京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『ファーザー』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 9月14日放送分
『ファーザー』短評のDJ'sカット版です。

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ロンドンの広いマンションで一人暮らしをするアンソニー、81歳。記憶が怪しくなってきてはいるものの、まだまだ人の手を借りる気はないと、娘のアンが手配する看護人を拒否し続けていました。ある日、パリに恋人ができたので、引っ越すとアンから告げられてショックを受けたアンソニーでしたが、家には彼女と10年連れ添っているという見知らぬ男が現れて、当惑することになります。

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 監督と共同脚本はフランスの劇作家フローリアン・ゼレール。これが長編デビュー作ですが、原作はゼレールが2012年に発表した戯曲でして、日本では橋爪功が主演して絶賛されるなどしていたものを自ら映画化しました。主演はこの作品でアカデミー主演男優賞を獲得したアンソニー・ホプキンス。娘は『女王陛下のお気に入り』でアカデミー主演女優賞を穫ったオリヴィア・コールマンという強力タッグです。

 
日本では5月14日に公開された本作ですが、その際にはおみくじで当たらず、今回、8月14日からプレミアム先行配信がスタートしていたタイミングで、改めて候補作としましたが、僕は先週土曜の夜、まさにその先行配信が終わってしまったタイミングで観ようとして観られず、オロオロしたんですが、アマゾンで2400円出せば購入できることを知ってホッと安心しましたが、買って良かったと思えるすばらしさでございました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

この映画を観て、しばらく、アンソニーと娘のアンのやりとりが続きます。認知症の介護エピソードではよくある「誰かにものを盗まれた」なんて流れから、彼の腕時計が風呂場から出てくるんだけれど、それは自分でしまいこんでいただけではないのか。そして、介護人は信頼できないとか、アンにはアンの人生があるのだけれど、同じ街に住めない場合はどうするか、なかなか言いだせないアンの表情。口の悪いアンソニーの高慢な態度と切なさ侘しさ。そりゃ、そうだよなぁ、こりゃ大変だと思っていたところへ、僕たち観客がギョッとする展開が不意に訪れましたね。「え? ちょっと待って、これ、どゆこと? じゃあ、さっきのはなに?」。自分が今まで観ていたことが信じられなくなるわけです。認知症疑似体験ムービーとも言えるこの作品の本当の幕が上がった瞬間です。

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この映画には、CGもないし、アニメ・パートもない。少ない登場人物が、ほぼ全編、アンソニーのフラット、彼の家の中で会話したり食事をしたりするだけの、小さなヒューマン・ドラマ。のはずなんですが… シーンが切り替わるごとに、次に画面がどうなるのかハラハラさせられる、異様とも言える雰囲気を滲み出しているんです。それはなぜか。映画というのは、基本的には、レンズの前で行われた役者の演技を撮影し、その映像をつなぎ合わせて物語を紡いでいくわけですね。それはどれも、機械的に記録された「客観的な」映像の連なりなんですが、編集によっては、その客観的な映像が、登場人物の「主観的な」映像に感じられる。これが映画の文法の基礎的な要素のひとつです。たとえば、僕がじ〜〜〜〜っと何かを見つめている映像の後に、炊きたてのビリヤニが映れば、言葉はそこになくても、「雅夫はビリヤニが食べたいんだな」とわかるし、ビリヤニの映像は雅夫の目が見ている主観的な映像なんだなとわかります。

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(C)NEW ZEALAND TRUST CORPORATION AS TRUSTEE FOR ELAROF CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION TRADEMARK FATHER LIMITED F COMME FILM CINE-@ ORANGE STUDIO 2020
『ファーザー』に戻ると、ゼレール監督は、そんな映画の原則を意図的に利用して、認知症を描きました。つまり、客観と主観をぐちゃぐちゃに混同させているんです。だから、さっきまで見ていた客観的「だったはず」の映像が、もしかしてアンソニーの主観的なもの「だったのかもしれない」と僕らは頭を働かせる。そこへすぐに続いているこのシーンは、じゃあ、どうなんだ。おかげで、登場人物は少ないくせに、アンソニー以外の誰かが家に出入りするたびに、ビクビクさせられるんです。次は誰なんだ。どんな姿をした、なんて名前の人が、なにをしに来たんだ。これは、中盤を過ぎても変わりません。登場人物が出揃っても、先が読めないんです。おかげで、場面によっては不思議とホラーやミステリーの様相を帯びてきます。それは登場人物の言動によるものだけでなく、シーンによって変化していく家の様子も不気味そのもの。家具の配置が変わる。色が変わる。そう、特に色は緻密に計算されています。服、鍋、ビニール袋にいたるまで。だんだんとブルー系が増えていきませんでした? アンソニーの記憶がまるで水に溶けていくように、人、物、時間、空間、どれをとっても、映画が始まったときと終わったときでは様変わりしている。彼が唯一と言っていい客観的な基準として信頼を寄せていた腕時計が見当たらなくなるというのは、鑑賞後に振り返れば象徴的でした。

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認知症を主観的に描いた傑作として、スペインのアニメーションに『しわ』(2011年)というのがありました。ゼレール監督はきっと参照しながらまずは自分のフィールドの演劇で手応えを感じながら、おそらくは映画ならさらに本質的な表現に高められるという自信を持って作ったはずです。それほどに、見事な計算と映画的な意欲が実を結んだ傑作です。途中でミステリーやホラーの味わいが出てくると言いましたが、アンソニーはその中を生きている。映画ではなく、現実の日常として生きている。これは大変です。認知症の見方、見え方が変わるこの作品、介護する立場としても、自分がなるかもしれないという意味でも、誰しもが当事者です。ぜひご覧ください。
曲は、たまに聴いては涙腺を刺激される、ラッパーの狐火が認知症をラップで綴ったものをオンエアしました。

さ〜て、次回、2021年9月21日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『アナザーラウンド』となりました。デンマークからアカデミー賞国際長編映画賞を受賞した作品ですね。マッツ・ミケルセンが何やら飲みまくっているようですが、左党の僕としては気になってしょうがないです。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す! 

『孤狼の血 LEVEL2』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 9月7日放送分
『孤狼の血 LEVEL2』短評のDJ'sカット版です。

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広島のとある街に、伝説のマル暴刑事がいました。3年前、1988年、暴力団の抗争に巻き込まれてついに殺害されたその男、大上に薫陶を受け、今は広島の裏社会のバランスを自分が取っているという自負のあるのが、日岡刑事。そんな彼の前に立ちはだかるのが、これも3年前に亡くなったヤクザ組織五十子(いらこ)会会長の腹心、上林。日岡と上林は、秩序が崩壊していく中で、やがて出会うべくして出会うことになります。

孤狼の血 孤狼の血 「孤狼の血」シリーズ (角川文庫)

 柚月裕子の原作を映画化して好評を博した前作に続き、今回はオリジナル脚本で白石和彌監督が再びメガホンを取った続編です。コロナ禍で撮影され、ヤクザ映画の伝統ある東映肝いりのシリーズ化。集った役者陣も豪華です。日岡刑事の松坂桃李、上林を鈴木亮平が演じる他、滝藤賢一吉田鋼太郎寺島進、かたせ梨乃、村上虹郎音尾琢真中村獅童なども続々登場します。

 
僕は3月の末に、大阪での最初のマスコミ試写で鑑賞しました。関係者の数も多かったですし、その時には監督や鈴木亮平さんも登壇されたとあって、忘れがたい機会となりましたし、それほどに力の入った作品であることも実感しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

実は柚月裕子の原作にも『狂犬の眼』という続編があって、今回はそこへの橋渡し的なオリジナル脚本となっているんですが、前作の圧倒的主役は、なんといってもガミさん、役所広司演じる大上刑事でした。で、今回はその後釜に据えられたエリート刑事、日岡が主役となるわけですね。演じている松坂桃李が、まぁすごいです。彼がこの3年の間に出てきた映画は片手では足りないくらいで、たとえば『いのちの停車場』における、ちょっとドジな好青年のことを思い浮かべると、冒頭からのたたずまいに度肝を抜かれます。だって、しっかりヤクザものたちと渡り合って、独自のネットワークを形成しているんですから。でも、迫力を兼ね備えただけではなく、相対するキャラクターによっては、純朴な一面も残していて、これはもう松坂桃李の演技の幅を味わうだけでも、しっかり面白いってことなのに、ことはそう単純なわけもなく、LEVEL2のヒール、いや、もう主役を食う勢いで登場する怪物が登場します。それが、鈴木亮平が扮する悪の権化のような上林です。もう、その怖さときたら… 僕はマスコミ試写で鈴木亮平さんが登壇された際、かなり前の方に座っていた席を移動したくなったほどです。でも、移動しようにも足がすくむ。それほどの悪の化け物になっていました。

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(c)2021「孤狼の血 LEVEL2」製作委員会
残酷的な描写は、今回もしっかりあります。2021年の日本のメジャー大作でどこまで振り切れるのかと挑みかかるような、思わず目を背けたくなるシーンがいくつもありました。中でも印象的なのは、それぞれのキャラクターが光らせる眼ですね。僕たち観客は劇場という安全圏から映画をノホホンと観ているわけですが、この物語の中で、上林は執拗なまでに目にこだわってメンチ切ってきはります。邪な眼と書いて邪眼という言葉、考え方もありますが、「観る」という行為そのものにも考えが及ぶほど、映画を観ていて強烈な目に遭いました。しかも、そこに彼をモンスターにした要因がある。暴力団に身をやつしてしまう原因の多くは、貧困や不遇な家庭環境にあると昔から指摘されますが、戦争と原爆から連綿と続く負の連鎖が、個人と社会をこうして蝕んでいるのだと、不意に大局的な視点を放り込んできたのにはすごいとうならされました。
 
日岡vs上林。物語の大きな流れとしては、このふたりの文字通りの死闘がメインになる一方、これは警察と複数の暴力団組織がくんずほぐれつで絡みながら覇権争いを繰り広げる群像劇なわけで、LEVEL2でも強い印象を残す面々多数です。在日朝鮮人として、日本と半島の狭間、さらには社会の表と裏の狭間で、おどおどと身悶えていた村上虹郎演じるチンタ。前作からその不憫さもLEVEL2に達していた音尾琢真演じる吉田滋。音尾さんはますます白石作品に欠かせない存在になっています。そして、中村梅雀演じる元公安刑事の瀬島。この人は日岡の相棒として、なんなら足手まといになるだろう定年前のおじさんかと思いきや、彼の一世一代の行動に打ちのめされましたね。

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(c)2021「孤狼の血 LEVEL2」製作委員会
とまぁ、ひとりひとり語りたくなるのは、役者たちだけでなく、今作でも徹底的な美術を作り上げた今村力、闇や雨を見事に捉えた撮影の加藤航平、そしてこのコロナ禍における厳しい状況での撮影を、つとめて落ちついてさばくだけでなく、日本映画界のパワハラの問題などに配慮しながら現場を取り仕切った白石和彌監督みんなの総合力を感じるエンターテイメントでした。
 
組織の恐ろしさと、それを突破しようとする個人。さらにそこに覆いかぶさる組織を描いていましたが、この映画こそ、日本映画の組織力を尊びたくなるものです。これは続編もあるでしょう。さらなるネクスト・レベルを気長に期待して待つことにします。

アイナ・ジ・エンドがこの映画にインスパイアされて作詞作曲して、亀田誠治がプロデュースした『ロマンスの血』をオンエアしました。

さ〜て、次回、2021年9月14日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ファーザー』となりました。まだ緊急事態宣言下ということで配信作も候補作に入れていたわけですが、先行配信されているじゃないかと、喜々として放り込んだのがこの作品でした。アカデミー賞のおさらいもできるし、人類共通の課題である認知症を映画表現にどう落とし込むのか、かなり実験的で画期的だという評判も聞いています。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す! 

映画『ドライブ・マイ・カー』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 8月31日放送分
『ドライブ・マイ・カー』短評のDJ'sカット版です。

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舞台演出家にして俳優でもある家福悠介は、妻で脚本家の音と長年寄り添ってきました。ところが、ある日、唐突に、彼女はこの世を去ります。家福は実は、妻のある秘密を知ってはいたものの、そこに向き合う機会は失われてしまいました。2年後、広島の演劇祭に演出家として招聘された彼は、愛車のサーブで現地入りし、長期滞在を開始します。口数の少ない専属ドライバーのみさきに宿から送迎してもらう日々の中で、家福が再会したのは、かつて妻の手掛けたテレビドラマに出演していた俳優の高槻でした。

女のいない男たち (文春文庫) f:id:djmasao:20210831103736j:plain

 原作は村上春樹の同名小説で、2014年に出た短編小説集『女のいない男たち』に収められています。監督の濱口竜介と一緒に脚本を手掛けたのは大江崇允(たかまさ)で、ふたりは今年のカンヌ国際映画祭で日本作品では初となる脚本賞を受賞しました。家福を西島秀俊、妻の音を霧島れいか、ドライバーのみさきを三浦透子、俳優の高槻を岡田将生が演じているほか、家福の演出する舞台が多言語劇ということで、韓国語、北京語、インドネシア語、そして韓国語手話など、日本語ネイティブ以外の俳優も集っています。
 
昨日10時台に放送した監督インタビューに向けて、僕はマスコミ試写で公開前に鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

僕は村上春樹作品を高校時代から愛読し続けていますが、映画化には不向きな物語が多く、実際に映画化されたものは少なく、いち映画ファンとして言えば、感心してなおかつ好きなのは『ハナレイ・ベイ』と『バーニング 劇場版』くらいです。つまり、最近の2本ですね。いずれもやはり短編が原作で、アプローチは違えど、どちらも外国を(少なくともメインの)舞台にしていました。そして、今作も広島での演劇祭パートを当初は釜山で撮る予定にしていたようで、それはそれで観たかったと思いますが、コロナ禍の影響でそれが叶わなかった結果、僕は、登場人物の移動がほぼすべてをサーブの車で行われるこの物語にとっては功を奏したと感じています。というのも、監督はシネマトゥデイで公開されたインタビューでこう語っているんです。「やりたかったのは、村上作品に則するように、自分が感じていた運ばれていくような体験を再現すること」。確かに、村上作品の多くで読者が感じるのは、そのテキストに否応なしにどこかへと運ばれていく、いざなわれていく気分なんだろうと思います。それを物理的にも心理的にも映像化できればしめたもの、という目算が濱口さんにはあったのだろうと思いますが、東京から広島へ、そしてまたふとした拍子に北へと向かうロード・ムービーとして、基本は国内で、つまり実際に車で移動できるルートで完結する物語と最後の跳躍が効果を持ったと言えるでしょう。

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(C) 2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
短編である原作では、主人公家福の移動はここまで大胆ではなく、黄色いサーブ900カブリオレマニュアル車を運転するみさきの、滑らか極まりないシフトチェンジの描写に意味がありました。対して映画では、色は赤、サーブ900は同じですが、サンルーフ付きのオートマティックになっていましたね。予告編にもある、サンルーフからニョキッと飛び出す2本のタバコなんて、亡き人にたむける線香のようで、映画ならではの表現が追加されていました。そして、映画では、序盤は家福が車を運転し、それ以降はみさきが運転する。主語が明記されていないタイトルを活用した入れ替わりでしたし、この2点を取っても、小説から映画へのシフトチェンジがうまくいっていることを示しています。
 
移動という観点で言うなら、映画にはカメラそのものの移動がありますが、僕が注目したいのは、後退トラヴェリングという手法です。これは、カメラそのものが動いて被写体から離れていく、被写体からバックする映像を生み出して、ざっくり言えば、そこに何かを置いていく、惜別の感情を膨らませる時に、使われるんですが、はっきり言って、どんな映画にも出てくる手法ではなく、それだけに、僕の持論としては、後退トラヴェリングを効果的に使う作品には良いのが多いってのがあります。『ドライブ・マイ・カー』にも、何度か出てきます。濱口監督は全体的にガチャガチャとカメラを動かすことがないだけに、カット割りの意味を考える楽しみがあります。後退トラヴェリングで、何がなぜ置き去りにされるのか。

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(C) 2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
たとえば、夜のあの長い長いドライブ。ふたりはトンネルをいくつもくぐりますね。普通なら、フロントガラスごしに前を映すところなのに、かなり珍しいことですが、後ろの景色を映しているんです。そこにも、ふたりの来し方を思いながら先へ進む行為が暗示されています。
 
と、こんな風に、まだまだいくらでも語るトピックがある映画『ドライブ・マイ・カー』は、まごうことなき傑作です。同じ短編集の他の2篇から要素を盛り込んだこと。劇中劇の戯曲のチョイス。9つの言語が入り乱れる意味。演技とは何か。それぞれキャリアベスト級の演技をみせた役者陣。声に含まれる情報量などなど。あなたもあなたの視点から、この作品を鑑賞して、人の心の移り変わりを映画が丁寧にすくい取る様子に感じ入ってください。

この物語の発端ともなる、誰かに物語を語って聞かせること。そこを意識して選曲しました。

さ〜て、次回、2021年9月7日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『孤狼の血 LEVEL2』となりました。実は先日、白石和彌監督が来局された際に軽くご挨拶しました。今回はスケジュールが合わず、インタビューがかなわなかったのですが、僕の番組への連続出演記録を更新できなかったと悔しがってくれていました。ありがたいことです。なので、おみくじを引いて思わず「よっしゃ」と言いそうになったのですが、マスコミ試写で観てフラフラになった僕としては、このLEVEL2をしっかり評せるのか… いや、震えながらも張り切って挑みます。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す! 

映画『キネマの神様』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 8月17日放送分
『キネマの神様』短評のDJ'sカット版です。

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ギャンブルとアルコールに依存し、長年連れ添った妻淑子に迷惑ばかりかけて身を持ち崩している老人のゴウ。借金も作っていて、その督促が娘の職場にまでいく有様です。淑子と娘はよくよく考えた末、ゴウの年金などを家庭内で差し押さえ、ゴウには好きだった映画を観て暮らすように勧めます。ゴウが向かったのは、旧友のテラシンという男が支配人を務め、淑子もパートとして働く名画座。スクリーンに映った古い日本映画は、ゴウがかつて助監督を務めた作品でした。

キネマの神様 (文春文庫) キネマの神様 ディレクターズ・カット

松竹映画100周年記念作品として製作されたこの作品。原作は原田マハの同名小説。監督の山田洋次が、コンビとしてきた朝原雄三と共同で脚本を書きました。現代のゴウを演じるのは、急逝した志村けんに代わって沢田研二。若き日のゴウは菅田将暉が担当しました。他にも、永野芽郁野田洋次郎北川景子寺島しのぶ小林稔侍、宮本信子リリー・フランキーなど、錚々たるキャストが揃い踏みです。
 
僕は一昨日、終戦記念日の日曜日の早朝、MOVIX京都で観てきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

志村けんさんの遺志を受け継いだ沢田研二さんの演技や、とある演出に思わず涙した。映画讃歌としての描写の数々にグッときた。知らなかった日本映画全盛期の撮影所の雰囲気や現在の名画座の事情に興味を持った。ほとんど見えなくなっていた家族の絆を顕にする再生物語として思わず涙した。本作を好意的に観る人たちの意見はざっとこんなところだろうと思います。逆にまったくといっていいほど、ノレなかったという人もいる。リスナーの感想も、世間の評判も結構割れている印象です。
 
どうしてそうなるのか。否定派のひとつのパターンは、原作とのあまりの違いにのけぞったということ。原田マハの小説では、まず過去パートがほぼないのに、映画ではむしろ過去のほうがウェイトを占めている。さらに、原田マハが実の父親をモデルにしたというゴウが小説ではあくまで映画好きであって、彼が夢中になるのは映画評の執筆なのに対して、映画版ではゴウはかつて松竹大船撮影所で助監督としてバリバリ働いていたという設定で、彼の書いたものはシナリオ。原作小説が映画ファンの視点だったのに対し、この映画では映画の作り手と映画館、送り手の話になっているうえ、小説にはなかった三角関係の恋愛まで盛り込まれている。これじゃまるで違うし、ほとんどオリジナルじゃないか。原作ではなく、原案だろうと。人気作家の小説でファンが多いだけに、ここで引っかかってしまうと、山田洋次監督の駆け出しの頃を踏まえた思い出話、自分語りに感じられて、そういうのを期待していたんじゃないだと楽しめなくなってしまう。監督は原田マハさんからモデルとなったお父さんのことをかなり聞いて脚本を書いたそうですが、確かに僕も設定が変わりすぎていて、忘れた頃に入る娘のナレーションもうまく調和していないと感じました。ツギハギの印象ですね。

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(C)2021「キネマの神様」製作委員会
否定派のもうひとつの感想のパターンとして、主人公ゴウのあまりに無責任な言動が、いくらなんでも承服できかねるというものがあります。確かにね。ギャンブルもアルコールも、こうした依存は治療が必要なんだっていうのは序盤で出てきますが、それにしたって、なぜゴウがこんな身の滅ぼし方をしてしまっているのかとか、妻淑子がなぜゴウを見捨てずにここまで来たのか、その描写がないか、あってもうまく機能していないため、ほんとただのダメ親父に堕してしまっているようにしか見えないんですよね。寅さんですら現代の感覚で見ればなんだかなぁって人がいるのに、ゴウの場合は風天でもない穀潰しじゃないかっていう声が出るのも仕方ないです。

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(C)2021「キネマの神様」製作委員会
僕もこうした否定派の考えに概ね賛同する一方、見どころもあったと思っていますよ。北川景子が演じた往年の名女優という設定の園子なんて、その佇まいや所作が見事だったし、清水宏監督をモデルにした映画監督を演じたリリー・フランキーの言動も「そういう調子だったんだろうなと」思わせるものでニヤリ。「役者なんかものをいう小道具」だというのは実際にそんな逸話が残っているし。他にも、勉強熱心な撮影所の映写技師テラシンの机の上には、イタリアの映画理論家アリスタルコの本があったり… 当時の松竹らしい人情ものメロドラマへの内部の若き映画人による批判とか、まぁなかなか楽しいです。って、そういうのがことごとく過去パートに多くて、それは原作にはないオリジナル部分なわけでして、原作未読の僕としてはもっと過去の映画作りの現場を観たかったし、原作ファンは脚色過多だとなる。すると、過去と現在をつなぐ恋愛三角関係の導入も、脚本の小道具に見えてきてしまう。悪循環です。

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(C)2021「キネマの神様」製作委員会
コロナうんぬんの前に、この小説と松竹映画100周年をドッキングした企画のスタート地点から、だんだん物語の骨格がずれていったと推測されます。見どころは、色々とあるものの、現在と過去で描いたものを、まったく別々の作品として結実させてほしかったと、僕は今考えてしまうのです。

テラシンの若い頃を演じた野田洋次郎、好演していました。映画の中で互いに称え合っていたゴウとの、現実でのコラボといった様相を呈する主題歌、うたかた歌、お送りしました。 

さ〜て、次回ですが、僕が夏休みを取るということで、再来週になります。2021年8月31日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ドライブ・マイ・カー』となりました。ハルキスト、いやさ、ハルッキアン、要するに村上春樹を愛読する者として、あの濱口竜介監督が映画化をするという一報を受けて以来、鑑賞を楽しみにしていた作品。カンヌでの脚本賞もありましたね。そして、番組で監督にインタビューすることもかないそうな気配です。ぜひ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す! 

『Mank/マンク』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 8月10日放送分
『Mank/マンク』短評のDJ'sカット版です。

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1941年に公開された映画『市民ケーン』。製作、監督、共同脚本、そして主演を務めた、当時まだ20代半ばのオーソン・ウェルズから脚本の依頼を受けた人物、ハーマン・J・マンキーウィッツです。彼はケーンのモデルとなったメディア王ウィリアム・ランドルフ・ハーストとも交流があったんです。この映画は、マンクがいかにして『市民ケーン』の脚本を練り上げたのか、その誕生秘話を描きます。
 
監督は『セブン』や『ファイト・クラブ』で知られる名匠デヴィッド・フィンチャー。脚本は、そのデヴィッドの父でジャーナリストだったジャック・フィンチャー。90年代に既に書かれてはいたものの、舞台となる1940年代当時のハリウッドの様子を当時の技術をベースに映画化したいと目論んでいたデヴィッド・フィンチャーのこだわりから、なかなか撮影にいたらず、今回ネットフリックスからの「何か映画にしたい企画はありますか」との提案を受け、ついに日の目を見ました。マンクを演じるのは、ゲイリー・オールドマンです。
 
日本での劇場公開はアメリカの翌週で、2020年の11月20日。その後、ネットフリックスで12月4日に世界同時配信されました。第93回アカデミー賞では、作品賞・監督賞・主演男優賞など、最多10部門ノミネートとなり、撮影賞と美術賞を獲得しました。僕は先週、木曜と土曜、自宅で、もちろんネットフリックスで結局2回観ることになりましたそれでは、今週の映画短評、いってみよう。

まずは『市民ケーン』のことを軽くまとめておきましょう。映画史における金字塔と言われるこの作品は、演劇やラジオの演出で注目を集めていた、公開当時25歳のオーソン・ウェルズが初監督したもので、それまでのハリウッドの常識を一変させたことで今もなお高く評価されています。僕も大学での映画論の授業で習いましたが、画面の手前から奥まですべてにピントを合わせたような奥行きのある構図、パンフォーカスという手法は、当時の照明やカメラ技術では難しかったものだし、床に穴を開けてまでカメラ位置にこだわったというローアングルは、天井まで作ることの少なかったセット撮影のあり方も一変させました。あとは、ワンシーン・ワンカットと言われる長回しの手法などなど、その功績は枚挙にいとまがありません。そして、何よりも、その複雑なストーリーテリングの手法に驚かされます。
先ほどは渡辺貞夫の『ROSEBUD』をオンエアしましたが、「薔薇の蕾」という謎のワードを残して死んだメディア王ケーンとはいかなる人物であったのか、『市民ケーン』では、関係者の証言を片っ端から集め、その回想で実像を立体的に組み上げていくという語り口が採用されました。直接的に影響を受けただろうと言われるのが、1950年の黒澤明監督『羅生門』ですが、真実というのは単一の視点からではなく、複数の視点からこそ浮かび上がるものだという、映画というメディアの特性を活かしたスタイルだったわけです。ただ、当然ながら時間軸は行ったり来たりするし、下手にやるとグチャグチャになってしまう。『Mank/マンク』でも、オーソン・ウェルズに脚本製作を見張るように言われた代理人が「面白いし意義深いが、かなり複雑でわかりにくい」と指摘する場面があるくらいです。ただ、そこに若きウェルズの神がかった演出が加わることで、名作が世に出たわけです。

市民ケーン Blu-ray

僕はさっきこの『Mank/マンク』を二度観たと言いました。面白かったからってのもありますが、正直なところ、人物の関係性と時制が複雑でついていけない部分があったからです。というのも、デヴィッド・フィンチャーはこの作品において、さっき申し上げた『市民ケーン』的な語り口と撮影技法を、とことん踏襲しているんですね。当然モノクロだし、照明の当て方やシーンの切り替えなんかも含め、2020年の公開作でありながら、80年前のハリウッド作品を観ているような錯覚を覚えるほどです。物語の構造も、マンクが脚本を執筆している現在と、彼がケーンのモデルとしているメディア王ハーストやその愛人で俳優のマリオンと親交を深めていった過去のエピソードが入れ代わり立ち代わり出てきます。

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僕はもちろん『市民ケーン』は何度も観ているわけですが、ついつい映画の技法や権力に溺れて人生の意義を見失っていうケーンの孤独な生涯というテーマに気を取られるあまり、実在したハーストが映画の内容にいかに激怒して公開を妨害したかといった事情についてはほとんど知らなかったため、僕は観ていてちと混乱してしまったわけです。
 
ところが、もう一度観てみると、これがいかに傑作かとうなることになりました。マンクがなぜハーストをモデルにしたのか。その直接のきっかけは、1934年のカリフォルニア州知事選挙だったんですね。「カリフォルニアから貧困を無くす」をスローガンに掲げた社会主義者シンクレアが、当時の映画会社やハーストの大々的なメディア・プロパガンダによって完膚なきまでに敗れる様子を、マンクはその渦中でつぶさに目撃していたわけです。そこで、しがないアル中気味の脚本家であるマンクは、権力に一矢報いようと『市民ケーン』を書き上げていく……。

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メディア戦略を駆使した政治的、イデオロギー的、そして事実でっち上げなんて何のそののキャンペーンって、その後僕たちが何度となく見聞きしてきたものだし、今もなお続いているものですよね。そう考えてみると、マンクが劇中で自嘲気味に語るように、彼がいかにドン・キホーテだったかというのがよくわかるし、それを知らしめてくれたフィンチャー親子に僕は大きな拍手を贈ります。複雑な作品なので、あくまでこう観ると面白いよという紹介になった感もありますが、幸いネットフリックスでいつでも何度でも観られます。これから日本も衆議院選挙を控えています。この作品を今観る意義は大アリ! ぜひ、あなたもご覧になってください。
サントラも1940年頃のハリウッドの雰囲気をトレント・レズナーアッティカス・ロスのふたりが果敢にも再現していて素晴らしかったです。そんな中で挿入されるジャズをオンエアしました。

さ〜て、次回、2021年8月17日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『キネマの神様』となりました。松竹映画100年を記念して、山田洋次監督が完成させたもの。志村けんの遺志を沢田研二が受け継いでっていう流れもありました。映画館でしっかり観てまいります。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す! 

『サイダーのように言葉が湧き上がる』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 8月3日放送分
『サイダーのように言葉が湧き上がる』短評のDJ'sカット版です。

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(C)2020 フライングドッグ/サイダーのように言葉が湧き上がる製作委員会

田園風景も目立つ、日本の典型的な地方都市。17歳の男女が夏、ショッピングモールで出会います。ひとりは、いつもヘッドホンをしている俳句が趣味の男の子チェリー。もうひとりは、歯の矯正器具を見られるのが嫌でマスクをしながら、動画サイトで「カワイイ」を追求してちょっとした人気者の女の子スマイル。ふたりは、チェリーのバイト先である老人介護施設で出会ったフジヤマさんの手助けを一緒にすることになります。それは、彼の想い出のレコードを探すことなのですが…

サイダーのように言葉が湧き上がる 2 (MFコミックス アライブシリーズ)

 監督と共同脚本は、テレビアニメ『四月は君の嘘』で知られるイシグロキョウヘイ。これはビクターの子会社で、アニメと音楽どちらも作るフライングドッグ10周年を記念した作品でして、原作はフライングドッグ名義になっていますが、実質的にはオリジナルアニメ作品です。チェリーの声を市川染五郎、そしてスマイルを杉咲花が演じている他、坂本真綾山寺宏一なども参加しています。
 
本来なら2020年の5月15日に公開予定だったものが、コロナ禍に重なって1年以上延期。今ようやく観られるようになったわけですが、僕は今回は諸事情ありまして、一般の映画館ではなく、マスコミ試写での鑑賞となりました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

結論から言えば、見どころのある作品でした。脚本にどうもしっくりこない部分があるものの、夏休みに観るアニメとして、十分に満足のいくものです。
 
具体的に、見どころは何かと言えば、それはもう、絵そのものです。アニメですから、これはもう何より前提条件と言いますか、絵に独自性があって、なおかつそれが大きな魅力になっていれば、もうかなりポイント高いです。先週の『竜とそばかすの姫』でも、細田守監督の絵のタッチの使い分けという話をしましたが、主人公たちの現実とネットの中のアバターの生きる虚構で、まず大きく世界の提示が違ったわけです。今作の場合はどうかと言いますと、全編を通して、コントラストがかなり強く、その区切りは塗りつぶされていて、色使いは概ね鮮やかで明るいんです。輪郭線の太さにもバリエーションがあって、FM COCOLOリスナーにはきっと馴染み深いイラストレーター、わたせせいぞう鈴木英人のタッチをどうしても思い起こさせます。アニメなので、絵が動くところに快感を覚えるはずなんですが、この作品では結構動きの静かなシーンが多くて、それがゆえに不思議な感じがします。もちろん、時にダイナミックな動きが出るので、その静と動のコントラストもあります。たとえば、チェリーとスマイルの出会いの場面なんかはスケボーを使ったりしていて、ダイナミックなボーイ・ミーツ・ガールの場面でした。

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(C)2020 フライングドッグ/サイダーのように言葉が湧き上がる製作委員会
そんな、わたせせいぞう鈴木英人風のイラストってだけなら、それこそ80年代の漫画やFM雑誌に親しんでいた方なら、タッチそのものには既視感があると思いますが、新鮮に感じるのは、そのモチーフがショッピングモールが田んぼの真ん中にポツンとあるような地方都市であるってことです。今月のFM COCOLO Feature of The MonthのCITY POPもそうですが、かつては現実の暮らしとは少し違う西洋文化や華麗な消費文化への憧れめいたものが滲んでいた表現スタイルで、日本の今のどこにでもありそうな画一的な街を描写するんです。コンプレックスを抱えた少年少女の行動範囲はかなり狭いんだけれど、そこにも市民たちが誇ったり楽しんだりする祭が残っていることや、チェリーくんの詠む俳句と絵があいまって、退屈なはずの風景が鮮やかでイキイキしたものに映るんです。その世界を今一度再定義するような視点が、高校生の恋愛模様やコンプレックスを乗り越える物語の後ろに透けているのがとても新鮮でした。

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(C)2020 フライングドッグ/サイダーのように言葉が湧き上がる製作委員会
それにしても、俳句は決定的でした。タイトルも俳句。17歳という年齢も17音からでしょう。Twitterと俳句の親和性も意識して、それが物語に寄与していました。そして、僕がすばらしいと思ったのは、褒められたものではないけれど、スプレーアートであちこちに落書きをするやんちゃな友達が、チェリーの句を街の景色に溶け込ませたり、クライマックスでチェリーから次々と湧いてくる俳句が、まるでラップのように感じられたことです。そこに、CITY POPを代表するシンガーソングライターのひとり、大貫妙子の歌う音楽が重なるって、よくぞ思いついたなと。
 
ただし、脚本には明らかに練り込み不足ではあります。あのフジヤマ老人のレコードを探してあげるという要素と、祭と、チェリーくんの家の事情によるとあるサスペンスが、噛み合いきっていないため、大団円はかなり力技でまとめたというのがどうしても感じられます。
 
がしかし! やはりこの絵のタッチと地方都市と俳句、そして音楽を噛み合せただけでも、僕は大きな拍手を贈りたい作品です。
劇中歌は贅沢にも、大貫妙子、書き下ろしによるもの。サントラもCDが出ていますが、この曲は聴くとやはりあの街が、そしてあの街を流れた時間が思い出されます。

さ〜て、次回、2021年8月10日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『Mank/マンク』となりました。またまた緊急事態宣言が大阪に出たということで、おみくじの候補作に配信ものを多く入れることになり、それならアカデミー賞ノミネート作のネットフリックスものを観るのも一興と企てたところ、当たりました。映画史に今も燦然と輝く名作『市民ケーン』の裏側。楽しみすぎる。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『竜とそばかすの姫』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 7月27日放送分
『竜とそばかすの姫』短評のDJ'sカット版です。

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高知県の自然豊かな田舎町で、父とふたり暮らしの女子高生すず。母からは音楽の手ほどきを受けていたものの、まだ幼い頃に、母は事故で他界します。それをきっかけにうまく歌うことができなくなり、心を閉ざしがちの物静かな女の子になっていました。ある日、友人に誘われたのは、世界で50億人が集うという仮想世界「U」。すずはそこでベルと名乗り、美しいアバターの姿なら、自然と歌を歌えるようになります。そこで自作の歌を披露しているうちに、ベルはあれよあれよと世界中の注目の的になるのですが、彼女の前には、Uの中で恐れられていた謎の竜が姿を現します。
 
今年のカンヌ国際映画祭で新設されたプレミア部門で上映され、10分以上のスタンディング・オベーションを観客から受けたこの作品は、細田守監督が脚本も手掛けた、オリジナル長編アニメーションです。すずとベルをシンガーソングライター中村佳穂が演じて歌ったほか、成田凌、幾田りら、染谷将太玉城ティナ役所広司などが声の出演をしています。
 
僕は先週木曜日の午後、満員のMOVX京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

先週評した『唐人街探偵 東京MISSION』では、全ジャンルメガ盛りというコピーに触れましたが、今週は、アニメの絵作りメガ盛りでした。大きく分けて、すずが暮らす現実世界と、ベルとして暮らす仮想世界のふたつ。絵が違うんですよね。現実の四国は手描きアニメーションで、Uの方はディテールまでパキッとクリアにデザインされたCG画面。さらに分けると、現実の中でも、冒頭からしばらく続き、その後も要所で垣間見える、まるで実写のような描き込みの部分と、顔に線を走らせたりするようなコミカルな漫画っぽい、演技にも誇張の施された部分があります。さらに、CG全開のUの中でも、シーンによって、日本的なキャラクター造形と画面構成のものもあれば、ディズニー的な部分、マジックリアリズム的にリアルなのにそれが故に抽象化されたような印象の部分と、スタイルの使い分けがなされています。これだけの要素を混在させると、まぁ、普通は全体のトーンのコントロールが難しくなっておかしなことになろうものを、なんならその危険を冒してでも突き通したんだと思います。いくつか理由は考えられると思うんですが、ひとつは細田監督がアニメーション作家として影響を受けてきたもの、自分の培ってきたものをひとしきり盛り込みたいという表現的欲望の発露ではないでしょうか。誰が見ても『美女と野獣』というオマージュもそうだし、ネット同様、アニメや映画という広い意味での仮想世界の多様性を具体的に提示していると言えます。
仮想世界というと、すぐにネットと結びつけて考えてしまいますが、今僕が言ったように、アニメや映画だって、現実ととてもよく似ているけれど現実ではないものです。そして僕らは、思い思いに、そこで現実ではできない経験をするわけですね。今ここではないどこか、それを仮想世界に求めるというのは、心身ともに、何らかの理由で窮屈だとか居心地が悪いと思える現実からの逃避場所、シェルターとしての役割もあります。今回すずがベルとして花開いたように、そこでなら自分に似た別人、あるいはまったく別の誰かを生きることも可能なわけです。ただし、リアルタイムで双方向で参加者の極めて多い仮想空間、今回のUと呼ばれるような場所だと、そんなシンプルではないし、ナイーブではいられないわけですね。『サマーウォーズ』の頃からさらに進んで複雑化したネット社会とアニメ表現を、監督はそれこそ複雑な技法で描き出しました。
ただし、見ようによっては、色々ぶちこんでいるだけで結局ごちゃごちゃじゃないかと感じる人がいるのは不思議ではないし、僕も正直、好みの問題として気に入っていない場面がいくつもあります。50億もの人間のアバターがうごめくUの世界のあり様も、今ひとつよくわかんない部分があったし、それにしてもアバターはこんなにもどれも大人っぽさからかけ離れるものかねと思ったし。でも、考えたら、あのUの描写にワクワクする人もいることはよくわかる。そのアニメにできることをとことんぶち込んで、それでもなお、矛盾やスキをもろともせず、エモーショナルに大団円へ持ち込む力量は認めざるをえないし、なんなら僕もしっかり涙しました。困っている誰かに、現実に、手を差し伸べること。強くあることも大切だけれど、とにかく誰かにやさしくあることが大事だってこと。それこそ、矛盾や問題をはらんでいるけれど、仮想空間の理想と現実との乖離ではなく接続を描こうとしたこと。こうしたことにグッときたわけです。DJとして、音楽ファンとして嬉しかったのは、その接続に大きな役割を果たすのが、音楽、歌であったことです。クライマックスのひとつで見せる、スズとベルの区別がもはやなくなったあの歌う様、中村佳穂の歌声は圧巻でした。
こうした構造なので、はっきり言って、みんなが手放しでどこもかしこも好きってことにはなかなかならない作品でしょう。でも、僕みたいに、あそこはピンとこないけど、こっちはすごい好き、みたいな気に入り方はいくらでもできる作品です。かなり変ですが、そのいびつさはあまり類を見ない。いい音響、でっかい画面で、とくとご覧になって、あーだこーだ言ってください。

KIng Gnu常田大貴の別プロジェクトmillenium paradeが主題歌を担当していて、歌うのはすずとベルを演じた中村佳穂です。
 
僕は、現実パート、特にあの高校生男女のワンシチュエーション、告白コントみたいになるところの演出は、そう来るかと思って楽しかったです。こんだけ全体で足し算した演出なのに、あそこは引き算の極地で引き立っていました。カヌー部で文字通り孤軍奮闘するクラスメートが象徴的だったけれど、川をモチーフにした成長と見守りの物語というのが、Uのパートにも少しにじみ出ていて、それこそがまさに物語の本流として貫かれていたと思います。

さ〜て、次回、2021年8月3日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『サイダーのように言葉が湧き上がる』となりました。夏休みらしく、アニメが先週から続きます。俳句をモチーフにした青春もの。しかも、原作モノではなく、オリジナル。毎朝「季の言葉」というコーナーで俳句を紹介している身としては、これは気になっていたやつですよ。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!