京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

映画『正体』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 12月10日放送分
映画『正体』短評のDJ'sカット版です。

東京で起きた一家殺害事件で逮捕され、死刑判決を受けて服役中だった鏑木慶一が脱獄します。事件を担当してきた又貫刑事は、警察のメンツをかけて行方を追うのですが、鏑木はあちこちで潜伏生活を送り、容姿を変えながら逃げ続けます。追いつ追われつの果てに浮かび上がる鏑木の真の目的とは?

正体 (光文社文庫) 新聞記者

原作は染井為人の同名ベストセラー小説。監督は『新聞記者』『青春18x2 君へと続く道』などヒットメーカーの藤井道人。脚本は藤井道人+監督と『デイアンドナイト』でも一緒に仕事をした小寺和久が共同で手掛けました。主演として死刑囚の鏑木を横浜流星が演じた他、又貫刑事に山田孝之、建設現場作業員に森本慎太郎、雑誌編集者に吉岡里帆介護施設職員に山田杏奈がそれぞれ扮しています。さらに、松重豊原日出子田中哲司宇野祥平なども出演しています。
 
僕は先週木曜日の夜、MOVIX京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

この本の売れない時代に10万部を遠に超えている原作を未読というのが申し訳ないし、3年前のWOWOWのドラマ計4時間版も観られておらず、これが『正体』へのファーストコンタクトとなりました。逃げ続ける死刑囚の真の目的とはいったい何かという謎を推進力にしながら、潜伏先で関わった人々との交流を細やかに描いていく面白さもあるのでしょうが、120分という映画尺の中で、さすがは藤井監督という手際でまとめてあると言えます。本作の語りの巧みさは、時系列を多少混乱させるリスクを恐れず、各登場人物の鏑木への印象を冒頭で見せていくところにまず出ていました。それぞれに程度の差こそあれど、みんな鏑木を悪くは言わないわけです。死刑宣告を受けていると言われても、自分が知り合った、それぞれ名前を変えて◯◯さんが悪い人にはどうも思えないでいると、又貫刑事に向かって話しているということは、少なくとも鏑木の潜伏は各地で終わっているはずなので、鏑木はいかにして再び警察に身柄を確保されるのかということもサスペンスとして機能します。さらに、又貫刑事はなぜそうやって話を聞いているのかも気になった状態で映画は始まります。これで話の展開が読めるという側面はもちろんありますよ。自然とチャプター分けされていくのだなというのはわかります。次はこの人、その次はあの人のところなんだなって。でも、毎度毎度、どんな姿でどんな仕事をするのかというところは予想がつかないので興味は持続します。何より、最大の問いである逃走劇の最終目的と潜伏先の選定理由を推理する興味は残りますからね。

© 2024 映画「正体」製作委員会
藤井監督は画面のトーンをはっきりさせるイメージがあって、今回は全体的に冷ややかで安らげない感じが追われる側だけでなく追う警察側にもあって感心します。袴田巌さんを筆頭に、またクロースアップされている冤罪、つまりは警察のご都合主義的な捜査のあり方みたいな社会問題とリンクしている点で『新聞記者』に近いトーンです。全体の尺の都合上、ここは省けると判断したと想像される水産加工会社でのエピソードでも、ただ省略するだけでなく、ワンショットの中で過去と現在を織り交ぜる映画的な仕掛けを用意するなど、藤井監督はさすがだなと思ったところは多々ありました。

© 2024 映画「正体」製作委員会
一方で、「社会派」の路線を進むのであれば押さえておくべきリアリティーは、もっとあったようにも感じます。ウェブや雑誌のライターの仕事って、そんなに簡単に潜り込めるものなのだろうか。仮に、ある程度業界のことがわかっているという状態には知識としてもっていけるにしても、20代前半の彼が本当にそこまで一気にバリバリ活躍できるものだろうか。文章を読んだ吉岡里帆演じる先輩編集員が惚れ込むほどの文才はどこで身につけたのだろうか。そもそも逮捕時に高校生で優しくて勇気はあるにしても、現場ではひるんでいる表情を見せていたような鏑木が、刑務所に入っただけでそこまで大胆かつ堂々とした振る舞いができるものだろうか。死刑宣告を受けて絶望するというとんでもない状況だったのだからと言うのなら、断片的であったとしても、彼がいかに準備をしたのか、どこまで計画的だったのか、謎を残すのは良しとしても、あまり観客に訝しまれるのはマイナスでしょう。そこは警察の側、特に又貫刑事の捜査をもっと見せるのが得策だったのではないでしょうか。刑事の上司との関係に健全とは言えない上下関係があったとして、現実の冤罪事件に観客の目を向けさせるなら、もっと刑事たち現場の動きや心理には踏み込むべきです。そこで尺の問題が出てくるとするなら、むしろ吉岡里帆演じる編集者の父親、あの弁護士の痴漢冤罪事件を端折っても良いでしょう。だって、あれこそ真相がわからないまま結局放置されているのだから。

© 2024 映画「正体」製作委員会
なんて苦言は呈したくなるものの、観客に向けて、現実に起きている問題に目を向けさせて考えることを促そうという姿勢は、もちろん買いです。この前短評した『ラストマイル』同様、日本の娯楽映画の枠組みの中でそれをやろうとしていることはすばらしいし、ラストに向けての涙腺刺激展開もまぁやむなしかなとは思いますが、最後に一点、僕がもっとも首を傾げたのは、模倣犯として登場する人物の造形です。なんでしょうか、あのわかりやすすぎる感じ。正体というタイトルにしておいて、彼はなぜ見るからに悪いのか。挙動をはっきりサイコパスに見せているんですね。あれはあれで偏見を助長するように僕は感じます。

© 2024 映画「正体」製作委員会
ただし、横浜流星含め、役者はどなたも奮っていましたよ。『ラストマイル』に続いて宇野祥平さんも忘れがたい。警察組織が出てくる映画は今他にもやってますけど、どっちかと言えば、断然こちらをまず観てほしいと僕は考えております。 

しっかり余韻を与えてくれたヨルシカの主題歌『太陽』をオンエアしました。

さ〜て、次回2024年12月17日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『クラブゼロ』です。食事に対して高い意識を持つことで、環境への配慮にもなるし、何より健康で幸福度も上昇する。そんなもっともらしいことを学校で教える栄養学の教師に導かれているうちに… って、もう怖いよ。あのミヒャエル・ハネケの弟子筋というジェシカ・ハウスナーが監督。ぞくぞくきそう! さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『海の沈黙』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 12月3日放送分
映画『海の沈黙』短評のDJ'sカット版です。

日本画壇のトップに君臨する世界的な画家、田村修三。彼の代表作も多数展示される大々的な展覧会で、作品のひとつが贋作だと判明します。これは誰の描いたものなのか。報道のボルテージが上がる中、美術関係者が調査をする中で浮かび上がってくるのは、ある事件をきっかけに画壇から姿を消した天才画家の津山竜次だった。かつての竜次の恋人で今は田村の妻である安奈、番頭と称して竜次に長年仕えるフィクサーのスイケン、美術鑑定のスペシャリスト、全身に刺青を入れた牡丹という女、竜次を慕うバーテンダー… 様々な人物の過去と現在が交錯します。

沈まぬ太陽

原作、脚本は倉本聰。監督は、『振り返れば奴がいる』『お金がない!』などのテレビドラマ出身で、『沈まぬ太陽』で日本アカデミー賞最優秀作品賞を獲得した若松節朗(せつろう)。謎の画家津山竜次を本木雅弘、画壇の頂点田村修三を石坂浩二、その妻安奈を小泉今日子が演じた他、中井貴一仲村トオル清水美砂萩原聖人佐野史郎などが出演しています。
 
僕は先週金曜日の朝、Tジョイ京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

よく構想◯年みたいな数字を宣伝文句に入れることがありますけど、これはその中でも最長クラスじゃないでしょうか。何しろ、60年ぐらいですもの。倉本聰のキャリアって、実はラジオからスタートしているんですよね。これは実際のできごとで「永仁の壺事件」ものがあります。この壺は鎌倉時代のものだとして国の重要文化財に指定されていたんですが、ある時に、現代の陶芸家の作品だとわかってしまって、文化財指定は取り消しになってしまう。ちょっと前までみんな口を揃えて美しいすごいと言っていたものが、歴史的なものではないとなった瞬間から見向きもされなくなるという話。これが美というものを考えるうえでヒントになるとラジオドラマを作ったのがスタートでした。以来、贋作というものに興味を覚えながら、他にも実際に画壇で起きたできごとをエピソードとして盛り込みながら、ついに完成したのが今作だというんですね。

(c)2024 映画『海の沈黙』INUP CO.,LTD
なるほど、「美とは何か」という哲学的とも言える問いが背骨として物語にありつつ、登場人物たちの行動原理が規定されていて、テーマとしてわかりやすくも奥深いのはさすがだなと感じます。テーマにもう少し踏み込むなら、美しきものとして鑑賞者の心を揺さぶるような絵画というのは、決して金銭的価値をメインに捉えられるべきものではないし、逆に金銭的価値が失われたからといって、美術的価値まで見失ってしまうのは愚かでもあるということでしょう。ここに異論がある人はそんなにいないんじゃないでしょうかね。どんなジャンルでも似たようなことが起こるわけですが、今作だと、たとえば冒頭からしばらくテンポ良く続いていた贋作判明前後のドタバタなんて、まさに作品を取り巻く価値基準の話で、問題提起として倉本聰の皮肉や風刺がきいて楽しく見られるあたりです。新聞社主催の大々的な展覧会には文科省の大臣もやって来てスピーチが行われる。佐野史郎演じていた大臣なんて、絵はろくに見てなかったし、「ここに集まった日本を代表する名画の数々は、いったい全部でいくらくらいなんだろう」なんてマイクを握ってしょうもない笑いを取ろうとする寒々しいシークエンスも良かったです。しかも、贋作だと見抜くのは作者である田村修三本人で、その事実はどうか伏せておいてくれと懇願する主催者たちに、結局贋作だと公表されてからはむしろそれが話題として盛り上がってしまうのも皮肉なことです。結局、僕らは絵画と向き合っているのか。そして、実物を美的技術的に超えてしまう贋作を人はどう扱えば良いのか。極めて面白い問いかけだし、そこに人の命がミステリアスに複数絡んでミステリー的な展開を見せるあたりは見事なお点前だと思いました。

(c)2024 映画『海の沈黙』INUP CO.,LTD

ただし、映画としてよくできているかと言えば、僕にはそうは断言できないんです。今まで言ってきたようにテーマとしては面白い内容だと思うし、実際に用意したオリジナルの絵画作品もなかなかに見事で力がそりゃ入っているんですが、身も蓋もないことを言えば、根本的には映画との食い合わせがよろしくないんじゃないかと思いました。絶対的な美というのは、それぞれの人の心の中にあるものだとして、その美しさを観客に感じさせるには、結局のところキャラクターの出自や境遇や生き様を示すエピソードで補強していく他なく、美そのものを観客が体験として味わいきれないというもどかしさから逃げ切れないんです。そこへ、病気の話であるとか、幼少時の悲しいできごととか持ち出されてしまうと、なんだか感動させるための材料として取って付けたものに見えてしまうほどに、どうもキャラクターたちの行動と各シーンが噛み合いきっていないんですね。

(c)2024 映画『海の沈黙』INUP CO.,LTD

そもそも、小泉今日子演じる安奈は映画の冒頭で占い師と思しき人物に何やら言い当てられていましたけど、彼女は占いをしてもらうような人かしら。清水美砂演じる牡丹がまた美しかったのは事実として、刺青を彫るという一連の設定は物語上どこまで必要だったのか疑問が残ります。中井貴一演じるスイケンは、祇園にも小樽にもわざわざ運転士付きの高級車で乗り付けるのだけれど、電話で用事が済むなら祇園まで来なくても良くない? 杖をついているわりに、料理の腕を振るう時には不都合はないんだ? 画壇のトップである田村修三を演じる石坂浩二は、ああいう権威を演じてもらうには最高のキャスティングだけれど、さすがに本木雅弘演じる竜次と大学で友達だったというのは年齢差があり過ぎて観客を混乱させるでしょうよ。あの廃校がアトリエになっているのは良いとしても、竜次が創作の凄みを発揮していくクライマックスであんなに照明を劇的にしてしまうと興が削がれませんか。

(c)2024 映画『海の沈黙』INUP CO.,LTD

といったような細部がどうも気になってしまうほどに、だんだんとのめり込めなくなっていくほど、倉本聰の作為がはっきり見て取れてしまうんですね。そう言えば、映画のクレジットで、脚本ではなく、「作」っていう肩書を初めて見たような気がしますが、まさに権威たる倉本さんに頼り切らず、たとえば絵画をあえて一切登場させないとか、映画的な大胆な仕掛けでもって美に切り込んでほしかったところです。テーマは納得がいくだけに、そして、キャラクターの瞳やサングラスに映るものを見せるような映像には目を奪われただけに、物足りなさ、もどかしさも覚えてしまいました。

曲は、絵画だけでなく、人とのつながり、時の流れの美しさ、手に入れたものの不確かさも踏まえて、大ヒット中のこの曲をオンエアしました。

さ〜て、次回2024年12月10日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『正体』です。この冬の話題作のひとつとしてかなり長い間予告編を映画館で目にしてきましたが、いよいよ公開したところに見事当たりました。それにしても、最近は2文字の邦画が多いなぁ。『まる』『本心』と扱ってきましたが、今度は『正体』。だんだんこんがらがってきたところで、さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『レッド・ワン』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 11月26日放送分
映画『レッド・ワン』短評のDJ'sカット版です。

世界中の子どもたちにプレゼントを届けるサンタクロースが、なんとクリスマス直前に拉致されてしまいます。サンタの護衛隊長であるカラムは、世界トップレベルの追跡者トラッカー、要するにハッカーとして暮らしているジャックの力を借りて、サンタクロース=レッド・ワンの救出に奔走します。このままでは、クリスマスが中止になってしまう可能性がある。みんなで、SAVE THE Xmas!

ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル (字幕版)

監督は『ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル』のジェイク・カスダンで、脚本は「ワイルド・スピード」シリーズを数多く手がけてきたクリス・モーガンが務めました。サンタの護衛隊長カラムに扮したのは、ジュマンジ続編もワイスピにも出ているドウェイン・ジョンソンで、彼は共同制作にも名を連ねています。そして、凸凹コンビを組むことになるジャックを演じるのは、「キャプテン・アメリカ」シリーズのクリス・エヴァンスです。気になるサンタクロースは、J・K・シモンズが担当していますよ。
 
僕は先週木曜日の昼、MOVIX京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

映画館を出てすぐに抱いた感想としては、出来不出来の細かいところよりもまず、なんか懐かしいクリスマス映画を観たなというものです。クリスマス映画って、実際にクリスマスを物語の舞台や背景にしたものも多いんですけど、ラブロマンスやアクションやホラーではなく、クリスマスの意義を再確認するようなファミリー向けの内容であることが大事なジャンルです。欧米では日本と違って誰よりも家族と過ごすことが優先されるのがクリスマスなわけで、そんな時期に家族で映画館へ行くなら、R指定がつくようなものではなく、みんなでにっこり笑顔になったり、あたたかい気持ちになるものが良いということになるわけです。なおかつ、クリスマスは家族で過ごしたり、誰かのために何かをするような行動って大切だよねという価値観や道徳的な教訓が盛り込まれることも多かったというか、理想とされたというか。古くは『クリスマス・キャロル』や、今もアメリカで傑作とされる『素晴らしき哉、人生!』があって、90年代には『ホーム・アローン』や『ジュマンジ』もありました。でも、最近はあまり見かけない感じがしますよね。その要因を今ここで分析する時間はないんですが、ともかく90年代までたくさんあったようなクリスマス映画が帰ってきた印象を受けました。しかも、サンタクロースが主要キャラクターで出てくるなんて、ダイレクトにクリスマスですからね。考えたら、ジェイク・カスダン監督はジュマンジの続編で当てた人なわけで、こういうものを手がけるのは望むところだろうし、ゲラゲラ笑えてホロリと来るような作品として『ホーム・アローン』や『ジュマンジ』みたいなラインを想定していたかもしれません。

[c]2024 WARNER BROS. ENT.
前置きが長くなりましたが、今作の物語的面白さを支える発想は、サンタの誘拐というよりも、サンタクロースが世界中の子どもたちに一夜にしてプレゼントを配るのを映像化するとしたら…ってことです。脚本の肉付けのベースというか、核はそこなんです。世界中を回るんだから、サンタは各国の空を自由に飛び回れないといけない。当然、首脳陣とは通じていて協力関係にあるだろう。トナカイは音速レベルで飛ぶんだろうし、プレゼントもラッピングしたり仕分けしたりってことはチームでやらないといけないからサンタを支える組織があるはずだ。サンタは超人的な体力が必要だろうし、そのためにはああ見えてトレーニングは欠かさないだろう。そんなサンタを警護するスタッフもいるに違いない。はい、これらの要素はすべて映画に実際に入っています。J・K・シモンズ演じるサンタは、こうした設定に合わせて、ムキムキボディを披露しています。面白い。その横で、人間とは思えない、まさに超人的なドウェイン・ジョンソンが警護しているのも、絵面として既に面白い。タイトルのレッド・ワンというのは、この映画の中でのサンタの実情を知る国際機関や各国政府要人たちが使うコードネームでして、製作会議でわいわい話して膨らませていく中で出てきたアイデアのひとつっぽくて楽しいあたりです。こうした「もしもサンタが」設定のベースにあるのは、サンタなんているわけないでしょというクールで合理的な物言いなんですね。全部配れるわけないだろっていうツッコミが入るんなら、配っているところをお見せしましょうというような。だったら、そういう登場人物を配置しようと出てきているのが、クリス・エヴァンス演じるジャックですよ。彼は子どもの頃からクリスマスなんて欺瞞的だねという男ですよ。こうして、「サンタ? は? いるわけないっしょ」なジャックと、サンタの警護隊長であるカラムという、まさに凸凹なコンビが誕生するわけです。クリス・エヴァンスは身のこなしもリアクションの取り方も本当に芸達者で、それは冒頭の「ジャックはこんなろくでもない奴です」説明シーンで十二分に味わえます。ジェイク・カスダンのセリフに頼らない流れるようなカメラワークと融合して、お見事と言わざるを得ません。

[c]2024 WARNER BROS. ENT.
なんて喋っていると、さぞかし新たなクリスマス映画の傑作したんだろうと思われるかもしれませんが、残念ながらそうではないんですよね。ここまで僕が語った映画の設定に的を絞っていけば良かったと思うんですが、肝心の「もしもサンタが本当に」の部分でCGを使いすぎたり、ギミック要素を入れすぎて活かしきれていなかったり、結局ファンタジックな展開を用意しすぎたせいで、「リアル」に見せる映画全体の焦点がぼやけてしまっているのが実にもったいないです。よく「うちには煙突がないのに、サンタはどうやって入ってくるの?」と子どもに聞かれて困るみたいなエピソードってあるじゃないですか。そういう問いにもこの映画、実際に答えを見せています。実際って言ったって、実際じゃないんだけど、「なるほど、そう来たか」みたいなネタになってるんです。そういう小ネタとかあるあるネタを釣瓶打ちする軽いコメディを狙えば良かったはずなのに、気づけばCG満載のいわゆる大作っぽい画面構成へと軌道が逸れているのが僕は設定を気に入っているだけに忸怩たる思いです。僕がそう思っても仕方ないんですけどね。

[c]2024 WARNER BROS. ENT.
もちろん、2大スターの共演で最後まで一応は飽きさせないように作ってはあります。観終わって悪い気分には決してならないでしょう。だって、クリスマス映画だから。でも、こうも思うわけです。かつて量産されたクリスマス映画は、もちろん傑作揃いなんてことはなかったわけだよな、と。なんて厳しめの結論ですが、僕はそれだけ「もっと行けたはずだ」と思っているからでございます。
映画の中ではクリスマス・ソングもいろいろと流れてきますよ。番組では、今年初めてのマライアのこの曲をオンエアしました。


さ〜て、次回2024年12月3日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『海の沈黙』です。あの倉本聰が長年温めてきたシナリオがこうして映画になったわけですが、考えてみたら僕は倉本さんの作品についてラジオでほとんど語ったことがないし、これは良い機会。本木雅弘小泉今日子中井貴一石坂浩二清水美砂って、ものすごいキャストじゃないか! なんか、興奮してきたぞぉ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

映画『本心』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 11月19日放送分
映画『本心』短評のDJ'sカット版です。

(C)2024 映画『本心』製作委員会
自宅近くの工場で働く朔也は、老いた母の秋子とふたり暮らし。ある日、仕事中に秋子から「大切な話をしたい」と言われた朔也は、帰りが遅くなって豪雨となったその晩、濁流の迫る川べりにいた秋子を助けようとして昏睡状態となります。それから1年。目を覚ました彼は、母の秋子が自由死を選択して亡くなったと知らされます。違和感を覚えた朔也は、母の本心を知るため、ヴァーチャル・フィギュアVFという技術を使って秋子を仮想空間上に蘇らせつつ、自分と同年代で秋子と年の離れた親友だったという三好という女性とコンタクトを取るのですが… 

本心

原作は、最近映画化が相次ぐ平野啓一郎の同名小説です。監督と脚本は、『舟を編む』の石井裕也。朔也を演じたのは、石井監督とのタッグがこれで9回目となる池松壮亮。母の秋子を田中裕子、その親友の三好を三吉彩花が演じた他、妻夫木聡綾野剛田中泯、仲野太賀といった豪華キャストが集結しています。
 
僕は先週金曜日の朝、TOHOシネマズ二条で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

偶然にも、先日『スオミの話をしよう』を俎上に載せた際に、平野啓一郎の名前を出して、彼の提唱する「分人」という考え方のことを話しました。人は「あの人はこういう人」と簡単に定義できるものではなく、社会的動物である以上、こういう局面ではこういう言動を取るし、ああいうタイミングではああいう言動をするという風に、対する人や場面によって様々な顔があるもので、人というのはその総合体なのであるというような考え方です。それが平野啓一郎の創作のベースにあるということなんです。その意味では、本心というものも、ひとつ確固たるものがあるとは限らないし、むしろ不自然ですらあるということになりますが、そんなことを前提として考えながら鑑賞してきました。

(C)2024 映画『本心』製作委員会
モチーフとしては、AIの登場が社会と個人、そして働き方や生き方にどんな影響をもたらすのかという問いです。原作では2040年ぐらいの日本を想定した近未来SFになっていたものが、今回の映画化では、去年がChat GPT元年ということを踏まえつつ、なんと来年、2025年ぐらいに設定してあるんです。いや、まさかそんなに普及のスピードは早くないだろうと思いつつ、見ていると、「あ、これは確実に僕たちの今の日本社会と地続きだ」と思えるんです。さらに、朔也が母親を助けようとして重症を負い、1年間眠り続けていたというのが効果的で、友人からは「浦島太郎みたいな顔」って言われていましたけど、まさにその通りなんですよ。実際に変化が早いこの社会において、1年の間に起きる変化は大きくて、たとえば、工場での仕事をロボットに奪われたことによって彼が取り組むリアル・アバターという仕事。カメラを持った作業員が依頼者の代わりに行動するんです。死期が近い老人の代わりに思い出の地へ行って夕陽を見せてあげるなんてのはロマンティックだし、なるほどと思うんだけど、買い物をしてくるなんていうのは、もうデリバリーサービスの延長線にあるし、スタッフが消費者の理不尽とも言えるような評価の対象になるのだって同じです。働き方の多様化と言えば聞こえは良いけれど、大多数の人にとっては格差はますます固定化されている状態は容易に想像できます。仮想空間もさらに奥行きが出て賑わっている。パッと見ただけでは今との違いがそうわからないけれど、ネット空間も含めて、確実に変化が起きているというのは、かなり現実味があります。今でこそワイヤレスのイヤホンで歩きながら電話で誰かと話している人ってよく見ますけど、ちょっと前までギョッとしたでしょ? あれにも似た感じ。

(C)2024 映画『本心』製作委員会
そんな中で、母親を失った朔也は、彼女のヴァーチャル・フィギュアを作るということになるわけですが、これだって、何もロボットが出てくるわけではないんです。Appleが既に発売しているゴーグルApple Vision Proみたいなもので、ゴーグルをした時に、その中に母の秋子さんが現れるシステムです。生前のデジタルとアナログのありとあらゆる情報がそこに反映されていて、会話をすればするほど、その精度が上がって「より彼女らしく」なります。問題はこの「彼女らしさ」とは何かということなんですよ。思い出が美化されがちなように、誰かについての記憶も思い出す人から見たものでないし、ましてやそれが愛する家族であれば、自分にとって居心地の良いものに補正されてしまうもの。でも、データを増やせば増やすほど、この場合だと秋子に近づけることができると説明された朔也は、母親の親友だった三好にメールやライン、写真なんかのデータを提供してもらいます。しかも、ゴーグルを付ければ、その三好さんも含めて死んだ母親に会って話をし、共通体験を積み上げることができるわけだから、まるでもう仮想空間に彼女が生まれ変わったよう。田中裕子は生前の姿とヴァーチャル・フィギュアとしての姿の両方を演じているわけですが、その際どい違いを見事に表現するパフォーマンスでした。朔也にしてみれば、母親が生前に「大切な話がしたい」と言っていたのはなんのことだったのかを知りたいし、自由死と呼ばれる制度を本当に利用したいと思っていたのかなど、聞きそびれたままになっていた本音を知りたいわけですが、求めていたのとは違うトピックが出てきたりして動揺したその先についにたどり着いた本丸のトピックでは思いも寄らない言葉が出てきて、僕はもう落涙でした。

(C)2024 映画『本心』製作委員会
というような話は、この映画のひとつのパートでしか実はありません。ヴァーチャル・フィギュア制作会社の人間も、ヴァーチャル・フィギュアそのものも、秋子の親友だったという若い女性三好も、後半の重要キャラになるアバターデザイナーのイフィーも、みんなそれぞれに示唆的な問いかけをしてきます。朔也はそのたびごとに、自分の過去と現在地、その価値観と生き方について考えを巡らせることになるし、それは僕たちもそう。格差、カスハラ、差別主義、ネットでの動画の拡散などなど、石井裕也監督は、豊富なトピックをなんとか整理しながら、僕たちがもはや陥りかけている実存的な危機と、社会における人間性のぐらつきをハイレベルな説得力で突きつけてきます。

(C)2024 映画『本心』製作委員会
平野啓一郎の原作を読んで映画化すべきだと石井裕也監督に企画を持ち込んだ主演の池松壮亮の見通しは正しかったと言うべきだし、石井監督は日本映画の限られた予算の中で、それこそ嘘くさかったりチープに見えて台無しになりかねない物語を現状の最適解で映画にできていると僕は思います。シンプルな技法なんだけど、ショットを切り替えるだけで、さっきいたはずの人の姿が見えなくなったり、逆に気づけばそこに人がいるというような編集技法も多用しながら、石井監督が強調していたのは、僕たちを自分たらしめている身体と心、ここで問題となっている本心なるものの不確かさでした。
 
たくさんの語り甲斐のあるモチーフが出てくる作品ですが、実は最初から最後まで、意外にも広い意味でのラブ・ストーリーとして貫かれているのが、僕にとってはまた胸を打つポイントでした。ここ10年ほどの間にも、『ブレードランナー2049』『her/世界でひとつの彼女』や最近だと『徒花-ADABANA-』など、AIやクローンの存在から「人間とは何か」を問うていく優れた作品がありましたが、その系譜に連なる佳作です。

さ〜て、次回2024年11月26日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『レッド・ワン』です。ロック様の出演作を扱うのは久々な上に、あのゲラゲラ笑った『ジュマンジネクスト・レベル』のジェイク・カスダン監督と再タッグとあって期待大。今シーズンのクリスマスもの一番乗りという印象の作品を観に行ってみよう! さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

映画『八犬伝』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 11月12日放送分
映画『八犬伝』短評のDJ'sカット版です。

江戸時代後期、新作となる『南総里見八犬伝』の構想を自宅で語る滝沢馬琴。それを聞くのは、馬琴の戯作で挿絵をよく担当している葛飾北斎。ふたりはそれから長年にわたり、日本のファンタジー小説の原点と言われるこの物語を通しても関わっていきます。この映画は、アクションとVFX八犬伝の物語を見せるパートと、滝沢馬琴の創作を中心とした半生を見せるパート、つまりは虚と実の両方を描いていきます。

八犬伝【上下合本版】 (角川文庫)

原作は、山田風太郎の同名小説。監督・脚本は、『ピンポン』や『鋼の錬金術師』で知られる曽利文彦滝沢馬琴役所広司葛飾北斎内野聖陽、馬琴の息子を磯村勇斗、その妻を黒木華、馬琴の妻を寺島しのぶ、八犬士の運命を握る伏姫を土屋太鳳が演じた他、立川談春中村獅童尾上右近、さらには河合優実などもキャストに名を連ねています。
 
僕は先週金曜日の朝、TOHOシネマズ二条で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

 

これは完全に僕の好みなんですが、時代劇で派手なVFXを使うのって苦手なんですよ。アニメだと時代もので現実離れした表現があっても気にならないんだけど、実写の場合には、あまりノレない。その意味で、ポスターや予告の映像を見て、「これ、僕は気に入らないかもしれない」と思ったことを正直に告白しておきます。で、観に行って、面白かったんですよ。それも、相当に。なぜかと言えば、それはこの映画のテーマに沿った演出がそのVFXばりばりの映像にちゃんと存在理由を与えていたからです。ただ、使いたいから使うのではなく、はっきりと理由があるがゆえに、心置きなく最新技術を振りかざせるっていうことです。だから、浮いて見えるなんてこともない。

©2024『八犬伝』FILM PARTNERS.
では、そのテーマとは一体なんなのか。それはもう、この映画のあらすじをさっき紹介する時に触れています。創作、クリエイティビティにおける「虚と実」の関係性の考察なんですよ。実際に、つまりテーマ通りに、映画全体が「八犬伝」を書き始めてからの馬琴の半生を描いていく伝記映画的な「実」のシーンと、馬琴が小説として描こうとする「八犬伝」の物語をダイジェストで見せる「虚」のシーンが、基本は交互に編集されているんですね。これは山田風太郎の小説がそういう仕掛けだというのもあるけれど、そこに映画として面白くなると踏んだ曽利文彦監督の鋭さも光るなと思いました。

©2024『八犬伝』FILM PARTNERS.
リアルとフィクション、実像と虚像なんていうのは、一応は対立する概念ということになるわけですけど、実際には、虚の中に実があったり、実の中にも虚が紛れ込んだりすることもある。というか、むしろそれが当たり前なんだと思うんですよね。ちょくちょく馬琴の家を訪れる北斎は、生涯にわたって放浪しながら、たとえば富嶽三十六景を描いてきたわけですね。「俺は現地へ行って自分の目で見ないことには絵にできない」というのが北斎です。では、彼の描くものが写実的かと言われれば、そうとは言えない部分もありますよね。大胆な構図のものが多いですから。そんな北斎八犬伝の物語を馬琴から聞くにつけ、「この話からは舞台となる安房(あわ)の国の景色がありありと浮かんでくるようだ」として、馬琴に質問をぶつけます。現在の千葉県南部にあたる安房の国へいつ行ったんだと。すると、馬琴は「行ったことなんてない」って言うんですよね。現地へ行ってしまうと、むしろ執筆にあたってはその現実から小説が悪影響を受ける恐れがあるとすら話すんです。つまり、読者がそこにリアルを感じた文章が実は想像の産物であるということ。さらに言えば、八犬伝には鉄砲が小道具として出てくるのだけれど、馬琴によれば、「舞台の室町時代にはまだ鉄砲は伝来していないから虚だ」なんて内容のセリフもあります。さらには家族という枠組みを巡っても、馬琴と北斎の虚と実をめぐる問答が忘れた頃にまた出てきて繰り返されるんです。
 
そんな問答のクライマックスにして、今作の白眉とも言える究極のシーンが中程にあります。馬琴と北斎がふたり仲良く芝居を観に行くところですね。演目は、巷で評判だという歌舞伎『東海道四谷怪談』。ふたりが観に来たというので、芝居がはねた後、小屋のスタッフが作者の鶴屋南北との面会に案内する時に、せっかくだから、奈落なんて普通なら見られないから覗いてみますかということで、いわゆる奈落の底へ馬琴たちが下りていくと、回り舞台の端、天井部分から南北がニュッと顔を出して驚かせます。怪談を見て「恐ろしや」と感銘を受けた直後に南北が幽霊みたいに天地逆さに顔だけ出てくるもんだからギョッとする。そこから問答が始まります。正義が勝つとは限らない世の中だからこそ、物語の中、虚の中でくらいは正義を貫きたいのだとする馬琴に対して、そんなのはつじつま合わせだと言い切ってしまう南北。このやり取りは、はっきり言ってどちらが正解というわけではなく、どちらも正解なんです。芸術の作りてたるもの、その虚実を拮抗させながら考え続ける練り続けることが肝要なのであるという、馬琴を演じた役所広司さんのインタビューから言葉を借りれば、本作の「へそ」になるような名場面でしたし、南北を演じた立川談春さんの怪演も非常に印象的です。

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とまぁ、僕はここまで「実」のパートばかりを喋ってきましたが、映画として大事なんだけど、ここだけだと、はっきり言って地味です。馬琴の口の悪い妻がよく言ってましたよ。「北斎とじじいふたり集まって何をそんなに喋ることがあるんだ」とね。確かに、基本は家の中、書斎の中ばかりだし、画面としては退屈です。緻密なカット割りと美術、そして役所広司内野聖陽という名優たちの演技はあれど、それでも地味です。そこへ、虚のVFXという濃い味付けもばっちりな振り切った最新の八犬伝パートが挟まることで、全体として引き締まってくる。つまりは、虚と実はそのバランスこそ命であるということの証明に映画全体がなっていて、これはお見事と拍手したくなる作品でした。
虚実というテーマから、僕が選曲したのは、イタリアのピアノを弾き語るシンガーソングライターRaphael Gualazziです。内容的にもピッタリ。フックアップに定評のあるGiles PetersonによるRemixバージョンでお送りしました。

さ〜て、次回2024年11月19日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『本心』です。石井裕也監督が今回演出したのは、平野啓一郎の同名小説の映画化。主演は池松壮亮。この3者の名前があるだけで、もう観たいという気持ちになっている僕ですが、内容はデジタル化社会のありようを反映したヒューマンミステリーということで哲学的なテーマも含んでいそう。しっかり観てきますよ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 11月5日放送分
映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』短評のDJ'sカット版です。

バットマン」に悪役として登場するジョーカーの誕生秘話を描いた前作から2年。5人の殺人罪で逮捕されたアーサー・フレックは、州立病院の精神科病棟で裁判を待っています。ある日、弁護士との面会のために病院内を移動していると、別病棟の音楽セラピーに参加していた謎めいた女性のリーと目が合います。理不尽な世の中への反逆者ジョーカーとして熱狂的な支持を集めるアーサーに惚れ込んでいるリーに、アーサーは心を掻き立てられていきます。

 
監督はトッド・フィリップス。脚本はトッド・フィリップスとスコット・シルバー。撮影ローレンス・シャー。主演、ホアキン・フェニックス。前作と変わらぬ座組の中に、ハーレクインにあたるリーを演じるレディー・ガガが加わりました。
 
僕は先週木曜日の午後、MOVIX京都のドルビーシネマで鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

5年前、コメディアンを目指す恵まれない青年アーサー・フレックが、やむにやまれず殺人を犯したことをきっかけに、社会的に抑圧された民衆の鬱屈を晴らすジョーカーとして持ち上げられるまでを描いた前作は、世界的に社会現象となりました。各国での受け止めには、その国の現状がきっと反映されてそれぞれに違いがあったように思いますが、本国アメリカでは、とりわけトランプ前大統領の大きな支持層でもある、マジョリティーの白人でありながら社会から疎外感を覚えている男性たち、もっと言えば、「どうも俺達は社会の中で割りを食ってるんじゃないかと」感じている中間層以下の人たちの不満をすくい取ったことが指摘されています。そして、トランプ大統領は4年前の選挙で敗北し、支持者たちは暴徒化して、あろうことか連邦議会議事堂の襲撃事件に発展。警官を含めた5名の死者も出てしまう事態となりました。恐ろしいことです。あれをニュースで見た時に前作『ジョーカー』を思い出したのは僕だけではないはずです。ホアキン・フェニックスは、今作が上映されたヴェネツィア国際映画祭でこんな発言をしています。「なぜ多くの人が前作に共感したのか正直わからないんです」。そして、トッド・フィリップス監督は「この作品は1作目に対する<答え>ではない」と。

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先週、生放送中に映画神社のおみくじを引いて本作が当たった時、僕は「トッド・フィリップスが前作に落とし前をつけた続編を観に行こう」って言いました。僕なりにホアキン・フェニックス、監督の発言を縫い合わせると、こういうことだと思います。「作った自分たちの意図以上に社会的に意味づけされて祭り上げられた前作で高まりきった期待に応えるというより、落とし前をつける作品」。鑑賞後に僕はそんな思いを強くしました。今回の副題であるフォリ・ア・ドゥというのは精神医学の用語で、「ひとりの妄想がもうひとりに深い影響を与えて妄想が共有される精神病」のこと。ここで言うひとりというのは、今作のもうひとりの主人公であるレディー・ガガ演じるリーでしょう。僕が鑑賞前に予想したのは、アーサーの妄想に感化されたリーという構図だったんですが、観ているうちに「いや、違う、これは反対だ」って気づいたんですよ。つまり、妄想を膨らませているのは、むしろリーの方で、その妄想に巻き込まれていくのがアーサーであり、これはその結果としてふたりが恋に落ちていく哀しき物語だってことです。もっと言えば、リーが妄想を膨らませているのは、正確に言えば、アーサーではなく、悪のカリスマであるジョーカーという存在であり、アーサーはその期待に応えようとするあまり、僕に言わせれば、望んでいたわけではない舞台に導かれてしまう哀しさがある。この構図を踏まえておかないと、混乱する観客が出てくると思うし、特にアメリカで「期待外れだ」とこき下ろす意見が強いのは、そこに原因があるんじゃないでしょうか。

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確かに、前作でジョーカーの誕生に「俺も世間に一泡吹かせたいんだ」と溜飲を下げつつ頭に血を上らせた人たちにとっては、あまりにもカタルシスのない展開に「なんで続編はこんなにスカッとしないんだ」と感じたのも仕方ないです。前作の殺人事件を裁く法廷において新しい情報なんてろくに出てこないし、病院とは名ばかりの人権が制限されたろくでもない場所に収容されているアーサーはさらに痩せ細って、ますますひどい目にあうばかり。レディー・ガガは良いですよ。ある意味、身勝手なものです。彼女は妄想を膨らませて病院に乗り込んで、「あなたはジョーカーなのよ」って熱い眼差しでアーサーを誘惑し、ともに歌を歌うことで、アーサーをジョーカーとして法廷という舞台に引っ張り上げているんですから。でも、そこで置いてけぼりになるのは、ジョーカーを演じきることができないアーサーじゃないでしょうか。そもそも、彼は自分の弁護士からも誤解されている節があるんですね。というのも、あの女性弁護士は当初からアーサーは統合失調症心神喪失の状態にあったことを立証して減刑を狙う方針を立てるっていうんだけど、前作を思い出せばわかることですが、アーサーのバックグラウンドを彼女も理解して弁護しているのかどうなのか疑問が残る展開。弁護のテクニックとしてはわかるけれど、アーサーとしても辛かろうと思えて仕方がない。つまり、皮肉なことに、アーサーを擁護する人たちも、カリスマとして見る人たちも、追求する検事たちも、そしてリーも、アーサーという人間に真剣に向き合っていないように見える。そういう意味では、針の上のむしろですよ。そして、あの衝撃の結末。JOKERになりきれぬアーサーがJOKEを聞かされるという反転の構図こそ、トッド・フィリップス監督が批判や観客の落胆を覚悟でつけた落とし前だったんじゃないでしょうか。

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映像に関しても、俳優陣の演技についても、もう言うことはないです。僕はドルビーシネマで観ましたが、暗い場面が多いし、ミュージカル仕立てのシーンも多いので、鑑賞形態としてはオススメできます。ただ、惜しむらくは、脚本に僕は難があったと見ています。特に弁護士のあの弁護方針は観客に混乱をきたすもので納得がいかなかった。あとは、ミュージカルという着想はすごく良かったんですが、正直なところ、うまくいっていないというか、突き抜けていなくて、むしろ映画全体を鈍重なものにしてしまうところが何箇所かあったのは否めないところです。でも、それでも、僕はこの作品を観て良かった。冒頭に言った「落とし前をつけた作品」だったと言えるでしょう。
 
この曲は、面会室でアーサーとリーがガラスを隔てて目を見つめ合わせながら歌われていました。そのガラスを使った演出もトッド・フィリップス監督さすがでしたよ。
 
そして、これはまったくの余談ですが、僕はハロウィーン当日に映画館へ行ったもんで、終わって夜の京都の街に出てきたら、コスプレをしている人たちも結構いたんですが、とあるビルの裏で、しゃがみこんでいる若者たちに出くわしました。彼らがなんと、ジョーカーのメイクをしている最中だったんです。なんだか、妙な気分になるシンクロニシティでしたよ。あの子たち、きっと続編は観ていないんじゃなかろうか…

さ〜て、次回2024年11月12日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『八犬伝』です。先日、この作品のラジオCMを聞いたリスナーが、役所広司主演の居酒屋ムービーと誤解したという珍エピソードが番組内でありましたが、当然ながら、居酒屋ではございません。居酒屋は八剣伝。こちらは、滝沢馬琴の「虚と実」が交錯する時代劇です。そりゃそうだ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『まる』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 10月29日放送分
映画『まる』短評のDJ'sカット版です。

美大は出たけれど、アーティストとして自立はできず、人気現代美術家のアシスタントとして淡々と生きている男、沢田。ある日、通勤の途中に事故に遭ってしまい、商売道具とも言える腕を骨折。それが原因で、あっさりとクビになってしまいます。一人暮らしの部屋に戻った沢田は、これからどうしようかと途方に暮れながら何気なく◯を描いたのが、大きな騒動へと発展していきます。
 
これが27年ぶりの映画単独主演となる堂本剛に沢田という役を当て書きで脚本を仕上げ、メガホンを取ったのが、荻上直子。沢田を取り巻くキャラクターには、綾野剛吉岡里帆森崎ウィン柄本明小林聡美などが扮しています。
 
僕は先週木曜日の夕方、MOVIX京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

この◯という作品が内包しているテーマはとても豊かで、それをまるっと一本の脚本に封じ込めた力にまず感服しました。アート業界への風刺。やりがい搾取。非正規労働。格差。外国人への差別。SNSのあり方。陰謀論。自己責任論。社会における個人の存在価値などなど。それぞれ、個別に映画ができあがりそうなトピックをあまねく程よく取り入れつつ、ユーモラスでいて切実かつコンパクトにまとめていまず。そして、どのテーマも切り込んでいるのに押し付けがましくないのが良いなと、◯にしっかり魅せられました。◯という作品の中心にいるのは、もちろん主人公の沢田なんですが、大勢のキャラクターが彼を取り囲んでいるとも言えて、沢田はその◯の真ん中で何も叫びません。堂本剛が今回徹しているのは、受けの演技なんですよね。周囲で起こる騒動や何かを声高に主張する人に対して、基本は低体温で受け答えをする。堂本剛のボーッとしているのとは違う、つかみどころのない表情や佇まいがとにかく印象的です。あれは僕もちょっとそういうところがあるからわかるんだけれど、できるだけ平静でありたいし、波風はあまり立てないようにすることがもう内面化されすぎている沢田というキャラクターを堂本剛は文字通り体現していました。一人暮らしの部屋で呪文のように平家物語を暗唱している沢田は、ものごとを考えてはいるんですが、ある意味達観して生きてきた節があります。大きな野望は持たず、足ることを知りながら自分のペースで心地よくある。そのベースがきっちりきいているが故に、ある場面で彼が自分の思いを吐露する、◯の中心で叫ぶショットが相当グッと来るんですよね。

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そんなハイライトに向けて進んでいく物語。まず事態が動くのは、怪我をして仕事を失うところです。現代美術家の手足として同じように働いていたアシスタントは、やれこんなの辞めたいとか、搾取されているとか、打ち明けられていたことも「そういうものかな」とやり過ごしていた沢田があっさりとクビになる。まぁ、理不尽です。そこで、さすがの沢田も待ったなしになるんですよ。だって、カネがないんだから。何かカネになるものはないか。美術書でも売るか。あと、なんか、売れる作品でもあれば… 腕が折れたまんま、部屋を這っていたアリを取り囲むように描いた◯を古美術商のお店に持って行ったら、それが知らない間に現代アートのキュレーターに買い上げられていて、◯は平和の象徴だとかなんとか意味づけされた上でアート界の寵児へと祭り上げられていきます。沢田本人の預かり知らないところで。この時点で出てきた要素は、映画の中で繰り返し巡っていきます。たとえば、「こんな仕事をするくらいなら、コンビニ店員の方がマシですわ」っていうアシスタント仲間がいたんですが、沢田はコンビニの店員としてバイトすることになります。アリも示唆的に何度も登場します。沢田の描いた◯の絵の具の中で固まって死んだアリは、システムに取り込まれた個人を想像させるし、働きアリの中に必ず一定数いるというサボるアリの話をしてくるのは、綾野剛演じる漫画家志望の横山。それから、成功者の象徴として小ネタ的に挟み込まれる寿司も興味深いアイテムでした。まさかまさかの海外でも登場した寿司ネタ。こんな風に、脚本がうまく芸が細かいので、ひとつひとつのモチーフが形や姿や意味を変えて、響き合いながら、全体としてそれこそ円のように巡るのが興味深いです。柄本明が演じていた茶道の先生も、最後にはまったく違う驚きの職業で登場して、どこか彼自体がおじいちゃんの姿かたちをした妖精のような浮世離れした存在で面白かったですね。浮世離れと言えば、アートディーラーのペットだと自称する女性アーティストが登場する一連のシーンでは寺山修司の映画ばりの幻影を見せることで、アートを扱う映画としての映像の厚みも荻上監督は出していました。あとはもちろん、大小さまざまな丸い形をしたあれやこれやがこれでもかと出てきます。ここにも◯。そこにも◯。あそこにも◯。

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映画の中でも出てくるように、◯を描く円相という書のスタイルは、仏教の禅の世界で実際にあることです。一般的には、この円相は永遠とか悟りの境地を表すとされます。江戸時代の仙厓義梵(せんがいぎぼん)というお坊さんは、その◯をなんと饅頭に見立てます。森崎ウィン演じるミャンマーからやってきたコンビニ店員のモーは、店の肉まんをトングで掴みながら、「ここにも◯」なんて言ってました。つまり、仙厓義梵が唱えたのは、考えすぎずに身を委ねることも大事だということ。ここが諸行無常と通じます。移り変わり価値だって転倒する世界において、そこにしなやかに身を委ねていくこと。

川っぺりムコリッタ

前々作の『川っペリムコリッタ』でも仏教が大事な要素として出てきましたが、仏教的観念で社会を捉えながら、ひとつの意味に観客を安直に誘導せず、ユーモアをもって、それでも鋭く切り込んでいく。荻上監督の文明批評コメディと僕は呼びたいですが、ますますここに来て表現に脂が乗った痛快な作品です。とかく意味があふれかえる世の中、というか、なんでも意味づけされる世の中において、意味のないとされるものや、ありていに言えば金にならないものや人には存在価値がないとして切り捨てられる傾向にあることへの抵抗ははっきりと表明していました。僕も同感です。でも、それ以外には、いろんなメッセージが読み取れます。おまんじゅうのように、あなたもこの映画をパクっといただいて味わってみてください。


エンドクレジットとともに流れるこの曲。既存曲なわけですが、荻上監督の堂本剛当て書きには、この曲も念頭にあったんだろうと思える呼応の仕方でした。劇伴もENDRECHERIとして堂本さんが担当されていましたよ。

さ〜て、次回2024年11月5日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』です。完全にカルト作と化した前作への落とし前をトッド・フィリップス監督がどう付けるのか。賛否両論を巻き起こすのは織り込み済みなんだと思います。気合い入れて観るとしますよ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!