FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年10月25日放送分
映画『2001年宇宙の旅』短評、というか、ささやかな鑑賞ガイドのDJ's カット版です。
今回は番組のオープニングでも、実は作品についてというか、途中で入るインターミッションにまつわるエピソードに触れたので、そちらも掲載しておきます。
今日の映画短評課題作『2001年宇宙の旅』。初めて観たのはいつだったっけか。小学校か中学校か、その頃に親が借りてきたビデオでだったと思います。とにかく、それまで少ないながら観ていたどの映画とも違うし、とにかく途中から怖くて仕方ないし、最後にはもう何がなんだかで衝撃を受けました。
大学生になってからは、中古のビデオ屋でレーザーディスク2枚組を買ってきて、ジャケットがかっこいいから部屋に飾ったりしながら、当時まだ持っていたプレーヤーで何度か鑑賞。ただ、LDなんで、どうしても容量が少ないから、途中でよっこいせと裏返さないといけないし、さらに「2001年」は尺が長いから途中でディスクの入れ替えすらあるという。せっかくの映画がぶつ切れでした。
がしかし、今回の109シネマズ大阪エキスポシティ、僕呼んで大仏IMAXで鑑賞してみて、この映画にはそもそもインターミッション、つまりは休憩が入っているということに気付かされました。あの末恐ろしすぎる場面の後、不意にINTERMISSIONと画面が切り替わり、客席の電気が灯るではありませんか。
測ってなかったけど、10分くらいかな。「こんなの初めて〜」と戸惑う人もいるでしょうね、あれは。ただ、古い映画では実はわりと当たり前の話で、国にもよるのですが、僕のよく知るイタリアだと、90年代まで普通にありました。劇場でも、現在前半上映中みたいなランプが点灯していたり。
休憩中はみんなお手洗いに行ったり、劇場の売店でお酒を買って飲みながら、途中までの感想を喋ったり。あれはあれで、なかなか趣があります。僕がローマの映画館で体験した最大の衝撃は、途中休憩中に、「これ、良かったら」みたいなノリで映画館の人にみかんをもらったことですね。
アナログレコードなら、A面とB面で一度休憩が入るみたいな、あの不便だけど豊かな時間。2018年の僕らはもう失ってるよなって気づきましたね。
400万年前の類人猿からヒトへの進化。人類の宇宙探索。我々の科学を超越する存在たる謎の石版モノリスに導かれるようにして、HAL9000というAIが制御する宇宙船は、ボーマン船長、プール飛行士、そして3名の冬眠する飛行士を乗せて、木星へと旅立つ。順風満帆に見えたその旅に、HAL9000のトラブルによって惨事が起きる。
1968年にアメリカで初公開された今作。その4年前、早熟の天才キューブリックが36歳の時、「語り草になるような、いいSF映画を作る可能性」について語り合いたいとコンタクトを取ったのが、一世代上で47歳だったSF作家の巨匠アーサー・C・クラーク。ふたりは徹底的に議論を重ね、NASAやIBMなど40に及ぶ研究機関や企業への徹底的なリサーチを重ね、CGが無かった当時の映画界が持てるあらゆる技術を駆使し、撮影期間だけで2年を要しました。その結果、舞台となった2001年よりも未来に生きる僕たちでさえ未だに語り草にしているわけです。上映時間140分程で、人類の夜明けから未来までを、陶酔させる映像美と研ぎ澄まされた音使いでシンボリックに描き出す、これぞ唯一無二なスタンリー・キューブリックの代表作。この作品に言及しない映画史なんてないですからね。公開から半世紀を経て、SF映画の金字塔が、IMAXの巨大スクリーンに映し出されています。
それでは、制限時間3分の映画短評、というか、今週ばかりは名作の入口をほのかに照らすガイドといったところかな。とにかく、そろそろ出発です!
ものすごく大雑把に言えば、SFの最大の命題は、「我々人間はどこから来て、どこへ向かうのか」というものだと思います。「2001年宇宙の旅」は、「人間とは何か」という問いに正面から取り組んでいることが、今も傑作と言われる所以です。
原題は『2001:a space odyssey』。古代ギリシャの詩人ホメーロスの叙事詩『オデュッセイア』から借用されました。トロイア戦争から凱旋するオデュッセウスが、地中海の船旅の途中、魔物たちと戦い、幾多の困難で乗組員と船を失い、それでも帰国を果たす冒険譚です。
この映画はそれぞれ登場人物の異なる3つのパートに別れています。で、『オデュッセイア』になぞらえられたのは、最後の部分ですね。前半の2パートは、導入として機能していて、人間が知恵・技術と引き換えに背負い込んでしまった「業」という負のイメージを、ほぼセリフ無しで僕らに伝えます。
象徴的なのは、猿たちが動物の骨を拾い、それが武器になると気づき、実際に暴力を行使。宙に放り投げたその白い骨から、パッと白い宇宙船へと繋がるあの2カット。この編集、つなぎは、被写体のアクションや形が似ているもの同士を結びつけていくマッチカットという手法で、その究極のお手本として、よく教科書に載ってます。ふたつ、類似点があるんです。色形だけでなく、骨も宇宙船も武器であること。宇宙開発はそもそも軍事目的が発端だとよく言われますよね。
そんな導入を経て、映画は核心である3部へ。オデュッセイアに登場する怪物が、ここではAIに取って代わります。今でこそAIをモチーフにした映画は盛んに作られていますが、2001年はその先駆けであり、今もその深いテーマ性から最先端でもある。人がAIを生み出すというのは何を意味するのか。今も議論は続いているわけですからね。ただ、誤解しないで。ただただ哲学的な映画ではまったくない。
第三部は特に、優れたサスペンス、あるいはスリラーとしても機能しています。あの休憩前後の緊張感ときたら。血なんか一切流れないのに、超怖い。僕なんか、一昨日久々に観てから、HAL9000の外見と似通った、よく建物の壁面に埋め込まれてる非常警報設備の赤いランプが怖くて仕方ないですからね。
先ほど、3幕それぞれ登場人物が違うと言いましたが、ひとつ共通して出てくるものがある。映画史上でも最大の謎と言える、あの黒い石版モノリスです。これが鍵です。ただ、簡単には開けられない。モノリスは、解釈を生みだす道標でもあるし、解釈を吸い込むブラックホールでもあるんです。その色んな解釈についてはここでは割愛しますけどね。
この映画の後、宇宙舞台だったり『猿の惑星』のような文明批評ものが盛んに作られます。『スター・トレック』『スター・ウォーズ』『エイリアン』、果ては『インターステラー』『メッセージ』など。映画史にその名を刻んだ作品で、「2001年」の影響を受けていないものはありません。それは、テーマだけではなく、演出や技術的にも言えます。宇宙空間の見せ方、キューブリック印とも言えるシンメトリーな構図とそれが崩れる効果。宇宙服のヘルメットへの映り込みまですべて計算する徹底した映像の仕掛け。クラシック音楽の絶妙な使い方と、沈黙の音とも言うべき無音使いや、それを際立たせる呼吸の音。後半のトリップ体験と言える実験映画的な色彩と音の洪水。一度観たら忘れられません。
短評の後に何をオンエアするか迷いましたが、歌詞の一部がもろに『2001年宇宙の旅』なこの曲を選びました。懐かしいですねぇ。1990年!
関連書籍として、アーサー・C・クラークの小説版もあるにはあるのですが、そこに答えを求めるのではなく、やはり映画は映画として、あえて説明を省いた意味を踏まえながら自分で解釈を膨らませたり、それを友達と共有するのがよろしいかと。
映画の解説も色々あるとは思うんですが、立花隆のと町山智浩の文章は一読に値すると思います。ただ、それもあくまで参考程度に。それほどに、多義的な作品なので。
さ〜て、次回、11月1日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『search/サーチ』です。噂によれば、パソコンのモニターだけで映画が成立するという実験作だとか。面白そうだ。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!