FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 11月5日放送分
映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』短評のDJ'sカット版です。
「バットマン」に悪役として登場するジョーカーの誕生秘話を描いた前作から2年。5人の殺人罪で逮捕されたアーサー・フレックは、州立病院の精神科病棟で裁判を待っています。ある日、弁護士との面会のために病院内を移動していると、別病棟の音楽セラピーに参加していた謎めいた女性のリーと目が合います。理不尽な世の中への反逆者ジョーカーとして熱狂的な支持を集めるアーサーに惚れ込んでいるリーに、アーサーは心を掻き立てられていきます。
監督はトッド・フィリップス。脚本はトッド・フィリップスとスコット・シルバー。撮影ローレンス・シャー。主演、ホアキン・フェニックス。前作と変わらぬ座組の中に、ハーレクインにあたるリーを演じるレディー・ガガが加わりました。
僕は先週木曜日の午後、MOVIX京都のドルビーシネマで鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。
5年前、コメディアンを目指す恵まれない青年アーサー・フレックが、やむにやまれず殺人を犯したことをきっかけに、社会的に抑圧された民衆の鬱屈を晴らすジョーカーとして持ち上げられるまでを描いた前作は、世界的に社会現象となりました。各国での受け止めには、その国の現状がきっと反映されてそれぞれに違いがあったように思いますが、本国アメリカでは、とりわけトランプ前大統領の大きな支持層でもある、マジョリティーの白人でありながら社会から疎外感を覚えている男性たち、もっと言えば、「どうも俺達は社会の中で割りを食ってるんじゃないかと」感じている中間層以下の人たちの不満をすくい取ったことが指摘されています。そして、トランプ大統領は4年前の選挙で敗北し、支持者たちは暴徒化して、あろうことか連邦議会議事堂の襲撃事件に発展。警官を含めた5名の死者も出てしまう事態となりました。恐ろしいことです。あれをニュースで見た時に前作『ジョーカー』を思い出したのは僕だけではないはずです。ホアキン・フェニックスは、今作が上映されたヴェネツィア国際映画祭でこんな発言をしています。「なぜ多くの人が前作に共感したのか正直わからないんです」。そして、トッド・フィリップス監督は「この作品は1作目に対する<答え>ではない」と。
先週、生放送中に映画神社のおみくじを引いて本作が当たった時、僕は「トッド・フィリップスが前作に落とし前をつけた続編を観に行こう」って言いました。僕なりにホアキン・フェニックス、監督の発言を縫い合わせると、こういうことだと思います。「作った自分たちの意図以上に社会的に意味づけされて祭り上げられた前作で高まりきった期待に応えるというより、落とし前をつける作品」。鑑賞後に僕はそんな思いを強くしました。今回の副題であるフォリ・ア・ドゥというのは精神医学の用語で、「ひとりの妄想がもうひとりに深い影響を与えて妄想が共有される精神病」のこと。ここで言うひとりというのは、今作のもうひとりの主人公であるレディー・ガガ演じるリーでしょう。僕が鑑賞前に予想したのは、アーサーの妄想に感化されたリーという構図だったんですが、観ているうちに「いや、違う、これは反対だ」って気づいたんですよ。つまり、妄想を膨らませているのは、むしろリーの方で、その妄想に巻き込まれていくのがアーサーであり、これはその結果としてふたりが恋に落ちていく哀しき物語だってことです。もっと言えば、リーが妄想を膨らませているのは、正確に言えば、アーサーではなく、悪のカリスマであるジョーカーという存在であり、アーサーはその期待に応えようとするあまり、僕に言わせれば、望んでいたわけではない舞台に導かれてしまう哀しさがある。この構図を踏まえておかないと、混乱する観客が出てくると思うし、特にアメリカで「期待外れだ」とこき下ろす意見が強いのは、そこに原因があるんじゃないでしょうか。
確かに、前作でジョーカーの誕生に「俺も世間に一泡吹かせたいんだ」と溜飲を下げつつ頭に血を上らせた人たちにとっては、あまりにもカタルシスのない展開に「なんで続編はこんなにスカッとしないんだ」と感じたのも仕方ないです。前作の殺人事件を裁く法廷において新しい情報なんてろくに出てこないし、病院とは名ばかりの人権が制限されたろくでもない場所に収容されているアーサーはさらに痩せ細って、ますますひどい目にあうばかり。レディー・ガガは良いですよ。ある意味、身勝手なものです。彼女は妄想を膨らませて病院に乗り込んで、「あなたはジョーカーなのよ」って熱い眼差しでアーサーを誘惑し、ともに歌を歌うことで、アーサーをジョーカーとして法廷という舞台に引っ張り上げているんですから。でも、そこで置いてけぼりになるのは、ジョーカーを演じきることができないアーサーじゃないでしょうか。そもそも、彼は自分の弁護士からも誤解されている節があるんですね。というのも、あの女性弁護士は当初からアーサーは統合失調症で心神喪失の状態にあったことを立証して減刑を狙う方針を立てるっていうんだけど、前作を思い出せばわかることですが、アーサーのバックグラウンドを彼女も理解して弁護しているのかどうなのか疑問が残る展開。弁護のテクニックとしてはわかるけれど、アーサーとしても辛かろうと思えて仕方がない。つまり、皮肉なことに、アーサーを擁護する人たちも、カリスマとして見る人たちも、追求する検事たちも、そしてリーも、アーサーという人間に真剣に向き合っていないように見える。そういう意味では、針の上のむしろですよ。そして、あの衝撃の結末。JOKERになりきれぬアーサーがJOKEを聞かされるという反転の構図こそ、トッド・フィリップス監督が批判や観客の落胆を覚悟でつけた落とし前だったんじゃないでしょうか。
映像に関しても、俳優陣の演技についても、もう言うことはないです。僕はドルビーシネマで観ましたが、暗い場面が多いし、ミュージカル仕立てのシーンも多いので、鑑賞形態としてはオススメできます。ただ、惜しむらくは、脚本に僕は難があったと見ています。特に弁護士のあの弁護方針は観客に混乱をきたすもので納得がいかなかった。あとは、ミュージカルという着想はすごく良かったんですが、正直なところ、うまくいっていないというか、突き抜けていなくて、むしろ映画全体を鈍重なものにしてしまうところが何箇所かあったのは否めないところです。でも、それでも、僕はこの作品を観て良かった。冒頭に言った「落とし前をつけた作品」だったと言えるでしょう。
この曲は、面会室でアーサーとリーがガラスを隔てて目を見つめ合わせながら歌われていました。そのガラスを使った演出もトッド・フィリップス監督さすがでしたよ。
そして、これはまったくの余談ですが、僕はハロウィーン当日に映画館へ行ったもんで、終わって夜の京都の街に出てきたら、コスプレをしている人たちも結構いたんですが、とあるビルの裏で、しゃがみこんでいる若者たちに出くわしました。彼らがなんと、ジョーカーのメイクをしている最中だったんです。なんだか、妙な気分になるシンクロニシティでしたよ。あの子たち、きっと続編は観ていないんじゃなかろうか…