京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

映画『おらおらでひとりいぐも』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 11月24日放送分
映画『おらおらでひとりいぐも』短評のDJ'sカット版です。

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75歳の桃子さんは、長く寄り添った夫に先立たれて以来、郊外の大きな一軒家で一人暮らしをしています。頻繁に図書館へ通っては本を借りてきて読み漁っているのですが、近頃のお気に入りは、地球の歴史。コツコツと読んでは、46億年の歴史ノートを自分でまとめています。傍から見れば孤独な老人に見える桃子さんの脳内は、実は賑やか。心の声がたくさん聞こえるのみならず、最近では目の前に立ち現れてきます。これは、そんな桃子さんが自分らしく一人で生きていく様子を綴った、ささやかながらも壮大な1年の物語です。

おらおらでひとりいぐも (河出文庫)

3年前に出版され、芥川賞文藝賞をダブル受賞して話題となった若竹千佐子の同名ベストセラー小説を映画化したこの作品。監督と脚本は、『南極料理人』や『横道世之介』の沖田修一。75歳の桃子を演じたのは田中裕子。若き日の桃子は蒼井優が演じました。他に、夫の周造を東出昌大が担当する他、桃子さんの脳内の声を体現する素っ頓狂な役どころに扮するのは、濱田岳青木崇高宮藤官九郎です。
 
僕は先週水曜日の昼下がりに京都シネマで観てまいりました。サービスデーということを考慮しても、僕の人生の先輩たちを中心に、かなり入っていました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

考えてみると、ひとりで番組を進行する僕たちラジオDJってのは、妙なことを生業にしています。同じ一人喋りなら落語があるじゃないかってことですけど、噺家はお客さんを前に話すわけですよ。今の僕はどうでしょう。ガラス向こうにスタッフはいるものの、スタジオのブースにはひとり。聞いてくれているリスナーが万単位でいることはわかっていても、相槌は誰も打ってくれません。そんな状況である程度意味の通ったことをまとめて喋るのって、日常生活では普通ないんですよね。主人公の桃子さんは、家でぶつくさ独り言。のみならず、声にはならない声で、心のなかであれやこれやと、それぞれに脈絡のないことを考えるともなく考えたり、自動筆記のようにもうひとりでに考えが湧いてくる。それは他人には、いや、下手すりゃ本人にだって制御も理解もできないことがある。原作は、そういう桃子さんの生活描写と思考の断片を地続きに綴った小説です。彼女の脳内には、性別も年齢も不詳で、使う言葉もバラバラな様々な声があるんです。少し引用します。「有り体にいえば、おらの心の内側で誰かがおらに話しかけてくる。おらの思考は、今やその大勢の人がたの会話で成り立っている。それをおらの考えどいっていいもんだがどうだが。たしかにおらの心の内側で起こっていることで、話し手もおらだし、聞き手もおらなんだが、ついおめだば誰だ、と聞いてしまう」。

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© 2020 「おらおらでひとりいぐも」製作委員会
物語の出来事、アクションは、目に見える範囲では、ひとりの老婆が病院や図書館へ行き、車の営業マンやおまわりさん、たまに訪ねてくる娘や孫娘と話して、墓参りをするという、極めて日常的で静かで地味なものです。ところが、その実、彼女はとても賑やかな環境にいて、長い人生の記憶と経験が堆積した地層、言わば時間の層「時層」の上に生きている。桃子さんが地球という星そのものの歴史に興味を持つのは、それゆえだったりするんですが、ともかく、映画化にははっきり向いていません。普通はね。ところが、これが沖田修一監督のように現実とファンタジーを自在に行き来してユーモアとペーソスでくるむ術を知っている映画人の手にかかれば、一級のエンターテイメントになるんです。

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© 2020 「おらおらでひとりいぐも」製作委員会
予告編などでも垣間見えるように、映画ならではの表現としてわかりやすいのは、心の声を完全に擬人化していること。濱田岳青木崇高宮藤官九郎と、それぞれ特に似てもいない男性が出てきて、桃子さんと合わせて4人でコタツを囲んで会話したり、ジャズセッションをしたり。でも、これにとどまりません。話が進んでいくと、この心の声の人数が極端に増えることも。さらには、過去の自分や亡くなった夫、周造の若い頃もそのまま画面に登場。CGなんかは使わずに、ほんとにただそこに一緒にいるというのが面白みにつながります。あとは、絶滅したマンモスがこちらはアニメーションやCGで登場。いかに人の脳内が、精神が小宇宙を成しているかをそっくり絵で見せてくれます。その時の最大のポイントは、妄想をただスクリーンに映すのではなく、桃子さんが見ている世界を桃子さんごしに捉えていること。注意してみると、これがものすごく多い。原作では、「オラは」という一人称と、「桃子さんは」という三人称がまぜこぜになり、方言と標準語、話し言葉と書き言葉がないまぜになって、独自の文体を形作っています。映像そのものには人称ってありません。「何かを見ている桃子さん」の後に「桃子さんの見ている何か」を見せることで、初めて三人称と一人称の関係を擬似的に編集で生み出せるんですが、沖田監督は、画面奥に「桃子さんの見ている何か」、手前に「何かを見ている桃子さん」と、ひとつの画面にどちらも収めることで、原作小説のテイストを映像に置き換えることに成功しているんです。それによって、映画では、すべてを見ているカメラを強く意識させられるんですね。つまりは沖田監督の視点です。実際、インタビューを読むと、桃子さんの部屋は監督のお母さんの家を再現したそうです。
関連作として思い出したのは、スペインのアニメーション『しわ』という老人の物語と、子どもの感情をそれぞれに描いたアニメ『インサイド・ヘッド』。老人と子どもってのが面白いですが、世間の常識にとらわれない頭の中を見事に映像化した、いずれも傑作です。ただ、どちらもアニメならではの表現を活用していたわけですが、今回は沖田監督がそれを実写で実現してみせたのがすばらしい。惜しむらくは、さすがに尺が長かったので、もう少しタイトに引き締めても良かったのかな。でも、お見事と手を叩きたくなるとともに、今後のこうした分野の可能性を押し広げる1本でした。

主題歌はハナレグミの歌う『賑やかな日々』。エンドロールで名場面を振り返る編集ってのにお目にかかることがありますが、この作品の場合は、監督作詞によるこの歌がその役割を果たしているような気がします。
 
ところで、京都シネマで作品を観終わった後、エスカレーターに向かっていたら、桃子さんと同世代のふたり連れの女性がこんな会話をしているのが耳に入りました。「良かったねえ。なんか思うところがありすぎるからさ、今日はお茶をせずにそれぞればらばらに帰りましょうか」。なんかすごくいい瞬間に立ち会えた気がする!

さ〜て、次回、2020年12月1日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ホテルローヤル』です。ホテルものって、昔からたくさん作られていますよね。それぞれに関わりのない人たちが行き来して、同じ屋根の下で夜を越える場所。しかも、これは北国のラブホテル。どう考えても面白そうじゃないですか。『TENET/テネット』に続き『罪の声』が一向に当たらないまま消えていきましたが、いいんだもん! これも面白そうなんだもん! あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!