京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『エディントンへようこそ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 12月22日放送分
映画『エディントンへようこそ』短評のDJ'sカット版です。

舞台はアメリカのニューメキシコ州にある小さな町エディントン。2020年、コロナ禍によるロックダウンで閉塞感とギスギスした雰囲気が充満している状況です。IT企業を誘致して町の起爆剤にすると主張する市長テッドにかねてより不満を持っていた保安官のジョーは、マスクの着用をめぐる小競り合いでいきり立ち、突如として市長選挙に立候補することに。カルト集団の影響で陰謀論にのめり込むジョーの妻や、ブラック・ライブズ・マター運動で怪気炎をあげる若者たちなど、穏やかだったエディントンの町に暗雲が垂れこめていきます。

ボーはおそれている ミッドサマー(字幕版)

監督・脚本・編集・共同製作を務めたのは、『ミッドサマー』のアリ・アスター。保安官ジョーに扮したのは、監督の前作『ボーはおそれている』に続いてのタッグとなったホアキン・フェニックス。その他、市長テッドをペドロ・パスカル、ジョーの妻をエマ・ストーン、カルト集団の教祖をオースティン・バトラーが演じています。
 
僕は公開前にメディア試写で一度観ていたんですが、先週金曜夕方にTOHOシネマズなんばに出向きまして、計2回鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

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オリジナルのタイトルはシンプルに「エディントン」ですが、僕はこの邦題が結構好きです。『エディントンへようこそ』。この「ようこそ」が付くだけで、この作品が備えるブラックな笑いの要素が垣間見えるんですよね。「エディントンへようこそ」。実際にニューメキシコ州を車で走ってたら、でかい看板に書いていそうじゃないですか。映画の観客たるこちらとしても、ウェルカム感を出されると悪い気はしませんもの。ところが、観終わったらね、こう思うはずです。「この町、ヤダ!」。いや、むしろ、僕は映画を観ている途中から思ってましたよ。早く脱出させてくれ、と。『ミッドサマー』を観ている時にも思ったものですが、今回のアリ・アスターは、題材が現実と地続きだし、ホラー的演出は抑えめな分、観客としてはより巻き込まれる感覚があって、これは褒め言葉ですが、とにかく嫌でしたね。「二度と来るか、こんな町」って思ったんだけど、僕なんて結局まんまと2回目のウェルカムやっちゃってます。結構情報量が多いし、常に何か動きのある物語で、終盤なんて、まさかのガンアクションから追いかけっこまで始まるびっくり展開なので、所見だと啞然とするんです。確認の2回目のつもりだったんですけど、また驚く発見もちょくちょくあって、結局面白く観てしまいました。結論としては、やっぱり「二度と来るか、こんな町。何がウェルカムだこの野郎!」なんですけどね。

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邦題の「ようこそ」が良いなというのは、物語的にもエディントン市長が巨大なデータセンターを誘致するところから始まるからです。冒頭に誘致の看板が出てくるし、途中には誘致に反対する看板も出てきます。最初と最後でこの構図は対応しているんです。看板と町を臨むロングショット。この砂漠の中にある町で、物語はほぼすべて展開します。そのわりには、トピックは異様に多いです。政治的な対立、カルト宗教、ディープ・ステートなどの陰謀論、ブラック・ライブズ・マター運動とそれに対するリアクションとしての過激なテロリズムの動きアンティファ。白人がマジョリティである田舎町における、黒人だけでなくヒスパニックやネイティブ・アメリカンも含めた人種問題。銃社会。そして、もちろんあるぞ、個人的な恨みつらみから家族の因縁。もうね、分断なんて言葉であっさり表現できないくらいに複雑に糸が絡み合い、レイヤーが重なり合っていきます。その大きな原因でもあり、より渦を大きくするのが、SNSです。今作におけるアリ・アスター監督のSNS批判は、もう嫌悪の域に達していると思われます。SNSこそ社会を悪くする、トラブルと不安と不満と憎悪を生み出す泉だと言わんばかり。ただ、アリ・アスター表現者ですから、その憎悪を映画にするとどうなるか。アメリカでコロナ禍以降起きていることをゴソッとひとつの街にぶち込んでかき混ぜてエライことになる様子を、箱庭的に、上から覗き込むようにして、ブラックというよりも漆黒のコメディーに仕立ててしまうんです。だから、町のロングショット、遠景で始まり、終わるんです。

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アメリカの砂漠。田舎町。ネイティブ・アメリカンも出てくる。因縁や対立と言えば、映画のジャンルとしては西部劇と重なります。実際、西部劇っぽい構図もいくつも出てきます。だいたい、カウボーイハットをかぶった保安官ジョーが主人公なわけですから。ホアキン・フェニックスペドロ・パスカルが向かい合うところなんて、まんま西部劇です。銃は向け合ってないんですけど、コロナ禍なんでディスタンスを取るのが、また決闘シーンっぽいんです。それよりも注目してほしいのは、異様なまでのスマホの数です。こんなにスクリーンにスマホが登場する劇映画も珍しいですよ。誰も彼もがスマホで何かを確認し、情報を垂れ流し、真偽なんてお構いなしに拡散し、むやみに繋がっている。保安官ジョーもそう。寝る直前も朝起きてすぐも。そして、たとえばデモ隊鎮圧に向かう時には、動画配信用の三脚とライトを警棒よろしく握ってます。つまり、こういうことです。現代においては、スマホこそが西部劇における銃なんです。ピストルでありマシンガンなんです。あのリアルに銃社会であるアメリカですら、そうなんですよ。だから、この映画、スマホをすべて銃だと思って見ると、さらに興味深いですよ。ただし、かつての西部劇と決定的に違うのは、フロンティアなんてもうどこにもないってことです。目指すべき場所も理想もなく、ただただいがみ合い、ネット経由で溝を深めて、怒りの炎にせっせと薪をくべるばかり。アリ・アスターの世界の現状認識は、一言で言えば、ディストピアだと受け取れます。彼はあらゆる立場の人間を突き放して笑っているようです。それをもって相対主義冷笑主義ニヒリズムだと批判されることすら恐れていないかのように、アリ・アスターは観客へ漆黒の笑いを突きつけてくるんです。「エディントンなんて町、今度こそ二度と来ねえかんな!」と思いつつ映画館を出て、スマホをポケットから取り出した時、観客はこう思うかもしれませんよ。ちょっと待てよ。現実の今の日本にも、エディントンの要素、あるな。二度と来ないどころか、僕らはエディントン的な世界にとっくに足を踏み入れているじゃないか…

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とにかくろくでもない気分になりますが、映画としてむちゃくちゃ面白いのは確かです。グラフィティアートを描くスプレーの音と夜道を走る車が画面を横切る様子を重ねる編集や、まるで太陽から突撃してくるような飛行機、超おっかないんだけど鈍臭くてバカっぽいガンアクションと逃走劇などなど、観ればびっくりして誰かと語りたくなるシーンもたくさんあります。ただし、胸糞悪いです。そこが、同じく現状認識の作品でテーマも少し似ているポール・トーマス・アンダーソン監督の『ワン・バトル・アフター・アナザー』と違うところで、あのディカプリオも「ダメだなこいつ」って思うんだけど、あちらには希望の種が植えられているように感じるのに対して、「エディントン」には、それはないです。アリ・アスター監督は、俳優の河合優実との対談において、こんな発言をしています。「希望は重要です。ただし、盲目的な楽観主義は、今の状況にふさわしくない。必要なのは、現状を追認することではなく、別の未来に向けた具体的なビジョン。ただ「大丈夫、乗り越えられる」と目を閉じてつぶやくだけでは、もはや立ちゆかない局面に僕らは差し掛かっているのだと思います」。あなたもぜひ、自分の未来、そして広く言えば人間の未来を見つめ直すために、あの町へ出かけてみませんか? タイトルを再確認して、この評を終えます。「エディントンへようこそ」。
ジョーと市長のテッドが、市長選挙の最中の政治パーティーで流れるこの曲のボリュームを巡って、スピーカーのフェーダーを上げ下げするくだりは、見ごたえのある笑いのポイントでした。

さ〜て、次回、12月29日(月)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ペリリュー  ー楽園のゲルニカー』です。今年は戦後80年。その締めくくりとして、これは意義のある映画の神様からの御託宣じゃないかと気合を入れて鑑賞してきます。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!