京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『パスト ライブス/再会』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 4月23日放送分
映画『パスト ライブス/再会』短評のDJ'sカット版です。

ソウルで育った成績優秀な幼馴染のふたり。女の子のナヨンと男の子のヘソン。互いに好意を抱いていたふたりは、12歳、ナヨンの一家がカナダへ移住することをきっかけに離れ離れになります。ナヨンはそれをきっかけに名前を変えて、ノラと名乗るように。それから12年。ニューヨークで劇作家として駆け出しのノラと地元で名門大学に通うヘソンはSNSを通じて再会。互いのことを想いながらも会えずじまい。それからまた12年。ふたりはついにニューヨークで再会することになりますが、ノラはもう作家の夫と結婚していました。
 
監督と脚本は、これが長編映画デビューとなる韓国系カナダ人のセリーヌ・ソン。ノラを韓国系アメリカ人のグレタ・リー、そしてヘソンを演劇も含めて国際的な演技経験豊富な俳優ユ・テオ、そしてノラの夫アーサーをジョン・マガロが演じました。本作は全米映画批評家協会賞で作品賞を受賞した他、ゴールデン・グローブ賞主要5部門ノミネート、そしてアカデミー賞では作品賞と脚本賞にダブルでノミネートを果たしています。先週の『アイアンクロー』に続いてのA24スタジオ作品ですね。
 
僕は先週金曜日の朝にTOHOシネマズ二条で鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

僕は観た人と週末既に話し合っていますが、どうもこの映画には乗れなかったという人の意見を聞いてみると、あのヘソンの行動のきっかけ、つまりどの面下げて会いに行くんだとか、うじうじと切り替えの悪いナヨっとした奴だなとか、キャラクターの心理について行けないという感想が目立ちました。ただし、それは映画そのものの出来栄えとはまた別だという感じだったんですね。演出のうまさを感じることは認める、と。つまり、この作品は、観る人の恋愛観が如実に問われるもので、なんなら嫌いな人も話を聞けば語り出してしまうという意味で、僕は十二分に成功しているんだと思います。

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ぴあの華崎さんがこの番組で紹介をしてくれた時に、僕の大好きなリチャード・リンクレイター監督の「ビフォア・シリーズ」を引き合いに出していました。あれがまたすごかったのは、イーサン・ホークジュリー・デルピーが実際に年齢を重ねながら9年ごとの男女の関係の変化を描いた3作だったんですよね。本作が構造的にそこに似ているのは、12歳、24歳、36歳と主人公たちの3つの時間を描いていること。さすがに12歳の頃だけは違う役者が演じていますが、その時々のふたりをめぐる環境や人生のステージ、そして場所が違うことが、人間関係にどのような影響を与えているのかという考察にもなっています。もうひとつ、テーマとして浮かび上がるのは、韓国の言葉でイニョンと呼ばれる縁のこと。日本なら「袖振り合うも多生の縁」という言葉がありますね。どんな人のつながりにも、深い宿縁があるのだということ。ナヨンは12歳でカナダへ移住しますが、それは彼女の意志ではなく、当然まだ小さいので親の事情です。両親がそれぞれ映画監督と画家なんですが、韓国で一定の成功を収めているように見えるものの、おそらくは子どもの教育のことも頭にあったのか移住を決めたんですね。だから、その前に、どうやら両想いらしい娘とヘソンくんを双方の親が見守る中で思い出のデートをします。まんまと思い出になるわけですが、そこでナヨン(直後にノラと改名する彼女)の母親が言う言葉は重要で、移住の理由を問われたところに返して、「捨てることによって得られるものもある」。この言葉は人生における選択の核心を突いています。

Courtesy of Twenty Years Rights/A24 Films
実際のところ、ナヨンは名前を捨ててノラになり、韓国での言葉の通じる環境から異邦人としての日々をスタートさせ、12年後、24歳にして今度は親ではなく自分の意志でアーティスト、劇作家の卵としてNYへ移住する。新しく得た言葉である英語で表現活動をするところまで到達していて、韓国語はカナダの母親としか話さない。この人格を構築するものとしての言語の役割も本作は巧みに織り込んでいます。これって、日本国内の移住でも方言の使い分けなんかで身に覚えのある方がいらっしゃるかと思います。ナヨンだったノラは、そうやって時間と場所と名前と言葉を大股でまたぐようにズンズンと人生を闊歩していく。そんな中で降って湧いたのが、Facebookを通じてのヘソンとの再会です。彼はソウルからナヨンを探していたのだけれど、名前が変わっていたからわからなかったんですね。そう、彼が探しているのは、かつて12歳で自分の隣りにいたナヨンの今なんです。まるでパラレルワールドのようで、ふたりはニューヨークでもソウルでもなく、言わばネットというふたりだけの仮想空間でのみ交流をする。それから、ある理由で関係が途切れて、また12年後ってのがハイライトになるわけですね。普通のあらすじの作り方なら、ノラの伴侶アーサーも含め、三角関係の行方は… っていうメロドラマ要素ももちろんあるけれど、この3人はもう30代も半ばでそれぞれに成熟していて、嫉妬心だってそれはあるけれど、三角関係のどのベクトルにもリスペクトと広い意味での愛情を持てる人たちです。遠く離れてたとえ直接触れ合うことがなくても、静かに相手の幸せを願い心を温めるすべを持っている。そして、会えたこと関わったことを後悔なんてしなくって、それも自分の足跡としてイニョン=縁を愛おしく感じるんですね。アジアと西洋の違いや共通点を受け入れながら。

Courtesy of Twenty Years Rights/A24 Films
自ずと演出も繊細なものになります。実に細かいことだけれど、会話の間合いや視線の行方、歩き方や服の選び方ひとつひとつと、もちろんそこに立ち現れる心の機微をデジタルでパキッと、ではなく、フィルムカメラですくい取っています。普通に撮っても物語上は問題ないのに、わざわざカメラをたとえば建物の外に出してガラス越しにキャラクターを撮影するなんていう手間をいとわないのはなぜか。そこに演出の意図があるからであって、ノラと同じく劇作家出身の監督セリーヌ・ソンさんの映画監督としても確かなビジョンが全編にわたって張り巡らされています。脚本も当然巧み。ノラとアーサーを劇作家と作家に設定しているのが効いていて、ふたりが自分たちの出会いと恋愛の平凡さに苦笑いするところなんて、物語を作るふたりだからこその説得力がある。そして、ぜひ冒頭シーンを思い出していただきたい。36歳の3人がニューヨークのバーで真夜中から明け方にかけて酒を飲んでいるシーンがいきなり出てくるんだけど、3人の会話は僕たちには聞こえない。代わりに、そのバーに居合わせたニューヨーカーらしき男女が3人を観察しているやり取りが画面外の会話として聞こえるんです。「ねえ、あの3人ってどういう関係だと思う?」なんて言って想像を巡らせている。あの冒頭って、はっきり言って物語には直接関係ないんです。だからカットしても支障はきたさない。じゃ、なぜ入れたのか。観客にそういう観察の視点を授けるのと同時に、3人があの晩、あのバーで並んでカクテルを飲むに至るイニョン=縁の妙を盛り上げる布石でもあるし、物語に人のつながり、そして命のサイクル、なんならパストライブスからの流れを想起させる円環構造を物語に持たせる効果もあるのでしょう。

Courtesy of Twenty Years Rights/A24 Films
この映画を観終わって、僕も何人か思い出した人がいましたが、それはマイクを通しては言わないとして、きっとあなたも誰かを思い出すし、誰かのことが愛おしくなる。誰かと語りたくなる。頭にも話したように、そうなってしまうように導かれた時点で、この映画は大成功です。セリーヌ・ソン監督は、次の作品をやはりA24と組んで作っているようで、大いなる才能の登場にも、僕はわくわくしています。
 
幼馴染のノラとヘソン、そしてノラの夫アーサーがレストランで食事中に流れるのがこの曲。振り返るんじゃない。それにしても、オリジナルのサウンド・トラックも素敵だったし、さりげなく挟まれるこうした歌のセレクトも的確だなと感心します。

さ〜て、次回2024年4月30日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『異人たち』山田太一の小説の映画化ですが、大林宣彦監督も原作のタイトル通り『異人たちとの夏』として映画化されていたんですよね。舞台をロンドンにして、今回はアンドリュー・ヘイがメガホンを取りました。チラシを僕は事務所の壁に飾っているくらいなんで、楽しみ楽しみ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!