京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

ライト・アンド・レフト 〜N・ボッビオの 『右と左 ― 政治的区別の理由と意味』〜

 あの人は右翼だとか左翼だとか、人の政治的主張を「右と左」で分類することがよくあります。たとえば、日本では天皇制を否定し、日本の植民地政策に批判的で、日米安保条約に反対する人は左翼、その逆は右翼だということになり、また、右翼と呼ばれる人たちは、社民党共産党朝日新聞日教組などといった左派的な象徴を批判し、左翼と呼ばれる人たちは、自民党・読売新聞・靖国神社といった右派的な象徴を批判しています。最近ではインターネット上の掲示板において、右翼と左翼がそれぞれ「ウヨク」と「サヨク」と呼ばれ(単にカタカナにしただけ?)、相手を罵る議論上のツールとなっているようで、もうこうなると政治的な「右と左」という言葉が、相手の主張を批判するための単なるレトリックにすぎないようにも思えます。「あいつはウヨクだ(またはサヨクだ)」と言うのと、「あいつは馬鹿だ」と言うのと、相手への中傷という点では大して変わらないような…。それに、「右と左」という区別の歴史的な起源はそもそも、18世紀、革命期のフランスで、国民議会の構成が議長席から見て右側に保守的なジロンド派、そして左側に急進的なジャコバン派のメンバーの席があったことから由来しており、未だにこうした2世紀も前の分類を用いるのは時代錯誤のような気もします。

 そうすると、以下のような疑問が頭に浮かんできます。つまり、?そもそも右と左に区別する意味なんてあるのか? そして、?区別するとすれば、その基準は何なのか? というものです。そこで今回は、こうした問いへの答えを探すべく、日本ではあまり知られていないけど、欧米では結構評価されているイタリアの政治思想家ノルベルト・ボッビオ(Norberto Bobbio)の著書『右と左―政治的区別の理由と意味』(Destra e sinistra、御茶の水書房、1998年)に従い、政治的な「右・左」という分類の意義とその分類基準についてサラッと見てみたいと思います。

 まずは、?そもそも右と左を区別する意味なんてあるの? という疑問ですが、ボッビオ(画像右)は、左右の区別を未だに意義があり、有効であると主張します。区別は意味がないとする論者は、もはやイデオロギーは存在しないこと、価値が多様化・複雑化した現代においては単純な二元論で政治を分類することはできないと言います(※ちなみに、サルトル<Jean-Paul Sartre>は「右と左というのは空っぽの箱だ」という有名な言葉を残しているらしいです)。それに対してボッビオは、イデオロギーは消滅したわけではなく、形を変えただけ、別のイデオロギーに取って代わっただけであり、そして、そもそも、左右の区別は資本主義・共産主義という対立をはるかに越えた広い概念だとし、また、二元論だとの批判に関しては、二つの極(左右)の間に中間領域があること、つまり、白と黒の間には灰色が存在することは確かだが、それは白と黒との相異をなんら排除するものではないと主張します。ただし、区別は絶対的なものではなく、時代や場所といったコンテクストで変わりうる相対的なものであることも指摘しています。どちらか一方が、「真」であったり、「偽」であったりすることはないと。つまり、左右の区別は絶対的なものではないけども、区別自体は未だに存在しているんだよ、と言うわけです。

 まぁ、確かにイタリア人の間でも、ロマーノ・プローディ(Romano Prodi、画像下左)率いる民主党などの陣営は左翼で、シルヴィオ・ベルルスコーニ(Silvio Berlusconi、画像下右)率いるフォルツァ・イターリア(Forza Italia)などの陣営が右翼だという認識は当然あるでしょうし、日本でも先述のように「ウヨク」や「サヨク」といった標語が飛び交っているのを見れば、左右の区別自体は存在していると言えるようです。
  
 つぎに、?右と左を区別する基準は何なのか? 言い換えると、何をもって右と左を区別するのか? という問いです。まず、「過激派と穏健派」という基準が検討されますが、ボッビオによると、これは右と左の区別に一致するものでありません。なぜなら、右派陣営には過激派もいれば穏健派もいる、逆に左派陣営にも過激派はいるし、穏健派もいることが歴史的に証明されているからです。また、「伝統と解放」という基準も、時代と状況に依存するものであり、その目的達成において便宜的な価値を持てば、左右いずれの立場においても、強調される類のものであって、左右の区別と正確に合致するものではないと言います。さらに、「古典主義とロマン主義」という基準も、「古典主義」に分類される保守主義(右)・自由主義(右&左)・科学主義(左)と、「ロマン主義」に入るアナーキー自由主義(左)・ファシズム(右)・伝統主義(右)といった意味内容に鑑みれば、左右の区別とは必ずしも一致しないことがわかります。

 で、結局、左右を区別する基準は何なんだというと、それは平等概念の捉え方に尽きるとボッビオは主張します。二つの対立項のうち、一方は平等主義者であり、人間に共通するものを尊重し、そのことがよりよき共存のために必要と考え、不平等は人為的なもので弾劾・除去されるべきだと考える。そして、他方は非平等主義者であり、よりよき共存のためには、人間のあいだの相異が重要であると考え、平等とは人為的なものであり、自然が人間に望んだ不平等と矛盾するため望ましくないと考える。つまり、左翼は自然・習慣・伝統・過去が作り出した不平等を是正することができるとし、それを実行に移そうと試みるのに対し(万人が完全に平等であるユートピア的社会の追求ではない)、右翼はそうした自然・習慣・伝統・過去が生み出した不平等を受け入れるのに、より柔軟である、というのです。たとえば、自分が所属する社会に、虐げられている集団(低所得層や移民、少数民族など)がいた場合、その不平等の最小化を目指そうとするのが左翼で、そうした社会の不平等に比較的柔軟であるのが右翼というわけです。

 あなたは右翼でしょうか、左翼でしょうか?
光はトリノより―イタリア現代精神史