京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『博士と狂人』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 11月3日放送分
映画『博士と狂人』短評のDJ'sカット版です。

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1872年、イギリス。独学で言語学を学んでいた在野の学者マレーは、今では世界に冠たるオックスフォード英語大辞典の編纂計画に関わることになります。それは、古語も俗語も外来語も、とにかくすべての英語を網羅しようという途方もないプロジェクト。やはり作業は困難を極め、遅々として進みません。そんなマレーの窮地を救ったのは、殺人を犯し、精神科病院に収容されていたアメリカの元兵士にして医師のマイナー。彼がマレーに宛てて届けた用例集が、辞書編纂を大きく前進させるのですが…
原作は、98年出版のノンフィクション『博士と狂人 世界最高の辞書OEDの誕生秘話』。魅了されたメル・ギブソンはすぐに映画化権を獲得しました。監督には、ギブソンの盟友にして『アポカリプト』の脚本を共作したファラド・サフィニアを据えて、撮影がスタートしました。ただ、予算が乏しい中、オックスフォード大学での追加撮影を主張する現場と製作会社の意見が対立し、裁判に発展。サフィニア監督の名前は結局クレジットされず、架空の人物の名前が掲載されるという異例の事態となりました。マレーを演じたメル・ギブソンと、マレットに扮したショーン・ペンは、これが初共演となります。
 
僕は一昨日、日曜日の夕方にシネ・リーブル梅田で観てまいりました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

番組でも何度か話題にしてきましたが、僕は辞書が好きでして、いつもイタリア語対応の電子辞書を持ち歩いているし、紙のものも、たくさん持っています。この作品のパンフレットには、日本語学者の金田一秀穂さんの文章が掲載されていて、そうだよなって頷いたので、少し引用します。「辞書は、莫大な英語の海を渡る羅針盤である。言葉を得ることによって、人は大地から天空へと飛ぶ翼を手に入れることができる」。メル・ギブソンは敬虔なカトリックとして知られています。聖書で言えば、「始めに言葉ありき」ですよ。言葉がないと僕らは考えることすら出来ないし、気持ちを伝えられないし、世界の森羅万象を表現できない。この物語にメル・ギブソンが強く惹かれた理由はよくわかります。

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人間の正気と狂気についてもテーマになっています。これも、フィルモグラフィーを振り返れば、メル・ギブソンっぽいなというあたりですね。南北戦争に軍医として従軍したマイナーは、そこで非人道的な所業の数々を体験したことが引き金になって統合失調症を患います。冒頭、彼が起こした人違いの殺人事件の顛末を見ると、暗い画面、強烈な陰影、傾いだカメラワークなど、そのいわゆる狂気が演出されていて、確かに恐ろしいのだけれど、一方で、それが病気でもなんでもない人間が集団で起こした戦争という狂気によって生み出されたということがわかってくるわけですよ。
 
つまり、正気と狂気、あるいは知性と狂気は、対義語ではなく、むしろ人間の中に同居しているものであるとはっきり伝わってくる映画でした。これは辞書編纂の共同作業が始まってからの、マレーの作業場とマレットの病室の状況が酷似していく様子で、映像としても示されていましたね。おびただしい数のメモ書きを整理して、秩序付けて配列していくところなんて、すごいと声を上げたくなると同時に、ちょっと怖いっていう。彼の辞書には、41万語、そして183万の引用が収録されるわけですから、さもありなん。

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他にも、贖罪と許しというテーマも入っていて、これが中盤以降、グッと前にせり出してきます。さらに、大学の権威主義であるとか、近代資本主義が拍車をかけた格差であるとか、近代国家がどこも急いで競り合った「国の言葉」としての「国語」の成立であるとか、精神科病院における不当かつ非科学的な「治療」であるとか、それぞれに映画一本撮れるぜっていう骨太なテーマがうまく散りばめられていたと思います。それだけに、どこに興味をフォーカスするかで、また味わいも変わるし、もう一度観たいって、また思ってしまいました。
 
主演ふたりは、ぎりぎりのところで、ステレオタイプやオーバーアクションを回避するバランスの演技でさすがだったんですが、この映画では、ある事故があって以来、マレットに寄り添い続けた看守やマレーの妻など、サブキャラクターの存在も記憶によく残りますね。これも良い映画の証でしょう。

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最後に、僕が思わず感心したのは、マレーの編纂スタイルでした。自分たちチームだけの知識や発想だと限界があるのだから、そこは広く市民の力を募れば良いという、言わば集合知を信じるという姿勢ですね。ここが、仕立て屋の息子で叩き上げで学者になったマレーならではの考え方だと思いました。偉ぶってないし、分け隔てない人柄がよく出ています。でも、その集合知をネットもない時代にどう集めるのか。僕はびっくりしましたね。映画でご確認ください。今のネット社会にも通じるような、実はこれはとても現代的なテーマをいくつも扱った映画なのだと感じました。
このThe ScriptのNo Wordsという曲。言葉だけでは、描写しきれないものがあるって歌なんだけど、それを言うために、彼らの歌の半ばでも屈指の単語数を並べ立てているんです。そう、言葉の限界を表現するにも、言葉は必要なんです。しかも、歌詞にはThe Professor and The Madmanというフレーズも。おそらくはメンバーが原作を読んでるんでしょうね。


さ〜て、次回、2020年11月10日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『パピチャ 未来へのランウェイ』です。90年代のアルジェリアを活きた女性たちの青春絵巻。当時あの国は、とりわけ女性にとっては暗黒とも呼ぶべき時代で、イスラム原理主義が幅を利かせていたようですが、彼女たち、ヒジャブもまとっていませんね。どんな心持ちで暮らしていたんだろう。未知の世界を覗く心持ちで観てきます。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!