京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

新連載開始のための長すぎる助走的序章 あるいは、その著者のためのリハビリテーション  (旧ウェブサイトコラム『ボローニャ新聞 大阪支局』)

I’m just sitting here watching the wheels go round and round.
I really love to watch them roll.
No longer riding on the merry-go-round.
I just had to let it go.  
 --JOHN LENNON, “Watching the Wheels”   

 新居には中庭がある。およそ3メートル四方。豪華な日本庭園の対極にあり、かといって坪庭というほど洗練された印象もない。日当たりはむしろ悪いし、水はけはどちらかといえば下劣だ。2階建て建築物に四方向を囲まれた、日当たりも水はけも良くない10平米足らずの中庭一般が、世間で多くの場合そうであるように、わが中庭もまったくと言っていいほど手入れされていない。単なる空き地に近い。中庭としてはむしろ低級である。しかし、そんな下等中庭を「まったく手入れされていない空き地」と断言しないのは、そんな何の取り柄もなさそうな中庭の唯一のハイライトと位置づけられる割と古くて太い1本の木が、中庭を取り囲む建物をその枝で破壊しない程度に剪定されているのである。必要に迫られてではあるにせよ、少なくとも放ったらかしではない点で、この空間は立派な中庭である。そして実のところ、賃貸の2階に暮らす身には結局はたどり着けない桃源郷であり、登記的には「わが中庭」でさえないこの中庭が、今、なかなかどうしてお気に入りだ。

 古来東洋人は、限られた私有地を有効に活用すべく、借景庭園という素敵な概念を生み出した。庭園外の自然を背景として取り込む造園テクニック。「ちょっと失礼、拝借します」という雰囲気が昔から好きな言葉でもある。わが中庭は、この借景庭園を思わせる。いわば借景中庭である。中庭の東側に位置するわが新居(コチラ青龍ナリ。四神ノ皆様、応答ドウゾ)の、庭を挟んだ正面の窓は、夜の帳が下りると簾から心地よい光をこぼし始める。借りるべき景色としては悪くない。ときどき人影が揺れたりして、西の白虎は風流を解する輩かも知れない。南の朱雀は年老いた女だが、彼女は聴き取れぬほどのか細い声で子守歌のようなものを昼夜問わず歌う。ときどき誰かに何かを問うような独り言を言う。上品とは言いがたいが趣のある景色のみならず、音声的な刺激と少しの郷愁、そして若干の悪寒を拝借する。北の玄武は今のところ何も貸してくれないので、たぶん、自分の玄武的甲羅に閉じこもるタイプなのだろう。その窓はいつも堅く閉ざされている。とにかくそんな具合に、実際の10平方メートル以上の広がり、すなわち隣人たちが作り出す景色とイマジネーションとそれによる脳細胞の活性化をわが借景借音中庭は提供してくれている。

 ところで、日の高い時間にしか光が差さない中庭というものは、どことなく100年に一度しか満月の光が差さない秘密の井戸を思わせる。冒険小説的にもぐり続ければ財宝にめぐり会えるんじゃないかしら。そして、宝の眠る井戸という空想は、さらにこの中庭が虹の足元に位置しているのではないかという期待さえ抱かせる。虹の足元にも宝が眠ると人は言うんだから。虹の中からはその虹が見えないとも聞くので、その期待はあながち的外れでもなかろう。僕には見えていないからといって、その瞬間に虹が出ていないとは言い切れまい。見えない(あるいは想像上の)虹が、おそらくはこの庭の本来的な暗さを2割引きくらいしてくれているように思えてくる。井戸も虹も見たことがないけれど、イタリアのローマには行ったことがあるし、なんなら有名なパンテオンにも入ったという人は思い返してほしい。あのうす暗い空間に丸い天窓から差し込む一条の光。暗黒の世に届いた唯一の救いのような光。あの光が今、実はわが中庭に向けられていると思っていただいても、誰にとってもそれほど実害はないはずである。

 不動産屋に始めてこの物件を紹介されて以来、この想像力の泉のような中庭を、僕は「ニエプスの庭」と呼んでいる。写真の開発者のひとり、ニセフォール・ニエプス(Nicéphore Niépce)に由来するのは言うまでもない。それまで空室だったこの部屋を見学に来た僕は、中庭に面する窓をガラガラと開けた瞬間、かのヘリオグラフ(画像下)が見えてしまった。消失点まで消失しそうな光景が、似ても似つかぬ窓からの光景にオーバーラップしたのだ。事実、地平線どころか、わが中庭には遠景さえ臨めないし、望めやしない。正面にあるのは前述の白虎の窓である。ところがニエプスの啓示を受けた僕には、数メートル先に壁が迫ろうともそれほど意味を成さない。ニエプスの写真が象徴していたこれから始まる写真の歴史のような風景がいつでも見えるからだ。写真史の一部はニエプスから始まったように、僕の新しい物語はニエプスの庭から始まるのだ。あるいは、こう考えることもできる。すなわち「空を見たいなら視線を上げろ」。ちょっと視線を上方へずらせば狭き門のような空が見える。僕が上を向くのは涙をこぼさないためではない。上昇志向の貧弱な僕にはおあつらえ向きだねとつぶやきながら、賃貸契約書にサインしていた。

 
 昨日、ニエプスの庭の木に、セミが抜け殻を残していった。ねえ、セミくん。中庭の宝をみつけたから、君は行ってしまったのかい? それともみつからないからあきらめて? いずれにせよ、君の抜け殻の形をした「編集長の声」が僕を急かすんだ。そろそろ暗い土の中から出てきて新コラムを始めろってね。

※オールドファッション幹太のブログ  KANTA CANTA LA VITA