京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 12月8日放送分

アメリカを代表するシンガーソングライターのブルース・スプリングスティーン。シングル『ハングリー・ハート』が自身初のトップ10入りしてスター街道を駆け上がるように見えた1981年。彼は一軒の家を借りて、ベッドルームでひとり、次のアルバムに向けてデモテープを作り始めます。ヒットを求められる重圧と幼少期の記憶に苛まれる中、テレビでたまたま観た映画『バッドランズ』に影響を受けたブルースは、その衝動に導かれるまま、フォークソングを録音するのですが、それは期待された迫力あるバンドサウンドとは違うものでした。

ネブラスカ ’82: エクスパンデッド・エディション (完全生産限定盤) - ブルース・スプリングスティーン (特典なし) クレイジー・ハート (字幕版)

原作は、作家ウォーレン・ゼインズのノンフィクション『Deliver Me from Nowhere』。監督・脚本は、共同製作にも名を連ねる、『クレイジー・ハート』のスコット・クーパースプリングスティーンを演じたのは、ドラマ「一流シェフのファミリーレストラン」で注目を集めたジェレミー・アレン・ホワイト。マネージャーのジョン・ランダウを『アプレンティス ドナルド・トランプの創り方』のジェレミー・ストロング、ブルースのガールフレンドとなるフェイをオデッサ・ヤングがそれぞれ演じています。
 
僕は先週水曜の夜、Tジョイ京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

©2025 20th Century Studios
大きな流れを作ったのは『ボヘミアン・ラプソディ』と言って良いでしょう。ミュージシャンの伝記映画がこの10年ほど、一大ジャンルとなって続々と世に出てきました。来年のマイケル・ジャクソンも楽しみだし、ビッグネームで言えば、今年はティモシー・シャラメボブ・ディランに扮した『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』が日本でも公開されました。そんな中で、本作の大きな特徴となるのが、描く時期を極端に短くしていること。しかも、ブルース・スプリングスティーンの名盤とはされているものの、地味で渋いフォーキーなアルバム『ネブラスカ』を制作している時期に的を絞っているんですね。ただ、もちろん、それには理由があります。この頃の彼が置かれた状況や曲作りの手法を丹念に描くことで、ボスの人となりや背景がより顕になるだろうという目論見があったからだし、それは概ね成功していると言えます。ファンはもちろんのこと、ひとりの才能あるシンガーソングライターの葛藤や、その先にある表現者としての喜びがありありと伝わってくるので、広く言えば、お仕事映画としても楽しめる作品になっているなと感じます。

©2025 20th Century Studios
ブルース・スプリングスティーンと言えば、押しも押されぬ大スターであると同時に、いくつもエピソードが知られているように、いわゆるセレブのような派手な暮らしぶりではなく、どちらかと言えば庶民の味方とでも言うべきか、名もなき市民の代弁者というイメージがありますね。アルバム『ボーン・トゥ・ラン』もシングル『ハングリー・ハート』もヒットしたことで、レコード会社は今がもう一段上に駆け上がるチャンス、次が勝負作だと言うわけですが、レコーディングにツアーもあって、そもそも上昇志向をベースにしているわけではなかったボスは、自ら孤独を選び、豊かな自然に囲まれた実家近くの一軒家を借り、時折地元のライブハウスに飛び入りのような格好でギタリストとしてロックンロールを鳴らしながらも、基本はいつもひとりで過ごします。金に物を言わせたパーティーも無く、この手のミュージシャンの暮らしにありがちなアルコールやドラッグもない。女っ気はあるんですが、それもかつての同級生の妹だし、彼女はシングルマザーで娘も含めて3人で休日を過ごすようなこともあるくらいで、ロックスターの女遊びみたいなことの対極にあるような雰囲気です。実に誠実なんだけれど、興味深いのは、笑顔でいるような時でも、どこかその表情に影があること。そこで重要になってくるのが、彼の幼少期、一人っ子として育った家庭環境です。父親はこれぞロクデナシと蔑みたくなるような人ではないのですが、往々にして酒を飲み過ぎ、時に暴力も振るってしまう人物だったことが、冒頭からモノクロの回想シーンとしてちょくちょく差し挟まれていきます。

©2025 20th Century Studios
それもあって、ブルースは過去の自分と向き合うたびに内省的になり、それでも嫌いにはなりきれない父親との複雑な想いを音楽に投影することにもなります。周囲がちやほやする中で、名声を得ることにピンとこない彼は、虚無感にも苛まれ生きる価値を見いだせないようなところまで落ち込みながらも、映画や文学、そして地方に生きる市井の人々に創作意欲を刺激されながら、少しずつ曲を作っていきます。たとえば、とある曲で3人称の客観的な歌詞をすべて1人称に書き換えていくところなんて、ボスの音楽を考えるうえでとても重要なシーンでした。ある程度曲が書き溜められ、バンドとレコーディングするも、もともとの素朴なデモテープに固執するくだり、派手なプロモーションを断じて拒むあたり、そしてツアーを再開して父親と向き合うところなんて、これまでの音楽伝記映画とはまた違ったアプローチになっていて見どころと見ごたえがすばらしかったです。演出は決して奇をてらったところはなく、描く対象であるボスその人のように、誠実かつ堅実です。俳優ジェレミー・アレン・ホワイトを信じ、彼は監督を信頼してその要求に応えていました。外見的なモノマネではなく、スプリングスティーンの心の動きやその表現としての音楽を身体に内側からなじませた結果としての体現として立派な演技です。

©2025 20th Century Studios
そんな中、映画ならではの面白みとして、特筆しておきたいのは、過去がカラーになる時。モノクロだったものが色を帯びる時はいつか。そして、ブルースの心の動きに対応するような、微妙なカメラの揺れも忘れられません。心象風景と現実が重なる瞬間、それはこの映画のハイライトとして刻まれることになります。音楽史に残る素晴らしい音楽家の知られざるエピソードを教えてくれる映画として、さらには精神的な難局を乗り越える人間の話として、これは見事な出来栄えとして記憶される1本です。
映画のサウンドトラックは、先週金曜日にリリースされました。その中では、劇中、ジェレミー・アレン・ホワイトがこの曲をスタジオでバンドとレコーディングする場面の歌と演奏がパッケージされていますよ。

さ〜て、次回、12月15日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ナイトフラワー』です。北川景子さんが借金取りに追われながら、子どもたちの幸せのために暴走してしまうというストーリーなんですよね。危ない車の運転をする人の助手席に座ったときみたいに、映画館の座席でありもしないブレーキペダルを踏んでしまいそうだ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『金髪』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 12月1日放送分
映画『金髪』短評のDJ'sカット版です。

三十歳の中学校教師、市川。もはや若手でもなく、中年というわけでもない自分を客観視できないまま、職場や社会を冷静に分析しているようでいて、本音は愚痴という形でSNSに吐露するばかり。自信だけは一人前ですが、職場では無難な言動に終始し、ガールフレンドとの関係も煮えきらない。そんなある日、市川が担任を受け持つクラスの生徒達が髪を金色に染めて登校し、彼女からは結婚の話を切り出されたのです。どうする、市川!?

決戦は日曜日 

監督・脚本は、『決戦は日曜日』や現在公開中の『君の顔では泣けない』の坂下雄一郎。主人公の市川を演じるのは岩田剛典。金髪にした女子生徒のひとり板緑(いたろく)に白鳥玉季、市川の彼女に門脇麦が扮するほか、山田真歩、田村健太郎、坂下組常連の前野朋哉なども出演しています。
 
僕は先週金曜の昼、MOVIX京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

©2025「⾦髪」製作委員会

何かを物語る時には、お膳立てが必要ですよね。この映画は、ファーストカットでいきなり金髪になった生徒たちが出てきます。本来あるべき語りの段取りをもろもろすっ飛ばし、制服をきちんと着た、いわゆるヤンキーではない、ごく普通の中学2年生の生徒たちが頭だけ見事に金色に染めた状態で画面に登場するんです。タイトルからして「金髪」だし、ポスターを見ればわかっていたことなのですが、特別教室に集められた10名余の生徒たちと教壇に並んだ3名の教師が無言で向き合っていることに、観客はそれなりにびっくりします。どこか「なるほど、これはなかなかに大変な事態だ」ということが、特別な説明などなくてもその画面だけでわかる、端的な出だしです。どうしてこんなことになったんだろう。観客は想像を促されます。そこへ、主人公の中学校の先生、市川のナレーションが入ります。「これは金髪の話ではない。私の個人的な話だ」。観客は、またびっくりします。金髪の話じゃないの? 市川の苦虫を噛み潰したような顔にピントが合い、手前の金髪の女の子たちの後ろ姿はぼやけているせいで、画面の半分以上がぼんやりと金色をしているってのに、金髪の話じゃないだと!? ここでふたつめのシーンに切り替わります。市川のこじんまりしたマンション。門脇麦演じるガールフレンドと晩御飯を食べている途中、市川が学校での金髪事件のことを話そうとする直前に彼女から「結婚て、どう考えてる?」と切り出されます。「え?」すると、また画面が切り替わり、市川は完全なるカメラ目線でこちらを見つめながら語りかけてきます。「私が固まったのは、その質問が考えたこともなかった問題だからというのと、その日は仕事で本当に大変なことが起きていて、同じ日にそんな大変なことがふたつも起きるなんてそんなことがあり得るのかと考えていたからなんです。あり得るものなんですね。では、話はその日の朝にさかのぼる…」。

©2025「⾦髪」製作委員会
ここまで2分もかかっていません。この僅かな時間の中に、作品のエッセンスが詰まっています。それは、この市川という男が、頭はそれなりに、いや、かなり回転が早く、事態を分析する力はあるものの、持ち前の自意識過剰な考え方と自信満々でありながら日和見主義で、脳内ではおびただしい量の言葉が渦巻いているものの、それを口にすることはなく、むしろ実際に発する言葉は波風を立てないようにその場を取り繕う保身目的で両論併記のものばかりで、人知れず誰も見ていない匿名のSNSでのみ毒を吐いていること。つまりこれは、市川の現実の言動と内面のギャップがブラックな笑いを生み続けるコメディであることが表明されているんですね。

©2025「⾦髪」製作委員会
こうした主人公の心の声をナレーションで入れる手法を内的独白と言いますが、特に邦画において使われることが多く、映画ファンからは「映画なのに映像や演技ではなく言葉で安直に説明している」と批判されることが多いです。僕も好みではないし、坂下監督だってそんなことは百も承知なはずですが、それでも市川の内的独白が作品を支配しているのは、彼の言行不一致こそが観客の笑いを引き出し、呆れさせ、時にちょっぴり同情させ、やがては自分に引き寄せて考えさせる、社会風刺の装置として極めて有効だからです。

©2025「⾦髪」製作委員会
坂下監督は、これまでの作品でも、映画の制作現場や選挙の現場といったシチュエーションを通して、いわゆる世渡りの巧い人のカッコ悪さを、時に過剰なまでの物語展開で糾弾し、同時に憐れんでもきました。そうした独自の作家性が定着してきたことで評価され、予算も増えて企画も大きくなり、今作においては、岩田剛典というスターを冴えない「おじさん中学校教師」として迎えたことで、いよいよその手腕に磨きがかかっています。

©2025「⾦髪」製作委員会
市川自身がナレーションで言う通り、これは時代錯誤な校則の是非そのものを問うているわけではないけれど、教育現場でのクレバーかつ勇気ある真面目な女子生徒の反乱を通して、日本社会の機能不全を支える未成熟さを顕にしています。教育、政治、ネットも含めたメディア、世代間の対立などなど。カバーしている範囲は意外にもかなり広いです。「私が一番嫌いなのが、第三者が言う正論である。なぜなら言ってることが正しいからだ」なんて芯を食ったセリフも笑えるし、カフェでたまたま市川が同席した見知らぬおっさんとの物語と関係ないように見えるシーンに物語の転換点を持ってくる周到さには舌を巻きました。これを原作なしのオリジナル脚本で、しかも103分というコンパクトな尺で演出できる坂下雄一郎という現在39歳の監督の今後10年20年に、僕はかなり期待しています。今作は、僕も含めて観る人によっては笑顔がひきつるほどに居心地が悪くことを恐れずに切り込みつつ、最後にはほのあたたかい気持ちにしながら、内省を促してくれる佳作です。
サントラは世武裕子が手掛けていて、これがすばらしいので、ぜひまずは予告編で、そして映画館でも楽しんでください。ここでは、Anlyのナンバーを聞いていただきます。映画『金髪』で、板緑という女子生徒が金髪にした理由は、同じ学年の地毛が茶色い女の子が教師から黒にするよう指導を受けたのをきっかけに不登校になってしまったことに講義するためでした。それと同じような経験をしたAnlyはこんな曲でその理不尽さを歌にしていました。

さ〜て、次回、12月8日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『スプリングスティーン 孤独のハイウェイ』です。先日番組にお迎えした評論家のおふたり、田中宗一郎、宇野維正両氏も話題にしていたもの。音楽伝記映画もたくさん作られる中、これはスターになったボスが葛藤していた時期に的を絞るという独自のアプローチ。相当気になっていたんで、当たって良かった! さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

映画『爆弾』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 11月24日放送分
映画『爆弾』短評のDJ'sカット版です。

酔った勢いで酒屋の自販機と店員に暴行を働き、警察で尋問を受けることになった「スズキタゴサク」と名乗る中年男性。彼は、霊感が働くとうそぶくのですが、実際に都内で彼の予告通りに爆発事件が起こり、刑事は当惑します。しかも、爆発はまだまだ続くとスズキは発言し、警察は組織をあげて捜査に乗り出すのですが…

爆弾【電子限定特典付き】 (講談社文庫)

原作は、「このミステリーがすごい! 2023年版」で1位を獲得した呉勝浩の同名ベストセラー小説。監督は『キャラクター』や『帝一の國』の永井聡が務めました。スズキを佐藤二朗、スズキとの交渉に挑む刑事を山田裕貴染谷将太渡部篤郎が演じる他、伊藤沙莉坂東龍汰寛一郎などが出演しています。
 
僕は先週金曜の昼、TOHOシネマズ二条で鑑賞してきました。当初から観客動員で好成績を叩き出してロングヒットとなり、報知映画賞で作品賞をはじめとする5部門にノミネートされるなど批評面でも好調とあってか、10月31日の公開から3週間を経過しても、お客さんは結構多かったです。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

[c]呉勝浩/講談社 [c]2025映画『爆弾』製作委員会
呉勝浩の生み出した原作がまずすごいということは前提として、137分に及ぶ上映時間のほとんどをハラハラさせ続けることができたのは、日本のミステリー映画として相当高いレベルで面白いと言わざるを得ません。自堕落な中年男が酔っ払って起こした暴行と器物損壊。どこの町にもありそうな、刑事も「やれやれ、またか」と言いたくなるような事件を機に警察へと入り込んだスズキタゴサクが始めたのは、一見無邪気なようでいて、その実かなり知的な言葉のやり取りで構成されたゲームであり、ゲームでは済まされないリアルタイムで展開する凄惨な事件です。小石が起こした波紋は際限なく広がり、肥大化し続けていきます。関わる人数も多くなる。スズキが繰り出す言葉はどれも周到に計算されていて、その謎を解く「楽しさ」と「禍々しさ」が同時に押し寄せてきます。そして、社会における人の命の価値、経済格差、序列、不条理、悪意といった目を背けたくなる事象をえぐり出されていきます。

[c]呉勝浩/講談社 [c]2025映画『爆弾』製作委員会
見事に構築された物語ではあるものの、映画化は簡単ではなかったはずです。なにせ、取調室という密室での対話が軸になるわけで、下手すると画面構成が単調になるわけですから。永井監督や脚本家陣の作戦は的を射ていました。密室での知的遊戯としてのミニマルな会話劇においては、染谷将太渡部篤郎山田裕貴、そして寛一郎という4名の刑事にそれぞれ的確なキャラクター造形を行うことで変化をつけ、彼らを通して警察という組織の構造や問題点を見せています。あの取調室は、言わば物語のコントロール・ルームになっていて、外にいる警察官や取調室から出ていった刑事たち、さらには事件の関係者たちを動かす、というより、操る格好になっていました。たとえば、爆弾がいつどこそこで爆発する可能性があるとわかれば、警察はその対応に追われる。あるいは、スズキタゴサクの過去の行動・足跡や人間関係を割り出そうと捜査を展開する。こうした外の動きを巧みな編集でパズルのように組み合わせることで、佐藤二朗が頭を丸めて挑んだ鬼気迫るスズキのクロースアップから、爆弾がどこに仕掛けられているかわからない恐怖を煽るロケ撮影のロングショットまで、画面に抑揚をつけることに成功したんですね。

[c]呉勝浩/講談社 [c]2025映画『爆弾』製作委員会
特筆すべきショットもいくつもありました。僕がハッとしたところを、2つ挙げておきます。まずは、序盤、染谷将太演じる等々力刑事と警視庁からやって来た頭の切れる山田裕貴演じる類家刑事の最初のやり取り。ふたりは捜査本部の外で短い立ち話をして、山田裕貴は本部へ戻ります。カメラは本部側、室内に据えられていて、ガラス扉の向こうに染谷将太が立っているのを捉えているのですが、山田裕貴が通った後に扉が揺れているので、ガラス越しの染谷が微細に揺らいで見えるんです。これによって染谷演じる等々力の心の揺らぎと、これから起こるだろう出来事の不穏な予兆を表現していました。

[c]呉勝浩/講談社 [c]2025映画『爆弾』製作委員会
続いては、細かい描写は避けますが、スズキが話していたエピソードのひとつが嘘だと判明する場面。映像はあたかも「こういうことがありました」と再現VTRのごとく展開していたのですが、実際には再現でもなんでもない作り話だということを、その映像内のたったひとつの小さな動きと視線のみで表現し尽くしていたことには、目を見張りました。あれは映画でないとできないうえに、なかなか思いつかない見事な演出でした。

[c]呉勝浩/講談社 [c]2025映画『爆弾』製作委員会
といったように、微に入り細を穿つキャラクター造形とそれを体現する俳優たちの演技、物語内で起こる事件の計画性に匹敵する緻密な脚本構成、丹念に考え抜かれた映像演出によって、少なくとも今年屈指の上質なエンターテインメント大作になっています。笑ってはいけないと思いながら不覚にも笑ってしまうセリフも結構あります。「嫌味が咲き誇っています〜」というスズキの言葉につい声を出して笑ってしまいました。と同時に、特に物語の終盤、事件の全容がある程度見えてきたところで、理屈としてはわかるけれど、現実問題としてこんなことがそれだけの時間で仕組めるものだろうかという疑念が浮かんだことも事実です。特にミステリー好きの観客なら、そうした穴は他にも見えてくるでしょう。でも、そうやって垣間見える穴を間髪を入れず繰り出す次の展開で覆い隠す勢いがこの映画にはあるので、僕はあまり使わない言葉ですが、あえて使えばジェットコースター的な面白さがあるから最後まで熱が冷めないんです。

法廷占拠 爆弾2

原作には、去年出版された続編があります。そう、この映画も終わってもモヤモヤする余韻が上手に残してあります。これだけ高いレベルの映画化で、興行的にも批評的にも成功しているわけですから、僕も続編が観たいです。原作の続編『法廷占拠 爆弾2』は、迷わず買ってしまいました。読みながら、映画の続編を待つことにします。ものすごく求心力のある映画なので、映画館で集中して鑑賞するのが最善の策ですよ!
おいおいおい、これ最後、どんな気持ちになったら良いんだ。そんな強烈な余韻に覆いかぶさってくるのが宮本浩次が担当したこの主題歌です。

わたしは目撃者 [Blu-ray] 恐怖 ダリオ・アルジェント自伝

ところで、スズキタゴサクが冒頭で提案する「9つのしっぽゲーム」。山田裕貴演じる類家刑事は、検索してもそんなゲームは出てこないって言ってましたが、僕はダリオ・アルジェントの映画『わたしは目撃者』を思い出しました。あれ、オリジナルタイトルが「9尾の猫」なんですよ。オマージュ? 関係ある? ない? 答えは藪の中であり、風の中です。

さ〜て、次回、12月1日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『金髪』です。岩田剛典演じる未熟な中学校教師が、生徒たちの金髪デモに振り回されながら成長するシニカルなドラマ…。き、金髪、デモ!?  この強すぎるワードで一気に興味が湧いてきましたよ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 11月17日放送分

1906年に生まれ、1945年、39歳という短い生涯を殉教という形で終えたドイツ人牧師ディートリッヒ・ボンヘッファー。第二次大戦下、ナチスに教会が支配される中、迫害を受けるユダヤ人を救うため、平和を祈るのみならずスパイ活動に身を投じることになった彼の生きざまを描く伝記映画です。
 
監督・脚本・製作を兼務したのは、『ハドソン川の奇跡』や『博士と狂人』など、実話をベースにした物語に定評のある脚本家のトッド・コマーニキ。ボンヘッファーを演じたのは、バラエティ誌で「注目すべきヨーロッパの若手映画人10人」にも選ばれている実力派のヨナス・ダスラー。その他、『イングロリアス・バスターズ』のアウグスト・ディールなども出演しています。
 
僕は先週の水曜夜、アップリンク京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

© 2024 Crow’s Nest Productions Limited

さっきざっくりまとめた概要だけを見れば、この手の「ユダヤ人を救うヒーローの物語」は既視感があるという人も多いでしょう。ナチス政権下で自らの立場や生命を危険にさらしながらも人道的な活動をした人物は実際に一定数いたわけで、おそらく映画や小説になっていないケースもたくさんあるのだと思います。有名なところで言えば『シンドラーのリスト』があるし、10年前には『杉原千畝 スギハラチウネ』もありました。ナチスへの抵抗を描いたものなんて、『白バラの祈り』や『ワルキューレ』などなど、枚挙にいとまがありません。もちろん、今作も大別すればその系譜に入るわけですが、観れば新鮮な驚きと感動を得る作品になっていました。その理由を挙げることで今作の特徴を浮き彫りにできるでしょう。

© 2024 Crow’s Nest Productions Limited
まず最大の理由は、ボンヘッファーが学生や農夫のような市民でも外交官でも軍人でも医者でもなく、聖職者であった点です。そして、アメリカへの留学経験があること。幼い頃、第一次世界大戦に派兵されて亡くなった兄から託された聖書に夢中になった彼は、神学の道に邁進し、その優秀な成績を買われ、ニューヨークの名門ユニオン神学校でアフリカ系アメリカ人のコミュニティと親交を深めることで、長い長いキリスト教国としての歴史によって、ともすれば形骸化したカビ臭いドイツの教会システムとは違う、自由の国アメリカの姿を目の当たりにしました。一方、厳然たる黒人差別の実態に衝撃を受け、「ヨーロッパにはない」苛烈な差別の中で、黒人たちはジャズを楽しみ、ゴスペルを歌い、日常生活のあらゆるシーンで信仰を実践している姿は、ボンヘッファーに大きな衝撃を与えます。

© 2024 Crow’s Nest Productions Limited
ただ、歴史が証明しているように、差別や優生思想、不寛容というものは人間が世界中のあちこちで度々繰り返してきたことなわけで、ドイツに戻った彼は、ヒトラー率いるナチスが合法的な選挙を経てみるみる国民を操るようになるさまを目撃します。当初はボンヘッファーもその力を見くびっていましたが、人々は雪崩を打って全体主義へとなびいてしまいます。国力が一度落ちていたとことに、自分たちを鼓舞してくれる言葉に酔って熱狂した人もいれば、寄らば大樹の陰とばかりに権威や権力が生み出すトレンド的な価値観に「今はそういう風向きだから」と従属していった人もいる。その抗しがたい流れは、教会システムをもやすやすと飲み込み、聖職者たちはあっさりと聖書を放棄し、十字架の代わりに鉤十字が教会に据えられるにようになります。この一連のシーンが丁寧に描かれている映画を僕は知りません。人々を分け隔てなく包摂するはずの宗教家たちがいともたやすくその役割を放棄する様に、ボンヘッファーは忸怩たる思いを抱きます。組織化して一大権力と化していた教会システムにかねてより疑問と反感を抱き、「教会は神の家であり、人々のシェルターであるべきで、自分が神のごとく振る舞う人間のものではない」と帝国教会と名を変えた祈りの場所を後にします。そこからスパイ、果ては暗殺計画への加担、そして死へといたる流れはスクリーンで確認いただきたいところですが、ボンヘッファーのこのあたりからの行動の指針となるセリフを紹介しておきます。「暴走する車にひかれた犠牲者に包帯を巻いてやるだけでなく、車そのものを止めることこそ、牧師の仕事である」。そして、確かアメリカで耳にした言葉だったと思いますが「悪の前で沈黙することは悪である」ということも念頭にありました。これは遠い国の80年前の過去の話ではありません。日本も含めた多くの国で現在進行系で起きている現象、ドイツで虐殺されたユダヤの民の中のシオニストがガザで起こしていることなどなど、今を照らす映画にもなっています。

© 2024 Crow’s Nest Productions Limited
演出面で優れていたのは、幼少期の鮮やかな色と収容所に入れられてからのモノクロームのような色と光の調整。死へと確実に向かっている晩年のシーンと幼少期から時系列に進んでいく様子を行きつ戻りつする編集は、ずんずんと後戻りできない状況に陥った切迫感を端的に表していました。史実からは逸脱しているとも言われますが、処刑直前に彼が執り行う最後の晩餐さながらの聖餐式(せいさんしき)という儀式には、ボンヘッファーがいかに純粋にキリスト者としてその生を全うしようとしているのか、愛を実践しているのかが強調される見事なシーンでした。そして、ヒトラーはもちろん、ルイ・アームストロングチャーチルなどをさり気なくも的確に登場させていることにも目を見張るし、ナチスを絶対悪にするのは当然として、お隣の中立国スイスや連合国側をきっぱり善として描かず、安易な勧善懲悪の構図に落とし込まなかったことも印象的でした。

© 2024 Crow’s Nest Productions Limited
事実として、ディートリッヒ・ボンヘッファーは、連合国が勝利して収容所の人々が解放されるたった2週間前に亡くなりました。悲しいし、ヘビーな題材に鑑賞を躊躇する方もいるやもしれませんが、視覚的に残酷な描写は控えられていますし、巧みな演出でみるみる引き込まれます。僕も不勉強なことに知らなかったボンヘッファーですが、予備知識も思ったほど必要ないと言っておきたい。容赦なく引き込まれ、僕たちひとりひとりが能動的に考え葛藤し、その先に光を見出すべき作品です。あのラストシーンのように。
 
アメリカ・ベルギー・アイルランドの合作映画ということで、みんな当たり前にどこでも英語を喋っていることには違和感を覚えましたが、この力作を前に、そこをつつくのはためらわれます。
主題歌は、アメリカの一大ジャンル、クリスチャン・ミュージックのスターのひとりでグラミー受賞経験もあるローレン・デイグルが歌っていました。

さ〜て、次回、11月24日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『爆弾』です。おみくじを引いた瞬間、僕が口走った「『爆弾』が当たりました」。言ったそばから、「アブねぇな」って自分でツッコみましたけど、もちろん「『爆弾』に決まりました」という意味でした。『ボンヘッファー』も息つく暇がなかったけれど、これもきっとそうだろうなぁ。良い評判も多く聞かれるので、楽しみです。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『ローズ家 〜崖っぷちの夫婦〜』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 11月10日放送分
映画『ローズ家 〜崖っぷちの夫婦〜』短評のDJ'sカット版です。

建築家のテオと料理人のアイヴィはロンドンで恋に落ち、互いの夢を実現しようとカリフォルニアという新天地を選んだ夫婦。ふたりの子どもに恵まれ、キャリアも順調だった矢先、テオの事業が破綻してしまいます。一方のアイヴィは家族を守るべく、さらに仕事に邁進するのですが、それぞれの不満や嫉妬が蓄積し、夫婦関係はのっぴきならないことに…。

ローズ家の戦争 (字幕版) ローズ家の戦争 (角川文庫 赤 ア 2-1)

1981年にウォーレン・アドラーが発表した小説を原作にした1989年製作の映画『ローズ家の戦争』。今作はそのリメイクというよりもリ・イマジネーションというくらいの位置づけで換骨奪胎されていまして、脚本は『女王陛下のお気に入り』のトニー・マクナマラ。監督は『オースティン・パワーズ』シリーズや『スキャンダル』のジェイ・ローチ。テオとアイヴィは、それぞれに今作のエグゼクティブ・プロデューサーも務めたベネディクト・カンバーバッチオリヴィア・コールマンが初共演しています。
 
僕は先々週の木曜夕方、大阪ステーションシティシネマで鑑賞してきましたよ。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

[c]2025 Searchlight Pictures. All Rights Reserved.

先ほど概要をまとめたところでお話したように、これはリメイクというよりも、原作及び最初の映画化から再度イマジネーションとクリエイティビティの翼を広げた別の作品というくらいに内容が変わっています。そこにはいくつか理由があるのでしょうが、一番大きなものは、夫婦関係に代表されるパートナーシップが時代によって移り変わるものであり、それを踏まえた現代の物語に作り手たちがアップデートしたかったからです。ベネディクト・カンバーバッチを含むプロデューサー陣が、脚本をこの人に依頼することが大前提としたトニー・マクナマラは、こう言っています。「結婚という概念は、社会の中で常に変化し続けているし、そのあり方は大きく進化したと感じました。この映画は、結婚しようと努力する人たちに対して、前作よりもずっと共感的な視点を持っていると思います」。そう、ブラック・ユーモアや社会風刺、皮肉といったトーンは継承しながらも、今作では「あんなに愛し合っていたのに」というふたりがその愛を育てたいという想いを終始抱きながらも、それが予測不能な出来事やすれ違いによって阻まれてしまうという悲喜劇(トラジコメディ)に着地しているんです。これは、妻が早々に夫を見限り、夫がそれをマッチョな力で食い止めようとする前作との大きな違いでしょう。

[c]2025 Searchlight Pictures. All Rights Reserved.
この構造をより強固にするため、マクナマラは大きな設定変更を加えています。たとえば、夫の職業は弁護士から建築家になっています。自分の思惑通りに運ばなかったイギリスでのマンション建設のプロジェクトをきっかけにアメリカへ移住した彼は、トントン拍子に成功し、地元カリフォルニアの海洋博物館の設計を手掛けるようになります。ところが、とんだ不確定要素(はっきりと彼の仕事上の落ち度もありますが)のおかげで失墜してしまうその日に、料理人である妻は成功への足がかりを得ます。そんな文字通り嵐のような1日が、オセロのように関係性をあっさりとひっくり返すのです。上り調子でプライドも高まり調子に乗っていた夫は、子育てに邁進する専業主夫に。料理人としてほそぼそと店を切り盛りすることで満足していた妻は、一転して支店を次々に出すようなやり手経営者へと成功の駆け上がっていく一方で、家族と過ごす時間はめっきり減ってしまいます。立場の逆転とすれ違い、そして互いの立場への嫉妬。前作であれば、これだけの条件が整えば、地獄の釜の蓋が開くようなもので、夫婦関係は下り坂を転がり落ちていきそうなもので、実際に前作はそういう方向だったわけですが、今作においては、ここから夫の職業の設定変更が大いに活きてきます。

[c]2025 Searchlight Pictures. All Rights Reserved.
ふたりは、それでも相手を想う気持ちには変わりがなく、かつて手に手を取ってアメリカへ移住してきたように、妻の大成功によって得た資金を元手に、海辺の崖の上に豪邸を建設することを決意します。当然、設計するのは夫です。建築家の代表作が自分の家であることは多いですが、テオもこの家を自分の最高傑作にするべく心血を注ぎます。うまくいけば、それはふたりの愛の巣になるはずですが、金を稼がない夫が自分のキャリアの総決算であり、結節点だとばかりに湯水のように金を使い始めることで、妻はまた猛烈に働かなければならなくなるという悪循環。

[c]2025 Searchlight Pictures. All Rights Reserved.
前作でも家はふたりの財産であるということで、子どもたちの養育権とともに離婚調停における争いの種となっていましたが、今作ではふたりの家にかける想いがもっと重層的になっています。夫の「傑作」であると同時に、夫が妻を想って設置した見事なキッチンもあるし、なにしろ資金は妻の成功で得たものなわけですから。この家は実際に象徴的な意味合いも帯びているので相当力が入って造形されていて、よく見ると、階段は不安定に見え、壁には穴が開けられ、寝室の大きな窓は傾いている。そういうデザインなんだけれど、ふたりの関係を示唆し、行く末を暗示するようです。なにしろ、副題にある通り、崖っぷちに建ってもいますから、晴れていれば景色は良いし癒しにもなるのだけれど、ひとたび雨が降って風向きが変われば、そお崖には不穏な荒波が打ち寄せるのですから。そして、もうひとつ、家のありとあらゆることをAI搭載のスマートスピーカーで操作できるハイテク仕様なのも面白いです。思えば、テオの失墜はSNSで拡散されていたし、『2001年宇宙の旅』のコンピュータHALよろしく、家のAIはそこに住む人間の暮らしを円滑にするどころか、争いの武器として機能するというテクノロジーへの皮肉も痛烈でした。

[c]2025 Searchlight Pictures. All Rights Reserved.
さらにもう一点、重要な変更点は、夫婦をイギリス人にして、住んでいるアメリカとのカルチャーギャップを物語に取り入れていること。アメリカのフランクできっぱりとした率直な物言いに対して、この夫婦はウィットとユーモアを表現のベースにしすぎた結果、自分の本音をうまく伝えられないところがあり、それは映画の冒頭と中盤に挟まれた夫婦の心理カウンセリングの場面にも端的に現れていました。
 
「互いの好きなところを10個挙げてみて」という要望に対する回答が悪口合戦に発展する。「死にかけた犬みたいな笑い方」「遠くから眺めると頭の形がいい」などなど。大喜利よろしく、罵り合いながらも、ふたりはそれぞれに笑顔で吹き出してしまいます。そう、実は徹頭徹尾相性の良いふたりなんですよ。終盤、こんなセリフも出てきます。「私たちは語彙が豊かすぎる」。そうなんです。表現力があるのは良いのだけれど、それによって本音を覆い隠し、愛の本質から逸脱してしまうというのは、笑えると同時にやがて哀しき悲劇でもあります。僕たちだって多かれ少なかれ、人間関係において、すれ違い、行き違い、言い過ぎたり、言わなさ過ぎたりして、辛酸や苦汁をなめて生きているわけですよね。それが人生なんだから、この夫婦のやり取りは胸に迫るものがありますよ。笑いも社会問題もお手の物というジェイ・ローチ監督と人間関係の描写に類稀なる才能を発揮するトニー・マクナマラ。イギリスを代表するカンバーバッチとコールマン。彼らが映画的表現と演技のボキャブラリーを尽くして観客に迫る見事なリ・イマジネーションに、大いに舌鼓を打てる見事な作品でした。
タートルズの名曲が2度使われるのもその意味合いに変化を持たせているのが面白かったし、何より、男女のデュエットでカバーしてあるのがすばらしい。しかも、女性ボーカルを監督ジェイ・ローチの妻である元バングルス、スザンナ・ホフスが担当しているという用意周到さよ!

さ〜て、次回、11月17日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ボンヘッファー ヒトラーを暗殺しようとした牧師』です。これは伝記映画なんですが、不勉強ながら、ボンヘッファーという聖職者の存在をまったく知りませんでした。それにしても、第二次大戦下のドイツの話はいくらでも出てくるなぁ。それほどに、やはり人類史に残る悲劇があったんだと噛み締めながら、ボンヘッファーの人生について学ぶことにします。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

サイレント映画、新プロジェクト始動のお知らせ(まだ夜明け)

どうも、有北です。

 

先日、ドーナッツクラブの有志によるドーナッツ会議が開かれました。僕たちドーナッツクラブは定期的にこのような会議を開き、おもしろプロジェクトを打ち立てています。翻訳や映画上映会をはじめ、その枠に収まらないさまざまなトークイベントも、話し合い、アイデアを煮詰め、今までにもたくさんお目にかけてきました。

 

さあ、その中で、前々からたびたび話題に上がっていたアイデアを、ついに形にすることにしました。

 

「イタリアのサイレント映画 弁士付き上映プロジェクト」(仮)です!

 

簡単に言えば、100年以上前に作られたイタリア映画を、日本が誇る「弁士付き上映」のスタイルでよみがえらせる、という試みです。

ジャズ・シンガー (字幕版)

歴史を紐解くと、1927年に『ジャズ・シンガー』という音声付き映画が世界で初めて公開されました。つまり、再来年はトーキー映画100周年という記念すべき年です。しかし、逆に言うと、サイレント映画がさらに遠ざかっていく年でもあるわけです。

 

皆さんご存じでしょうか。日本でもイタリアでも、サイレント期こそが映画史最初の黄金期だったということを。数分くらいの短編に始まり、2時間以上に及ぶ長編まで作られるようになった、映画の表現が大きく広がった時期です。イタリアでは『カビリア』(1914年)といったハリウッドをしのぐスケールの大作も生まれ、世界中がイタリア映画に魅了されていました。

カビリア(字幕版)

そんな魅力あふれるサイレント映画が、このままだと忘却の彼方に消えてしまう……。
そこで、僕たちは今あえて「音のない映画」に光を当てようと立ち上がったのです。

 

日本のサイレント映画には、「活動写真弁士」という存在がありました。字幕やト書きのような文字情報が挟まることはあるものの、文字だけでは物語が伝わりにくく、語りで補うことが必要でした。日本には講談や落語という一人話芸の伝統があったため、こうした人たちが説明役を担い、やがて弁士として独立した地位を得ていったのです。人気弁士にはファンがつき、彼らを目当てに劇場に足を運ぶ人もいたほど。つまり、どんな映画かよりも、どの弁士が語るかが大事だったという側面もあるんです。なんだか、音楽におけるDJの役割にも通じるところがあります。

 

ただ、日本の活動写真弁士がイタリアのサイレント映画を題材にしたという話は、ほとんど聞きません。一方、イタリアでは語り手がいることはあっても(このあたりはまだまだ勉強不足)、日本ほど確立した地位には至らなかったのは間違いありません。

 

そこで、ピンときたんです。


「イタリア映画」と「日本の弁士」を掛け合わせてみたら、面白いんじゃね? と。
100年以上前に黄金時代を築いたフィルムに、現代の語りや音楽が介入すれば、新しい命を吹き込めるんじゃないか。そんな発想から、このプロジェクトは動き出しました。

 

イタリア北部の町ポルデノーネでは、毎年「ポルデノーネ無声映画祭(Le Giornate del Cinema Muto)」が開かれます。世界中から映画研究者や愛好家が集まり、1週間にわたって朝から晩までサイレント映画を観るという、めちゃくちゃぶっ飛んだ映画祭です。

 

街じゅうが映画館になり、さまざまな場所で上映がおこなわれます。もちろんフィルムに音はついていません。そこでどうするかというと、ライブ演奏で音楽がつけられます。ピアノ1台だけのところもあれば、フルオーケストラのところまで、会場と設備によってさまざまですが、100年以上前から、映画上映というのは基本的にコンサートに近いものだったんです。

2006年のポルデノーネ無声映画祭で関係者ヅラしている野村雅夫

今はもちろん、映画には固定のサウンドトラックがありますよね。たとえば『ニュー・シネマ・パラダイス』にはモリコーネの音楽が欠かせません。でも当時のサイレント映画は、即興で音楽がつけられたり、会場によって演奏が違ったりすることもあったはず。そういう意味で、人がライブで上演して完成するもの、という性格があった。

 

そう考えると、100年後の僕らが介在できる余地もある。今ならではの解釈や表現で、自由に演出できる。ピアノやギター、シンセサイザーカホーンジャンベのようなリズム楽器、さらには生の効果音も面白いかもしれません。弁士の語りもライブなので、上映ごとに変わる。語り手が変われば、まったく違う体験になる。ゆくゆくはバンドとコラボしたりして、映画と音楽の間に新しい対話を生み出すこともできるかもしれません。

今年の映画祭の模様。rainew.it より。



このプロジェクトは、まさにそんな可能性のかたまりでもあります。

 

初回の公演は、2026年春を予定しています。おそらくですが、上映時間は90~100分ほどで、短編をいくつか束ねてお届けする予定です。コメディ、メロドラマ、歴史もの、紀行など、サイレント映画の多彩な世界を楽しんでもらえるように作品を選び、トークも交えながら、「そもそもサイレント映画って?」というところから一緒に探っていきます。

 

この発表は、いわば退路を断つ決意表明でもあります。現段階では頭の中もプロジェクトの全体像もメレンゲのようにふわっとしています。正直、課題も山積み。だけど、発表しちゃったからにはもう前にしか道がない。半年間じっくり準備を進めながら、その過程もこのブログでドキュメンタリー的にご報告していくつもりです。

 

そういえば、イタリアにはこんなバルゼッレッタ(短いジョーク)があります。

 

Attore del cinema muto: “Finalmente posso parlare nei film!”
Regista: “Ottimo… ma ora non servono più esagerazioni con le mani.”
Attore: “Allora sono disoccupato.”

 

(和訳)
サイレント映画の俳優が言った。
「やったぞ! ついに映画でしゃべれるようになった!」
監督が言った。
「すばらしいことだ。だから、もうそんなに大げさな手振りはいらないぞ」
すると俳優が言った。
「じゃあ、俺、クビかな」

映画に音がついた頃、こんな会話が実際にあったのか、なかったのか。でも、歴史や文化は常に移ろい、その時々で表現方法も変わってきました。一世を風靡したイタリアのサイレント映画に、100年の時を経てどんな命を吹き込めるのか、今はとにかくワクワクが止まりません。

いずれにしても、


「100年以上前のイタリアのサイレント映画で、こんなに楽しめるのか!」

そんな驚きを皆さんと共有できる時間にしたいと思っています。ぜひ、このプロジェクトの進捗をしばらく見守ってくださいね!

『ホウセンカ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 10月27日放送分
映画『ホウセンカ』短評のDJ'sカット版です。

無期懲役刑で独房に暮らす元ヤクザの老人阿久津は、病に冒されていました。布団に横になっていると、枕元の空き缶詰に土を入れて植えてあるホウセンカの花が話しかけてきます。「ろくでもない一生だったな」。阿久津は驚きながらも、ホウセンカとの「対話」を通して、過去を振り返ります。かつて海沿いの街で、那奈という女性とその連れ子健介と一緒に暮らした慎ましくも幸せだった日々のことを。

オッドタクシー

監督とキャラクターデザインは木下麦、原作と脚本は此元(このもと)和津也というTVアニメ「オッドタクシー」のコンビが務めました。企画と制作は、『この世界の片隅に』のアニメーションプロデューサーを務めた松尾亮一郎が設立したスタジオCLAPが手掛けています。阿久津の声は現在を小林薫、過去を戸塚純貴が担当。ホウセンカの声をピエール瀧が当てている他、満島ひかり宮崎美子なども声優として参加しています。そして、サウンドトラックはceroが担当しました。
 
僕は先週水曜日の夕方、アップリンク京都で鑑賞してきましたよ。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

珍しいアニメですよ。設定がすごいもの。老いさらばえた老境のヤクザの話ですよ。しかも、刑務所に入っていて、実は脱獄を企て続けて30年っていう話なら、まぁ、映画になりそうですけど、脱獄どころか、現在の主人公阿久津は、ほぼ独房から外へ出ません。そして、はたからみれば独り言ですよ。あろうことかホウセンカの花と語り合っている。地味にも程があるでしょ。西川美和監督の映画で役所広司が主演した『すばらしき世界』ってのがあって、設定としては近いものがありますけど、役所さんが演じるヤクザはわりと早い段階で出所しますよね。こちらは、外へ出ない。もちろん、過去をたっぷり回想はしますが、それにしたって、海辺の小さなアパートとバブル期の郊外の新興住宅地がメインです。地味にも程があるでしょ。実写でもそうなのに、アニメですからね。若者の青春も恋物語も夢もない。つまり、パターンに乗っていないんです。でも、考えてみれば、脚本の此元和津也は実写映画化された『セトウツミ』の漫画家です。あれは、男子高校生の話だけど、基本的に川辺でふたりがだべってるだけでした。それから、本作のコンビである木下麦監督と手掛けた『オッドタクシー』も、中年から壮年期に入った一人暮らしのタクシー運転手が主人公という、あれはあれで特異な設定でした。要するに、此元和津也という人は、少なくとも日本では王道とされるパターンを分析したうえで、その枠を刷新するというよりも、人間を描くにあたり、もっと可能性は他にあるはずだという別の枠や型、あるいは水脈のようなものを掘り当てようとして、それに成功しています。ただし、TVアニメでそれはいくらなんでも挑戦的すぎるわけで、『オッドタクシー』では、映画『ズートピア』よろしく、すべてのキャラクターを擬人化した動物にしていたことで、独特のおかしみや風刺が全編に漂うという仕掛けがありました。今作『ホウセンカ』では、さらに挑戦的に、アニメではあるけれど、実写に近い緻密な描写を軸にしてリアリズムに寄せてあります。

©此元和津也/ホウセンカ製作委員会
そこで良いスパイスになるのが、ベラベラとよく喋るホウセンカの花という狂言回しです。ピエール瀧が声を当てているので、便宜的に彼と言っておきますが、彼は実は青年期の主人公阿久津が那奈とその息子健介とささやかな幸せを形作っていたアパートの庭に咲いていた存在で、阿久津たちの身に起きたことをずっと見ていました。って、これは完全にファンタジーですよね。だから、リアリズムとファンタジーを絶妙に織り交ぜることによって、この映画独自の語り口とアニメとしての面白さを担保しています。加えて、昔咲いていたホウセンカが、なぜ今阿久津の独房にいるのか。ここにはファンタジーながら、ちょっと強引ではあるものの、一応植物学に基づいた、そして仏教的な思想を背景にしたロジックを用意しつつ、観客の興味を掻き立てる仕掛けも宿らせていました。要するに、地味な映画に見えて、ちゃんとむちゃくちゃ面白いんです。漫画、アニメ、実写映画と自分の話を展開させてきた此元和津也作品の良さが凝縮していて、マジックリアリズム的なスタンスに見事に着地しています。

©此元和津也/ホウセンカ製作委員会
キャラクターの動きや会話の雰囲気は、アニメの先行作品というよりは、北野武の映画に通じるところがありました。社会のはみ出し者が取る、巷に流布する善悪と違った行動規範に基づく不器用な純愛がテーマというのは、まさにそうですよね。『HANA-BI』という北野映画の名作がありますが、あれは念頭にあったでしょうね。今作においても打ち上げ花火は重要な役割を果たします。あの海辺の町に打ち上がる花火は、単に美しいモチーフというだけでなく、映画全体のチャプターを分ける効果を果たしていて、アニメ表現としても見事でした。ホウセンカの種が弾けて飛び散る動きともシンクロするし、最初の花火から数年して打ち上げる時には、アパートの庭からの景色が変化していましたね。あれは阿久津の可能性や未来が狭まっていることを示唆しているとも取れます。あと、阿久津には特殊かつ正確な空間認識能力があって、正確なデッサンができる絵心もありました。最初に花火が打ち上がる時に挟まれる庭を描いた鉛筆画も、今思えば伏線だったし、この映画における時間という重要なテーマをさりげなく観客に植え付けていました。

©此元和津也/ホウセンカ製作委員会
そう、この作品は90分の上映時間の間に数十年の時間を行ったり来たりします。その時間の振り子の中で、命、そして劇中で「大逆転」という言葉で表現される誰かをずっと想い続ける尊い感情と人生をかけた夢を描いています。それは確かに僕たち観客の心を動かすし、温めてもくれます。木下麦と此元和津也のコンビは、日本のアニメの新たな地平の開拓者として未来を見ています。あなたも『ホウセンカ』を劇場で観て、ふたりの眼差しを確認してください。
サウンドトラックはバンドceroが手掛けています。とても良かったので、これからもこの手の仕事でまた引き合いがあるんじゃないかと思いますよ。中でもこの挿入歌は、劇中では阿久津と那奈が段ボール箱のガムテープを剥がす音と電子レンジのチンという音を使ってリズムを作っていく、生活音のリズムに気づく流れが楽しいシーンでした。2回この曲のメロディーが使われるとあって、伏線としても効果的でしたね。

さ〜て、次回ですが、来週は文化の日でCIAO 765はホリデースペシャルver.になることから、CIAO CINEMAのコーナーはお休みです。ということで、再来週、11月10日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ローズ家〜崖っぷちの夫婦〜』です。ぴあ関西版の華崎さんが番組で注目作として紹介してくれていた時から楽しみにしていたんですよ。僕、大人の喧嘩ものって、結構好きなもので。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!