京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

カルタゴを滅ぼしてはならない 〜内憂から外患へという論理の曖昧さ〜

 前から気になっていたものがあります。よく言われることだと思いますが、「有力な敵が外にいれば内部の紛争を抑えることができる」という議論です。どういう話かと言いますと、たとえば、ある国で国民が政府への不満を募らせている。不満が爆発しそうだ。政府としては、こりゃあ困ったということで、国民の注意を別の方向へ向けるために、国外の敵の「脅威」を強調する(又は、意図的に作り出す)。国民のみなさん、あの国はわが国にとって多大な脅威ですよ、戦争の準備をしないといけない*1。すると国民は、ここはひとつ国内の問題は置いといて、まずは外敵に対処しないといかんな、と思うようになる。政府としては、これで国家の安定は保たれたと一安心。と、話を単純化すれば、こういうことです。

 こうした政治の論理はなにも最近になって言われだしたわけではなく、古代ローマの時代からあったようです*2。当時、ローマでは貴族と民衆の対立があり、そういう国内の鬱憤を爆発させないように、ガス抜きとして、外へ進出していき、内憂を外患に転ずることで、国家を安定させていました。こうして、ローマは外へ外へと領土を拡大してゆき、帝国が出来上がったと。また、紀元前2世紀に、当事ローマのライバルだったカルタゴを滅ぼしてはならない、という議論がなされたのも、こうした論理からで、外患を失ってしまうことを危惧したから、らしいのです(詳しくは文末に挙げた参考資料をお読みください)。

 なるほど、そんな昔から言われていたことなのか、と驚いてしまうのですが、僕は少し怪しい論理だと感じます。なぜかって言うと、これには、二つの「前提」が含まれていると思うからです。

 まず一つ目は、ある程度民主的な国家である、という前提です。国民の不満が爆発しそうだということになると、政府の選択肢として考えられるのは、①国民と対話をもつ(民主的です)、②不満をそらす(狡猾です)、③有無を言わせず黙らせる(反民主的です。たとえば、民主化運動のデモ隊に発砲する、外国から来たジャーナリストを殺す、など…)。③は独裁国家ではあり得ても、「民主主義国家」を看板として掲げる国にとっては論外です。①が強く望まれます。そして、②の不満をそらす、というのもある程度、民意を意識しているからこそだと思います。なぜなら、民意なんて「そんなの関係ねぇ〜」って言える国では、もっと手っ取り早い方法(=ぶん殴って黙らせる)があるのですから*3

 そして、二つ目の前提は国民に批判能力がない、というものです。これは、個人的に一番違和感を覚えるところです。政府が意図的に外部の敵の脅威を強調したり、又は脅威を意図的に作り出したりして、国民の意識をそらそうとする。これを国民が批判的に捉えることができない場合に、こうした策は成功をおさめるのです。これはなんとも、国民を馬鹿にした話ではありませんか。国民には批判能力がない、政府は国民の意識などコントロールできるのだ、というわけですから。

 やれ、あそこの国は脅威だ、脅威だと言って騒ぎ立て、国民を不安にさせて、戦争に向かわせる、という手段は昔から行われてきたことです。北朝鮮脅威論、中国脅威論、イラク脅威論などなど、挙げれば切りがありません。<「脅威」というのが具体的にはどういうことなのか>を十分に検討しないまま、「脅威」とされる国への不安感から、安易に戦争へ向かえば、不幸を招くだけでしょう。「民主主義国同士は戦争をしない」と言われることがよくありますが、「民主主義国は戦争を始めない」とは誰も言っていないのです。

 本当の脅威は「外」ではなく「内」にあるのかもしれません。

=参考資料=
『「哲学と政治」講義? よみがえる古代思想』(佐々木毅講談社、2003年)
よみがえる古代思想 「哲学と政治」講義(1) (「哲学と政治」講義 (1)) 民主主義という不思議な仕組み (ちくまプリマー新書) マキアヴェッリと『君主論』 (講談社学術文庫 (1109))

*1:この論理でいけば、いま異例の経済成長の真っ只中で右肩上がりのとある国では、国民の不満が収入アップで誤魔化されているけど、経済成長が鈍化して、国民の不満が爆発しそうになったら、対外的に(隣の島国に対して?)アグレッシヴになる、ということも言えなくもない。

*2:一段落目の例で使った「国民」の概念はこの時代にはないが、類推ということで。

*3:ただし、独裁国家でも民衆を「黙らせる」という手段をとれば、外国メディアから批判を浴びるし、先進国から経済援助をストップさせられたり、国連から圧力を加えられたりするわけで、賢明な選択とはいえない。なので、多かれ少なかれ、独裁体制を敷く国家でも、民衆の満足・不満足というものに対峙しなければならない。