京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

不毛な嘘 (旧ウェブサイトコラム 『イタリアの小噺バルゼッレッテ』)

おかんから、毛はえ薬が送られてきた。

 今年30歳を迎え、薄れゆく僕の頭皮を心配してくれてのことだが、なんだろう、この微妙な気持ちは。おかんから毛はえ薬。僕が思春期だった頃、世の中の多くの少年少女と同じように、親の干渉というものを無性にじゃまっけに感じたものだが、久しぶりにあの感覚を思い出したといってもいい。

 ほっといてくれよと。

 まず、事の起こりは何週間か前におかんから届いた、
 「あんたのために毛はえぐすり買ってあげたから、送ってあげるわ」
 という一通のメールだった。
 それからしばらく何の音沙汰もなく、僕もそのことはすっかり忘れていたのだが、ある日、まるで青天の霹靂のように、その秘薬は我が家の郵便受けに投函されたのだった。
 小包を開けると、
 「突然の宝物 びっくりさせてごめんね」
 という無邪気なメッセージ(画像右)とともに僕の目に飛び込んできた、あやしげな小瓶を満たしている謎の液体。
 毛はえ薬。
 告白すると、届いてしばらくたつのだけど、まだ使っていない。

 「毛はえ薬」という呼び方が80年代を感じさせるのもあるが(せめて『育毛剤』と言ってくれていたら少しは僕の態度も変わったかもしれない)、なによりも、親に薄毛の心配をされたくはないというのが一番の理由だ。

 なんか、順番が違うんじゃないかと。

 昔のテレビドラマなんかじゃ、息子に先立たれた頑固おやじが「バカ野郎、親より先に逝っちまいやがって…」と嘆くシーンがよくあったけど、この感覚はそういうことだと思うんだよ。

 逆だよと。

 順番は守らなければいけないって、誰でも幼稚園で習うじゃない。死や老いは誰に対しても平等に訪れる。だけど、子どもは親より先に死ぬべきではないし、親は子どもの薄毛の心配をすべきじゃない。

 順番を間違えちゃいけないんだよ。

 しかも、
 「バカ野郎、親より先に逝っちまいやがって…」
 ならドラマとして成立するけども、
 「バカ野郎、息子の薄毛の心配しやがって…」
 じゃ、どこのお茶の間も感動しないわけだから。

 さて、小包が届いてから数日後、僕の携帯におかんから電話がかかってきた。
 「届いたやろ?」
 悪意のない声。
 届いたよ、と僕は答える。
 「使ってる?」
 僕は、少し迷ってから、使ってるよ、と嘘を言う。
 「ちょっとは生えてきた?」
 いや、そんなにすぐ生えへんよ。効果が出るにはしばらくかかるんちゃうかな。
 「ところで、あんた今度いつ帰ってくるん?」
 そうやな、来月には帰ると思うよ。
 「その頃にはふさふさになってるやろうなあ」
 だから、そんなすぐに効果は出えへんよ。
 10分くらい話をして、僕たちは電話を切った。
 おかんの優しさを思うと、「使ってる」なんて安易に嘘をついたことに対して若干の罪悪感がないわけではなかった。
 だけど、そもそも僕の抱いている微妙な感情を一から十までおかんに説明するのは不可能だし、「順番を間違えちゃいけない」なんて論理をおかんに説いたところで、彼女は容易に納得しないだろう。話がこじれて、果ては勘当、親子の縁を切るなんてところにまで行きかねない。それだったら、せっかくの母の愛のこもったプレゼントを「喜んで使ってるよ」って言ってあげたほうがよっぽどいいに決まってる。どうせ電話の向こうからこっちの状況はわからないんだしさ。

 もちろん「使ってるよ」って言っといて、来月実家に帰ったとき、僕の頭皮になんの改善も見られなかったら、それはそれで別の悲しみがおかんに訪れるんだろうけどな。
 ああ、嘘って結局、どこかでひずみが出てくるんだよな。

 例えば、イタリアの小噺(barzelletta)に、こんな話がある。

 Il marito passa la notte fuori casa. La mattina dopo spiega alla moglie che aveva dormito da un suo ottimo amico. La moglie sopsettosa telefona ai vari migliori amici del marito: il primo conferma il fatto e il secondo dice che è ancora lì e sta facendo la doccia.

ある晩、夫が黙って外泊し、帰ってこなかった。翌朝帰宅した夫は妻に、一番の親友のところに泊めてもらったんだと説明した。どうも怪しいなと妻は思った。女の勘というやつだ。彼女は夫の親しい友人何人かに目星をつけ、電話で確認することにした。
最初の一人は、こう証言した。
「そうそう、昨夜はうちに泊まっていったよ」
夫にしてみれば、持つべきものは友達だといったところだろう。
妻は一人では信じられないと、さらに電話をかけ続けた。
「すいません、夫がゆうべ、一番の親友のところに泊めてもらったらしいんですけど」
二人目の友達は、あろうことかこう証言した。
「ああ、ちゃんとここに泊まってるよ。今シャワーを浴びてるところさ…」

 やっぱり、嘘はすべてを台無しにするんだよな。
 現実に向き合うことに決めた僕は、ゆっくりと小瓶の蓋に手をかける。
 「薬用グローリン・ギガ」
 すごい名前だ。
 「洗髪後、直接頭皮になじませてください」とある。
 僕は、頭皮の汚れと嘘を勢いよく洗い流すべく、熱いシャワーを頭から浴びた。