京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

ムッソリーニの亡霊 〜イタリアのネオ・ファシズム〜

 今回はイタリアのネオ・ファシズム(Neofascismo)についてです。ネオ・ファシズム自体はなにもイタリアに限った政治運動ではなく、世界中で見られるのですが、ここではイタリアのものを中心に見ていきたいと思います。

 まず、ネオ・ファシズムとは何なのかというと、第二次大戦後、特に1980年代に現われたファシズム思想を色濃く帯びた政治運動のことを指します。ただ、「ファシズム」自体が歴史的・地域的なコンテクストによって様々な形をとり、定義が明確ではありません。たとえば、ブッシュ政権を「ファシズム」とする言説もよく見られます。つまり、特定の政権を批判するためのレトリックとしての機能もあるわけです。したがって、「ネオ・ファシズム」も同様にその定義は曖昧なものになっています。ただ、一般的な特徴として、以下のものが挙げられます。

 このように列挙してみると、やはりネオ・ファシズムは、ムッソリーニヒットラーの思想・政策を受け継ぐものだと、あらためて感じます。

 さて、ここからはイタリアのネオ・ファシストたちの運動を見ていきます。戦後のイタリアにおけるネオ・ファシストの動きとして、まず挙げなければならないのが1970年12月8日に起こったクーデター(Golpe Borghese)です。これは、ネオ・ファシストであるジュニオ・ヴァレーリオ・ボルゲーゼ(Junio Valerio Borghese)*2、そしてステーファノ・デッレ・キアーイエ(Stefano Delle Chiaie)*3らが計画したもので、軍人、右翼の実業家、シチリア・マフィア(反共主義)などの協力の下、ネオ・ファシスト政権を樹立しようとする企みでしたが、結局失敗に終わっています。ただ、失敗だったとはいえ、このクーデターは、イタリアには戦後においてもファシズム勢力が残っている、ということを物語っています。
  そして、1970年代以降、ネオ・ファシスト団体はテロ活動を活発化させます。この時代は、「緊張の戦略」(“Strategia della tensione”)と呼ばれることもあります。ネオ・ファシストたちは自らの勢力拡大のため、テロ・プロパガンダ・デマなどによって世論をコントロールしようとしたのです。人々に精神的な緊張(tensione)を与え、特定のネオ・ファシスト団体への恐怖を植えつける戦略(strategia)だったので、まさに「緊張の戦略」(“Strategia della tensione”)なわけです。また、こうした極右によるテロ活動は、ヨーロッパ諸国への共産主義勢力の拡大を恐れていたNATOによって支援されていました。

 この時代の一連のテロ事件で特徴的な点が「偽の旗」(False Flag)と呼ばれる、テロなどの違法行為を他の組織・団体の犯行に見せかける活動です。ネオ・ファシストたちはテロを行い、大衆にそれを共産主義者による暴動だと思わせようとしたのです。たとえば、1969年にミラノで起きたフォンターナ広場爆弾テロ事件(Strage di piazza Fontana)は、まさにその典型例と言えます。実際、この事件後にアナーキストであるジュゼッペ・ピネッリ(Giuseppe Pinelli)という男が容疑者として拘留され、取調べを受けたのですが、証拠不十分で無罪となり、結局ネオ・ファシストのグループ「新秩序」(Ordine Nuovo)のリーダーであるヴィチェンツォ・ヴィンチグエッラ(Vicenzo Vinciguerra)が真犯人として告発されます。ピネッリは公式記録として、拘留中にミラノ警察署の4階から飛び降りて自殺したとされていますが、「彼は誰かに押されて落ちた」という目撃証言もあります*4。また、1972年のペテアーノ爆破事件(strage di Peteano)でも、事件後長い間、マルクス・レーニン主義を掲げる「赤い旅団」(Brigate Rosse)によるテロとされていましたが、後になって前述の事件同様、ヴィチェンツォ・ヴィンチグエッラが真犯人として逮捕されています。
 なお、2000年にイタリアの中道左派連合「オリーヴの木」(L’Ulivo)は、議会に提出した報告書の中で、アメリカはイタリア共産党PCI)を抑えるためにネオ・ファシストの「緊張の戦略」(“Strategia della tensione”)を支持していた、と結論づけています。

 1990年代に入ると、イタリアのネオ・ファシズムは新たな展開を見せます。たとえば、ジャンフランコ・フィーニ(Gianfranco Fini、写真上)は、自らが所属するファシスト政党「イタリア社会運動」(Movimento Sociale Italiano(MSI))と、1994年に解散したキリスト教民主党の保守勢力を合併させ、新たな政党「国民同盟」(Alleanza Nazionale)を作ります。ただ、1995年にイタリア社会運動(MSI)は解体しますが、新政党である「国民同盟」(AN)のメンバーの多くはMSI出身者が占めました。そして、フィーニは従来のネオ・ファシストたちと異なり、ムッソリーニファシズムから距離を置き、ユダヤ人団体との関係を修復するなど、比較的穏健な路線を進み始めます。
ベニート・ムッソリーニアドルフ・ヒトラー こうしたMSIの解体、新政党の結成、そして、フィーニの新たな方針に、党のメンバーとして不満を募らせていたのが、ファシズムの独裁者ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)を祖父にもつアレッサンドラ・ムッソリーニ(Alessandra Mussolini)*5です。そして、2003年11月、フィーニがイスラエルを訪れ、ファシズムを批判し、ムッソリーニが1938年に承認した民族法について謝罪すると、ついに彼女は党を去ることを決断します。そして、彼女は極右政党「活動の自由」(Liberta di Azione)を結成し、他のネオ・ファシスト勢力を吸収していき、政党連合「社会的代案」(Alternativa Sociale)を形成します。この連合は2004年のヨーロッパ選挙で議席を獲得しており、現在アレッサンドラ・ムッソリーニはヨーロッパ議会のメンバーとなっています。
 ちなみに、彼女には過激な言動の傾向があるらしく、自分は同性愛に断固反対するとして、“Meglio fascista che frocio”(「同性愛者になるより、ファシストになる方がマシだ」)と発言し、同性愛支持者からの反発を買っているとのことです

 「ファシズム」というと、2つの世界大戦中に興った過激な思想という印象がありますが、なにもファシズムは過去の産物というわけではなく、今回のコラムで見てきたように、現在においても形は多少違うとはいえ、その潮流は確実に存在しているといえます。ファシズムの象徴ともいえるムッソリーニの遺体は現在、ミラノのとある墓地にひっそりと埋葬されているとのことですが、どうやらファシズム思想の方は、まだまだ墓には入りたくはないようです。

*1:権力がコーポレーション(団体・組合)に与えられている政治・経済体制。社会・経済生活へのコントロールを行う。コーポレーションの人選は内部のヒエラルキーにより決まる。

*2:ファシズム政権時代の海軍指揮官。戦後はネオ・ファシストとして活動。1974年没。

*3:国際的テロリスト。戦後のファシスト政党「イタリア社会運動」(Movimento Sociale Italiano(MSI))のメンバーだったが脱退。Golpe Borghese以後はスペインやラテン・アメリカなどで活動をつづけ、1983年にはCIAから右翼テロリストとして指名手配されている。

*4:イタリアの劇作家ダリオ・フォー(Dario Fo)の代表作『ある無政府主義者の不慮の死』(“Morte accidentale di un anarchico”)は、この話がベースとなっている。

*5:ちなみに、彼女の叔母は女優のソフィア・ローレンSophia Loren)。