京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『ゴールド・ボーイ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 3月19日放送分
映画『ゴールド・ボーイ』短評のDJ'sカット版です。
完全犯罪を成し遂げたはずなのに、少年たちに目撃されていたとは……。沖縄屈指の事業家である義理の両親を崖から突き落とした婿養子の昇。その現場を偶然にもカメラでとらえた13歳の少年朝陽とその友達ふたり。少年たちもそれぞれに複雑な家庭の問題を抱えていたのですが、朝陽は「僕たちの問題さ、みんなお金さえあれば解決しない?」として、大胆にも昇を脅迫する計画を練ります。こうして始まる殺人犯と少年たちの駆け引きの結末はー。

悪童たち 上 (ハヤカワ・ミステリ文庫) DEATH NOTE デスノート

原作は中国のベストセラー作家、紫金陳(ズー・ジンチェン)の小説『悪童たち』。中国の動画配信サイトでドラマ化され大ヒットを記録したものが、舞台を沖縄に移して映画化されました。監督は「平成ガメラシリーズ」や『デスノート』の金子修介。脚本は『宮本から君へ』『正欲』の港岳彦。殺人犯の東昇に岡田将生、朝陽少年に羽村仁成(はむらじんせい)、その母親に黒木華が扮している他、松井玲奈北村一輝江口洋介なども出演しています。
 
僕は先週金曜日の朝にMOVIX京都で鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

崖から突き落とす人殺して、また素朴にして古風な手法だな。テレビの夜の2時間サスペンスみたいな画面展開なんだろうか。それにしても、ゴールド・ボーイて、タイトル、シンプルすぎひんか…。こうした不安は、それこそ崖から投げ捨ててしまえるほどに必要のないものでした。これが面白かったんですよ。先週と同じく原作ものですが、僕はパク・チャヌクの『オールド・ボーイ』とタイトルが似ているのでてっきり韓国のものかなと思ったら違いまして、おとなり中国のズー・ジンチェンという作家の小説。もちろん邦訳も出ていまして、ハヤカワ・ミステリー文庫で読めるんですが、東野圭吾に影響を受けたというズー・ジンチェン。この才能を知ることができたのも収穫でした。

©2024 GOLD BOY
収穫と言えば、映画では朝陽少年を演じた羽村仁成ですね。彼のことは今後覚えておきたいですよ。彼の言動がいちいち嘘か真かわからない、つまりは、劇中で「演技をしているという演技」が必要なんですが、それが見事でしたよ。しっかり翻弄されました。なにしろ殺人犯を少年たちがゆするわけですから、相当肝が据わっているし、途中から嘘をついているんだなとはっきりわかるところが出てくるだけに、そしたら、もしかしてあの発言も嘘だったのか、とか、いつから嘘をついていたのか、とか、すっかり疑心暗鬼になってしまうわけです。朝陽少年が表立って対決するのは、殺人犯であることが明かされている岡田将生演じる昇と、江口洋介演じる刑事なんですが、単純に1対1で相対するだけでなく、1対2になるくだりも出てくることで、まさにおじさん顔負けの展開がなるほど原作のタイトルは「悪童たち」なんだなと頷けるし、悪童「たち」と複数になっていますが、この少年少女のトライアングルに加えて、両親とのやり取り、ある意味、対決の構図にもしっかりハラハラさせられます。

©2024 GOLD BOY
このあたりは中国ミステリー作家ズー・ジンチェンさすがのプロットだなと思う一方で、この映画化では舞台を沖縄に移しているわけですよね。断崖絶壁のあるところなら、たとえば東尋坊のある福井県でも良いんじゃないかと観る前は思っていたのですが、別に福井県なら福井県でも成立するかもしれないけれど、脚色をした港岳彦のうまいさばきで、沖縄の要素が巧みにストーリーに織り込まれていたと思います。たとえば朝陽くんの母親がシングルマザーで生活苦に喘いでいるから掛け持ちしている仕事のひとつが高級リゾートホテルだったり、昇が婿養子として一員となった家族が島のあらゆる業種を牛耳る県随一の企業だったり、刑事がその企業の親戚であることから捜査に加われないという閉鎖空間ならではの濃ゆい人間関係があったり、独自のお墓の形やそこでの風習が事件に絡んできたりと、沖縄であることの意味がしっかりありましたからね。なおかつ、映画として重要なのは、沖縄のあの光です。北野映画を始めとして、日本映画に欠かせない名カメラマン柳島克己(やなぎじま)が捉えたあの映像は、このミステリー作品にとって極めて大事な青春映画としての側面とマッチしていました。特に、昇の家に少年たちが意を決して入っていく時の少女夏月が少しこちらを振り返る様子を収めたショットは忘れがたいものがありました。あのあたりは、さすがは少年たちを撮るのがうまい金子修介監督だなと感じます。

©2024 GOLD BOY
少々展開が強引なところもあるにはありましたが、中国原作ものをこうして日本映画として形にする文化交流や共同製作の今後に期待が持てるとても満足のいく出来栄えです。今後と言えば、続編もありそうな終わり方にもゾクゾクしましたよ。含みのあるラストだっただけに、金のためならなんでもやってのけるあの人間のこれからも余韻に浸りながら考えてしまいます。金子監督って、まさにゴールド・ボーイですよね。この座組で、ぜひもう一本!
 
エンド・クレジットとともに、この曲が流れてきても、まだ席は立たないように。

さ〜て、次回2024年3月26日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』。日本のインディー映画の巨匠だった若松孝二監督。井浦新が扮しているんですよね。今回は名古屋の映画館シネマスコーレを作り上げていく過程を描くようですが、楽しみでなりません。「ただで起きないために、転べ」っていう惹句も最高だ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

映画『52ヘルツのクジラたち』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 3月12日放送分
映画『52ヘルツのクジラたち』短評のDJ'sカット版です。

幼い頃から家族に翻弄、搾取されて生きてきた20代の女性、三島貴瑚。ある強烈な経験を経て、心身の傷を癒やすべく、東京から海辺の田舎町の一軒家へと引っ越してきたばかりです。彼女はそこで、母親から「ムシ」と呼ばれて虐待を受ける、うまく声を出せない少年と出会います。貴瑚は彼と交流するうちに、東京で自分の声なき声に耳を澄ませ、絶望から救い出してくれた人、アンさんと過ごした日々のことを思い起こしていきます。
原作は、2021年に本屋大賞を受賞した町田そのこの同名小説。監督は、『八日目の蝉』『ソロモンの偽証』、そしてこの番組で評したもので言えば『いのちの停車場』の成島出。脚本は『ロストケア』の龍居由佳里が担当しました。貴瑚を演じたのは、杉咲花。アンさんには志尊淳が扮した他、宮沢氷魚小野花梨余貴美子倍賞美津子なども出演しています。
 
僕は先週水曜日の昼にTOHOシネマズ梅田で鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

原作がベストセラー小説なので、読んでいる方も多いでしょう。僕が、すみませんが、原作未読でして、小説と映画の比較ができないんです。だから、どこまでが映画の脚色なのかわからないものの、物語の構成としてはとても映画っぽいなと思いました。まず主人公の三島貴瑚という20代の女性が海辺の街に登場する。そこは海が見下ろせる一軒家で、住み始めたら建物の傷みに気づいたのか、特に木造のテラスを若い大工に修理してもらっています。都会から来たっぽい若い女性の一人暮らしに興味を持つ大工たち。東京で性風俗に従事していたんじゃないかとか噂を立てられるんですね。それというのも、この家にはその昔、芸者だった女性が流れ着いて住んでいたという歴史と、その記憶が街に息づいているから。すると貴瑚は、「半分は正解。その芸者あがりの女性は私のおばあちゃんだから」みたいなことを言うわけです。そこで、観客は貴瑚の過去と家系に興味を持つ。貴瑚はどうしてこの田舎町にやって来たのか。物語は3年ほど前に遡る。それと同時に、その街で親からネグレクトされている少年と出会ったり、貴瑚にとって大切な人だったというあんさんの幻影が映像として出てくることにより、彼女の過去の人間関係、そしてこれからつながっていく現在・未来の人間関係にと、興味が広がるしかけ。このセットアップができたら、あとは過去と現在のエピソードをそれぞれシャッフルしながら、時系列にそのまま見せていったのでは生まれないサスペンスとミステリーが生まれるんですね。

52ヘルツのクジラたち【特典付き】 (中公文庫)

そこで鍵となるのが、タイトルの「52ヘルツのクジラ」です。クジラはその鳴き声で仲間同士でかなりの情報をやり取りできる生き物ですが、このクジラの場合には周波数が合わないことで、いくら鳴いても叫んでも、自分の思いが他のクジラに伝わらない孤独なクジラなんだということが示されるわけです。究極のマイノリティであるそのクジラの鳴き声をイヤホンで聞くことで、人間社会におけるマイノリティたるキャラクターは、自分にも仲間がいるかも知れないと少し安らげる。この物語では、実際のところ、複数の人物がそれぞれに現実の中で声を上げられないどころか、声を押し殺して生きているんですよね。その理由は、ヤングケア、ジェンダー、ネグレクトなどなど。そして、貴瑚は言わばその中心として、まだ若いその人生において強烈な体験を経て今にいたっていることが示されます。これ、時系列に見せられたら、とてもじゃないけど耐えきれないというくらいなんですが、さっき言ったように、映画的な、あるいは映画というメディアが得意とする語りの手法によって現在の彼女の様子が先に頭に入っているからまだしもで、そうでなければ先が不安すぎてキツいですよ。でも、裏を返せば、エピソードのシャッフルによるミステリー的な語りによって失われる重さも人によっては感じられるでしょう。過酷な現実があっさり時間をジャンプしていくことで、パズルのピースとしてはハマるけれど、語りの段取りが目立ってしまい、軽く感じられるということです。

(C)2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会
でもね、むしろ僕が感じたもどかしさは、それぞれの挿話において被害者がいるとして、その加害者側の掘り下げがほとんどないことです。特に気になったのは、ふたり。生まれてきた子どもを虫けら呼ばわりする若い女性と、再婚したことで相手の男性に気を使うあまり娘への愛情と憎しみが振り子のように極端になってしまう中年女性。それぞれ社会階層や環境が違うことはわかりますが、それ以上の言及はなく、この物語からそれこそネグレクトされることで、記号的な存在になっているんです。それがしかも、揃って女性というのが問題で、これだとまたステレオタイプを生み出しかねないんですよね。あとは、何人かが口にする「誰かが誰かを守る」という言葉と「魂の番」というキーワードには、それがここで問題となっている人間関係の呪いや息苦しさを生むんだぞという違和感も覚えました。

(C)2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会
ただ、杉咲花の演技はなるほどすごかったですし、余貴美子の出番は短いながらもこういうお母さんいるなと思わせる説得力が群を抜いていました。演出面では、成島監督あるいは相馬大輔撮影監督の成果なのか、ライティング、色味の寒暖の差の付け方が印象に残りました。トータルとしては手堅いし、少なくとも、声をなかなか出せない境遇に追い込まれた人たちの声を聴くこと、拾い上げること、声を上げやすくすること、周波数を合わせることの難しさや、それがゆえの当事者たちの知られざる息苦しさはしっかり伝わる作品でしたよ。

さ〜て、次回2024年3月19日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ゴールド・ボーイ』。僕ね、岡田将生の演技が好きなんですよ。端正な顔立ちながら、「こいつカチンとくるなぁ」っていうキャラクターを演じさせたらピカイチだと思うんです。今回はどんなだろ? さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『コヴェナント 約束の救出』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 3月5日放送分
映画『コヴェナント 約束の救出』短評のDJ'sカット版です。

2018年、アフガニスタンの米軍基地。タリバンの武器庫の場所を突き止める命を帯びたジョン・キンリー曹長は、アーメッドというアフガン人通訳と出会います。言語能力も高く、堅物ではあるが信頼できる男で、冷静に物事が分析でき、戦闘能力もメカニックとしての腕も確かなアーメッド。ジョンは彼を連れて作戦に出向くのですが、部隊はなんと全滅。タリバンの支配地域に取り残されたふたりの数奇な運命と、命をかけた救出の様子を描いた作品です。
 
監督は、ガイ・リッチー。脚本は『キャッシュトラック』のアイヴァン・アトキンソンとマーン・デイヴィス。米軍のジョン・キンリーに扮したのはジェイク・ギレンホール。アーメッドは、イラク出身のダール・サリムが演じました。
 
僕は先週金曜日の昼にTジョイ京都で鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

実話ベースの話が映画になる時って、フィクションでしかありえないようなことが本当に起こったことが契機になる、動機になるように思うんですが、そう頭ではわかっていても、そして映画を観ても、にわかには信じられないような物語でした。ガイ・リッチーは、いわゆる娯楽作の作り方なら手慣れたものだろうし、映画というメディアだからこそ面白くなる時系列のシャッフルみたいな得意技も持っている人ですが、今回はもともとドキュメンタリーを見て感銘を受けて準備をしたということで、出来事そのものがとても興味深く感動的なのだから、語りのテクニックはむしろ極めてシンプルにしてあります。状況も複雑なので、これは賢明な判断と言えるでしょう。いわゆる3幕構成になっていて、メインキャラクターのふたりが出会い、武器庫を探し、叩きに行くのが1幕目。そして、2幕と3幕では、それぞれ立場の変わる救出が行われます。それぞれ、序破急と言っても良いのかもしれません。しかも、ふたりとも立場は違えど米軍に所属しているのに、この救出作戦は個人の判断、そしてそのほとんどを米軍の助けを借りずに行われるんです。それが感動を生みます。目の前に血を流して倒れている仲間がいるのだから、彼が安心して治療を受けられる場所まで運ぶ。文字通り、たとえ火の中水の中という根性で、とにかく運んでいく。

(C)2022 STX FINANCING, LLC. ALL RIGHTS RESERVED
負傷して自分ではまったく動けないどころか、意識がある時には痛みで顔を歪め、うめき声を上げるのがジョン軍曹です。いろいろあって孤立無援。救助要請もできない中、通訳のアーメッドのすごいのが、迷いがまったくないこと。俺は彼を米軍基地まで連れて行くんだ。って言ったって、100キロ離れているんです。タリバンがウロウロしているし、ふたりは捜索対象なので彼らに血眼になって行方を追っているわけだから、たとえ車があったとしても、安易には使えません。そして、実際に、ありません。舗装された道路なんて、飛んで火に入る夏の虫状態だから通れません。しょうがないから、山道を行くんだけど、僕も山歩きをするからわかりますけど、平坦なところを100キロ進むのと山道とではまったくもって違う話なんですよ。それ、どうすんの? その方法と苦労と歯を文字通り食いしばる姿が2幕目の見どころになります。

(C)2022 STX FINANCING, LLC. ALL RIGHTS RESERVED
そして、3幕目は、ジョンによる通訳アーメッドの救出劇。ジョンを救い英雄となったがために、アフガニスタンで生きていくのがより難しくなってしまい、妻と幼子を連れて潜伏生活を送っているというアーメッドを、当初の約束通り、彼らの望み通り、アメリカへと連れてくるというジョンの単独行動です。はっきり言って、2幕目まででも映画としては見応え充分だし、話を少し広げたりしながら十分に成立させられるはずですが、アーメッドの捨て身の行動に、こちらも捨て身で報いたいというのがジョンなんです。そして、この3幕目で初めて、ガイ・リッチーの得意な時間の入れ替えが行われます。といっても、シンプルなフラッシュバックですけどね。ジョンは怪我で意識をほぼ失った状態だったから、2幕の救出の様子を断片的にしか見ていないし、記憶がほとんどない。それが夜、悪夢のような形を取って、PTSDの症状のひとつだと思いますが、蘇ってくる。僕たち観客もそれを追体験することで、アメリカにいないアーメッドの偉業と、彼があるから自分が今こうして生きているんだというジョンの実感、そして彼の責任感に物語的説得力が生まれるんです。ガイ・リッチーはなんとも手堅いし、このあたりは本当に巧いです。これだけ内容を話ていても、観たら絶対にドキドキするし、そもそも特にアメリカでは世間にある程度知られた話なんで、ネタバレなんて当たり前にある状態でも食い入るように観てもらえないとダメな映画なんです。それをやってのけたところに、僕はガイ・リッチーの高い実力を見ました。

(C)2022 STX FINANCING, LLC. ALL RIGHTS RESERVED
そのうえで、きっとこれこそが本当に伝えたかったのだろう、911に端を発した20年にわたる米軍のアフガニスタンにおける作戦の虚しさや犠牲の数々、特にアフガン人通訳にはビザを発給すると言っておいてその約束を十全に果たしていないアメリカへの憤りがありありと観客にはわかります。covenantというのは、約束や合意、協定、誓いといったような意味ですが、ジョンとアーメッドのような絆に発展する個人的なものがある一方で、あっさりと無惨にも反故にされてしまう国家的なものもあるってことですよ。アーメッドを演じたダール・サリムは喋っていない時も、喋ろうとしてためらった時の表情もすばらしかったし、他の役者も一様に高いレベルでした。アフガニスタンでは当然ロケができませんから、スペインの似たような地形を活かしたという、言わばマカロニ・ウエスタン方式の撮影もお見事。大国が武力を行使して紛争を解決しようとする行為の難しさと虚しさ。観ておくべき作品ですよ。
映画が始まってすぐに鳴り響くのが、Americaの『名前のない馬』。砂漠が舞台だし、軍人たちや現地の人々を示唆しているように感じました。そして、考えたら、ガイ・リッチーはイギリスの人ですが、アメリカというバンドもロンドンで結成されたんですよね。しかも、メンバーの父親は皆、イギリスに駐留していたアメリカの軍人だったとか。ピタリな選曲でしたよ。

さ〜て、次回2024年3月12日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『52ヘルツのクジラたち』。ベストセラー小説の映画化ですね。杉咲花がすばらしいという話を聞き及んでおります。楽しみ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『ジャンヌ・デュ・バリー 国王最期の愛人』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月27日放送分

18世紀、フランス。貧しい家庭の私生児として生まれたジャンヌは、本を通して世界を学び、好奇心を満たしながら、類まれな美貌と知性で貴族の男たちに取り入り、高級娼婦として社交界での存在感を高めていきます。ついにヴェルサイユ宮殿に足を踏み入れたジャンヌは、美男にして型破りだった国王ルイ15世との対面を果たすと、瞬く間に気に入られ、ふたりは熱烈な恋に落ちます。こうして国王の公式の愛人である公妾となったジャンヌでしたが、労働者階級出身で堅苦しいマナーやルールを平気で無視するジャンヌは、とりわけ保守的な女性貴族たちから反感を買うようになっていきます。
 
監督と脚本、そして主役のジャンヌを演じたのは、マイウェン。ルイ15世には、ジョニー・デップが全編フランス語で扮しました。カンヌ国際映画祭でワールドプレミア上映があり、その後一般公開されると、フランスで75万人を動員する大ヒットとなりました。
 
僕は先週木曜日の昼下がりに大阪ステーションシティシネマで鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

タイトル通り、ジャンヌ・デュ・バリーの伝記映画ですが、「ベルばら」で既に馴染みのあった方を別にすれば、僕みたいな18世紀フランス史に疎い人間にしてみると、情報まっさらに近い状態じゃないかと思います。でも、話についていけなくなるような難しさは特にないので、当時のヴェルサイユ宮殿内外にあった王族や貴族の文化風習について、観ればしっかり興味を喚起されるはず。
 
監督かつ主演のマイウェンが彼女に惹かれたのは、「ジャンヌ・デュ・バリーが堂々たる敗北者だったから」だとインタビューで答えています。確かに、身分制度がある時代で、彼女のような私生児はサバイブしていくだけでもなかなかきついものがあるわけですが、ジャンヌが自らの境遇の中で最大限の成功とも言える国王との恋愛関係というのは、それを勝ち取ることにより、同時にやがては破滅することも意味してしまうという哀しみがつきまといます。それでも、どうせ散るならできる限り華々しくという美学を彼女の人生を題材にマイウェンは描きます。
 
僕が無知なだけで、たとえばパンフレットに評論家の萩尾瞳さんが寄せた文章を読めば、ジャンヌ・デュ・バリーがサイレント映画の頃から繰り返し映画化されてきたことがわかります。そこに共通しているのは、「美貌と才気でのし上がり最後は断頭台に散った女性の数奇な運命を描くアプローチ」であり、「マリー・アントワネットものでは敵役としてのポジション」であるというパターンにマイウェン監督は反旗を翻し、自分の人生を自分で選び取っていく、主体性のある女性像、もっとはっきり言えば、現代的とも言える女性のあり方をジャンヌに投影しようという意図がうかがえます。美貌が武器になること。それが災いにも結びつくこと。知性やユーモアが人生を豊かにすること。時代によって制度的な限界はあっても、そこに果敢に挑んでいく生き方に、幼い頃から子役としてエンターテインメントの世界で活躍し、若くしてリュック・ベッソン監督と結婚し、子どもを授かりつつも破局した後、監督デビューを飾ってそのキャリアをますます磨き上げているマイウェンが共鳴したことは想像に難くないです。

(c) Stéphanie Branchu - Why Not Productions
実際にヴェルサイユ宮殿でロケをしたこと。目を奪われるきらびやかな宮廷世界を衣装や豪奢な調度品の数々で表現したこと。それだけでも見る価値のある作品になっていますが、成功の要因としてジョニー・デップのキャスティングに触れないわけにはいきません。多少はフランス語ができるにしても、アメリカ人にフランス国王を演じさせるというアイデアは普通に考えれば突飛ですよね。でも、これが当たり役なんですよ。5歳にして国王に即位し、確かに贅沢な暮らしや権力は思うままだったかもしれないが、規則と儀式だらけの狭い世界で生きてきた悲哀が色濃く現れてくる晩年のルイ15世の佇まいを、60歳のデップなら体現できるんですね。枯れたかつての色男の雰囲気がにじみ出ているし、言葉よりも目の動きや微細な表情がものを言う演出が物語にもフィットしていました。

(c) Stéphanie Branchu - Why Not Productions
マイウェンが達者な映画作家であることは、ひとつひとつ的を射たカメラワークからもはっきりと見て取れます。大勢のエキストラを配置した的確な構図。18世紀当時の絵画を参考にしたという、特に引きの画の巧みさ。デジタルではなく35mmフィルムの粒子や色彩を信じた、陰影や色味の出し方。ごちゃごちゃカメラを動かさない中で、時に効果的に挿入される移動も印象深く、特にジャンヌが馬車で宮殿を去るシーンにおいてカメラが後ろに引いていく後退トラヴェリングには、セリフなどなくとも映像だけでこちらの涙腺を刺激する名ショットでした。動きにもうひとつ触れるなら、史実を改変してでも映画的に見せたかった、マリー・アントワネットとのやり取りでジャンヌが大喜びするところ。晴れた屋外の階段を駆け上がっていく彼女を後ろから追うところも、ジッとしていられないほどの嬉しさをアクションだけで示してみせる名シーンと言えるでしょう。しかも、あの階段にはもはや先がないんですよね。まさにジャンヌがこれ以上ない高みに上り詰めた瞬間であり、後はもう落ちるしかないのだという隠喩にもなっていたように思います。

(c) Stéphanie Branchu - Why Not Productions
王室や貴族の儀式や風習が様式化しすぎて堅苦しいにも程がある様子を、ジャンヌは部外者として天真爛漫に揺るがしていくところは痛快だし、往々にして実はコミカルな描写も多いんですね。でも、その笑いや痛快さを後の哀しみにつなげていく手際もお見事でした。一方で、ジャンヌがその波乱万丈の人生において、実際のところ何を求めていたのか、その時々で自分の現状をどう位置づけていたのか描ききれていないように思われるフシがあったのは残念でしたかね。
 
とはいえ、価値ある作品です。18世紀フランス宮廷ものとしても、ジョニー・デップ3年ぶりのスクリーン復帰作にしてはまり役としても、そして何よりマイウェンという日本ではまだまだ知名度の低い大いなる才能に触れるきっかけとしてもオススメします(配信でもいいから、どっかのチャンネルでマイウェン作品回顧上映企画とかやってくんないかなぁ)。
この作品において、マイウェン監督は音楽にお涙頂戴は入れない、映像のサポートではなく、音楽が映像と対比するようなものが必要だとして、コンポーザーに依頼をしたとのことで、実際のところ見事な仕上がりでした。そこは映画で楽しんでいただきつつ、僕はフランスのポップソングをお送りしました。

さ〜て、次回2024年3月5日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『コヴェナント 約束の救出』。監督はガイ・リッチーなんですよ。なんでも、アフガニスタンを舞台にしたドキュメンタリーを観て映画を撮ろうと思ったそうで、社会派の作品になっているらしいですね。ガイ・リッチーをそこまで駆り立てた出来事に注目します。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『レディ加賀』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月20日放送分
映画『レディ加賀』短評のDJ'sカット版です。

加賀温泉にある老舗旅館の一人娘、由香。小学生の頃に見たタップダンスに魅了された彼女は、プロを目指して上京。舞台にも立つようにはなったものの、思うようには活躍できず、実家に戻って女将修行をスタートさせます。ただ、全国から集まった女将を目指す女性たちに気後れし、なかなか思いに火がつかずにいたところ、加賀温泉を盛り上げるためのプロジェクトが始まることに。ここで奮闘せずにどうすると、由香は新米女将たちを集めて、タップダンスのイベントに向けて準備を始めるのですが……。

カノン

監督と共同脚本は『カノン』の雑賀俊朗(さいがとしろう)。由香を演じたのは、小芝風花。その母親で老舗旅館の女将に檀れいが扮したほか、佐藤藍子森崎ウィン、そしてタップダンサーのHideboHなども出演しています。
 
僕は先週火曜日の夜になんばパークスシネマで鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

ご当地映画という言葉で括られる作品がありますね。古くは『二十四の瞳』の小豆島とか、大林宣彦尾道三部作もそうでしょう。物語や俳優に加えてロケ地の魅力もスクリーンを通して観客に伝わった時、その舞台は聖地巡礼の対象にもなりますし、その拠り所として記念館なんかが作られることもしばしばです。寅さんとか釣りバカ日誌みたいなのは、ご当地映画のシリーズ版とも言えるだろうし、撮影が決まるとその自治体からは歓迎を受けるなんてこともありました。でも、たまたまロケ地に選ばれるのを待たず、地域おこしや自分たちのコミュニティの個性をアピールする、再確認することを目的に作られるご当地映画というものもあって、実は今世紀に入ってからの一大ジャンルになってもいます。これが成功したケースの一つに『フラガール』がありますね。2006年の公開で観客動員は130万人、キネマ旬報のベストテンで1位、読者選出でも1位という大ヒットと評価を得ました。福島県を舞台にしたご当地映画であり、実話に基づきながら、ダンスで町おこし事業を展開していく様子を劇映画化したという流れは、『レディ加賀』にも同じことが言えます。

(c)映画「レディ加賀」製作委員会
こちらは加賀温泉が舞台ですが、主人公の由香を含め、20代でまだ自分の生き方を決めきれていない状況だった女性たちが、それぞれのバックグラウンドと想いを抱えながら、女将を目指した養成講座に参加し、由香の得意なタップダンスでレディ加賀を結成。SNSを使いつつアピールしながら、イベントをやろうと盛り上がるものの、トラブルもそりゃ続々と発生して、クライマックスはイベントそのものになる。だいたい予想通りにことが運んでいきます。

(c)映画「レディ加賀」製作委員会
その意味で、のんびり見られる、お約束重視の作品ですから、脚本も演出も全体的にゆるいです。コメディ演出は大げさで突発的な大きな言動で何とかしようとするし、だいたいのシーンで演劇的にただ立って人の話を聞いているだけのキャラクタがー登場するし、旅館の後継者不足の問題やそれぞれの女性たちの背景や人生の乗り越えるべき困難の切り込み不足により、全体的に軽い印象になってしまっています。観光コンサルタントを呼んできて、あとはぶら下がって太鼓持ちをしてしまっている町役場の人間とか、もうちょい突っ込んでも良さそうですが、そこはご当地娯楽映画が積極的にカバーするところではないのでしょう。とりあえず、イベントが上手くいけば万事OK的なクライマックスへと向かうわけですが、そこでもいろいろトラブル満載ですよ、それは。なんじゃそりゃっていう事態がどんどん起こります。もうシッチャカメッチャカで、演出も演技もそれに呼応したものになっているんですが、それをみるみるワンチームになった若者たちが解決していく。何とか形にする。それを見守る年長者たち、という構図。でも、それがですね、地元のお祭とかイベントの類のあの独特なゆるさとマッチしているというか、物語の内容と映画のスタイルが望ましくない形で合致しているんだよなとぼんやり思っていたら、ハッとしました。

(c)映画「レディ加賀」製作委員会



佐藤藍子演じる厳しい女将が修行中の若い女性たちにこう話すんです。加賀温泉にはこれまで3つの危機があった、と。それは2007年に起きた能登半島地震であり、東日本大震災やコロナ禍における観光産業の不振だったということ。それが、今こうして全国公開されている時点で、製作時には予想もしなかった4つめの危機に見舞われているわけです。実話を基にしたフィクションがまた新たな現実を迎えている中で見られているということになるわけで、レディ加賀を、そして石川県内の観光振興を願わずにはいられなくなるんですよね。華麗なタップダンスのようにキレの良いウェルメイドな映画というわけではありませんが、観ているとハラハラして妙に応援したくなるチャームもあります。タップがモチーフとあって、足元をうまく切り取って畳み掛けるところとか、もちろん良いところもあるよ。配給収入の5%が義援金として石川県に寄付される他、映画館によっては独自の義援金システムを設定しているところもありますよ。ゆるくご覧になってみてください。
潔い終わり方のところに、エンディングとして眉村ちあき書き下ろしのこの歌が光っていました。

さ〜て、次回2024年2月27日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ジャンヌ・デュ・バリー 国王最期の愛人』ジョニー・デップが、ここに来てすごい演技を見せているという評判も聞きますよ。しかも、フランス語を駆使して。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

映画『哀れなるものたち』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月13日放送分
映画『哀れなるものたち』短評のDJ'sカット版です。

橋から飛び降りて命を絶った若き女性が、天才外科医ゴッドウィンの手で奇跡的に蘇ります。ただ、記憶は一切なく、ベラという新たな名前とともにまるで赤ん坊のようにイチから成長していくことになるのですが、世界を自分の目で観たいという強い欲望に駆られ、放蕩者の弁護士ダンカンの誘惑でヨーロッパを巡る旅に出発します。

哀れなるものたち (ハヤカワepi文庫)

原作は1992年に発表されたアラスター・グレイの同名小説で、脚本は監督のヨルゴス・ランティモスとタッグをこれまでも組んできたトニー・マクナマラ。製作には、監督の他、主人公ベラを演じたエマ・ストーンの名前もクレジットされています。外科医ゴッドウィンには、ウィレム・デフォー、そしてベラを世界へと連れ出す弁護士ダンカンをマーク・ラファロが演じています。
 
去年の第80回ヴェネツィア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞した他、来月の第96回アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演女優賞など、計11部門にノミネートしています。
 
僕は先週金曜日の昼にMOVIX京都で鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

ヨルゴス・ランティモス監督はすっかりアカデミー賞常連という感じで、映画でしか成立しない表現を追求してたどり着いた強烈な作家性は確かにもう完全に確立していると言って良いでしょう。世界を歪めて見せてしまうほどの魚眼レンズや極端なクロースアップに代表される映像のスタイル、動物の使い方、細部まで作り込んだ凝りに凝った衣装にセット、モノクロも含めた効果的な色使い、そして今回なら先に音楽を作らせて現場で流しながら撮影するほどの音楽の単なるBGMにはしない使い方などなど、彼には予算を与えれば与えるほど映画世界はさらに多層的で豊かなものになっていくんだなと実感します。これまでも発揮されてきたランティモス印に新しい要素が加わったというよりは、その印がより強固になってくっきりはっきり刻印されたのではないでしょうか。その意味で、美術や衣装デザイン、メイクアップ&ヘアスタイリング、作曲、撮影、編集と、アカデミー賞でもこうした部門に軒並みノミネートしているのは頷けるし、それらの要素を束ねてコントロールしていく監督のすごさというのは唸らざるをえないです。2時間20分ほどの映画ですが、そこに封じ込められている情報量はものすごいですから。

©2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
そして、この話、主人公のベラが、彼女をコントロールしようとするものに対して次々と反発して自由と知性と喜びを獲得しようとする内容でもありました。貴種流離譚という物語のパターンがありますね。特別な出自のあるキャラクターが自分の居場所ではないところをあちこち巡って試練を乗り越えていく。その結果として、何か尊い存在へと変貌・成長していくものかと思いますが、ベラも大枠としてはここに当てはまるでしょう。出自の点で言えば、彼女は身体は大人だけれど、当初、頭の中身はほとんど赤ん坊という状態。マッドサイエンティストたる「父親」であるゴッドウィンの人造人間的な娘ということになるわけです。まさに特別な出自ですね。ここはまさにフランケンシュタインということになりますが、ただ、面白いのはゴッドウィンの風貌の方が明らかなツギハギだらけでむしろフランケンシュタインっぽいんですよね。相当に異常なくらいに溺愛されながら、だんだんと言葉を覚え、自分の身体のことを知り、性の喜びにも目覚めていくうちに、みるみる思春期のようなフェーズに入ると、閉じた世界にいたベラは世界への好奇心を抑えられなくなり、婚約までしていたゴッドウィンの助手の男性を置いて、駆け落ちのような格好で弁護士ダンカンと旅に出ていく。リスボンアレキサンドリア、パリなどを巡り、またロンドンに帰ってくる頃には、ベラは見事に自立した女性へと変貌を遂げているわけですが、当然ながら自分の出自と向き合うことになる。

©2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
話のパターンとしては、まさに貴種流離譚なんですが、ここにひとつひとつ、フェミニズムのことや格差のこと、解剖学的見地も含めた生き物としての人間そのもののことや生命倫理、さらには知性や知的好奇心、親子関係や恋愛、友情のことなどが重層的に絡められていきます。そのひとつひとつがベラにとっては発見であり、無垢だった彼女にとっては学びなわけで、それこそまだ常識やルール、マナーの類、大雑把にくくれば彼女を縛る、コントロールしようとする考えや枠組みを知らなかったからこそ当然持ちうるそれらへの疑問が呈されることになります。

©2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
彼女をコントロールしようとするもの、そのわかりやすい最たるものが、男性性であることは言うまでもありません。この点は同じくアカデミー賞作品賞にノミネートされている『バービー』と並べて考えたくなるところですね。弁護士ダンカンは無垢なベラの性の喜びを爆発させる存在ではあるものの、遊びと思っていたのがみるみる本気になっていきます。恋愛で本気になるというのは、ともすると、相手を自分だけのものにしたいという所有欲に突き動かされること。それは性的に不能なゴッドウィンの父性との対比にもなっていました。さらには、今度は女性がどんどん知性と教養を身につけていくことに嫌悪感を示す男性像も出てきましたね。読もうとする本が奪われてポンポン海へと投げ捨てられていくのが象徴的でした。そして、ラスボス的に出てくる、自分の出自に関わる「あいつ」の存在がまた強烈で、かなりハラハラするくだりも最後に用意されているわけですが、そのあたりで考えてしまうのがこのタイトルです。Poor Things。哀れなるもの「たち」という複数形なんですよね。これは純度と完成度の高い寓話ですから、いろんなメタファーが入り組んでいて解釈も一筋縄ではいかないという前提の上で、この作品に出てくる、なんならランティモス流の皮肉のききまくった黒みがかったユーモアの餌食になる男性たちがpoor、哀れなるものであるというのは間違いないでしょう。僕も含めた男性は、引きの画で見れば滑稽で醜悪な自らのマチズモに対して居心地が悪くなること請け合いです。
 
と同時に、僕たち誰もが疑問に思っていたかも知れない常識へのアンチテーゼにもなる痛快さを兼ね備えていて、はっきり言って面白いです。ランティモス監督のひとつの集大成であり、その中でエマ・ストーンが全身全霊で躍動する姿は大きなスクリーンで観ておかないと! さらに、実はランティモスとエマ・ストーン、また一緒に次なる映画を制作中ということで、このふたりの今後からも目が離せなさそうです。
ランティモス監督がその独自性に注目して音楽に抜擢したイギリスの29歳ジャースキン・フェンドリックス。美しくも奇妙でユーモラスな音作りで『哀れなるものたち』の世界を聴覚的に構築してみせたサウンドトラックから、雰囲気をつかんでもらうべく、短い曲をオンエアしました。

さ〜て、次回2024年2月20日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『レディ加賀』。これ、実際に加賀温泉を盛り上げるための旅館の女将たちの同名チームがあるらしいですね。ユニークだなぁ。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!

『サン・セバスチャンへ、ようこそ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 2月6日放送分
映画『サン・セバスチャンへ、ようこそ』短評のDJ'sカット版です。

ニューヨークに住むモート・リフキンは、かつて大学で映画学を教えていたインテリで、現在は人生初の小説の執筆に取り組んでいます。一回り下の妻スーは、フリーランスで映画広報の仕事をしていて、モートはスーに同行してスペインのサン・セバスチャン映画祭に向かいます。ところが、スーはクライアントであるフランス人監督で新作が高く評価されているフィリップにベッタリ。まったく構ってもらえないモートは、スーの浮気を疑いながら、ストレスのあまり地元の病院へ。そこでの出会いが今度はモートの人生に新たな活力をもたらすことになるのですが、果たして彼らの人生の行方は?

ローマでアモーレ(字幕版)

脚本と監督はウディ・アレン。2012年の作品『ローマでアモーレ』以来、久々のヨーロッパ・ロケとなりました。撮影監督は、アカデミー賞撮影賞を3度獲得した名キャメラマンにして、ウディ・アレンとはこれで4度目のタッグとなるイタリアのヴィットリオ・ストラーロです。
 
主人公のモート・リフキンに扮したのは、ウディ・アレン作品に多数出演してきたウォーレス・ショーン。妻スーをジーナ・ガーション、映画監督フィリップをルイ・ガレル、医者のジョー・ロハスエレナ・アナヤがそれぞれ演じている他、クリストフ・ヴァルツもユニークな役柄で登場します。
 
僕は先週水曜日の午後に大阪ステーションシティシネマで鑑賞しました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

オリジナルタイトルは主人公の名前を取ってRifkin's Festival、「リフキンの映画祭」です。同じ映画祭に参加するといっても、彼はそこに求めるものが他の人と違うし、彼はサン・セバスチャンへ行っても、映画はほとんど観ずに、自分の好きな映画に自分が入り込んでいる夢を観てばかりいるので、確かに「リフキンにとっての映画祭」の話ですよね。冒頭、モート・リフキンは精神科医と思しき人物に「映画祭ではかくかくしかじかで」と体験談を語り始めます。そして、本編へ。当然、エピローグではまた精神科医とのこの場面に戻りますし、言うまでもなく、精神科医は僕たち観客のことだし、なんなら、モート・リフキンはウディ・アレン監督の分身という側面もあるでしょう。

© 2020 Mediaproducción S.L.U., Gravier Productions, Inc. & Wildside S.r.L.
スノッブでシニカル、何かにつけて口うるさいわりには結構な腰抜けでもある。だけどばっちりインテリで自己分析もできちゃうから、すぐ卑屈にもなるし自虐的でもある。端的に扱いづらいじいさんです。バカではないですから、自分に妻を惹きつけるだけの魅力が乏しくなってきていることがわかるだけに、はるばるスペインまでやって来て、今をときめく妻のクライアントの映画監督にばっちり嫉妬。しっかり具合が悪くなって胸が痛いと病院へ駆け込んだところで、チャーミングで知性豊かな現地の女性と知り合ったからもう大変。あっさり心動かされてのぼせあがるなんてもう、笑うしかないです。ダメだコリャってね。とまぁ、そんなストーリーにウディ・アレン映画としての既視感はそれは正直感じますが、映画祭が舞台ということで、モートの愛する古典映画オマージュをストレートにぶつけてきたことがむしろ変化球ですね。あ、このシーンはあの映画かな、なんてシャレた引用ではないですから。リフキンが観る夢、しかも嫉妬や自虐、不安が反映された夢や妄想、白昼夢の類が、すべてモノクロで観るクラシックな名作に反映されているんですよ。オーソン・ウェルズフェリーニゴダールトリュフォールルーシュブニュエル、そして、ベルイマン。たとえば『勝手にしやがれ』のあのシーツにくるまるラブシーンをモートが演じているところなんて、そりゃ吹き出しますよ。『第七の封印』の死神とのチェスのシーンも、モートが対戦するとシリアスなはずなのにおかしみが出てしまう。登場人物たちが部屋からどうしても出られないというシュールな設定は『皆殺しの天使』のパロディーですが、これもモートが自分でせっせと作り上げてきた鼻持ちならない人物像の中から自分自身が脱却できずに足掻き苦しんでいるようにも思えて、滑稽であると同時に切なくも見えてきます。いずれもストレートな引用でありながら、引用元を知らずともストーリーを追うのに支障はなく、知っていれば細かいところまでうまくやっているなとそのテクニックに感心してしまうものが続きます。

© 2020 Mediaproducción S.L.U., Gravier Productions, Inc. & Wildside S.r.L.
ご存知の方も多いかと思いますが、ウディ・アレンは長年にわたる性的なスキャンダルがあり、それがまた#Metoo運動の中で広がり深まった中でキャンセル、つまりは干されている状態で、正直ハリウッドではもう作品を撮りづらい状況になっているんですね。そんな中で、ニューヨークから遠く離れたところ、たとえばサン・セバスチャンのようなヨーロッパで映画を撮っている自分。先ほど例に出した、たとえばフランスのヌーヴェル・ヴァーグの面々と実は年齢がそう変わらないくらいだけれど憧れてきた自分の来し方行く末をパロディーを通して客観視しつつ、「自分は何者で、何を求めているのだろうか」という自分探しに戻っていく。それがアレンという映画作家の撮影当時85歳の現在地なんだろうと思います。

© 2020 Mediaproducción S.L.U., Gravier Productions, Inc. & Wildside S.r.L.
好き嫌いは別として、彼の自分反映型の主人公ものとしては近年屈指の出来栄えなのは間違いないですし、サン・セバスチャンの美しい街並みを旅行気分で味わえる観光映画としての醍醐味も存分に味わえます。古典映画への入口として、あるいは再訪もできる映画史の旅行もできてしまうものを90分強にまとめてしまう手腕には、さすがはウディ・アレンと結局痛感させられました。お見事です。
冒頭で流れるこの曲。セレクトが絶妙ですよ。映画祭へ行く。夢のような現実逃避でもある。そこで、トラブルなんて夢にくるんでしまえ、だもの。Frank Sinatraのバージョンでお送りしました。

さ〜て、次回2024年2月13日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『哀れなるものたち』。これはアカデミー賞に向かっていく中で鍵となる作品を当てることができて、自分を褒めたい気持ちですよ。怪作を発表し続けるヨルゴス・ランティモスエマ・ストーンとタッグを組んで、女性の生き方と性のあり方、そして社会のあり方を問う作品といったところでしょうか。いや、そんな簡単な言葉や定義付けにはきっと収まらないな。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!