目をつけて難癖をつけつつあるし、何よりこの憲兵は明らかに聡子に恋心を抱いている。さあ、どうなる。ここからがむちゃくちゃ面白くなります。それぞれの思惑、本音、それを粉飾する演技が交錯するからです。
そこへ、またフィルムが再登場。満州で撮影されたフィルムが、自宅で映写されるや、スクリーンに浮かぶ恐怖を目の当たりにする聡子。その様子を目にする優作。今度はそのフィルムそのものが誰の手に渡るのか。国際世論に訴えるために海外に持ち出せるのか。それが憲兵に阻止されるのか。国家vs個人。全体主義vsコスモポリタニズム。軍国主義vs人道主義。こうした対立も浮かび上がって、1940年という時代設定が活きてくるわけです。その中で描かれるのは、これはこの夫婦の愛情、絆の行方って表面的には見えるし、決して間違いではないけれど、愛や正義にこの話を押し込めてはもったいないです。黒沢清映画にしては珍しく登場人物がよく喋りますが、そのセリフだけを追っては、鵜呑みにしてはいけないんですよ。
あの大戦で亡くなった若き天才監督、山中貞雄の映画が引用され、溝口健二の名が登場して、ラストには溝口的な霧に登場人物が消えていく。そして、気づけば、あの聡子がスパイを演じたあのアマチュア映画も極めて重要な意味をもっているのだと、あとあと気づかされることに…
特に主人公たる聡子がいつ何をきっかけにどんな心境になり、誰に本心をあらわにして、誰にそれを隠そうとしているのか。僕は鑑賞後にまた観たくなりました。確認したかったからです。これはいわゆる史実をトレースした歴史映画ではありません。ありそうな話だけど、完全オリジナル脚本です。そのまま見れば、あらすじだけ追えば、ヒューマニズムや夫婦の絆、戦争のむごたらしさを描いた、よくできた歴史もの。でも、一方で、フィルム、映画というのが、事実を映しもすれば、事実を欺きもする、そして人の人生を左右してしまうのだという、映画で映画を語る映画でもある。この重層的な語り口・描写を劇場で体験して、なるほどこれは、聡子のセリフを借りれば「お見事!」だと僕も思ったし、ヴェネツィア銀獅子さもありなんと納得しました。ごちゃごちゃ言いましたが、スリラーでホラーでロマンティクでコミカルでヒストリカル。黒沢清作品入門としてもバッチリですので、どうぞ世界で評価された二人目の「クロサワ」最新作をあなたも映画館でご覧ください。