京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

映画「いつだってやめられる」三部作DVD-BOX発売記念レビュー

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十数年前、私が大学院に進学した頃の大学には、改革の波が到達していた。イタリア関係の学術界はもともと大きくないこともあって、ある先輩は大学でイタリア語を教えたいと夢見ていたものの、諦めることにしたようだと聞いた。別のある先輩も、そこで生きていこうとしているけれど、講師を務めるあちこちの大学での授業の準備に追われて、とても研究まで手が回らないと言っていたように記憶している。教員のポストには任期制限付きのものが増えていて、大学を職場にするのも難しいものだなと思っていた。さらに近年では、京大の立て看板や吉田寮の話に聞くように、自由な空間も次々に奪われている気がしてならない。

 

「いつだってやめられる」は、そんな学術の世界に身を置いて、肩身の狭い思いをしながら生きてきたインテリたちのコメディ三部作だ。


主人公のピエトロは、研究員として稼ぐなけなしの収入を奪われることになってしまった。収入の補いに家庭教師の仕事も掛け持ちしていたため、せめて滞納中の月謝を払ってもらおうと、ある夜、教え子の少年を追う。その過程でみじめな目に遭った後、アイデアがひらめいてインテリ仲間を招集、合法ドラッグでひと儲けを企む。

 

これがシリーズ一作目、『いつだってやめられる―7人の危ない教授たち』のストーリーだ。2014年の制作ということは、私が大学を出て、5年ほど経った頃。以前から若者の失業率が問題になっていたイタリアだ。研究者も日本と同じように(もしくは、日本よりも)厳しい状況にあった。また、日本で「脱法ハーブ」という言葉がニュースをにぎわせていたのも、記憶に新しい。そんなテーマをコメディに仕立てて、劇場を笑いで沸かせた本作は大ヒットを記録した。

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それで続編として制作されることになったのが、二作目の『いつだってやめられる―10人の怒れる教授たち』と、三作目の『いつだってやめられる―戦う名誉教授たち』だ。こちらは二作でひと続きのストーリーになっている。

 

かのインテリ・ギャング団には新しい仲間が合流し、今度は合法ドラッグの撲滅に力を貸す。任務の完了がすぐそこまで迫ったとき、ドラッグの影に隠れて別の犯罪が計画されていることに気がつき、物語はさらに展開する。

 

この続編は≪悪に立ち向かう正義≫の定型に近づいてしまうのかなと、期待しないようにしている部分もあった。でも、そう単純にはいかない。一作目のエピソードを利用して、全てがはじまる前の登場人物たちの接点が描かれるなど、心にチクリとトゲが刺さるよう な仕掛けがしてあり、鑑賞後には、鈍い痛みが余韻として残る。

 

そしてなにより、この三部作の一番の魅力は個性豊かなインテリたちだ。

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副題にあるように、このシリーズにはインテリだけで7人とか、10人とかいう数の人物が登場する。人物を把握するのが苦手な私にとっては、多い。多すぎる。ところが、全員を簡単に覚えられてしまうのだ。セリフにも、ふるまいにも、それぞれの専門性が際立っていて、いちいちキャラクターが濃いので間違えようがない。

 

身を呈して資金を調達する経済学者に、どんな人物にもなりすます人類学者。ドラッグを製造する計算科学者はその使用感をどうしても正確に調査したくて、結局、自分で試してヤク中に陥る。輸送係の考古学者は車で遺跡を疾走して、古代ローマ文化財を破壊、死んで詫びると取り乱す。それはオリジナルではなく、帝政期のコピーだから気にするなと慰めるのは、ラテン語学者だ。

 

自分の興味に逆らわず生きてきた彼らは少年のようで、滑稽で、面倒くさくて、愛おしい。まっすぐな姿は笑えるし、泣ける。

 

そんな彼らが躍動する映像は、シリーズを通じて原色の強い鮮やかな色彩をしていて、この物語はフィクションだと語っているようでもある。

 

では、現実はどうだろう。大学の改革はピエトロの荒稼ぎのアイデアと同じように、「いつだってやめられる」と思ってはじまったかもしれない。その流れの先にある今、私利私欲のために、人を傷つけるために、恵まれた頭脳を使わせてしまっていないか。誰もがどこかに持ち合わせているだろう、人の役に立ちたいという思いを踏みにじっていないか。そんなことを考えさせられる。

 

文:京都ドーナッツクラブ セサミあゆみ

 

『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年1月10日放送分
映画『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』短評のDJ's カット版です。

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1994年、札幌。筋肉がしだいに衰えていく難病の筋ジストロフィーを小学生で発症した鹿野靖明。20歳まで生きられるかどうかと言われていた彼は34歳。動かせるのは、首から上と手だけ。24時間365日、誰かの介助がないと生きられない身体なんですが、医師の反対を押し切って自宅で自立生活を送っています。助けてくれるのは、彼が自ら集めた大勢のボランティアたち。わがままで図々しく、惚れっぽくて、とにかくよく喋る。ある日、医大生のボランティア田中のガールフレンド美咲は、たまたま鹿野の家を訪れたところ、新人ボランティアだと勘違いされます。しかも、鹿野は美咲に一目惚れしてしまったから、もう大変。鹿野の常識破りな生き様と、周囲の人間模様を描いたヒューマン・ドラマです。

こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち (文春文庫 わ)

「愛しき実話」という副題が付いているくらいですから、鹿野靖明さんは実在の人物。ノンフィクション作家の渡辺一史が2003年に出版し、講談社ノンフィクション賞などを獲得した『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』(文春文庫)を原作に、『ブタがいた教室』の前田哲監督が映画化しました。鹿野靖明を大泉洋医大生田中を三浦春馬、その恋人の美咲を高畑充希が演じる他、ボランティアたちを萩原聖人渡辺真起子宇野祥平らが担当。他にも、竜雷太綾戸智恵原田美枝子佐藤浩市などが脇を固めています。
 
鹿野靖明が実際に暮らした団地などの札幌市内や美瑛など、オール北海道ロケとなっています。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

正直、観る前はあまり心躍らなかったんです。恥ずかしながら原作も読んでいなかったし、難病ものの湿っぽい話を、大泉洋が孤軍奮闘するぼんやりしたコメディータッチで見せられるのはしんどいだろうなぁ。予告で何度も目にした、あのオセロやってるとこにバナナをドンって叩きつけられてからの「なんか、今のグッときた」が恐らくは一番面白いところなんだろうなぁ。あのポスターとか公式サイトにある夕陽バックにメインの3人がバナナの上にいるみたいな手抜き感が醸し出す教育映画感に気が重くなっていたんです(↓ これね)。

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ところが、この映画は僕の予想をバッチリ裏切って楽しませてくれました。考えさせてくれました。想像してたよりずっと笑えて、想像してたよりずっと湿っぽくなくて、鹿野靖明という男に想像以上に惚れることになってしまいました。
 
まずは鹿野さん登場シーンを思い出していただきたい。彼は車椅子の上ではなく、風呂に入れてもらってるんですね。しかも、女性ばかりに囲まれて体を洗ってもらっている。ボランティアのひとりが、「鹿野ハーレム」みたいなことまで言うんです。みんな楽しそうなんだけど、そこに踏み込んでしまうのが、事情のわかっていない美咲です。彼女はボーイフレンドの医大生田中があまり一緒にいてくれないから、ボランティアとかなんとか言って二股かけてるんじゃないかと偵察にやって来たところ。鹿野との出会い方としては、美咲にとっては最悪ですよね。しかも、会話で普通に下ネタ飛び交ってるし。美咲にはギョッとするんだけど、観客は爆笑する傑作な場面でした。序盤からコメディータッチで行くぜっていうことと、障害者の性の問題にもきっちり踏み込んでいくよっていう宣言になってます。で、例のオセロにバナナの場面もかなり序盤に出てくるんです。僕はついつい、こんな早くそのネタを出して大丈夫かって思うんだけど、まったく問題ないです。だって、その後もおもしろ釣瓶撃ちなんだもの。その笑いを支える大泉洋の演技がもう絶品です。だって、使える場所が顔と手とセリフに限られるわけでしょ? それなのにあの表現力ときたら。
 
僕が強く感じたのは、声の力です。鹿野はずけずけモノを言う毒舌家だけど、そこにはユーモアと深い洞察が備わっています。だからこそ、途中声が出なくなる危機に見舞われた時の絶望感が深まるし、それでも会話を模索する様子は泣けます。苦労して伝えた内容のバカバカしさも含めてね。そして、90年代半ばなんで、メールもラインもない時代だからこそ、直接的なコミュニケーションの強さもうまく浮き彫りになっていました。

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同時に、三浦春馬高畑充希についても、僕がこれまで観てきた作品ではベストな演技でした。三浦春馬演じる田中の、やさしいというよりは、ただ自分で決められないだけの優柔不断な偽善者すれすれの迷える若者像ははまり役。そして高畑充希演じる美咲は、感情の動きが一番大きな役で、その変化のたびに周囲の人間との関係性も変わるという難しいものだったのに、特に表情の微細な動きひとつひとつに感心しました。すごい!
 
その意味で、前田監督の演技を引き出す手腕は確かだったと思います。長回しも多かったですよね。色々あってしばらく会っていなかった田中に鹿野が大学まで突撃して、車椅子と白衣でキャンパスを歩きながら喋るところなんて、ずっとカメラが並走しての長回しでかなり印象に残りました。その分、欲を言えば、監督にはあまり奇をてらうことはせずに、役者を信じてストレートに映像を紡いでほしかったという思いがあるのも事実です。突然の雷、唐突に昇るいかにもな日の出、パーティーでの仰々しい照明の変化なんかは、演技の舞台装置の作り方として疑問を感じました。せっかく北海道オールロケで90年代感もばっちり出せているのに惜しいなと。
 
この作品への批判として、後半が結局湿っぽくてダレたっていう意見も目にしますが、僕はそうでもなかったと思う。逆に「ただただお涙頂戴一辺倒なところってありましたか」と僕は聞きたい。鹿野の病状が進んで、あわやということがあっても、必ずそこには笑いがまぶされたじゃないですか。それが鹿野イズムですよね。そう、この映画のねらいは、彼がいかに革新的な人だったかを知らしめることです。鹿野さんはどんな人間も対等だってことを身をもって証明した。医者だろうがボランティアだろうが難病患者だろうが、誰だろうがみんな対等。人間は互いに与えあえる。助け合える。そこにこそ、生きる喜びがある。

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難病患者だからって病院でずっと天井の穴の数を数えてなきゃいけないのか? そうじゃないだろうと。医者の言うことだけ聞いてたって、人生は謳歌できない。かといって、病院を出て社会生活を送るうえで、その支えを家族に押し付けてはいけないこともうまく描けていました。日本が美徳とする価値観のひとつに、「とにかく他人に迷惑をかけるな」ってのがあるけれど、それを突き詰めるから無関心が横行して、何かあれば自己責任論が大手を振ることになるわけですよ。「思い切って人の助けを借りる勇気も必要」なんです。家族は大事だけど、家族だけしかいなかったら、友情も恋も生まれないでしょう。病院より社会で生きることを選んだ鹿野の言葉が、やがて人を勇気づけ、人を優しくすることが、終盤示されていきます。彼は革命家ですよ。感動しました。
 
誰だっていつかは動けなくなる日が来る。そんな時に、自立はしても、孤立しない。つまらない常識に囚われて人間らしく生きられない状況のほうが、よっぽど難病かもしれないねって教えられました。勘違いしないでほしい。障害者でもがんばってるから泣けるんじゃないです。下手すりゃ感動ポルノに成り下がる可能性がある題材だから僕は心配していたわけだけど、そんな心配を笑い飛ばしてくれる痛快な1本でした。

とあるシーンで、爆弾ジョニー演じるコピーバンドがオープンスペースでこの曲を演奏。歌詞の物語へのリンクもあり、素敵にハジけた映画全体の節目を作っていました。 

さ〜て、次回、2019年1月17日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『クリード 炎の宿敵』です。ついに来てしまいました。あの『ロッキー』シリーズに連なる『クリード チャンプを継ぐ男』の続編! 前作をコーナーで扱ってなかったんですよね。心して迎え撃つとしましょう。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

『シュガー・ラッシュ:オンライン』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年1月3日放送分
映画『シュガー・ラッシュ:オンライン』短評のDJ's カット版です。

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アメリカのとある寂れたゲームセンターに設置されたレトロなアーケードゲームの中で暮らすキャラクターたち。好奇心が旺盛なアクティブ・ガールにして天才レーサーのヴァネロペと、ゲームの中では悪役だけれど心優しきガタイのいいおじさんラルフ。ふたりは大親友です。ある日、レースゲーム「シュガー・ラッシュ」が故障するんですが、その部品はもう生産されていないとのこと。インターネット・オークションでなら手に入ると知ったふたりは、店に設置されたばかりのWi-Fiからネットの世界に飛び込み、部品探しの旅に出るのですが、そこには思いもよらない危険も待ち受けていました。
2012年に公開された前作『シュガー・ラッシュ』から6年。監督は前作から続投して、TVシリーズザ・シンプソンズ』、そして傑作『ズートピア』のリッチ・ムーア。アカデミーの前哨戦として注目されるゴールデングローブ賞では、『インクレディブル・ファミリー』『未来のミライ』『犬が島』など、このコーナーで短評した作品と並び、アニメ作品賞にノミネートしています。日本時間で今月7日の発表が楽しみな、ディズニーによる3DCGアニメ映画です。
 
ネットの世界に舞台が移るということで、ネットならではの小ネタ満載なんですが、予告でも登場していたように、白雪姫、シンデレラ、ラプンツェル、アナ、エルサなど、ディズニーのプリンセスたちが14人もお目見えするのが話題となっています。
 
続編ということで、前作を観ていない方は鑑賞に不安を覚えるかもしれませんね。基本的には特に深い予備知識がなくても楽しめる内容なので安心していただきたいのですが、ざっくりとテーマだけお伝えしておきます。ゲームというプログラミングされた世界で動くキャラクターが主体性を持ってはいけないのか?ってこと。僕たち人間もまた、社会において様々な役割が与えられています。もっと強い言葉を使えば、役割やふるまいが押し付けられることもある。それを乗り越えてはいけないのかどうかということを問いかけるお話だったと思います。たとえばラルフはゲームでは悪役だけど、ヴァネロペというわかりあえる友達がいれば、それでいいじゃないかという流れがありました。しんどい仕事があっても、世界はそれだけじゃない。世代や性別を越えた友情があってもいいなんて解釈もできる展開でした。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

今作で、ふたりの関係は次なる展開を迎えます。ここで効いてくるのが、ふたりの属性の違いです。年齢が離れていることで、友情というよりも親子に見えてくるんですよ。ヴァネロペは好奇心の塊ないたずらっ子。決められたコースを走り続けることに満足がいかなくなっています。対して、ラルフは前作で納得のいった自分の居場所とヴァネロペとの関係を維持したい。言わば、ラルフの保守とヴァネロペの革新が拮抗するわけです。それでも、心優しいラルフはヴァネロペのために特別なコースを作ってやったことが災いして、「シュガー・ラッシュ」は故障。ヴァネロペは役割と居場所を失うんですね。ふたりは親子関係だと僕は見立てましたけど、同じゲームの女子レーサーたちも居場所を失って、シューティングゲーム「ヒーローズ・デューティ」の女性キャラ「カルホーン軍曹」とフェリックスJr.のふたりが彼女たちを引き取ったら、子育てで一苦労というエピソードもありましたね。

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さあ、ラルフとヴァネロペ、この疑似親子はインターネットの中へ。この可視化されたネット社会が、はっきり言いますけど、この映画の一番の楽しみです。さすがはあの『ズートピア』を作り上げたひとり、リッチ・ムーア監督。今回もカオティックでありながら整理されていて見やすく、『レディ・プレイヤー1』的な小ネタ満載なので、何度も観たくなる。僕らが依存しているネットなので、あるある感が圧倒的。楽天AmazonSpotifyGoogle、eBayといったネット企業が実名で登場。Googleをゴーグル専門店だと勘違いしたり、eBayを聴き間違えてeBoyという男の子がいると思ってしまったり。ユーチューバー的におもしろ動画をバズらせてお金を稼いでみたり、いかがわしいポップアップ広告が出てきたりって、もう拾いきれません。ゲームも進化していて、猥雑な街をコース関係なく自由に走る「スローターレース」はゲーム「シュガー・ラッシュ」との対比もあって面白かったです。ヴァネロペがそこで憧れるシャンクという女性は、『ワイルド・スピード』に出てきそうな感じもありましたね。ここは、ヴァネロペが大人の階段を登ろうとしている、そのシンボルとして抜群でした。

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さらに、今やピクサー、マーベル、スター・ウォーズを傘下にしたディズニー帝国ならではのキャラたちも総出演。通底するのは、ネットやディズニーという巨大な虚構世界への風刺です。それをやってるのがディズニーというのが、懐が深いし、今っぽいし、余裕すら感じるし、とにかく最高です。特にプリンセスが一堂に会する楽屋シーンはやはり印象的でした。シンデレラはガラスの靴を砕いて武器にするし、白雪姫はポイズンってTシャツ着てるし、アナのTシャツには「JUST LET IT GO」って書いてあるし、もう大変です。しかも、単なる小ネタではなく、突然歌い出すミュージカルへのツッコミも入れつつ、ヴァネロペが子供から大人へ、そして自分の生き方を選択していくことになるきっかけにすることで、きっちり物語的な意味を与えています。
 
原題は『Ralph Breaks the Internet』です。お父さんなラルフは、娘のようなヴァネロペのために良かれと思って必死に行動するんだけど、それが裏目に出て暴走してしまいます。これは実際にネットでよくあることじゃないですかね。でも、ラルフはそこから学んでいきます。そして、ラストを迎える。具体的には言いませんが、ほろ苦い着地です。哀愁すら漂うんです。僕はそこに驚きました。ディズニーらしくないと思う人もいるだろうし。ただ、ネットの危険を描いてから、それでもネットの良さを見捨てず、現代的な親子の距離感、そして他者の尊重というところまで持って行ったことはとても評価できます。
 
インターネットの功罪と生き方の選択をテーマに、笑いと興奮をたっぷり盛り込んだ一級のエンターテインメント。ぜひ親子でご覧ください。


僕は吹き替えで観たので、主題歌の『In This Place』は、Julia Michaelsから青山テルマへと切り替わっていました。もうひとつ、Imagine Dragonsの既存曲がエンドクレジットで鳴るんですが、書き下ろしではないのに物語と適度にリンクします。カオティックな世界でどうバランスを保つのかを歌ったこの曲を採用するのは、なかなかセンスが良かったと思います。

 

さ〜て、次回、2019年1月10日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』です。難病ものということになろうかと思いますが、演技達者な大泉洋が笑いとペーソスをどんなバランスで混ぜてくるのか、確認してきます。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

イタリアの移民児童文学『ぼくたちは幽霊じゃない』書評

アルバニアから対岸のイタリアへ命がけで海を渡ったヴィキは,どんな困難なときも希望を失わなかった…(岩波書店サイトより)

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今年6月、イタリアは難民の人々を乗せたNGOの船『アクエリアス』の受け入れを拒否した。新聞等で目にされた方もいるだろう。ヨーロッパで移民・難民が社会問題となって久しい。本書は、命からがら故郷を後にした人たちが、イタリアに到着したあとどのように暮らしているのか、作者のファブリツィオ・ガッティが当事者へ取材し新聞に連載した記事を小説化したものである。イタリアでは2003年に、日本では『帰れない山』と同じく関口英子さんによって翻訳され、今年8月に岩波書店から出版された(レーベルは、海外のYA=ヤングアダルト小説を扱うSTAMP BOOKS)。

アルバニア出身イタリア在住の中学生ヴィキが、夏休みの宿題である作文に苦戦しているところから物語は始まる。タイトルは「古くて新しい世界―世界におけるヨーロッパ人、ヨーロッパにおけるEU以外の地域の外国人」。なんて難しいテーマなんだ、どうしてヨーロッパ人とEU圏外の人を分けるんだ?とヴィキと一緒に頭を抱えたくなるところへ「ぼくはヨーロッパ人なのかな?それとも幽霊?」という悩みが目に飛び込んでくる。私たちの驚きに応えるように、ヴィキは7歳のときの記憶をたどって語り始める。

 

アルバニアの祖父母との別れ、屋根もないボートでの渡航、イタリア南部から父親の待つミラノへの移動、再会、新しい暮らし。アルバニアのテレビで見たイタリアの暮らしと現実は、全く違っていた。しかし彼らに味方する大人たちと、「学校はすべての人に開かれる」と明記されたイタリアの憲法に守られて、ヴィキはイタリア人と同じように公立小学校に通い、自分らしくいられる場所をもつことができた。会話の描写が多く、まるで映画を観ているように、テンポよく読める。子どもたちの素朴な「なぜ?」「どうして?」という疑問に、両親や小学校の先生といった大人たちが、言葉を選んで丁寧に答えているのが印象的だった。陽気なイタリアのイメージを持つ人には驚きの内容ばかりだろう。けれど、イタリアに住む人たちがそれぞれの事情のなかで生きる力強さ、他人のために動く情熱、といった「人間の熱」を感じられることは確かだ。

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日本人にとっても「ヨソの国のこと」と無関心ではいられない。外国人労働者を積極的に受け入れていこうという法律が成立したからだ。家族と一緒に住みたい人も当然増えるだろう。残念ながら、労働環境の厳しさや文化の違いによる孤立感などから、行方をくらましてしまう人たちがすでに存在する。教育を受ける権利があるのに、学校へ行けていない外国人の子どもたちもいる。新たな幽霊を生まない、現実的な仕組みを日本は作っていかないといけない、と実感した。「旅に出るときには、なにかをあきらめる覚悟が必要だ」という、ヴィキのおじいちゃんの言葉には切なくなる。たとえ合法であっても、人情に頼るのは最終手段として、あらゆる覚悟をもってやって来る人たちを私たちも安心して迎えられるような社会にしたい。30歳くらいになっているであろう、本物のヴィキは、今もイタリアにいるのだろうか。

 

翻訳本の良いところは、当たりまえだが母国語で異国の作品を読めることだ。本書にはぜひイタリア好きの人以外にも、この効能を発揮してもらいたい。

 

(文:京都ドーナッツクラブあかりきなこ)

『アリー/スター誕生』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年12月27日放送分
映画『アリー/スター誕生』短評のDJ's カット版です。

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歌の才能に恵まれ、歌手として生きていきたいと願いながらも、業界では容姿が水準に達していないなどと言われてきたアリー。ウエイトレスとして働きながら、小さなバーでステージに立ち続けていました。ある日、彼女は世界的なカントリー・ロックスターであるジャクソンに見初められます。ふたりは共に曲を作って一緒にステージに立ち、アリーはそのままショービジネスの世界で一気にその才能を開花させて人気を博していくのです。一方、ジャクソンは持病である聴覚障害、アルコール依存、ドラッグの使用、そして自分の出自にまつわる精神的な不安から、アリーとは逆にだんだんと身を持ち崩していきます。ミュージシャンとして、そして恋人ととして、ふたりはどうなるのか。
ハリウッドの映画業界を舞台にした1937年のオリジナル版から、1954年、そして舞台を音楽業界に移した1976年と、これまで3度製作されてきた物語が、40年以上の時を経て4度目のリメイクです。原題はいずれも『A Star Is Born』。主演はご存知レディー・ガガブラッドリー・クーパー。そして、メガホンもクーパーが取っている他、彼は製作と脚本にも名前を連ねています。もともとは7年前にクリント・イーストウッドが監督をしてビヨンセを主演にするという企画としてスタートしたものの、紆余曲折の後、現在の座組に落ち着き、昨年春に撮影がスタート。これが、ブラッドリー・クーパーの初監督作となります。
 
クーパー、ガガ、そしてカントリーの大御所ウィリー・ネルソンの息子ルーカス・ネルソンが中核となって作り上げたサウンド・トラックは、全米・全英のチャートを含む各国で軒並み1位を獲得。映画ではアカデミー賞、音楽ではグラミー賞をうかがう、この冬一番の話題作と言っていいでしょう。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

前回のリメイクから40年以上経っているので、これが初めての「スター誕生」というリスナーが多いと思います。映画を観れば、これがいかに普遍的な話かということは理解できるし、その分、王道というか、ある程度は物語の行方も想像できるものです。それだけに今改めて映画にする難しさがあったことでしょう。企画が具体的に動き出すまでかなり難航したという事実がそれを裏付けています。上っ面をなぞるのではなく、いかに現代的に説得力を担保できるかが大事になってくるわけですが、その点でブラッドリー・クーパーレディー・ガガというコンビはとんでもない偉業を成し遂げたと僕はひっくり返りました。
 
先ほどまとめたあらすじからもわかるように、これはアリーだけの物語ではなく、あくまでジャクソンとのバランスですべてが成り立っています。アリーは右肩上がりに知名度を上げ、ジャクソンは右肩下がりに落ちぶれていく。スターにはスポットライトが当たるもの。本人の輝きが増せば増すほど、その人の輝きに負けじとばかり、スポットライトはより強く当たるもの。その光が強くなればなるほど、それによって生じる影もより濃く暗くなります。この物語は、アリーとジャクソンの光と影、その明暗のコントラストがどう逆転していくのかを克明にスクリーンに映し出します。その意味で、邦題はジャクソンを無視していて、僕にはどうもいただけないんですよねぇ。ま、措いときましょう。

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クーパーとガガのタッグがなぜこうも成功したのかと言えば、それはふたりの実人生がどうしたってオーバーラップするからです。ガガもアリー同様、クラブダンサーからフックアップされたわけだし、クーパーはアルコール依存を経験しています。そんなふたりが文字通り心身ともに役にのめりこんでいきます。一緒に作曲し、一緒に歌う。サウンド・トラックはすべて脚本と見事にシンクロしています。クーパーは音楽経験がなかったにも関わらず、ギターと歌唱のトレーニングを連日受けたと伝えられていて、ライブシーンは観客をCGにせずに大量のエキストラを動員。場末のスーパーの駐車場で深夜ふたりで共有した歌が初めてライブで披露されるシーンでは、僕は鳥肌を通り越して、思わず身震いしながら涙を流してしまいました。
 
たとえばテイラー・スウィフトが好例だと思いますが、カントリーからブレイクすると、ダンサーを従えてポップス路線に転向する。今作でもそんな流れがありました。ジャンルとしてのポップスを軽く見ているんじゃないかっていう批判がアメリカでは一部上がっているようです。僕も実は映画を観ながら、ちょっと首を傾げてしまった部分もあります。でも、アリーは自分を売り出す若いプロデューサーに対して毅然と振る舞って、決してマリオネットにはならないという姿勢を示しますよね。映画が進むにつれ、彼女は明らかに表現者として成長していくわけです。その意味で、僕はむしろ現代的な女性アーティストとしてのあり方を提示できていると思います。
 
序盤にジャクソンが歌う『Maybe It’s Time』という曲があります(上の予告動画で最初に流れるもの)。「古いやり方を葬る時が来たようだ」という歌詞。彼は古いミュージシャン像を体現していたとも言えますね。今回のリメイクでは、ジャクソンのバックグラウンドがしっかり示唆されたことでやるせないし悲しみが増すんだけど、理由はどうあれ、子どもっぽくて酒浸りでダメダメ。なんだけど、どう見たってかっこいい。かっこいいんだけど、落ちるところまで落ちる。その落ちっぷりは目を覆わんばかりです。何もそこまでってくらい。でも、だからこそ、ふたりの愛が哀しくも燃え上がって、ある種必然的なラストを迎えます。これも、古い表現者像を葬る『Maybe It’s Time』ってことかなと僕は解釈しつつ、そこまで含めて現代的なテーマにちゃんと落とし込めています。

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アメリカン・スナイパー』でイーストウッドの薫陶を受けたクーパー監督。手持ちカメラのぶれ。極端なクロースアップ。ガガの脱ぎっぷり。場面ごとの色使いの巧みさ。説明過剰にならない抑制のきいた演出。どれを取っても、立派でした。映画全体を俯瞰してみれば、クーパーという映画人のスター誕生です。あっぱれでございました。
 
って、我ながら褒めすぎたかなという思いもあるんですけど、それほどにクーパーに惚れ、彼の今後の活躍を願ってファンファーレを鳴らしたかったんでしょうね、僕は。

さ〜て、次回、2019年1月3日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『シュガー・ラッシュ:オンライン』です。「ディズニーがここまでやる!?」という噂は耳にしているし、予告でその片鱗は確認済み。期待が高まってきました。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

『グリンチ』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年12月20日放送分
映画『グリンチ』短評のDJ's カット版です。

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山間にたたずむ雪深いフーの村。人々は、クリスマスに向けてウキウキと準備を進めていました。村のそばにそびえる山の洞窟で暮らすグリンチは、愛犬マックスといつもふたりだけ。家族も友達もおらず、寂しい毎日を送るうち、すっかりひねくれ者の大人になっています。そんなグリンチにしてみれば、村中が幸せに包まれるクリスマス・シーズンは常に居心地も胸くそも悪いのです。どうにも我慢ならないグリンチは、村からクリスマスにまつわるものをあらいざらい盗んで憂さ晴らししようと思いつきます。その頃、村の小さな女の子シンディ・ルーは、サンタにある願いを叶えてもらおうと、とある作戦を実行に移そうとするのですが…
原作はドクター・スースが1957年に出した児童書『いじわるグリンチのクリスマス』。アメリカでは知らない人はいないというほど愛されている作品です。日本ではアーティストハウスという出版社から翻訳が出ています。覚えている人もいると思いますが、2000年に一度、ジム・キャリーの主演でまさかの実写映画化されていました。で、今回はそれをミニオン関連作や『SING/シング』『ペット』などで知られるイルミネーション・エンターテインメントが3DCGアニメで再度映画化しました。
 
グリンチの声を演じるのは、オリジナルだとベネディクト・カンバーバッチ。吹き替えでは、大泉洋。僕はその吹き替え版で鑑賞してきました。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

この作品を理解する上で、前提としてまずひとつお伝えしておくと、日本とアメリカではグリンチに対する思い入れが桁違いだということです。あちらでは、クリスマスなんて大嫌いなこのキャラクターが、面白いことに半世紀にわたってホリデーシーズンのアイコンになっているんですね。お話そのものもよくよく知られているわけです。原作の原題は“How the Grinch Stole Christmas!”。「グリンチはいかにしてクリスマスを盗んだのか?」という意味で、みんなそのHowの答えも知ってる状態だってことですね。
 
今回は絵本と2000年の実写版を基本的に踏襲。おなじみのお話を、イルミネーション独自の技術で今っぽくアニメ化しましたってことです。物語はいたってシンプルで、展開は王道です。何かの事情で反社会的な心情を持つにいたった主人公が、人のやさしさに触れて改心する。繰り返し描かれてきたテーマと流れですよ。この映画の場合、グリンチの妬み嫉み込みのひねくれっぷりを、彼の家と村でそれぞれ見せる。そこへ、孤独なおっさんグリンチときれいに対称を成す幼い女の子シンディ・ルーが登場。彼女は茶目っ気のあるやさしさの塊です。ふたりの接触してからは、それぞれの行動の動機が明かされて、それぞれのクリスマスを迎える。グリンチには心の変化が訪れる。

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イルミネーションとしては、愛されているグリンチというキャラクターそのものの魅力をアニメで表現することが最大の目標だったんだろうと思います。考えてみたら、ものすごくイルミネーションらしいキャラですよね、グリンチって。一昔前のディズニー的な優等生ではなく、社会のはみ出し者で謎めいていて、頭にくるんだけど憎めない。そういう毒っ気のある設定は、ミニオンやグルーがまさにそうです。ていうか、クリスマスを盗むなんて荒唐無稽な発想は、グルーが月を盗むってのと似てるじゃないですか。
 
グリンチの魅力をアニメで描き出すという狙いは、僕は見事に達成したと思います。毛並みや雪の質感といった繊細極まりないところまで克明に描き出す3DCGアニメとしてのハイレベルさはもちろん筆頭に上がります。加えて、ひねくれてはいるが発明家気質のグリンチが生み出す便利だけどどこか抜けていたり滑稽だったりするガジェットの多彩さ。山間だという設定を活かした、フーの村の立体的な演出。オープンもクローズもあっという間にできちゃうお店がいくつかありましたけど、あれも込みで、フーの村は飛び出す絵本のような楽しさがありましたね。そこで、キャラたちが大きくすばやく動くことで生まれるスラップスティックな身体を張ったギャグが大きな魅力となっていて、僕は見ていて、それこそ古いディズニーっぽさも感じました。とにかく楽しいです。

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ただ、物足りないという声が多く聞かれるのはなぜか。明らかに脚本の問題です。いくらなんでも、キャラクターの心理が表面的だし、その変わりようも唐突です。シンディ・ルーのシングルマザーにしろ、ヒゲのブリクルバウムにしろ、みんないいキャラなのに、バックグラウンドが描きこみ不足で、掘り下げがほとんどなし。ここは絵本の流れを踏襲しておこうっていう事情もよくわかるけれど、どうせやるなら『SING/シング』ぐらい練り込んでほしかったところ。

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一方、批判も多いナレーションですが、僕はわりと気に入ってます。絵本にはやはり優れたナレーションが似合うんです。オリジナルではこの天の声をファレル・ウィリアムスが担当。僕は日本語版の吹き替えはなかなか良かったと思います。言葉遊び満載の原文を、韻を踏み倒す日本語に翻訳された桜井裕子さんの仕事は素晴らしかったと思います。僕も翻訳家の端くれとして、かなり感心しました。
 
あと、オリジナルを現代版ヒップホップ風にアレンジした主題歌やイルミネーションお得意の挿入歌のチョイスもハイレベル。なんだけどなぁ…
 
ということで、アニメーションそのものと音楽的なアイデアについては、最高峰のクリスマス映画です。グリンチよろしくひねくれ者の僕みたいな大人も、最後には、「なんだかんだ面白いところがいっぱいあった」ということは認めてしまうはず。大きな画面でゲラゲラニンマリしながら鑑賞ください。

結局クリスマス礼賛じゃないかという見方もできるけれど、宗教色はないし、誰かのことを考えるやさしさに触れる行事なんだという解釈でひねくれ者の僕も落ち着きました。

さ〜て、次回、12月27日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『アリー/スター誕生』です。今年最後の短評は、話題沸騰の音楽映画。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

『来る』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年12月13日放送分
映画『来る』短評のDJ's カット版です。

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関西のとある山間の出身で、現在は東京暮らし。絵に描いたような幸せな新婚生活を送る会社員の秀樹。ある日、勤務先にアポなしの来客があり、受付に出向いてみたものの、その姿が見えません。取り次いでくれた後輩は、「用事は知沙さんの件だ」と話していたと言うけれど、それは妻が身ごもっている、まだ秀樹と専業主婦の妻以外は誰も知らないはずの名前でした。その頃から、彼の身の回りでは不可解なできごとが起こるようになります。それでも、家族生活を謳歌しようとする秀樹は、イクメンを自称して育児ブログを開設。日々、その更新に勤しむのですが、2年後、超常現象に恐れをなした彼は、親友の民俗学者に相談し、オカルト系のライター野崎を訪問。紹介してもらったのは、霊媒師の血を引くというキャバ嬢の真琴。調査してもらったところ、秀樹に取り憑いている「何か」は、想像を絶するほど強大な力を持っていることがわかる。

ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫) 

原作は、第22回ホラー小説大賞をデビュー作で獲得した、沢村伊智の『ぼぎわんが、来る』。監督は、『告白』や『渇き』で知られる中島哲也。企画とプロデュースは、東宝のヒットメーカー川村元気。会社員秀樹を妻夫木聡、その妻を黒木華、オカルト系のライター野崎を岡田准一が演じる他、小松菜奈松たか子柴田理恵伊集院光などが強い存在感を示しています。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

先にホラー映画苦手な人に伝えておきます。全然大丈夫です。突然大きな音がしたり、画面に恐ろしいものが大写しになったりということは、ないわけではないですが、そのシーンでひっくり返って「もうやだ!」みたいなお化け屋敷的怖さを心配している人は、とりあえず杞憂です。むしろ、この映画はお化けやもののけよりも、人間の闇を描こうとしていて、僕はそこにこそこの作品が原作から化けきれていない理由がるとみています。
 
全体は3幕構成で、プロローグとエピローグがそれぞれ付きます。プロローグは、秀樹がまだ結婚前の妻を紹介がてら実家の法要に連れてくるというくだり。そこで示されるのは、かつて彼が小さな子どもだった頃、仲の良かった女の子が行方不明になったこと。その子から、彼は山の中に誘われ、そこで嘘つき呼ばわりされたこと。僕らは、その女の子が、やがて「来る」「何か」と密接に関わるのだろうと考えることになります。ホームページのあらすじにもあるように、その「何か」は声や姿形を自在に変えるらしいので、あるいはその女の子も、何かの化身なのか、それとも、何かの元凶なのか。どうしたって、想像してしまいますね。ところが、そのシーンで描かれるメインは、どちらかというと、金田一耕助的な、田舎の閉鎖的でこじれた人間関係や価値観に辟易する秀樹の彼女と、それを笑ってスルーする秀樹の姿。つまり、人間の醜態なんです。
 
で、1幕では秀樹が結婚して娘を授かり、2歳を迎えるまでの様子を彼よりの視点で見せるんですが、ここでも、超常現象は起こるものの、そしてそれは確かに不気味なものの、もっと印象が強いのは、秀樹という人間の醜悪さです。このあたり、中島監督の『乾き』でもそうでしたけど、妻夫木聡は好演してます。さらに、彼の周りにも、まあろくなやついねえなっていう、人間の表裏をまざまざと見せつける、現実版魑魅魍魎の世界。そうこうするうち、ある決定的な出来事がおこり、2幕では視点が別の人物に移りつつ、それまで脇役に見えた人をグイグイ巻き込みながら、3幕で大団円へとなだれ込む。

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当然、最終的にはその何かと対決ってことになるんだけど、原作はホラー小説なので、賞をもらってるぐらいだから、その何かについては源泉を遡るわけですよ。ところが、映画はですね、ものすごく予算をかけた対決シーンをお膳立てするのはするんですが、結構多くの人がポカンとする着地になっているんですね。もやもやする。すっきりしない。そういう声は僕の周りでも聞きました。そして、エピローグで美しいし悪くないんだけど、もうひとつ根拠の弱い着地をしてみせます。なんでこうなったんだろう。
 
監督のオフィシャルのインタビューに、こういう趣旨の発言があります。映画化のきっかけについて。「原作の登場人物が面白かったことに尽きる。ホラー映画を作ったんだという感覚は、正直自分にはあんまりない」。なるほど〜。これで合点がいきました。監督は、ホラー的な味付けこそすれど、ホラー映画にするつもりはない。対して、製作側としては、宣伝を見ればわかる通り、クリスマスに上映するホラーを狙っている。これは明らかに監督とプロデュース側のミスマッチかすり合わせ不足だと言わざるを得ないです。
 
監督のやりたかったテーマは、こういうことでしょう。昔も今も、子供たちがいかに大人たちからぞんざいにあつかわれているのか。その証拠に、それぞれの登場人物に、何かしら子供に対する原作上の強い負い目を与えています。それ自体は悪くないんですよ。虐待、育児放棄、また家族を支える社会の不寛容や無関心を描いた部分はそれなりに評価していますが、それをやりたいなら、はっきり言ってこの企画でなくてもいい。たとえは古いけど、どいつもこいつも笑うセールスマンにどーーーーーん!なんて喰らうっていうブラックユーモアでも成立するじゃないですか、お化け出さなくても。 

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結果として、ホラー部分がどうしても副次的に見えてしまうし、作品としてホラー演出に落とし前がつけられなくなった、いびつな作品になっていると僕は考えています。
 
ただ、見どころ、笑いどころ、考えどころ、痛々しさ、など、いいシーンもたくさんあるので、あなたもどうぞ、劇場でご確認ください。僕は原作を読みたくなりました。
放送では、挿入歌となっていたButterfly / 木村カエラをオンエア。この曲がかかっていたシーンも含め、CM出身の中島監督は、あの手のキラキラしているけれど、それが虚飾に満ちているのだと感じさせる描写が特にうまいです。そして、とにかく岡田准一のカッコ良さよ。僕は好きなんですよ、岡田さん。今回はビビりまくる演技という新しい側面も拝むことができて眼福でした。


さ〜て、次回、12月20日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『グリンチ』です。「クリスマスなんて大嫌い」な彼が、最後にはクレイジーケンバンドばりに「なんちゃって」と言えるのか、チェックしてきます。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!