京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

映画『白鳥とコウモリ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 9月14日放送分

映画『白鳥とコウモリ』短評のDJ'sカット版です。

周囲に慕われていた弁護士の白石健介がナイフで刺された殺人事件。捜査線上に浮かんだ容疑者の倉木達郎を問い詰めると、すんなりと自供したことで解決したはずでした。ところが、容疑者の息子和真と被害者の娘美令は、警察がまとめた事件資料に記された自分たちの父親の言動に違和感を覚えます。

白鳥とコウモリ(上)(下)巻セット

原作は、東野圭吾が自分のひとつの到達点だと自負した同名ミステリー小説。脚本は『ある男』で日本アカデミー賞最優秀脚本賞を受けた向井康介。監督は、『あゝ、荒野』『正欲』『サンセット・サンライズ』の岸善幸が務めました。容疑者の息子和真を松村北斗、被害者の娘美令を今田美桜、事件を追う刑事を柄本佑、容疑者倉田達郎を三浦友和が演じたほか、風吹ジュン、井川遥、吉田羊なども出演しています。
 
僕は先週水曜日の夕方、MOVIX京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

© 2026「白鳥とコウモリ」製作委員会
結論を先に言っておきますが、大人気作家の原作もの、なおかつ間口の広い娯楽大作として、という条件を付けつつですが、100点満点です。特に文句のつけようもないので、まだ観ていない方は、どうぞ劇場へお出かけください。そう断言したうえで、具体的に話しますね。
 
まず褒め称えておきたいのは、脚本です。文庫の上下巻で計700ページという原作、しかも、時代をまたいで複雑に入り組んだ人間関係を整理して映画的な再構成するのは骨の折れる仕事だったと思いますが、向井康介さんは適切なさばき方をしていると思います。

© 2026「白鳥とコウモリ」製作委員会
それでも2時間半という比較的長尺にはなっているのですが、観ていて途中でダレないどころか、グイグイ興味を持続させるストーリーラインは東野圭吾が健筆をふるった原作の面白さですね。
 
そして、岸監督の演出ですよ。思い返してみると、この作品ではド派手なスペクタクルシーンなんてないんです。場面はいつもかなり静かです。誰かが声を荒げることもほとんどありません。感情をぶちまけるのでなく、表情や言葉、行動ににじませるような演技は役者の腕が問われるところですが、キャストは監督の要請に応えて好演していました。

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 つまりは、実に堅実な映画化です。ミステリーですから謎解きの醍醐味も見せつつ、重厚な人間ドラマでもあるというバランスが取れていて、『砂の器』というタイトルがチラつくような手触りで、ホームドラマの松竹という感じもしました。そう言えば、劇中で捜査一課の刑事五代が名画座で映画を観ている場面がありましたね。作品が小津安二郎の『麦秋』でした。松竹映画への目配せということもあるのでしょうが、泣けるホームドラマの傑作で湿っぽくなっている映画館にあって、簡単には泣けない五代がいる。堅物で無個性な男に見える五代にも人情があることを見せたかったと、岸監督は雑誌スクリーンのオンライン版掲載のインタビューで語っています。後半では、居酒屋で映画館のチケットを渡して相棒の後輩に驚かれていましたね。「先輩、映画なんて行くんですね。意外でした」みたいな。後輩にも見せていなかった映画好きな側面というのは効果的でした。僕自身も、急に映画館の場面が入って面食らいましたからね。同時に、そうか、五代も休みの日にはクラシック映画なんて観に行っているんだという人間味を感じたものです。それは五代への感情移入を誘いながら、一度は解決した事件、つまり業務上もう関わる必要のない事件が忘れられないでいる彼の人柄を表してもいました。こういう細かいけれど的確な布石があるからこそ、五代がある見落としに気づく場面の演出が活きてきますよ。「あ! そういうことか!」とひらめいたところ。不自然なほど真横から捉えた柄本佑の顔。おでこを自分でパンと叩く。そのワンショットなんですよ。もっと歌舞いた演出もできたはずなんですが、それはしない。淡々と、抑制して、だけど「これぞ」という一手を打ってきます。

© 2026「白鳥とコウモリ」製作委員会
映画全体の構成としては、ふたつの軸が交差しています。ひとつは、現代に起きた弁護士殺人事件。もうひとつは、30年以上前の別の事件。ひとつめは、五代たちプロの刑事が追いかける。そこで過去の事件との関わりにはたどり着くけれど、ひとつめの事件は犯人の自供をもって解決しているわけで、それ以上は踏み込めない。そこから先は、素人探偵コンビがバトンを引き継ぎます。そのコンビというのが、ひとつめの殺人事件の被害者の娘と加害者の息子であるというのが、この物語の妙味ですよね。普通はそんなタッグはあり得ない。吉田羊演じる被害者の妻が毒づいていたように、加害者にもその家族にも憎しみの眼差しをぶつけそうなものです。ところが、ふたりとも、犯人の自供内容に些細な疑問を見つけたところから、葬り去られた過去の闇に光を当てることになります。蟻の一穴から、事実を調べて積み上げていくことで大きな過去がクリアに見えてくる醍醐味があります。加えて、人が過去を背負って生きることの重みとそこに込められた深い想いが味わい深いです。さらには、誰かの罪をその家族や血縁の中にまで押し広げて考えがちな社会への問題提起も鋭い。白鳥とコウモリというのは、いくつかの比喩が込められているのでしょうが、今田美桜と松村北斗のふたりのことだと受け止めるのが第一義でしょう。白鳥とコウモリ、まったく異なる種類が一緒に飛ぶ。手に手を取り合う。白と黒が混じり合うということですが、この物語においては、白と黒がオセロのように反転することも見せていましたよね。そう簡単に色分けできない人間の営みを表現したタイトルですが、松村北斗と今田美桜の衣装やふたりのいる空間の色にも配慮が行き届いていたことも思い出しておきたいです。こうした映画だからこそできる表現を意識しているからこそ、この作品は事件の真相がわかった後、つまりミステリーとしての謎が解けた後でも、見返したくなるし、見返すに値するものになっています。

© 2026「白鳥とコウモリ」製作委員会
2度目の鑑賞では、なぜ白石弁護士が映画の冒頭であの場所にいたのか、なぜそのさらに前のファーストシーンが30年以上前の出来事の描写だったのか、初見ではまず気付けないけれどよくよく練られた語り口が味わえる。よくできたミステリー映画というのは、そういうものです。

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強いて言えば、素人探偵コンビの恋愛要素には首を傾げたくはあります。でも、あのラストシーンにいたる、松村北斗演じる和真が自分の今後を決断するようなところがありますよね。あそこの、セリフはまったくなしで、彼の頭上をすっとモノレールが通り過ぎるだけで彼の心情の変化を示すようなスマートな映画ならではの表現が、僕のモヤモヤも晴らしてくれるものがありました。最後にもう一度言っておきます。今すぐ、映画館へどうぞ。
ミセスにしろ、ソロにしろ、映画主題歌でも引っ張りだこの大森元貴が書き下ろしたこの曲は、白鳥とコウモリの色、白と黒をイメージしつつ、人間や社会がそう簡単に割り切れないことを表現しています。

さ〜て、次回9月21日に評する作品を決めるべく、おみくじで僕が引き当てたのは、『オデュッセイア』です。当たった瞬間に、「どわ〜〜」って変な声が出てしまいました。なぜって、そりゃ、クリストファー・ノーラン監督というだけでも身構えるのに、さらにこの人類最古の物語とでも言うべき超大作ですからビビってのけぞったわけです。いやはや。でも、ごねてばかりもいられないので、IMAXの劇場をチェックするとします。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『ドラマなふたり』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 9月7日放送分

『ドラマなふたり』短評のDJ'sカット版です。

ボストンのカフェで出会ったチャーリーとエマは、交際と同棲を経て、結婚まで1週間。ウェディング・パーティーで司会をする付添人の親友夫婦と会場で打ち合わせを兼ねた食事をしていました。4人は、会話の弾みで、「それまでに自分がした最悪な行動」をそれぞれ告白することに。そこで話したエマの秘密にドン引きしてしまった3人。チャーリーはエマを見る目が変わり疑心暗鬼になる中、結婚式へのカウントダウンが始まります。

ドリーム・シナリオ

監督・脚本は、ノルウェー出身で『ドリーム・シナリオ』などを手掛けてきたクリストファー・ボルグリ。製作には『ミッドサマー』のアリ・アスター監督も名を連ねるスタジオA24の作品です。チャーリーを『THE BATMAN ザ・バットマン』のロバート・パティンソン、エマを『スパイダーマン』シリーズのゼンデイヤが演じる他、3人姉妹のバンドHAIMのアラナ・ハイムや、ヘイリーゲイツなどが出演しています。
 
僕は先週水曜日の放送終わりにTOHOシネマズなんばで鑑賞してきました。特にシネコンでの上映回数は少なめなんですが、いくら水曜で安い日だとは言え、平日の夕方に、かなりお客さんが入っていましたよ。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

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この映画から導き出される教訓のひとつは、秘密の暴露ゲームはしない方が良いってことです。ましてや、飲み会のトピックにすべきではない。結婚式を控えたタイミングなど、もってのほかです。この、僕に言わせれば「お前らやめとけ」っていう黒歴史開陳をした4人が、どうなってしまうかという思考実験のようなところのある作品です。「この出来事は墓場まで持っていく」なんて発言を時々耳にしますね。そのたとえに乗っかれば、これは、相互墓荒らしみたいな行為なわけです。なかなかに気まずく、人間関係に取り返しのつかないヒビを入れる可能性がある。

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「取り返しのつかない」と今言いましたが、一方で、人生においてやり直しはきかないのかという問題もあって、この映画はそれも重要なテーマになっているように感じます。というのも、エマとチャーリーは、劇中で何度か「やり直し」を試みるからです。冒頭、ロマンティック・コメディの演出で描かれる出会いのシーンにいきなりありました。カフェで本を読んでいたエマを見初めたチャーリーは、彼女に声をかけようとするんですが、いろいろあって不審者まがいの言動に陥るんです。でも、それをキュートにも感じたエマが、こう切り出します。「もう一度、頭からやり直してみる?」。映画の中でのテイク2の提案です。失敗したことを反省してやり直す。再出発する。映画の撮影現場においては当たり前にやっていることですが、人生においてもやったっていいじゃない。少なくとも、私は協力してあげる。恋の始まりですね。ここで触れておきたいのは、タイトルの『ドラマなふたり』。原題はもっとシンプルに”The Drama”です。これには劇、戯曲という意味がまずありますね。初っ端から、「出会いをやり直す」ふたり。最初はとっさの思いつきの即興劇だったものが、二度目からは脚本が共有されて、ふたりはそれぞれに理想の自分を演じるようになる。これはドラマですね。さらに、英語のドラマには、日本語にすれば修羅場に相当するような揉め事やいざこざ、大騒ぎという意味もあります。これから展開する修羅場としてのドラマが、自分を演じる、あるいは良く見せようとするドラマ的テイク2から始まるという周到に計算されて、これは褒め言葉として悪趣味な始まりでした。

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もうひとつ、この出だしに全体を貫くテーマにつながるモチーフがありました。それは、エマの片耳が難聴であること。なぜなのか。先天的なのか後天的なのか、その理由はやがて明かされることになりますが、聴こえる耳と聴こえない耳があるということはメタファーとしても機能します。愛している人や親しい友の秘密を耳にするか否かというこの物語のシンボルになるわけです。

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ボルグリ監督は、1週間という劇中の時間の中で、初日から適切なコマを最も効果的なところに配置しながら、エマとチャーリーをどんどん詰んだ状態に追い詰めていきます。当初同じフレームにいたふたりは、徐々に引き離されるカメラワーク。現在という時間の中に、葬りたい過去の自分がフラッシュバックし、これから起こりうる避けたい自分の姿がフラッシュフォワードする編集術。いやはや、すごいです。僕も式当日にいたって、あまりの気まずさに悶絶しました。それと同時に、監督がノルウェー出身であることも、日本でこの作品を観る僕にとっては重要だと感じます。エマの秘密=黒歴史が、アメリカ社会の批評としても機能するからです。ここは僕たちにしてみればカルチャーショックにあたる部分で、持ち帰るべき課題となります。

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そして、監督の恋愛詰将棋が、あまりにもいろいろありすぎて僕たちが忘れていた伏線を回収する形で収斂するラストシーンも忘れがたい。人生において、再出発は可能なのかと観客に突きつけるんですね。ここを希望と取るか、新たな地獄の始まりと解釈するかは観客しだい。それも含めて、賛否が大いに分かれる作品だと思いますが、ジェットコースター型のロマンティック・トラジコメディ(=悲喜劇)として、僕は大いに楽しみました。今年公開作だけで3本もタッグを組んでいるゼンデイヤとロバート・パティンソンという今まさに旬のふたりの演技合戦は眼福です。ひとりで観るのが最適ですが、鑑賞後に誰かと話し合いたくなります。ただし、間違っても、話し相手の過去の秘密を遊び半分で聞き出す耳は持たないようにと注意喚起しておきます。
劇中で流れる歌の中でも知名度があるので気づきやすいAlicia Keysのナンバー。既に気まずくなって相手に対して疑心暗鬼な状態で、結婚式で写真を撮ってくれるカメラマンと打合せ。そこで笑顔を取り繕っているところに流れてきます。その意味では、Try Smiling with a Broken Heartという選曲でした。

さ〜て、次回9月14日に評する作品を決めるべく、おみくじで僕が引き当てたのは、『白鳥とコウモリ』です。7月に他界してしまった東野圭吾が自信作だとしていた同名小説の映画化。東野氏は、映像化された作品の数が日本でも屈指の作家だっただけに、今作ではどんな演出となるのか、興味を惹かれます。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 8月31日放送分

前作『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』で、世界中の人々から自分の存在の記憶を消してしまうことと引き換えに、愛する人たちを守ることを選んだピーター・パーカー。あれから4年。恋人だったMJも親友のネッドも、いや、誰も自分の素性を知らないニューヨークで孤独な日々を過ごしながら、それでもスパイダーマンとして犯罪に対処し、犯罪発生率も低く推移していました。そんな中、街では不可解な事件が次々と発生し、ピーターの身体には遺伝子レベルの異変が起きます。

 

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム シャン・チー /テン・リングスの伝説 (字幕版)

 トム・ホランドが主演するシリーズ4作目になって、監督はこれまでのジョン・ワッツから『シャン・チー テン・リングスの伝説』のデスティン・ダニエル・クレットンに変更となりました。一方、脚本はクリス・マッケナ、エリック・ソマーズのコンビが続投しています。トム・ホランドの他に、プライベートでパートナーになったゼンデイヤがMJ、ジェイコブ・バタロンがネッドを引き続き演じ、ゲストと言えるキャラクターのパニッシャーにジョン・バーンサル、ハルクにマーク・ラファロが扮している他、意外なゲストキャラも登場します。

 
僕は先週水曜日、MOVIX京都のDolbyシネマで字幕版を鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。
トム・ホランドが主演して2017年に始まった、タイトルに「ホーム」が入る3部作は評価が高かったけれど、タイトル通り新たな始まりとなる今作は輪をかけての高評価なうえに、国内の観客動員は300万人を突破し、アメリカではあの『タイタニック』を超えようかという人気も獲得しています。とはいえ、マーベル・シネマティック・ユニバース、MCUの作品としてはこれで38作目ということになっていまして、すべてを追いかけるのは相当に大変なことになっているのも事実ですね。かく言う僕も、こうしたスーパーヒーロー映画にはもう疲れたところがありまして、正直、もういいかなと距離を置いています。ただし、この「ブランド・ニュー・デイ」に関しては、前作からの律儀なほどの続編でありながら、10代だったピーター・パーカーが大人になる仕切り直しということもあり、誰でもわりとすんなり入っていける作りにしてあり、確かに面白いので僕みたいなMCUぼんやり組にもオススメできますよ。

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序盤、すごくテンポが良いんですね。かつての親友や恋人が離れた街で充実したキャンパスライフを送る様子をSNSでチェックするピーター。そこに自分はいない。彼は誰一人自分のことを知らない大都会ニューヨークで、前作で失った最愛のメイおばさんの墓参りを定期的にしながら、女性警部と仕事上のつきあいで連携しつつ、かなりストイックに孤高の自警活動に従事しています。このあたりは、マーヴェルのロゴが出るところの編集から始まり、最小限の会話と、ますます演技力の上がったトム・ホランドの演技、ゲームの影響も垣間見える没入感あふれる画面構成によるアクションのみで、グイグイと彼の孤独と前作からの4年のあり様と現状を描写していきます。いろいろと敵キャラが出てきますが、マーヴェルに詳しい人は「ここであいつが出てきたか」みたいな楽しみ方もできますが、別にそれを知らないからといって物語の理解が妨げられることはないのでご安心を。なんなら、ユニバースのどこを探しても見つからないような過去の因縁みたいなものにも言及があるくらいで、「こういう奴がいるんだな」とか「なんかあったんだろうな」ぐらいで結構という構成にしてあります。

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このあたり、ピーター特有の茶目っ気やユーモアセンスが救いではあるけれど、対話するのはAIのみといった感じで、素顔の生身のピーターがいかに孤独な存在であるかがひしひしと伝わってきます。それは人間性が精神がじわじわ蝕まれてくるのもしょうがない。回りにいくらでも人がいるのに誰とも本当には繋がれない純然たる匿名性は、都市生活者の孤独や現代社会のSNSの匿名性ともつながるテーマも透けて見えます。そこで起きてくるのが、ピーターの身体的な変化。単純に言えば、自分の中に宿る蜘蛛の遺伝子の力が増大して膨張してコントロールできなくなっていくんですね。スパイダーマン=ピーター・パーカーのピーターの要素がどんどん縮小してしまうわけです。その原因を探るピーターが蜘蛛の脱皮の様子を動画で見て「気持ち悪いからやめてくれ」とAIに指示するところがありました。そこで自分の蜘蛛性とでも言うべき能力やホルモンバランスを制御できないかと考えて、大学で物理学を教えるハルクに学生のふりをして助言を求めに行くんですね。今回のハルクは、自分の中の能力、彼の場合はモンスター性を制御しきれない頃に戻っているのがユニバースの時制としては整合性に欠けるような気もしますが、ピーターの陥った人間性が薄くなる変身の危機という状況とは合致します。そして、今回のメイン・ヴィランであるキャラクター(ここではどのキャラクターかということは伏せておきます)も、同じく能力を制御できない人物なんですよね。ここで登場するのが、「大いなる力には大いなる責任がともなう」という、今は亡きメイおばさんの言葉です。

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ストイックに自分を追い詰めて押し殺してたったひとりでニューヨークの治安を背負えるような気になっていたピーター。でも、実は孤独に苛まれ、力を研ぎ澄ませた結果、自分の力をコントロールできなくなり、行動に責任が取れないところまでいってしまう。そもそも、一人で背負うなんて無理で、それは誰かと分け合うものだろうってことに気づくことが大きなテーマであることが浮かび上がってきます。

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スパイダーマンは、摩天楼にスパイダーウェブを貼り付けて移動していくわけですけど、言わば、あの蜘蛛の糸が人間関係のネットワークにはなっていなかったことを痛感するんですよね。孤独だった。そこで人間関係の糸を再構築していくのがヴィランとの対決の裏にあるテーマであり、そのテーマを見据えて行動していたからこそ、対決の後のドラマが充実していくことになります。普通ならエピローグになる部分に今作は結構な尺が用意されているんですけど、ありていに言えば、人間通しの顔の見えるつきあいをすることの重要性に気づく。マスクなしのピーター・パーカーとしても誰かと付き合いを深めることが、生きる喜びであり、精神衛生的にも良いとわかる。ピーターが素顔で誰かと対面したり、誰かの名前を覚えて気遣うようなことが増えるのはそのためでしょう。だって、みんな大好きスパイダーマンはニューヨークの「親愛なる隣人」であるはず。そうであるべき。後半はエンドクレジットも含めて、名も無き市民たちの顔も背景や書割ではなくそこに暮らす人間として前景化していました。そこが感動的だし、ヒーロー映画の真っ当な姿だし、もはや大人になったスパイダーマン、そしてピーター・パーカーのブランド・ニュー・デイなんだという、会心の出来栄えです。
 
スパイダーマンは、やっぱりニューヨークのヒーロー、市民の親愛なる隣人だと伝わるようなエンドクレジットに合わせて、こんな歌が流れます。

さ〜て、次回9月7日に評する作品を決めるべく、おみくじで僕が引き当てたのは、『ドラマなふたり』です。2週連続のゼンデイヤ出演作ということになりますね。こちらは、ラブコメディーということになっていますが、A24の作品ですからストレートに甘いわけもなく、相当に苦い、気まずい作品なのは間違いなし。ひとり映画館で苦みに身悶えしてこようと思います。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

実写映画『モアナと伝説の海』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 8月24日放送分

実写映画『モアナと伝説の海』短評のDJ'sカット版です。

南の海の楽園の島モトゥヌイ。16歳の少女モアナが幼い頃から海に愛される特別な存在だと悟っていたいた祖母のタラは、島に伝わる伝説を話して聞かせます。それは、英雄のマウイが命の女神テ・フィティの心とされる石を盗んだことで世界に闇が広がったというもの。これまで豊かだった島の異変を食い止めるべく、モアナは危険とされるサンゴ礁のはるか向こう、大海原へと英雄マウイを探す旅に出ます。

モアナと伝説の海 (字幕版) モアナと伝説の海2

 2016年の同名ディズニー・アニメを「実写映画」化した本作。モアナは、オーストラリア出身の19歳、キャサリン・ラガアイアが演じました。これが映画デビューです。マウイに扮したのは、アニメ版でも同じ役の声優を務めたドウェイン・ジョンソン。サモア系の俳優としてこの物語に愛着を持っていて、製作も担当しています。メガホンを取ったのは、長編デビューとなるトーマス・カイルです。

 
僕は先週水曜日、TOHOシネマズ二条で吹替版を鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

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なんだかモアナとは縁がありまして、アニメ2作、どちらもラジオで短評しているので、これで3回目です。なおかつ、今作はアニメ1作目をかなり忠実に実写映画化しているので、僕としてはラジオでこの話2回目という状況です。アニメの1、そして今回の物語においてユニークで僕も評価していた点がいくつかあったので振り返っておきます。
 
モアナは、村長(むらおさ)の娘でいわゆるディズニー・プリンセスで16歳という思春期の女の子なんだけれど、お話に恋愛要素が入らないこと。多様性を重視する今世紀のディズニーらしく、西洋の伝統的な物語ではなく、世界あちこちの神話や昔話、さらには民族学的な視点を反映した、ポリネシア文化、特にサモアの文化を描いていること。そして、海や島がまるでそれ自体生き物であるかのような動きを見せる物語なので、それをアニメ表現としてチャレンジングに見せていること。ざっくりこの3点がとても斬新だったんです。過去の短評でも、僕はこうした論点を挙げてラジオでお話していました。気になるところ、ツッコみたくなるところもあったけれど、概ね面白がって鑑賞しましたし、特にアニメの1については、それなりに高く評価したつもりです。詳しくは、いずれも京都ドーナッツクラブのブログにアーカイブが残っているので、興味のある方は読んでいただければと思います。

ライオン・キング (字幕版) 美女と野獣 (字幕版)

 一方で、ディズニー・アニメの実写映画化についても、『白雪姫』や『リトル・マーメイド』『ライオン・キング』『美女と野獣』『アラジン』などをラジオで扱ってきました。実写映画化が多い理由についても、その都度話してきたつもりです。なぜ、こんなに実写にするのか。理由はふたつあるだろう、と。ひとつは内向きのものになりますが、興行的なリスクが低いこと。誰もが知っている作品で、オリジナルの話を一から宣伝することを思えば、タイトルだけでおおよその雰囲気が理解されるような実写映画化はおいしいわけです。人気漫画や小説の映画化と同じですね。もうひとつは、アニメ版が世に出てから時間が経って、人々の価値観は当然変化しているわけなので、古くなっているところに現代的な修正・補正を施して語り直すということ。たとえば、今だったら差別的に感じる部分や古臭く感じる笑いや演出をアップデートすることで、親子で安心して観られるものにできますよね。

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ここまで、アニメ版のモアナの特徴と、ディズニーの一連の実写映画化について、かなり大雑把ですが、まとめました。やっと本題です。では、実写映画『モアナと伝説の海』はどうだったのか。身も蓋もない表現をしてしまうと、「時期尚早」だったというのが僕の見解です。面白くないとは思いません。話は面白いです。でも、観ていて既視感ありまくりだったんですよ。だって、オリジナルがたった10年前なんですもの。他の一連の実写化は、数十年、ものによっては半世紀以上も前のアニメがオリジナルだから、実写化の意義が強くあったんですが、10年前のものはさすがによく覚えているし、今回の実写化で刷新された要素は特に見当たらないです。だって、価値観が大きく変化したとは言えないから。そして、「実写」と言ってますが、この神話的な物語の場合、ほとんどの場面でCGが使われているので、結局はアニメっぽくなっちゃうんです。アニメでドウェイン・ジョンソンが声を担当していたマウイは、魔法の釣り針を使って昆虫からクジラまで、自在にその姿を変えることができるキャラクターですが、そんなの本当の実写でできるわけがないので、全部CGです。マウイの身体にはサモアの伝統文化であるタトゥーがたくさん入っていて、その中の人の形をしたタトゥーが、ひとりでに動き出して時にマウイにツッコミを入れるという面白い設定があるのですが、これも実写ではCGでやるしかない。しかも、CGの技術もこの10年で誰もがあっと驚くような変化があったかと言えば、そうでもないですよね。じゃあ、オリジナルのアニメで良いんじゃないかと感じてしまう観客が出てくるのはしょうがないですよね。

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もちろん、今回モアナに扮したランガイアさんとドウェイン・ジョンソンのやり取りは面白いし、実写化した利点ではあるんだけど、それをじっくり観られる場面は少ないです。監督はポリネシア文化をしっかり調べて小道具や衣装を作り込んでいるし、それは見どころなんだけど、物語の見せ場は大きなアクションであり、それはアニメ的な表現になるので、結局CGになってしまうのがなんだかなぁというところ。
 
『モアナと伝説の海』に初めて接する人にはおすすめできるけれども、オリジナルを観ている人にとっては、既視感が支配してしまうという意味で、僕はやはり「時期尚早」だったように感じてしまいました。
サウンド・トラックから、今回新たに加わったナンバーを聞いていただきましょう。モアナを演じるキャサリン・ランガイア、半神半⼈のマウイ役ドウェイン・ジョンソン、 アニメ版でモアナの声を担当したアウリィ・カルバーリョによるコラボです。

さ〜て、次回8月31日に評する作品を決めるべく、おみくじで僕が引き当てたのは、『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』です。トム・ホランドが主演するシリーズも、これで4本目にして、最高傑作という評価も出るほど、世界中で大ヒットとなっていますね。僕がラジオで短評するのは、前作をやってないので、これで3本目かな。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

夏の過ごし方:Today's View

野村雅夫の番組、FM COCOLO CIAO 765(月ー木、11ー15時)の名物コーナー、Today's View。13時頭から、日替わりで各界のブレーンがコラムを寄せてくれるものですが、その月曜日を京都ドーナッツクラブが担当しています。今回は、セサミあゆみによる夏の過ごし方のレポートです。


この夏も、ヨーロッパの酷暑が話題になりました。フランスやスペインの地名をニュースでよく聞いたように思いますが、イタリアも暑かった。緯度でいえば、ローマは日本の函館ぐらいに当たります。緯度だけを考えると、もう少し涼しそうなものですが、海流などの影響もあって、実際には緯度から想像するよりも暖かいのです。

それにしても、この夏は40℃を超える地点も続出。しかも、それは必ずしも南イタリアだけではありません。中部や北イタリアでも、40℃を超える気温が観測されています。

 

イタリアのラジオを聞いていると、そんな酷暑のニュースに「いちばん涼しい夏」とタイトルがつけられていることがありました。どういうこと? –––実はこれは皮肉たっぷりのイタリアンジョーク。来年、再来年と、これからの夏はさらに暑くなるだろう。だから、この先、今年の夏が「いちばん涼しい夏」になるだろうという内容でした。

 

さて、暑いイタリアでも、以前と比べると、だいぶエアコンが普及してきたのではないかと思いますが、それでも日本ほど一般的ではありません。

私がイタリアの「爪先」にあたる、南部の丘の上の町にお邪魔していた夏のこと。そこは標高が600mほどあったので、日中は暑くなるものの、湿度が低く、朝晩は涼しいところでした。そこのホームステイ先では、朝と夕に窓を開け放ち、涼しい外の空気を家の中に取り入れていました。そして、太陽が痛いほど照り付ける日中になると、今度は窓を閉めるのです。日本でいうところの雨戸のような、鎧戸もしっかり閉めてしまいます。そうして外の熱が入って、室内の温度が上がるのを防ぐのです。家が石造りなのもあって、こうしておけば、室内の気温はそう上がりません。もちろん、湿度も温度も高い低地の町であれば、イタリア国内でも同じ方法が通用する訳ではないでしょう。それでも、日本とは違う風土や建築を生かした暮らしの知恵を面白く感じました。

もうひとつ、イタリアの酷暑というと思い出すのが、ルームシェアをしていたお姉さんたちのことです。大学の町・ボローニャで、少しの間だけルームシェアのアパートに滞在した夏のこと。そこにはやはり、エアコンなどはなく、とにかく暑かったと記憶しています。確か、少し年上の二人の女性とのルームシェアでした。彼女らは仕事で留守にしていることが多かったのですが、たまにアパートで顔を合わせると、彼女たちが着ているのは、なんと水着。ラッシュガードとかではありません。ビキニですよ。女性だけのシェアアパートだったというのもあるのでしょうが、日本と比べて露出の高い服を着ることが比較的普通なイタリアとはいえ、初見の時はなかなかの衝撃を受けました。

 

そして、イタリアの夏といえば、夏休み。バカンスです。学校では、6月の学年末試験が終わってから、9月中旬に新年度が始まるまで、長い夏休みがあります。働いている人も、以前は1か月程度休みを取るのが一般的だと聞いていたと思いますが、今はそこまで長い休みを取る人ばかりではないようです。とはいえ、10日程度の休みを取って、イタリア国内の海辺の町へ海水浴に出掛けるのが今での人気の過ごし方らしく、また、酷暑の影響で、山の避暑地の人気も高まっているそうです。少数派ではありますが、もちろん海外へ遊びに行く人もいます。

 

けれど、海辺の宿泊施設は7・8月はハイシーズンで、料金も高くなります。それに加えてこの酷暑。そういうわけで、7・8月を外して、9月にバカンスに出掛ける人も増えているそうです。誰もが長い休みを取って、海でゆったり過ごす。そんなイタリアの夏のイメージも変わりつつあるようです。

『トイ・ストーリー5』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 8月17日放送分

映画『トイ・ストーリー5』短評のDJ'sカット版です。

3で高校生になったアンディからおもちゃを譲り受けた少女ボニー。4では、カウボーイ人形のウッディが持ち主を失ったおもちゃたちを助けるためにボニーのもとを去りました。今作では、ボニーの部屋でカウガール人形のジェシーがリーダーとなり、スペースレンジャーのバズ・ライトイヤーがその副官を務めています。ボニーは8歳。子どもは誰もが持っているというタブレットを両親におねだりし、カエルのような外見のリリーパッドをゲット。チャットやゲーム、動画など、最新機能に夢中になるボニー。アナログなおもちゃはもう必要とされていないのかという不安がジェシーたちを襲います。
監督・脚本は、『ファインディング・ニモ』と『ウォーリー』でアカデミー賞長編アニメ映画賞を2度も受賞し、『トイ・ストーリー』シリーズの原案や脚本などですべて関わってきたアンドリュー・スタントン。そこへ、『あの夏のルカ』や『インサイド・ヘッド2』にストーリーボードなどで関わってきたケナ・ハリスが共同ではありますが初監督・脚本という形で参加しています。声優陣は、トム・ハンクス、ディム・アレン、日本だと唐沢寿明、所ジョージなど、おなじみのキャストに加え、今回キーとなるタブレットのリリーパッドには、グレタ・リー、日本語版では広瀬アリスが声を担当しています。
 
日本では7月3日に公開されて先週の時点で国内興行収入110億円を突破。これは、シリーズ歴代最高の数字となる大ヒットを記録しています。僕は先週火曜日、山の日の昼、家族連れでごった返すTOHOシネマズ二条で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

(C) 2026 Disney / Pixar. All Rights Reserved.
数ヶ月前に予告編を観た時点で、タブレットが登場することを知った僕は、「こりゃ、いよいよおもちゃたちもヤバいぞ」っ思いつつ、こんな強敵を相手にいったいどうするっていうんだと、ワクワクもしていました。「トイ・ストーリー」というシリーズは、おもちゃを擬人化することで、あくまで間接的に、つまりはマイルドに、「僕たちにとって居場所とは?」という問いをかなり真剣に突き詰めてきたんだと思います。誰かの役に立つこと、一緒に楽しむこと、そしていつか何らかの形で離れ離れになりうるのだということ、直接描けば、ヘビーなヒューマンドラマになりそうなことを、あくまで愉快なエンターテイメントとしてユニークなキャラクターたちを主軸に据えることで、30年前からピクサーの金看板であり続けてきました。前作の4にいたっては、人間との関係を前提に基本的にはパッシブでいたおもちゃたちが、自分たちの意志で居場所や幸せを掴み取るところまでいきました。まぁ、正直、荒唐無稽な展開ではあったけれども、あくまで「擬人化したおもちゃ」の話であるわけで、三部作として見事な終わり方だった3からのツイストとして、僕は面白く受け止めていました。

(C) 2026 Disney / Pixar. All Rights Reserved.
それが今作では、居場所というテーマがさらに突き詰められた結果、自分たちの存在理由が問われるところまでいっています。なぜ存在が脅かされるかと言えば、タブレットが出てくるからですね。そりゃ、これまでもゲームだなんだの登場で、シンプルなアナログのおもちゃが危機に瀕してきたことはあったはずですが、タブレットというのは、スマホ同様、多目的なデバイスなので、ゲームも動画もSNSもできちゃうわけだから、おもちゃにしてみれば、これまでとは段違いの脅威になるわけです。現実もそうですよね。デジタルネイティブ世代がさらに進み、幼少期からタブレットを駆使する子どもたちの姿はよく見かけます。実際、劇中でもボニーの友達はみなタブレットばかり。小学校低学年でも、グループチャットで会話している状態です。おもちゃには悪いが、こりゃ興味深い。序盤から、そう思っていました。おもちゃの存在意義とは?

(C) 2026 Disney / Pixar. All Rights Reserved.
ところが、と言いますか、これはリリーパッドが単純に悪役という物語ではないんですね。登場から中盤くらいまで、いけ好かないし、既存のおもちゃにしてみれば食えない奴というムードはあるんですが、リリーパッドをどこかに追いやればOKという単純なものではないです。考えてみれば、天下のピクサーが「デジタルって、子どもに悪影響ですよね」みたいな毒にも薬にもならないような二元論に陥るはずがない。現実に、タブレットでディズニープラスを観ている子どもたちもいますしね。なので、中盤からはリリーパッドも広く言えばおもちゃの一種だというポジションにシフトしていきます。

(C) 2026 Disney / Pixar. All Rights Reserved.
では、物語の推進力は何かと問われれば、一人っ子でアナログのおもちゃ好きであるがゆえに、デジタルデバイス片手に大人の真似をするような子どもたちと渡り合えない内向きな少女たるボニーの手助けです。彼女が周囲に流されず、気の合う仲間に恵まれますようにと願うジェシーたちの奮闘に、新たなおもちゃ仲間やリリーパッドも加勢するんですが、正直なところ、もう完全におもちゃたちの意志が少女のあり様を左右するほどの介入っぷりだし、結論としては心温まるものはあるけれど、冒頭に出てくる最新バズ・ライトイヤー軍団や、あっさりしすぎているウッディの再登場など、わりとご都合主義的だし、これをもっておもちゃたちの存在意義が担保されたのかと言われれば、今ひとつすっきりしないものはあります。そこは明らかに弱点と言えるでしょう。リリーパッドや他のデジタルデバイスのおかげで事態が解決する面もあるし、ネットがあるからこそ巡り会える仲間がいるのだということも描いているので、真っ当なんだけど、要はバランス大事みたいな両論併記っぽい感じが「逃げ」と言われても仕方ないかなとも思いますね。

(C) 2026 Disney / Pixar. All Rights Reserved.
ただし、光の明暗や陰影を巧みに使った画面づくりは、さらにブラッシュアップされていましたし、小ネタも相変わらず面白い。そして、ボニーがおもちゃで遊ぶ時に彼女が想像力豊かに思い描いている脳内世界のシーンが、お絵描きっぽくパステル調で表現されているのがすばらしく美しかったです。おもちゃで遊ぶ=プレイするって、おもちゃに何かを演じさせる=プレイさせることでもあったよな〜。僕も小さい頃、パーマンやDr.スランプアラレちゃんごっこをしていた一人っ子として、「そうそう、おもちゃを使う一人遊びって、こういう想像が楽しいんだよな」とすごく嬉しくなりました。おもちゃによる人間形成という意味では、ジェシーがとある思い出の場所へ向かうことで判明する落涙必至のエピソードもあります。

(C) 2026 Disney / Pixar. All Rights Reserved.
そう、なんだかんだ、見どころはそりゃたくさんです。でも、物語の発端となるテーマ設定がストーリー進行とともにズレていくような、なんだか物足りない、合点のいかないところもある、そんな作品でした。おもちゃの存在意義を「問うストーリー」の落とし前は、確実に作られるだろう次作へ持ち越されるのかもしれません。
主題歌は、Taylor Swiftの書き下ろし。『トイ・ストーリー』シリーズを観て育ったという彼女だけに、ジェシーの今回の物語を受けて素敵な曲を用意しました。サビの「君のことを大切に思っていたことを思い出した」というフレーズがたまらないんですよね。

さ〜て、次回8月24日に評する作品を決めるべく、おみくじで僕が引き当てたのは、『実写映画モアナと伝説の海』です。アニメ版も確か短評したはず…。調べたら、やってました。

なんなら、2もやってました。

どうやら、CIAO CINEMAはモアナと浅からぬ、深い海のような縁があるようです。ディズニーの「実写版」という名のリメイクには思うところがないわけではないですが、ここまで来たら、しっかりモアナと付き合います。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

イタリア語とのつきあい:Today's View

野村雅夫の番組、FM COCOLO CIAO 765(月ー木、11ー15時)の名物コーナー、Today's View。13時頭から、日替わりで各界のブレーンがコラムを寄せてくれるものですが、その月曜日を京都ドーナッツクラブが担当しています。今回は、オールドファッション幹太による日本でのイタリア語とのつきあいについてです。

イタリアの文化的お宝発掘集団「京都ドーナッツクラブ」のメンバーでありながら、普段はイタリア語とはまったく関係のない仕事をフルタイムでやっている僕の場合、実はイタリア語に触れる機会はかなり限られています。SNSでイタリア人の投稿を追いかけたり、家事をしながらイタリアの音楽を聴いたり、カバンにはいつでも読めるようにイタリア語のペーパーバックを入れて置いたり、行き交う観光客のイタリア語に耳を傾けたり。コミュニケーションの道具としてのピークがボローニャに住んでいた留学期間中だとすれば、もうそれも20年も前のこと。少しでも成長しようとあれこれ試行錯誤しても、錆びついてしまうのは仕方のないことなのかも知れません。

 

ところが最近、生のイタリア語と触れ合う機会がふたつ続いたので、今日はそれをご紹介しましょう。

ひとつめは、7月の京都の祇園祭でのこと。後祭の山鉾巡航も終わり、役目を終えたお神輿をお見送りをする儀式「神輿洗い」に、今年初めて「祝い提灯」の行列の一員として参加することができました。

八坂神社から鴨川に向かうお神輿行列がやってくるのを、休憩しながら四条通りで待ち迎える時でした。京都っぽい御所車の形をした提灯を持つ僕と、稲穂のお飾りがついた米俵の提灯を持つ友人の背後から、「ママ、あれは何?」と子供の声でイタリア語が聞こえてきました。耳をすますと何やら様々な形をした提灯を、クイズ形式で鑑賞している様子。確かに、タコやブドウや野球ボールや鯖のようにわかりやすいものもあれば、僕が持つ御所車やだるま、鳥居や打ち出の小槌など日本独特のものもたくさんあり、子供や外国人観光客の目には不思議に見えたのでしょう。「こっちはタイヤみたいだし、こっちは魚かカエルみたいね。こっちは何かしら、パイナップルみたいに見えるけど」と母親らしき人が答えています。米俵が何かを知っている僕らには目からウロコでしたが、確かに、緑色の葉っぱに黄色い実のパイナップルに見えないこともない。でも豊作の縁起物であることを教えてあげたい僕は、友人が抱えるパイナップル風の提灯を興味深げに見上げる男の子に言いました。「これはね、パイナップルじゃないんだ。お米が入った袋みたいなものだよ。ママにも教えてあげて」。続けて、「幸せとか豊かさの象徴で、日本人はこれが大好きなんだ」とも言いたかったのですが、パイナップルではないことを息子に教わった母親の驚きと納得が混じった感動の前に、残念ながらそこまでは言葉になりませんでした。でも、イタリア人の親子の誤解を解消できて、本当に良かったです。

 

もうひとつは、このコーナーでも紹介したことのある、イタリアはアルプス山脈の麓、ヴァッレ・ダオスタ州をぐるっと1周320キロ走る山岳レース「トルデジアン」を一緒に走った友人ロドヴィコからの、久しぶりのEメールでした。2018年のトルデジアンでは、最後の100キロほどでリタイヤ寸前の僕を常に引っ張ってくれた兄ちゃんのような存在で、レース以降も、お互いの近況やレースの結果報告をし合った仲です。僕よりもひと回り以上年上のロドヴィコは去年定年を迎え、今は年金生活を謳歌しています。

メールの書き出しはいつもと同じでした。「よう、カンタ。元気か? お前のことだ、きっと元気なんだろうな」。続いて、ロンドンでピアニストとして活動している息子の自慢話が長めに語られていました。そのあとで、自分の最新のチャレンジとして「スイス・ピークス」というレースの最難関コース「レジェンド390キロ」への参加が決まってるから、応援するように!とのこと。スイスの山の中を390キロ! さすが兄貴です。トルデジアン2018のゴール翌日の授賞式、生き別れた兄弟に再会したみたいに泣きながら抱き合ったのを思い出しました。そういえば、あの時も、ロドヴィコの隣で自慢の息子が微笑んでいました。気になったのですぐにピアニストの息子をInstagramで検索してフォローしたところ、直後に「チャオ、カンタ!」とメッセージが来たので驚きました。「ロンドンでピアニストとして活躍してるって、パパが教えてくれたよ」。「そうなんだ、もう6年になるよ」。「ロドヴィコのやつ、スイスで390キロ走るらしいね」? 「そうだね、息子の僕からしても、アホとしか言いようがない…」。思いがけず、8時間の時差があるロンドンにいる、親友の息子くんとのチャットを楽しみました。

 

祇園祭での男の子との会話も、友人とのEメールやその息子とのメッセージのやりとりも、時間にして数分、文字数にして数行の本当にささやかなものでしたが、生のイタリア語に触れるのは、SNSや本の文字を目で追いかけるのとは違って、貧弱な語彙を総動員するのに頭を使い、とても刺激的でした。自分のイタリア語のレベルを確認するにも、たまにはこういうのも良いものです。