京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『化け猫あんずちゃん』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 7月30日放送分
映画『化け猫あんずちゃん』短評のDJ'sカット版です。

その昔、大雨の日にお寺の和尚さんが拾ってきて名付けた子猫あんず。大切に育てられたのは良いのですが、いつしか人間の言葉を使い、人間のように暮らす化け猫になっていました。あんずちゃんは原付きのバイクにまたがり、按摩のバイトをする37歳の中身はおっさん。そんなあんずちゃんのもとへ、和尚さんの息子哲也が、11歳の娘かりんを連れて帰ってきます。ただし、哲也は大喧嘩の末に実家を出ていたため、実は結婚していたことも、妻が亡くなってしまったことも、かりんの存在も和尚さんには知らせていませんでした。そして、あろうことか、哲也はかりんをほっぽって去っていきます。こうして始まる、あんずちゃんとかりんの夏。どうなりますやら。

化け猫あんずちゃん (コミックボンボンコミックス)

原作は、いましろたかしの同名漫画で、脚本は『苦役列車』などのいまおかしんじ。そして、監督はふたりいます。まず実写撮影の山下敦弘。そして、実写映像をトレースしてアニメーションにしていくロトスコープという手法で演出を担当した久野遥子。彼女は『ペンギン・ハイウェイ』や『クレヨンしんちゃん』シリーズに関わってきましたが、これが長編初監督です。あんずちゃんを森山未來、かりんを五藤希愛、哲也を青木崇高が演じた他、市川実和子鈴木慶一宇野祥平なども出演しています。今年のカンヌ国際映画祭監督週間で正式上映されて存在感を示したことは、フランスでも日本でも話題となりました。
 
僕は先週水曜日の夕方にTOHOシネマズ二条で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

アニメにもどんどん面白い表現が生まれている昨今です。今公開しているもので、内容的にも絵の表現としても大人が興味深いのが、「あんずちゃん」と村上春樹原作の『めくらやなぎと眠る女』でしょう。「めくらやなぎ」の方は死やセックスを手がかりに「生きるとは何ぞや?」という問題を投げかけるもので、絵コンテに基づいて俳優に実際に演技してもらったものを参考に、2Dのアニメーションに落とし込む手法が取られています。そして、本作あんずちゃんはと言えば、先ほど紹介したキャストが、こちらも一度実際に演技をするんですね。実写映画を作る流れで、山下敦弘監督が演出をして、あんずちゃんを演じる森山未來も、化け猫の着ぐるみなんかは着ていませんが、とにかく化け猫になった体で演じるんです。見た目はその段階では森山未來ですが、心は37歳のおじさんっぽい化け猫です。そして、現場録音しているので、アフレコはせずに、その場で収録した音声をそのままアニメでも使います。久野遥子監督はその映像を参考に、というよりも、トレースするような格好でアニメーションにしていきます。そして、背景はフランスの映像プロダクションが線画を担当し、最終的に背景とキャラクターとライティングを合体させて完成するという流れ。

©いましろたかし講談社/化け猫あんずちゃん製作委員会
これは実は日仏合作でして、美術監督色彩設計という立場で参加したフランス人、ジュリアン・ドゥ=マンのインタビューによれば、ピエール・ボナールの絵画に見られる風景や庭園の色味を援用したとのこと。そうすることで、「日本の夏でありながら、湿度を感じさせない」独特の絵になっていて、舞台となった伊豆にあるという池照町という海沿いの田舎町の現実に限りなく近いけれどどこかシュールな雰囲気というのを表現しています。ピエール・ボナールは日本美術の影響を受けていたので、バランスもちょうど良かったんでしょうね。しかし、「めくらやなぎ」にしても「あんずちゃん」にしても、一度生身の俳優がカメラの前で演技をするっていうのが面白いなんて友人と話をしていたら、その方がアニメにする時の手間が省けるんじゃないかと指摘していました。そんなことはないでしょうよ。明らかにむしろ二度手間というか、手が込んでいますよね。では、なぜそんなことをするのか。ロトスコープという手法を採用するのか。それはひとえに、生々しい不思議な感覚を呼び起こす独特の手触りを持ったアニメにしたいからです。アニメでは見かけない仕草が入るし、演じているキャラクターの身体から発せられる声には奥行きがあるのに、映像はアニメーション。このどちらでもない感じが、あんずちゃんとかりんちゃんの物語に合うから採用されているんですね。

©いましろたかし講談社/化け猫あんずちゃん製作委員会
原作は池照町が基本的な舞台で、かりんというキャラクターも東京という大都会も、なんならハイライトとなる地獄も出てきません。一話完結読み切りの原作を長編映画にするにあたり、全体を貫く背骨のような存在として大人でもないが子どもとも言い切れない11歳の少女かりんが登場し、東京育ちの彼女の視点があんずちゃんが当たり前に化け猫として人間に混じって暮らしている池照町の不思議さを適度に際立たせ、地獄とこの世を行き来することで生と死の意味を考えさせるユニークな映画に仕上がっています。

©いましろたかし講談社/化け猫あんずちゃん製作委員会
子どもは夏休みに大きく成長するなんて言いますね。学校は休みだし勉強なんてたいしてしないのかもしれませんが、普段と違う場所で普段と違う人にあって普段と違う遊びをすることが、その子の経験値を上げて視野を広げることになる。そういう時に、教育的とは言い難い大人や退屈や身の危険を感じる出来事や現象に遭遇することがとても大事なんだろうと思います。町の不思議なおじさんおばさんっているでしょ? あの人、何して食べてるんだろう。何を考えてるんだろうって人。生産性だけで世の中が成り立ってるんじゃないんだってことを骨身にしみてわかることが、人間としての器を大きくする。そんなイニシエーションとしてのひと夏。かりんちゃんがこの映画の中で数多くの門や扉、あるいはそれに類するものをくぐり抜けるのはその象徴です。子どもが見ても相当に楽しめるでしょうが、大人が見ると、合理性ばかりを重視してしまっている自分の現在地を突きつけられることになって、なんでも白黒ばかり付けているような杓子定規で硬直化した頭をふにゃりと溶きほぐしてくれる心地よさを覚えると僕は思います。きっと時々見返したくなる、定期的にあんずちゃんに会いたくなる、そんな不思議な引力があります。「あんずちゃん、また会いたいよ」って思えば、あの独特の語尾で「了解まんにゃ」って脳内に声がこだまします。
主題歌を書き下ろしたのは、佐藤千亜妃です。これがまた、よくできています。夏の思い出が胸に去来する良い歌です。

さ〜て、次回なんですが、来週は僕が夏休みを取りますので、短評はお休みでして、今度は2024年8月13日(火)となります。評する作品ですが、この機会にここ1年ぐらいの間にスタジオにある映画神社のおみくじで当たらなかった話題作を観てみようじゃないかと、配信やレンタルが始まっているものをラインナップした中から今回僕が引き当てたのは、フランソワ・オゾン監督の『私がやりました』です。去年の秋に劇場公開された時にご覧になった方もいるでしょうし、いっちょマチャオに付き合うかという方は各プラットフォームのレンタルをご活用ください。いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!