京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『まる』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 10月29日放送分
映画『まる』短評のDJ'sカット版です。

美大は出たけれど、アーティストとして自立はできず、人気現代美術家のアシスタントとして淡々と生きている男、沢田。ある日、通勤の途中に事故に遭ってしまい、商売道具とも言える腕を骨折。それが原因で、あっさりとクビになってしまいます。一人暮らしの部屋に戻った沢田は、これからどうしようかと途方に暮れながら何気なく◯を描いたのが、大きな騒動へと発展していきます。
 
これが27年ぶりの映画単独主演となる堂本剛に沢田という役を当て書きで脚本を仕上げ、メガホンを取ったのが、荻上直子。沢田を取り巻くキャラクターには、綾野剛吉岡里帆森崎ウィン柄本明小林聡美などが扮しています。
 
僕は先週木曜日の夕方、MOVIX京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

この◯という作品が内包しているテーマはとても豊かで、それをまるっと一本の脚本に封じ込めた力にまず感服しました。アート業界への風刺。やりがい搾取。非正規労働。格差。外国人への差別。SNSのあり方。陰謀論。自己責任論。社会における個人の存在価値などなど。それぞれ、個別に映画ができあがりそうなトピックをあまねく程よく取り入れつつ、ユーモラスでいて切実かつコンパクトにまとめていまず。そして、どのテーマも切り込んでいるのに押し付けがましくないのが良いなと、◯にしっかり魅せられました。◯という作品の中心にいるのは、もちろん主人公の沢田なんですが、大勢のキャラクターが彼を取り囲んでいるとも言えて、沢田はその◯の真ん中で何も叫びません。堂本剛が今回徹しているのは、受けの演技なんですよね。周囲で起こる騒動や何かを声高に主張する人に対して、基本は低体温で受け答えをする。堂本剛のボーッとしているのとは違う、つかみどころのない表情や佇まいがとにかく印象的です。あれは僕もちょっとそういうところがあるからわかるんだけれど、できるだけ平静でありたいし、波風はあまり立てないようにすることがもう内面化されすぎている沢田というキャラクターを堂本剛は文字通り体現していました。一人暮らしの部屋で呪文のように平家物語を暗唱している沢田は、ものごとを考えてはいるんですが、ある意味達観して生きてきた節があります。大きな野望は持たず、足ることを知りながら自分のペースで心地よくある。そのベースがきっちりきいているが故に、ある場面で彼が自分の思いを吐露する、◯の中心で叫ぶショットが相当グッと来るんですよね。

(C)2024 Asmik Ace, Inc.
そんなハイライトに向けて進んでいく物語。まず事態が動くのは、怪我をして仕事を失うところです。現代美術家の手足として同じように働いていたアシスタントは、やれこんなの辞めたいとか、搾取されているとか、打ち明けられていたことも「そういうものかな」とやり過ごしていた沢田があっさりとクビになる。まぁ、理不尽です。そこで、さすがの沢田も待ったなしになるんですよ。だって、カネがないんだから。何かカネになるものはないか。美術書でも売るか。あと、なんか、売れる作品でもあれば… 腕が折れたまんま、部屋を這っていたアリを取り囲むように描いた◯を古美術商のお店に持って行ったら、それが知らない間に現代アートのキュレーターに買い上げられていて、◯は平和の象徴だとかなんとか意味づけされた上でアート界の寵児へと祭り上げられていきます。沢田本人の預かり知らないところで。この時点で出てきた要素は、映画の中で繰り返し巡っていきます。たとえば、「こんな仕事をするくらいなら、コンビニ店員の方がマシですわ」っていうアシスタント仲間がいたんですが、沢田はコンビニの店員としてバイトすることになります。アリも示唆的に何度も登場します。沢田の描いた◯の絵の具の中で固まって死んだアリは、システムに取り込まれた個人を想像させるし、働きアリの中に必ず一定数いるというサボるアリの話をしてくるのは、綾野剛演じる漫画家志望の横山。それから、成功者の象徴として小ネタ的に挟み込まれる寿司も興味深いアイテムでした。まさかまさかの海外でも登場した寿司ネタ。こんな風に、脚本がうまく芸が細かいので、ひとつひとつのモチーフが形や姿や意味を変えて、響き合いながら、全体としてそれこそ円のように巡るのが興味深いです。柄本明が演じていた茶道の先生も、最後にはまったく違う驚きの職業で登場して、どこか彼自体がおじいちゃんの姿かたちをした妖精のような浮世離れした存在で面白かったですね。浮世離れと言えば、アートディーラーのペットだと自称する女性アーティストが登場する一連のシーンでは寺山修司の映画ばりの幻影を見せることで、アートを扱う映画としての映像の厚みも荻上監督は出していました。あとはもちろん、大小さまざまな丸い形をしたあれやこれやがこれでもかと出てきます。ここにも◯。そこにも◯。あそこにも◯。

(C)2024 Asmik Ace, Inc.
映画の中でも出てくるように、◯を描く円相という書のスタイルは、仏教の禅の世界で実際にあることです。一般的には、この円相は永遠とか悟りの境地を表すとされます。江戸時代の仙厓義梵(せんがいぎぼん)というお坊さんは、その◯をなんと饅頭に見立てます。森崎ウィン演じるミャンマーからやってきたコンビニ店員のモーは、店の肉まんをトングで掴みながら、「ここにも◯」なんて言ってました。つまり、仙厓義梵が唱えたのは、考えすぎずに身を委ねることも大事だということ。ここが諸行無常と通じます。移り変わり価値だって転倒する世界において、そこにしなやかに身を委ねていくこと。

川っぺりムコリッタ

前々作の『川っペリムコリッタ』でも仏教が大事な要素として出てきましたが、仏教的観念で社会を捉えながら、ひとつの意味に観客を安直に誘導せず、ユーモアをもって、それでも鋭く切り込んでいく。荻上監督の文明批評コメディと僕は呼びたいですが、ますますここに来て表現に脂が乗った痛快な作品です。とかく意味があふれかえる世の中、というか、なんでも意味づけされる世の中において、意味のないとされるものや、ありていに言えば金にならないものや人には存在価値がないとして切り捨てられる傾向にあることへの抵抗ははっきりと表明していました。僕も同感です。でも、それ以外には、いろんなメッセージが読み取れます。おまんじゅうのように、あなたもこの映画をパクっといただいて味わってみてください。


エンドクレジットとともに流れるこの曲。既存曲なわけですが、荻上監督の堂本剛当て書きには、この曲も念頭にあったんだろうと思える呼応の仕方でした。劇伴もENDRECHERIとして堂本さんが担当されていましたよ。

さ〜て、次回2024年11月5日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』です。完全にカルト作と化した前作への落とし前をトッド・フィリップス監督がどう付けるのか。賛否両論を巻き起こすのは織り込み済みなんだと思います。気合い入れて観るとしますよ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!