京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

映画『国宝』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 7月14日放送分
映画『国宝』短評のDJ'sカット版です。

1964年、長崎。料亭で暴力団の新年会が開かれていました。組長の息子である15歳の喜久雄は、兄貴分の青年と一緒に、余興として歌舞伎を披露します。それを見ていたのが、巡業中で宴に招かれていた上方歌舞伎の名門の当主である花井半二郎。暴力団同士の抗争で父親を亡くした喜久雄を、半二郎は大阪の自宅に引き入れ、跡取り息子で同い年の俊介と一緒に稽古をさせるようになります。喜久雄と俊介は兄弟のようであり、親友でもあり、ライバルでもありました。芸に青春を捧げたふたりは、やがて歌舞伎の血筋という問題と直面することになります。

怒り 悪人

原作は吉田修一の同名小説で、監督は『悪人』『怒り』に続いてこれが3度目の吉田修一作品の映画化となる李相日。脚本は、『サマーウォーズ』や『八日目の蝉』で知られる奥寺佐渡子。喜久雄を吉沢亮、俊介を横浜流星が演じた他、半二郎には渡辺謙、その妻には寺島しのぶが扮しました。他にも、高畑充希、森七菜、三浦貴大田中泯永瀬正敏などが出演しています。
 
僕は先週木曜日の夕方にTOHOシネマズ梅田で鑑賞してきました。6月6日の公開から1ヶ月以上経っていますが、3番スクリーンと大きめで、なおかつ平日夕方にも関わらず、老若男女、僕みたいなひとり客から、女友達同士、そしてデートというカップルも含め、劇場はかなり盛り上がっていました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

強引に要約すれば、こういうことです。伝統芸能における血筋と芸のせめぎあいの中で翻弄される喜久雄と俊介の人生。1964年からほぼ現代まで描かれる半世紀以上に渡るストーリーで、原作は800ページあります。映画も3時間弱と尺は長いのですが、それでも結構端折っていかないといけないという中、この作品はそれぞれの時代のどんな場面を見せるかというところにはっきりと特徴があります。それは、普通なら見せ場になるはずの場面をあえて見せないこと。プロローグからそうです。暴力団の抗争があって、喜久雄が兄貴分と一緒に父親の仇討ちに踏み出したところで、そのシーンを終えます。あっさりと1年後にジャンプするんです。長大な小説を原作にした映画で失敗するケースにありがちなのは、わかりやすく目立つ盛り上がるシーンばかりを並べた結果、ただのダイジェスト動画になってしまうこと。派手なアクションが起きる場面というのは魅力だし脚本家も監督のその魅力に流されてしまうものだと思いますが、本作はそんな誘惑を断ち切っているんです。当初は原作が長いので配信ものの連ドラにするという構想もあったようですが、李相日監督はスクリーンで観てもらいたいからと映画にこだわりました。もし連ドラにしていたら、さっきの敵討ちの場面も、たったふたりの若者が敵の事務所にどう踏み込んだか丁寧に描いていた可能性があります。でも、今作ではそうしなかった。じゃあ、その結果を観客はどう知るのか。1年後の場面でさりげないセリフで示すにとどめているんです。だから、僕たち観客は想像するしかありません。この想像の余地が随所に用意されていることで、かえって僕たちは目が離せなくなるし、セリフが聴き逃がせなくなる。前のめりになるんです。

©吉田修一朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会
もうひとつ例を挙げるなら、喜久雄と俊介の師匠、渡辺謙演じる半二郎ですが、ふたりに稽古をつける様子は描かれるものの、彼が舞台でふたりに所作を教え込む女形を演じる場面はひとつもありません。もちろん、見せたって良いはずなんです。渡辺謙は、極めて重要な役だし、今作のテーマである喜久雄と俊介の芸と血筋の拮抗に対して決定権を持つ存在ですから。ただ、それは見せない。この場合は、物語的な焦点化と言って良いと思いますが、ピントをあくまで喜久雄と俊介に絞り込んでいることの表れでしょう。文字通りの焦点化は、映像にもきっちり表れていました。要所でアップを使って、手前や奥をぼかす、専門的な用語で言えば被写界深度の浅い映像を使うことで、物語だけでなく映像面でもメリハリを付けつつ、それが映像的な見得を切る効果にもつながっています。これは『アデル、ブルーは熱い色』などで知られるチュニジアの撮影監督ソフィアン・エル・ファニの素晴らしい仕事です。

©吉田修一朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会
喜久雄が後半に「景色を探しているんだ」というセリフがありましたね。それは芸を極めた役者が目にする景色ですが、この作品ではその舞台裏を描いているわけで、文字通り舞台の裏、袖、上、下、楽屋とあらゆるところからの景色が出てきます。これがまた見どころ。歌舞伎を実際に見に行っても見えない、というより、本来は隠されるべき場所や視点が出てくるわけですから、珍しいし、興味深い。そして、当然ながら、ドタバタしていたり、緊張していたり、衣装をチェンジするところなんていうのは美しくはありません。隠すところというのは、言い方を変えれば恥部でもあるわけですから。もっと言えば、歌舞伎役者たちの実人生だって、隠すべきところかもしれません。過酷な稽古、プレッシャーから逃れるために、酒や遊びに走るばかりか、時に逃げ出したり、スキャンダルを起こしたりするところもあります。実際に、喜久雄と俊介も、天国と地獄の両方を経験します。こうした役者の苦悩というのは、あるあるでもあるわけですが、僕が感心したのは、その実人生の節目と演じる歌舞伎の演目をリンクさせているところです。歌舞伎の演目のチョイスにしっかり意味が込められているので、主人公たちの生き様が舞台での表現に滲むどころか溢れ出す凄みがこちらに迫ってくるんです。これは、脚本、演出、撮影、その他美術や照明も含めた、小説では出せない映画にしかできない迫力であり、映画化の成果です。正真正銘の歌舞伎映画として、歌舞伎から逃げていないこともあっぱれです。同時に、僕みたいな歌舞伎の門外漢からすれば、歌舞伎のコンピレーションを味わえるのも嬉しかったですよ。そこは、あくまでハイライトですけどね。だから、これを機に本物の歌舞伎を観に行きたくなる人が出てくるのも頷けます。

©吉田修一朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会
キャストがこの作品にかけた情熱、意気込み、苦労、時間というのも称賛しておかねばなりません。吉沢亮横浜流星は見事の一言ですよ。美しかったです。同時に、美というものに自分の命を捧げる強さ、おぞましさ、傲慢さも伝わりました。渡辺謙も気品とやさしさと迫力がありました。そして、僕が凄みを感じたのは、田中泯です。女型の人間国宝を演じていました。登場する場面は決して多くないのに、喜久雄と俊介に与えた影響がいかほどのものだったか、言葉遣いと表情で伝えてみせるあの存在感たるや! 

©吉田修一朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会
なんて具合に絶賛しておりますし、まだまだいくらでも良かったところを挙げて話せます。今年の邦画を代表するヒット作にして傑作と言えるでしょう。ただ、僕には気になるところもありました。物語的に喜久雄と俊介に焦点を合わせたことで、たとえば例の少年喜久雄の兄貴分の人生や思いはバッサリ切られていますし、同じように刈り込まれたキャラクターは他にもいる。それは映画化の宿命だし、そこが気になるなら、小説という別の媒体で触れれば良いというのもわかります。ただし、僕は少なからず出てくる女性たちの、どう考えたってそれぞれに複雑な感情がオミットされているのは、こちらが複雑な気分でした。喜久雄や俊介が目指す美しさのためながら、あるいは血というものを維持するためなら、他のあらゆるものが犠牲になりかねないという醜さには、あと一歩ずずいと踏み込んでほしかった。家父長制、封建制シーラカンス的な極みとも言える世界において、女性たちはそれぞれの立場でそれぞれの多様な苦しみ悲しみがありました。そこに焦点を当てれば、もう一本別の映画になるくらいのモチーフだということは百も承知で、終盤、喜久雄にある女性が投げかける恨み節だけでは僕はかなりモヤモヤしたし、わだかまるものが残りました。伝統と人権というレベルの話でもあるので、間違っても男尊女卑の美化につながるような解釈を拒むような楔は打ってほしかったです。

©吉田修一朝日新聞出版 ©2025映画「国宝」製作委員会
とはいえ、映画そのものが現状の日本映画トップレベルの表現であることは疑いの余地なし! 李相日監督が映画館での上映にこだわったんです。あなたも映画館でご覧ください。
 
主題歌は、大阪出身、京都府在住の原摩利彦が手掛けていました。最後に歌詞のある歌が流れてくるんですが、作詞は坂本美雨。歌は井口理(さとる)が担当しました。Luminance

さ〜て、次回、7月21日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『スーパーマン』です。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』などで知られるジェームズ・ガン監督が、紆余曲折を経てマーヴェルからDCへ移籍して、あらゆるスーパーヒーローの原点とも言えるスーパーマンに取り組むなんて、これは前のめりにならざるをえません。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『フォーチュンクッキー』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 7月7日放送分
映画『フォーチュンクッキー』短評のDJ'sカット版です。

アメリカ、カリフォルニア州フリーモント。8か月前にアフガニスタンからやって来た移民の女性ドニヤは、中国系アメリカ人が経営する手作りのフォーチュンクッキー工場で働いています。母国の米軍基地で通訳として働いていた彼女は、そこでの経験や家族を置いてきた罪悪感から、不眠に悩まされています。アパートと工場を行き来する単調な毎日でしたが、ある出来事をきっかけにフォーチュンクッキーに入れるメッセージを考える仕事を任されたドニヤは、そこに自分の電話番号を忍ばせたところ…
 
監督・共同脚本・編集は、イランで生まれてイギリスで育ったババク・ジャラリ。これが日本初公開作ですが、長編はこれで4本目という僕と同い年の47歳。主人公ドニヤを演じたのは、実際にアフガニスタンからアメリカへと移住した経験を持つアナイタ・ワリ・ザダで、これが映画初出演です。他に、『アントマン』のグレッグ・ターキントンや、今年秋に日本でも公開となるブルース・スプリングスティーンの伝記映画でボスを演じているジェレミー・アレン・ホワイトなどが出演しています。
 
僕は先週金曜日の昼にアップリンク京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

あらすじには出てこないけれど、この映画を語るうえで決定的な要素を先に伝えておきましょう。全編モノクロです。色は付いていません。画面にあるのは光と影、白と黒、そのあわいだけです。まるで主人公ドニヤの生活がそうであるように。なんてことを言うと、かなりヘビーな映画に思えるかもしれません。アフガニスタンで辛い経験をして、アメリカへ移り住んだはいいけれど、単調な仕事に従事して眠ることもままならない一人暮らしの若い女性の話ですからね。ところが、観るのがキツい映画ではまったくないんです。それどころか、僕は観ている間に楽しむばかりか、その夜、ふっと夜中に目が覚めてから、不眠症を患っていたドニヤよろしく眠れなくなった僕はこの映画のことを思い出して、気に入ったシーンを反芻してひとしきり幸せな気持ちになり、よく眠れたくらいです。

 

なぜそんなことになるのか。深刻な状況に置かれた主人公の物語なのに。ここで監督の言葉を引用しましょう。この映画は「アフガニスタン出身の通訳がアメリカで築く新たな生活を描いていますが、文化適応の中で感じる不条理や疎外感は、ユーモアを通じても表現することができます。暗闇の中にもユーモアはあり、映画作家である私にとってこの明るさは常に重要な要素でした。厳しい状況にユーモアを見出すことで、物語の深みやリアリティを損なうどころか、むしろよりリアルに豊かなものになるのです」。そう、全編にわたって、ユーモラスなんですね。それは、映像や言葉のギャグがあるとか、作劇上の大きな仕掛けがあるとか、そういうことではありません。僕たちの暮らしが同じような日々の繰り返しであることと同じように、この映画も全体的に淡々としています。同じ場所、似たようなシチュエーションが繰り返されるんですが、そこには必ず何か違いが用意されていることに気づくと楽しいです。

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わりと会話がメインで物語を引っ張っていくんですが、たとえばドニヤと誰かがふたりで話しているところ。工場の同僚、睡眠薬を処方してもらうために訪れた精神科医、同郷の人たち。その会話が独特なんです。いちいちカットを割って発言者の顔を撮るんですが、カメラ目線に近い真正面の構図が多いんですね。そして、リアクションが互いにあまりありません。ほとんどいつも、無表情、仏頂面。弾んだ印象がまるでないんです。リズミカルじゃない。これを別の言い方をすれば、ビートに乗っていない、つまりはオフビートなんです。それが、そこはかとないユーモアを生んでいるので、観ていると、だんだんニヤニヤしてしまうんですよ。声を出して笑うのではなく、ジワジワひたひたと笑えてくるんです。これがたまりません。それから、たとえばドニヤが町を歩く様子を真横からカメラが同じスピードで寄り添って捉え続けるショットが挟まれます。こういった特徴を挙げれば、映画好きの方はジム・ジャームッシュの初期の作品たち、たとえば『パーマネント・バケーション』や『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を思い浮かべるかと思います。でも、単にジャームッシュのフォロワーとか真似にとどまらず、僕はその作風を継承しながら更新していると見ています。ドニヤという異邦人が感じている疎外感や罪悪感、自分はこれで良いのだろうかという漠たる不安というテーマを掬い上げるのにジャストフィットな手法なんですよ。テーマと手法の一致です。その結果、ユーモアと同様に希望や幸せな気持ちがジワジワと、だけど確実に僕たちの胸に届く作品でした。

 

© 2023 Fremont The Movie LLC
思い返せば、フォーチュンクッキーというモチーフがやっぱり良いんですよ。自分の作ったもの考えたことが、見ず知らずの誰かのところに届くわけですよね。食後にクッキーを食べる時、ちょっとだけ笑えたり、教訓めいたものを受け取ったり、占いみたいにそのメッセージから行動や意識を少し変えてみたりする。僕はラジオにも似ているなって思いましたよ。中国系の社長リッキーは、そのメッセージ作りにおいてこういった趣旨のアドバイスします。「美徳は中庸にあるんだ」って。幸先が良すぎても、悪すぎてもいけない。つまり、平凡なものに、少しだけ色のついたものであれば、それで良いのだということですね。

© 2023 Fremont The Movie LLC
アメリカというと、ニューヨーク、ワシントン、ロサンゼルス、サンフランシスコと大都会のイメージもあるし、アメリカン・ドリームというものも小説や映画、音楽でたくさん描かれてきました。でも、アメリカという広い土地には無数の郊外都市があって、そこでは人々の地道な営みがあるのが実情なわけです。そこにも立派な美徳があるじゃないかということでしょう。小さな恋があり、誰にだって平凡な幸せを希求する権利がある。今は小さな違いをあげつらうことで起こる分断が世界を覆っていますが、この映画はむしろ多様な人々の類似点を描きます。工場長がドニヤのデスクに地球儀を持ってきてそれをクルクル回す場面がありました。カメラはその回転をしつこいくらいにアップで見せ続けます。そして、工場長は語る。君の故郷のアフガニスタンは、僕の故郷の中国と国境を接しているんだよ。隣同士の国には似ているところもたくさんあるって言うんですよね。その時、カメラは高速で回転する地球儀を捉えているので、そこにある国や地域の境目は認識できません。あれは、僕たち人類には違いもたくさんあるけれど、同時に同じ要素もいっぱいあるんだという見事な映画表現になっていました。そんな似た者同士の営みを乗せて、地球は回っているんだということでしょう。

© 2023 Fremont The Movie LLC
ドニヤがカウンセリングを受けている精神科医が、ドニヤの仕事の話を聞いて、自分でもフォーチュンクッキーのメッセージを作ってみたと披露する場面があります。一枚の大きな紙をハサミで切って、そこに言葉を書いた小さな不揃いな紙をテーブルに並べていくんですが、ひとつひとつは同じじゃないんだけれど、並べられたものを精神科医の主観ショットで見せると、きれいな長方形になっていて、それは僕には社会のメタファーに見えました。その中から1枚取り上げた彼は、ドニヤに「こんなのはどう?」とメッセージを読み上げます。「港にいる船は安全だが、海に出なければ船ではない」。この言葉は、ドニヤの行動を促すことになります。

© 2023 Fremont The Movie LLC
この映画には、意地悪な人や困った人も出てはきますが、そういう人を悪しざまに言うことはしません。むしろ、そういう逆風や荒波の中でも人が自分の人生を謳歌できる可能性を描いています。ドニヤがフォーチュンクッキーに自分の電話番号と一緒に書いたメッセージは、Desperate for a dream.(夢に飢えている)。この夢というのは、決してアメリカン・ドリームのことではないんですよ。大文字の夢でなく、平凡な幸せのことだったと彼女自身がやがて気づくことが示唆されます。いろんな人との対話、コミュニケーションを通じて。これは、遠い国の移民を描いた作品でありながら、実はとても普遍的だし、その証拠に僕もしたたかに胸を打たれました。CIAO 765の名物コーナー「ケ・セラ・セラ」に僕が込めている思いに通じることが描かれていて嬉しくなりましたし、あのコーナーが好きな人は、きっとこの映画を気に入るはずです。
劇中であるキャラクターがカラオケで歌う曲が、またエンドロールでも聞こえてくるんですが。自然の美しさとそこに生きる人間の営みを歌ったこの曲が、主人公たちの現状とは違っているからこそ、しみるんです。

さ〜て、次回、7月14日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『国宝』です。ついに来ましたね。この夏の本命の一本という感じで公開から1ヶ月経っても大ヒット中ですよ。平日でも満席のところが多いなんて聞きますが、無事に鑑賞できるかしら。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

映画『リライト』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 6月30日放送分
映画『リライト』短評のDJ'sカット版です。

7月の始め、尾道の高校3年生、美雪たちのクラスに転校してきた保彦。彼は美雪に自分が300年後からやって来た未来人であることを打ち明けます。とある小説を読んで、300年前の尾道に憧れ、タイムリープしてきたというのです。秘密を共有したふたりは恋に落ち、7月21日、とある事件が起きたことをきっかけに、美雪は保彦からもらったカプセルを飲み、10年後の自分に会うためにタイムリープします。そこにいた10年後の美雪は、高校生の自分に、自分の書いたという小説を見せます。それは、300年後の未来で保彦が読むことになる小説でした。過去に戻った美雪は、保彦との自分の物語をいつか小説にして出版し、時間のループを完成させると約束して、保彦を300年後の未来へと見送ります。そして、10年後、20代後半になった美雪は、約束通り小説をものにして7月21日、高校生の自分がタイムリープして来るのを待つのですが、どれだけ待っても現れません。なぜ? 美雪の回りでは不可解なことが続々と起きるようになって…

リライト〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA) リライト〔映画ノベライズ〕 (ハヤカワ文庫JA)

法条遥の同名小説に惚れ込んだヨーロッパ企画上田誠が脚本を書き、ぜひ松居大悟に監督してほしいと指名して実現しました。高校生と20代後半の美雪を演じ分けたのは、池田エライザ。保彦には阿達慶が映画初出演で扮しました。他にも、橋本愛久保田紗友、倉悠貴、前田旺志郎、そして尾美としのりマキタスポーツ石田ひかりなども出演しています。
 
僕はメディア試写と先週木曜日の夕方にTOHOシネマズ梅田と2回鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

尾道で、タイムトラベルもので、主人公が女子高生で、未来から男の子がやってきて、なんなら、尾美としのりも出演している時点で、これはもう、大林宣彦監督の『時をかける少女』へのオマージュなわけですよね。これでもかと繰り出してきますよ。石田ひかりは、大林監督のこれまた尾道が舞台の『ふたり』に出たのがおそらく映画初出演にして初主演ですから、もうね、これはやりすぎと言いたくなるくらいの大林リスペクトなんですよ。もちろん、原作小説にもその要素は出てくるんだけれど、この映画はそれをさらに増幅しているんですね。なんなら、ラベンダーの香りも出てきます。僕が観てきたTOHOシネマズ梅田には実際に池田エライザや阿達慶が来た衣装が展示されているんですが、2009年が高校生活の舞台の割には、デザインがもっとレトロなものになっているんですよ。で、劇場に入る時に特典として受け取ったポストカードには、「少女は時を翔けた」っていう主人公美雪の書いた小説の表紙が掲載されているんですよ。しかも、このデザインも結構レトロ。僕はこう思いました。乗っかり過ぎだろうと。そして、映画が始まりました。タイトルが出るまでのアバンタイトルが20分ほどあるんですが、先ほど僕があらすじで喋ったことがその20分で展開されます。3週間の夏の恋。未来人との儚い時間。そして、タイムループを完成させるために必死で小説家を目指して、デビューして、何冊かものにした後にいよいよ保彦との約束の小説を出版するタイミング。見本も出来上がって、「良かった、間に合った」。後は、10年前の自分が血相を変えて2019年の7月21日の私に会いに来るのを待つだけ…

©2025『リライト』製作委員会
面白いんですけど、言葉を選ばずに言えば、話としては、それこそ『時をかける少女』のフォロワー的なものにしか感じられないし、なんか映像的にも、どこかでこの手の演出や画面づくりを見たことがあるっていう既視感のオンパレードなんです。僕はその頃には興味を失いかけていたんです。ところが、10年前の美雪は来ないんですよね。その瞬間にタイトルが出ます。『リライト』。そのタイトルの出し方がシンプルにして格好良かったんですよ。ちょっとゾクッと来ました。なるほど、ここまでの流れは松居大悟の「あえてのベタ」で、ここからが本番だったんです。徹底して「時かけ」っぽくしておいたのは、今作が実はその裏をかき、なんなら原作小説の世界観もひっくり返していくような映画オリジナルの展開を際立たせるためだったんです。それに気づいてからのジェットコースター的な面白さはすごかったですよ。でも、物語の構造や内容については、これ以上は話せないんです。ひとつだけ言うとするなら、主人公は確かに美雪ではあるのだけれど、見方を変えれば、主人公はたくさんいるってことぐらいかな。それぐらいの鮮やかな構造的転換がタイトルが出た後に起きてきて、中盤で想像を遥かに超える大転換が表面化します。でも、これ以上一歩でも踏み込むと、もうネタバレの領域に足を踏み入れることになりますから、ラジオではこれ以上は言えません。なので、ここでは松居大悟監督の演出面での巧みさと映画的な良さに言及しておきます。

©2025『リライト』製作委員会
脚本が仕上がった時点で、松居監督曰く、3時間半ぐらいの尺になっていたらしいんです。だから、どう考えたって削らないといけない。ひたすらに削る作業なんですが、実は付け加えた場所があるんですね。僕はそこにこそ映画としての魅力がよく出ているし、松居監督の作家性が発揮されていると見ています。たとえば、「これはどうやら想像もつかなかった事態が進行しているのかもしれない」と2019年の美雪が夜眠れずに実家の2階でタバコを吸っているシーン。夫の章介が美雪を心配して「眠れない?」って声をかけて、美雪が「そっち行っていい?」って聞く、何とも言えない艶っぽさが出ているところ。あそこは物語上、特に意味はないので省略できるんだけれど、監督はわざわざ足しています。でも、そこにこそ、かつての少女が約束を抱えて大人になって、必ずしも自分の思い通りにならない今という時を生きているという実感があるんですよ。これだけファンタジックな設定なんだけれど、ジュブナイルもののリアリティーが出ているんです。そして、章介のようなパートナーが美雪にとってどれほど大切な存在かということが最小限のセリフでわかります。そこからはもう、僕は章介が愛おしくてしょうがなくなりました。それは、クラスメイトの茂くんにしたってそうです。当初は、どこにでもいるクラスのまとめ役というぐらいにしか思えなかった茂が、後半ではとてつもなく抱きしめたくなる存在になります。そう、高校生の茂が実はクラスでいろいろ頑張っていたんだとわかるシーンがあるんですが、それを松居監督はワンカットの長回しで撮影することを選択しています。撮影の手間は圧倒的に増すはずですが、うまくいけば茂の頑張りがより強調されるから実行に移しているんです。

©2025『リライト』製作委員会
この作品は、時間というものが映画というメディアにとって根源的なテーマであることを見抜いて、それぞれの過去作で経験値を積み上げてきた上田誠と松居大悟が、互いの強みを活かしてまとめあげた一つの到達点です。タイムトラベルものの構造的な面白さをこれでもかと突き詰めながら、僕たちの現実の人生において時間が不可逆で取り返しがつかないものであることの切なさを描く青春の情感をたっぷり感じさせてくれる力作ですよ。大作話題作が目白押しの公開タイミングになってしまいましたが、僕は強く推しますし、久々に劇場で若い女性たちからおじさんまでがみんな声を出して笑っている雰囲気も含めて、今年屈指の映画体験となりました。
 
ちなみに、映画のパンフレットは、よくできているので購入をオススメしますが、鑑賞前にページを開いてはいけません。カバーが付いていますが、そのカバーすら剥がしてはいけません。そのままカバンに入れておいてください。
劇中で高校生たちはスピッツの『チェリー』を合唱するんです。これがとてつもなく良い効果をあげていました。歌詞もピッタリだもの。想像した以上に騒がしい未来が彼らを待っていました。この選曲もピッタリでしたが、ラジオではRin音の主題歌をお送りしました。映画を観た後、エンドロールで聞くと、あちこちでニヤリとする表現が散りばめられていて、お見事。

さ〜て、次回、7月7日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『フォーチュンクッキー』です。これ、映画館で予告編を観た時に一発で惚れちゃったんです。ジム・ジャームッシュの初期の雰囲気がたっぷり。でも、一本の映画でジャームッシュをリスペクトする以上の何かがあるのかどうなのか。確認してきますよ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『おばあちゃんと僕の約束』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 6月23日放送分
映画『おばあちゃんと僕の約束』短評のDJ'sカット版です。

タイのバンコク。主人公の青年エムは、大学を中退してゲーム実況のYouTuberを目指しつつも、ダラダラと母親と二人暮らしをしています。ある時、いとこで幼馴染の女の子が、介護をきっかけに祖父から豪邸を相続したことを知り、自分も楽して大金を手にしたいと考えるようになります。すると、母方の祖母メンジュがステージ4のガンに侵されていることが判明。エムは一人暮らしのメンジュに急接近するのですが…

バッド・ジーニアス 危険な天才たち(字幕版) プアン/友だちと呼ばせて(字幕版)

製作は、『バッド・ジーニアス 危険な天才たち』や『ハッピー・オールド・イヤー』『プアン/友だちと呼ばせて』など、タイのA24とも言われ、話題作・ヒット作を続々と生み出すスタジオGDHです。監督と共同脚本は、ドラマで経験を積んできた若手で35歳、これが長編デビューとなるパット・ブーンニティパット。主人公のエムを演じたのは、世界のあちこちで話題を呼んだBLドラマ『I Told Sunset About You 〜僕の愛を君の心で訳して〜』で大ブレイクし、歌手としても活躍するスター、ビルキンです。
 
僕は今作はメディア向け試写で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

僕はタイの映画事情に明るくないので今回調べてみましたが、今はスタジオGDHというところが肝なんですね。今年で10周年なんですが、GDHというのはGross Domestic Happinessの略で、「観客と従業員の幸せを最大化する」という目的を込めた言葉ということです。実際、タイでこの作品が公開された初日は、社員がそれぞれ愛する人と過ごせるようにと、休日にしたというエピソードが素敵。話題作、ヒット作を次々と打ち出していますが、実は製作本数は決して多くなく、ひとつひとつを丁寧に手がけているのがわかります。何より、最初に出る製作会社のジングルみたいな動画ロゴが、輪ゴムで挟んだ紙を回すと動き出すっていう、ソーマトロープと言われる映画のルーツを取り入れている時点で、こりゃそうとう映画好きというか、「わかってんな、この人たち」という感じがします。なので、今日はGDHというタイの映画会社の名前を覚えておくと良いと思います。A24みたいに、これが出てきたら、一定以上のクオリティは間違い無しの信頼の証っていう感じですね。

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この作品の企画は、脚本家のひとりトッサポンがお母さんと一緒におばあさんの介護をしていた経験が発端でした。結局、おばあさんからの遺産がお母さんにはほとんど無かったというエピソードがきっかけになっています。トッサポンさんがそれを16ページの原案にまとめたものを、今度はパット監督と一緒に家族観も含めて語り合いながら、2年ほどの時間をたっぷりかけて、さらには監督が自分のおばあさんと同居しながら脚本を仕上げていきました。

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ポスターやホームページのビジュアルを見ると、すごくヒューマンなあったかい懐かしい雰囲気があるんですけど、そんな単純で素朴なものではないんですよね。僕がこの前傑作だと言った『秋が来るとき』みたいに、現代人の毒っ気も描く油断のならなさがあります。ほんわかムービーだと想うなかれ。功利主義的な考え方を追求するあまり家族のつながりに支障をきたすような価値観があちこちに出てきます。要は金をめぐる話ですよ。楽して儲けたいみたいな奴が何人も出てくるし、そこに、男性優位な考え方であるとか、長男が上みたいな封建的なシステムも平気で顔を出します。主人公のエムだって、当初はろくなもんじゃないし、他に出てくる親戚どもも、特にちょっとだけ出てくるおばあちゃんメンジュの金持ちのお兄さんなんて、僕はもう画面越しにぶっ飛ばしてやろうかなと思ったくらい、腹の立つ野郎でした。さらに、ここがとても大事なんですけど、おばあちゃんメンジュがまたね、やさしい笑顔のおばあさんじゃないです。むしろ、何かと口うるさいし、結構イラッと来ることも言ってきます。つまり、すぐさま誰かに感情移入できるタイプの映画じゃないんです。でも、そこがリアルだし、頑なだった誰かの考えが変化した時に、その理由の描き方も含めて、より感動を生む仕掛けです。ただ、物語の流れとして、僕は結構ハラハラしていましたよ。もともとが遺産目当てで孫が祖母に急接近する話なわけでしょ。おばあちゃんと孫の絆が生まれたり強まったりしたとして、結局はそれはお金に還元されてしまうのだろうか。どこに物語的なゴールが設定されているのかわからないからです。これ、もし大金を手にしたとして、僕ら観客の多くはむしろモヤモヤすることになるんじゃなかろうか。そこにこそ、この作品が丁寧に練り上げた脚本の巧さが光っているんです。ぜひ、劇場で確かめてほしいところです。ちゃんと感動できる仕掛けがあります。

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続いて映像について触れておくと、ロケ地の選定がすばらしかったです。メンジュの家はタラート・プルー駅の界隈で、庶民が暮らす屋台も出るような昔ながらの下町なんですが、引きの画が入るとわかるんです。奥には高層ビル群が迫っているなと。電車も古いタイ国有鉄道と新しいバンコクスカイトレインという路線が混在しているんです。この新旧が交差する場所というのが、2世代離れたふたりの主人公の交流を象徴していました。他にも、家がいくつも出てきます。主人公エムの実家。エムのふたりいるおじさんそれぞれの家。エムにおばあちゃんの介護を進めたかわいいいとこの女の子の家。ひとつひとつ、とっても丁寧に作り込んでキャラクター像を補強するとともに、タイの社会のあり方を見せてくれる窓としても機能しています。

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そう、これって、広くアジア圏で通じる、いや、おそらくは西洋でも十分に通じる家族の物語でありながら、現代のタイをカルチャーを学べる映画にもなっていて、そこも僕にとっては大きなポイントでした。今作の登場人物は、ほとんどが中国系タイ人です。ざっと割合は人口の1割ほどでマイノリティらしいですが、タイ語と中国語と英語の関係とか興味深かったし、日本で言えばお盆にあたる清明節に親戚がお墓に集まる文化って、日本だと沖縄にあるなという共通点も見出だせて面白かったです。全体として大満足。スタジオGDHの仕事に外れなしです。尺が2時間を少しこぼれるのが少し冗長かなとは思っていて、どのシーンがっていうよりも、全体を少しずつキビキビ編集してネジをキュッと締めてほしいなとは思ったものの、あのおばあちゃんに演技経験ほぼゼロの俳優をキャスティングして演出し切る腕前は、35歳のパット監督、相当なものですよ。タイ映画に親しみがないという方、この作品を入口にしてみるのはどうでしょう。きっと想像以上にフィットしますよ。
なんたって主人公エムを演じたビルキンは歌手なので、主題歌もこうして歌ってみせます。これがまた滲みました。映画館で対訳の字幕とともにぜひ。

さ〜て、次回、6月30日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『リライト』です。監督が松居大悟で、脚本がヨーロッパ企画上田誠って、僕がいずれも高く評価しているおふたりじゃないですか。どちらも番組にお越しいただいていますが、ここに来ての初タッグ! しかも、主演は池田エライザ。面白そうじゃないですか。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『ミッション:インポッシブル/ファイナル・レコニング』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 6月16日放送分

前作『デッドレコニング』で世界の脅威とされていた「自我を持ったAI」であるエンティティは、あれよあれよと世界の支配を進め、煽動された人々がその目論見通りに動いている状況です。イーサン・ハントはエンティティを止めるために必要とされる鍵を前作の最後で手にしましたが、同じIMFの仲間ルーサーが作り出したデジタルデータの毒を使って事態の打開に乗り出そうとしていきます。

ミッション:インポッシブルデッドレコニング

共同製作・共同脚本・監督は、「ローグ・ネイション」以降、これで4作目の「ミッション:インポッシブル」となるクリストファー・マッカリー。イーサン・ハントを演じるトム・クルーズは、今回も製作に名を連ねています。他に、サイモン・ペッグヴィング・レイムスヘイリー・アトウェル、イーサイ・モラレス、ポム・クレメンティエフなどが出演しています。
 
僕は先週金曜日の朝にTOHOシネマズ二条でIMAX字幕版を鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

前作、といっても2部作の前編だった『デッドレコニング』を評したのが2年前の夏でした。それから2年弱の時間が流れたわけですが、その間に全米脚本家組合のストライキや撮影に使う潜水艦の故障もあって公開が遅れました。サブタイトルも変更になりました。苦難の連続ですよ。なおかつ、これは単純に2部作の後編ではなく、シリーズ7本を束ねる30年の集大成でもある8作目でもあるわけです。加えて、このシリーズでは、新作を発表するごとにこれまでの作品を特にアクション面で超えてほしいという観客の要望を過剰に受け止めるトム・クルーズの応答がベースにありますから、はっきり言って映画作りそのものがインポッシブルなミッションになっているところがあります。それを高いレベルで乗り越えて見せたトム・クルーズと、自らスタントマン顔負けのトレーニングを積んで撮影に付き添って演出した盟友クリストファー・マッカリー監督に、まず感謝の言葉を贈りたいです。映画の可能性を力ずくで押し広げてくれて、心からありがとう。そして、おつかれさまでした。無事に公開もされて大ヒットしているんで、しばらくは心身ともに休めてください。と思ったら、このコンビで「トップガン3」をもう進めているという話を耳にしまして、今作の鑑賞中に僕もついつい何度か口を開けて呆然としてしまいましたが、またしても口をあんぐり、目が点になってしまいました。

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トップガン」のタイトルが出ましたが、今作では太平洋に展開する米軍の空母にイーサンが下り立つシーンがあって、「ミッション:インポッシブル」だけでなく、「トップガン」までおさらいしてくるのかとクラクラきましたが、実際、前作からイーサンのチームに加わったドガというキャラクターを演じているグレッグ・ターザン・デイヴィスという前途洋々な俳優は『トップガン マーヴェリック』の撮影が終わってからトムが直々に出演オファーした人物でもあります。今まで誰も観たことがないものを作りたいというトム・クルーズの映画への情熱を実現するには、こうしたキャストも含めたスタッフと技術とアイデアを生み出す環境づくりも欠かせないわけで、トム・クルーズ本人がプロデューサーとしてそこにも気を配っているという超人的な状況です。

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今まで誰も観たことがないものをスクリーンに投影したい。このミッションが展開しているのは、ざっくりふたつのハイライトです。まずは、前作で手に入れた鍵を、よりによって前作の冒頭でベーリング海に沈んだ潜水艦の中に差し込みに行くという水中アクション。もうひとつは、すべてアナログな複葉機の飛行機に飛び乗って翼の上を歩いたり別の飛行機に飛び移ったりする空中アクションからの脱出劇。これらハイライトにおける大きな特徴は、ほぼ台詞がないことです。イーサンはその行動でもって自分の心持ちを表現してキャラクター造形をし、物語を推し進めるわけで、アクションが言語なんです。もっと言えば、映画言語になっている。不言実行の究極の形です。

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スパイ大作戦」をベースに始まったこのシリーズは、特殊能力を備えたチームによるミッション達成が基本であって、30年前からトムの孤軍奮闘が多すぎるという批判はありました。確かに、クライマックスはそうなることが多いのだけれど、今作でも顕著なように、ハイライトのお膳立て、セットアップの部分はむしろチームの戦力を総動員しているんですね。トム=イーサンの頑張りは、あくまで団体戦の末に用意されているとも言えるかと思います。特に本作においては、シリーズの集大成として、過去作のキャラクターを再起用するなど、物語においても、それを作り上げる体制においてもチームが大切なのであり、そのチームにおける信頼こそが何よりも重要だということが、ラストシーンでも強調されていました。

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前作を短評した時に、「物理的な鍵が鍵」って、どれだけ古典的なんだと僕は言っていて、今回の敵であるエンティティというAI、つまり実体のないものとどう対峙するのかが今作のポイントになってくるだろうと分析していました。僕はそのエンティティをめぐる一連の展開にも満足しましたよ。正直、理論的にはついていけないというか、理屈がよくわからないところはありましたけれども、エンティティが人間をフェイク情報で煽動して洗脳し、核保有国のセキュリティを次々と突破して支配下に置いて一斉に核ミサイルを起動して人類を破滅に向かわせるというシナリオにははっきりと恐怖を覚えましたし、細かいところまで今は触れませんが、間違いなく2020年代現在の世界を鋭く批評するものでした。劇中の黒人女性のアメリカ大統領が、もし現実のトランプ大統領だったらどうなるだろうかとすら考えさせられましたね。その上で、今作のメッセージを読み取るとするなら、それはものすごくシンプルなものですね。はっきりとイーサンが口に出していましたよ。しかも、今回はこれまで以上によく脱いでいたイーサンが極寒の海の中を進む潜水艦の中でパンツ一丁で叫んでいました。「インターネットの見すぎなんだよ!!!」。補足するなら、「なんでもデジタルやバーチャルで経験したような気になって、ネット上の情報を鵜呑みにしやがって。人間として、そんなことで良いのか! 自分の五感を大事にしろ。自分で動いて、自分で考えて、自分で体験しろ。映画もそうやって作ることで感動が生まれるんだ。今回だってどでかいプールを作ってそこに潜水艦を入れたんだぞ。本当に飛行機を飛ばしてスタッフも含めて乗ってるんだぞ。あの空のシーンだけで撮影に4ヶ月かけたんだ。そんな作品を配信されてから家で観ようなんてふざけるな。映画は映画館で観ろ!」という叫びだと僕は受け止めました。トム・クルーズがそうやってスクリーンに展開しているのは、彼が信じる映画というメディアの魅力そのものと言えるでしょう。
 
基本的にはあのテーマ曲も含め、オリジナルの劇伴が劇中の音楽を構成しているんですが、1曲、1935年、つまり90年前の映画『トップ・ハット』に書き下ろされた『頬よせて』が実にさりげなく挿入されているシーンがあります。気が付きました? これに気づくのがミッション・インポッシブルという気もするんですが、唯一の挿入歌がこれってのがなかなか粋だなと思います。

さ〜て、次回、6月23日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『おばあちゃんと僕の約束』です。タイの映画ですね。ぴあの華崎陽子さんが番組でも紹介してくれていたものでして、僕もかなり興味を惹かれていました。タイ映画では、3年前に『プアン/友だちと呼ばせて』を観て、そのレベルの高さに大興奮したことを思い出します。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『秋が来るとき』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 6月9日放送分
映画『秋が来るとき』短評のDJ'sカット版です。

80歳のミシェル。彼女は自然豊かなブルゴーニュ地方で一人暮らしをしています。家庭菜園をしたり、近所に住む親友と森の中を散策したり。あとは、休暇を利用してパリからやって来る孫に出会うのが楽しみ。今年も秋に娘が孫を連れて来たのですが、そこでミシェルが振る舞ったキノコ料理を引き金に、どうにも不穏な気配が漂い始めます。

スイミング・プール [シャーロット・ランプリング/リュディヴィーヌ・サニエ] [レンタル落ち] 私がやりました(字幕版)

監督・脚本は、『スイミング・プール』や『8人の女たち』のフランソワ・オゾン。主人公ミシェルを演じたのは、演劇を中心に映画界でも60年代から活躍しているエレーヌ・ヴァンサン。娘のヴァレリーには、かつてのオゾン組の常連で20年ぶりに参加することになったリュディヴィーヌ・サニエが扮しています。
 
僕は先週水曜日の夜にMOVIX京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

このコーナーでは、オゾン監督の前作『私がやりました』も扱いました。ほぼ毎年新作を発表していることに改めて感心しますし、どれも面白いんですよね。フランソワ・オゾンという名前があれば、とりあえず観るべしという領域に入ってきています。彼の作家性を、去年の段階で僕はこんな風にまとめました。犯罪をモチーフにしながら、人間の心理に切り込んで、虚構と現実、嘘と真を対比したりすり替えるのが巧み。今回はそこに「女性を描く」という重要な要素を付け加えておきます。パンフレットに載っていた映画ジャーナリスト立田敦子さんの文章が指摘するように、老いや喪失、性愛といったテーマを女性の声で語り続けている人なんですね。今回なんて80歳の一人暮らしの女性が主人公で、楽しみと言えば友達との散歩に孫が遊びに来ることって、普通なら企画の時点でお金が集まらないというか地味過ぎて映画になるのかっていう感じじゃないですか。それがオゾンの手にかかればこんな極上のミステリーになるんです。

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まず冒頭が大事です。ここではっきりと今作の主題が出てきます。教会でミサが行われていて、ミシェルは説教に耳を澄ませています。神父が語っているのは、マグダラのマリアについて。聖書において、彼女はキリストの死と復活に立ち会う人物で、罪深いとされる側面と聖なる側面が同居しています。「罪と許し」というテーマがここで打ち出されているんですね。そこからしばらくは、ミシェルの静かな暮らしが美しく画面に展開します。ブルゴーニュの豊かな里山の美しさ。そこに溶け込むふたりの女性の佇まい。それが一変させるのが、きのこです。きのこ狩りをしていると、親友のマリークロードが「それは絶対にダメ」と毒きのこの存在を指摘します。ミシェルは注意しながらバスケットいっぱいに収穫して家に帰ると、翌日にやって来る娘と孫に振る舞うために、念には念を入れて図鑑まで持ち出して、集めてきたきのこに毒がないかを確認します。ところが、事件が起きるんですね。きのこを食べたミシェルの娘が、食中毒で病院に運び込まれるんです。なぜ娘だけが毒にやられたのか。実はキノコ料理を食べたのが、彼女だけだったから。孫は嫌いなにんにくが入っていて食べなかった。では、なぜミシェルは食べなかったのか。食欲がなかったから? それとも、そこに毒が入っていることを知っていたから? 娘は一命を取り留めるものの、謎は謎のまま漂います。そして、娘はミシェルにこう言うんです。「私は母さんに殺されかけた」と。そして、孫を連れてパリへ帰ってしまいます。このきのこ事件でも、一応警察による事情聴取が行われるんですが、娘は助かっているし、彼女も母を告訴するようなことはなかったので、それ以上追求されることはなく、真相は藪の中。

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ただし、この後も事件は起きます。オゾン監督の語りが絶妙なのは、事件そのものは映さないこと。何か決定的な出来事そのものはいつもカメラで捉えないんです。監督が見せるのは、起きたことに対するキャラクターの反応。どんな目をしているのか。何を言うのか。どんな行動に出るのか。ミシェル、娘、孫、別居していた娘婿、親友のマリークロード、刑務所から出所したてのマリークロードの息子。そして、事件について調べる女性刑事。たったこれだけの必要最小限の登場人物を動かし、一度も中だるみすることのない削ぎ落としたシーン構成とそれを見事にはめ合わせる編集で、オゾン監督は「罪と許し」という命題を実に味わいたっぷりに深めていきます。人は誰もが何らかの罪の意識や後悔、後ろめたさ、嘘、秘密を抱えながら生きていく。そんな自分とどう向き合うのか。そんな誰かをどう受け止めるのか。自分、そして誰かをいつどう許すのか。オゾン監督は、僕たち観客にそんなことを投げかけます。

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これは事件の事実関係を究明するミステリーではなく、事実を人間がどう飲み込んで人生を編み上げていくのかという真実を巡る人間ドラマです。事実を巡る謎は謎のままで、たとえば刑務所から出てきた親友の息子がどんな罪を犯したのかなど、はっきり語られないことも多いのに、鑑賞後になんだかすっきりと感じられるのはそのためです。ミシェルの生き様から、潔さとか清々しさすら観客が覚えるからでしょう。そして、帰り道、今度はオゾン監督の投げかけを自分の胸で受け止めることになります。さすがは名匠フランソワ・オゾン。ポスターから想像されるような、愛らしいおばあちゃんたちのほんわかしたスローライフなんてないですよ。それこそ、ハードな毒を忍ばせた強烈な映画です。考えてみたら、今回の女性たちはみな、シングルマザーなんですよ。ミシェルも、その娘も、親友のマリークロードも、そしてあの刑事も。女性たちを描き続けるオゾン監督は、様々な理由から社会的に追い込まれた彼女たちに、それこそマグダラのマリアを重ね合わせているのかもしれません。映画を観ている時のゾクゾクする楽しさと鑑賞後の深く長い余韻。『秋が来るとき』は、はっきり傑作です。
 
劇中ではポップソングは1曲だけ、ダンスシーンで使われます。これがまた効果的です。単純に楽しそうに踊るBGMにするだけでなく、主人公ミシェルのしなやかな生き方をこの歌に込めていたんだと思います。フランソワーズ・ヴァレリー、「生きているうちに愛し合おう」という89年のナンバーをオンエアしました。

さ〜て、次回、6月16日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ミッション:インポッシブル ファイナル・レコニング』です。全6枠あるおみくじの割り当てを少しずつ増やし、先週は1/2の確率まで高めるという小細工をしていたにも関わらず当たらなかったってのに、今回は1枠に戻したらあっさり当たりました。映画の神に見透かされていたようです。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『サスカッチ・サンセット』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 6月2日放送分
映画『サスカッチ・サンセット』短評のDJ'sカット版です。

北米と思しき奥深い山の中で暮らす4頭のサスカッチ。ボスと思しきオスとつがいのメス、その子ども、そしてもうオスがもう1頭。食料を調達し、交尾をし、遊び、寝床を作って眠る。そうした営みを繰り返しながら季節を越え、あてどなく森から森へと移動する。

トレジャーハンター・クミコ [DVD]

製作、監督、脚本は、菊地凛子を主演に迎えた『トレジャーハンター・クミコ』など、アメリカのインディー映画で存在感を放ってきたデヴィッドとネイサンのゼルナー兄弟。ネイサンはボスのサスカッチとして出演もしています。また、正直ほとんど本人とはわかりませんが、ジェシー・アイゼンバーグやライリー・キーオも出演しています。また、製作総指揮は、『ミッドサマー』などのアリ・アスターが務めています。
 
僕は先週木曜日の夜にテアトル梅田で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

何から話せば良いのか困るっていうくらいに、不思議だし、戸惑うし、唖然とするし、笑えるし、なんだかわからんが心を動かされもしてしまうという、あまり類を見ない作品です。あれっぽい映画って有名な作品を挙げて説明するのが難しいので、順を追っていきますね。
 
まずジャンルですが、サスカッチという未確認生物UMAの生態を1年間つぶさに記録したドキュメンタリーの体をなしているフェイク・ドキュメンタリー、いわゆるモキュメンタリーということになります。サスカッチよりも、ビッグフットと呼ばれる方が多いとは思いますが、北アメリカ大陸の山の中に、やれ巨大な足跡を見つけたとか、60年代後半にはその姿が撮影された荒い画質のフィルムが出回って、日本のテレビでも紹介されたとか、要するにツチノコ的なものですね。監督のゼルナー兄弟は、そんな真偽のわからない映像に子どもの頃魅了されたそうで、世界中にいるUMAファン同様、その謎そのものという存在に夢中になっていきます。そして、調べてみると、雪男だとかなんだとか、世界のあちこちにサスカッチと似たような伝説があることにも気づく。実際、日本でもかつてオカルトブームがあったように、それこそ世界中でこうしたUMAを探し出したり捕獲したりするような物語や映画が作られはしています。ただし、いるかどうかもわからない妖怪的な、あるいは進化の過程でホモ・サピエンスと枝分かれした類人猿のような、そんな生態の検証どころか姿形も確かめようのない生き物をドキュメンタリーにするという発想がまずどうかしていますよね。

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ただ、このモキュメンタリーがまたさらにどうかしているというか、他に類を見ないのが、ナレーションがないこと。被写体が何しろ言葉を話さないので台詞がないこと。テロップもない。出てくるのは、4章構成の季節の文字だけ。映し出されるのは、お世辞にも美しいとは言い難い、スター・ウォーズのチューバッカのできそこないみたいな見かけのサルたちの暮らしです。そこに人間的な価値判断の入り込む余地がないくらいに、とにかく説明はありません。何も足さない。あるがままの自然主義的なアプローチで、語り手がいない神の視点のような構成にしてあるので、映画の中の世界がどうなっているのか、下手すりゃ、これ地球じゃないのかもしれないとすら思いますが、鹿とかアルマジロとか、蛇、カタツムリ、魚などなど、地球に現存する動物は出てくるので、地球なんだとわかる感じ。

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そして、次の疑問はこれです。ここに人間はいないのか。これはネタバレにはならないというか、この映画におけるネタバレとは一体何なのかもよくわかりませんが、人間はいます。というか、いるようです。いるはずです。なぜなら、人間の痕跡、人工物が出てくるから。監督たちが実際に参考にした、観客も思い浮かべる『2001年宇宙の旅』のプロローグでは、人類の進化の過程が表現されていました。そして、モノリスという人知を超えた黒い石板のようなものを発見しますね。そんな調子で、舗装道路であるとか、テントなどのアウトドア用品なんかを発見します。ラジカセや音楽にも接します。ただし、人間の姿というのは、劇中一度も出てきません。これが『サスカッチ・サンセット』最大の特徴にして仕掛けかもしれないです。普通は人間を出しますよね。人間そのものはあくまで不在なんです。となると、もはやサスカッチにとって人間がUMAであるかのような逆転構造が見え隠れするんです。サスカッチが驚いたり怯えたり恍惚としたりという様を僕たち人間が観察する。つまり、サスカッチを通して、僕たちは人間について考えることにもなってくるんですよ。

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彼らの暮らしは、むき出しの野生です。お腹が空けば、手当たり次第にむさぼり食うし、排泄して、交尾をする。その行動はどれも人間がするものだけれど、サスカッチのそれらは人間の僕らからすれば下品です。品がない。滑稽ですらあります。でも、猿そのものかと言えば、そうでもない。たとえば、星の数を数えようとする描写が出てきます。埋葬という行為もあるようです。棍棒で木を叩いて仲間を探すような行動、儀式のようなものもある。見ていると、不思議とサスカッチが愛おしくもなるんですよ。意味の押しつけはないのだけれど、僕たちは映画を観る習性として意味付けを行うんですよね。そこで浮かび上がってくるのは、人によって随分違うことでしょう。家族について、文明について、自然との関係について。そして、究極的には、いるかどうかもわからない、いない可能性のほうが高い伝説的な生き物をこんなにも夢中になって想像し、リアル過ぎる着ぐるみと特殊メイクを創造し、スター俳優がCG処理一切なしにヘトヘトになりながら過酷な撮影に臨んでいるというこの未知なるものへの人間の情熱についても考えますよ。

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結果として、これだけは保証します。忘れがたい映画体験です。観てしまえば、忘れることなんてできないしょう。「面白いよ」って誰にでも伝えて回るような映画ではないかもしれないけれど、これは病みつきになる人も一定数必ず出てくるカルト作です。映画が終わって、館内が明るくなって、僕のわりと近く鑑賞していた女性はグッズ売り場へ飛んでいってTシャツを買い求めていました。あれはきっと2度目3度目の鑑賞じゃないかしら。僕にはそこまでの熱気はないけれど、2025年に『サスカッチ・サンセット』を観たことは一生忘れないでしょう。僕は今静かに考えています。サスカッチにあの後サンライズは訪れるのだろうか。そして、人類は今サンセット、黄昏に向かっているのか。それとも、またサンライズは来るのだろうか。ぜひ、あなたも劇場でご覧ください。
 
この映画はノンバーバルでまるでサイレントのようでしたが、かつてのサイレント映画には映画館でミュージシャンが音楽を添えていたように、こちらにも音楽はあります。手がけたのは、テキサスの実験的なバンドThe Octopus Projectです。歌っているのは、メスのサスカッチを演じたライリー・キーオという主題歌The Creatures of Natureをオンエアしました。

 

さ〜て、次回、6月9日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『秋が来るとき』です。おかしいなぁ。来週はサンクス・ウィークでもあるし、リスナーもみんな観たいだろうからと『ミッション:インポッシブル』を6本中3本にしておみくじを引いたってのに、インポッシブルでした。でも、良いんだ。だって、フランソワ・オゾンの新作だもの。観よう、観ようぞ! さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!