京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

映画作家想田和弘さんインタビューその2 @十三第七藝術劇場(2011年7月30日)

 『選挙』『精神』に続いて、観察映画第三弾となる最新作『Peace』(公式サイトはコチラ)が公開中の映画作家想田和弘さん。前回に引き続き、想田さんのロングインタビューをお届け。今回はドキュメンタリーの「曖昧さ」と台本至上主義の危うさについて語っていただいています。

グレーな現実を泳ぐこと、そして台本至上主義の危険性

野村:「観察映画」というコンセプトが言い得て妙ですよね!
客観も突き詰めると、それこそ自然主義とか、イタリアなんかでは、ヴェリズモなんかがありましたけど…大ざっぱに言えば神の視点を目指すというか。でもやっぱり無理がありますよね…。カメラを何台置いたって、カメラを置くことに恣意性がある以上、突き詰めていくと無理が生じるというか…。
そこへいくと、想田さんの観察映画では、被写体のカメラ目線も場合によっては採用したり、被写体へ投げかける質問も稀にですが聴こえてくる。想田さんまでも含めたその場の「観察」、そこに自分が居るということも含めての「観察」、そんな理解でよろしいですか?

想田監督:そうですね。撮影者の存在も前に出たり後ろへひっこんだり、曖昧な存在でいいんじゃないかと考えています。ドキュメンタリーかフィクションか、客観か主観か、ドキュメンタリー作家は善人か悪人か、などという議論も、究極的にはどちらかに白黒つけたい、っていうことですよね。ドキュメンタリストの多くは、「現実はグレーで曖昧だ、白黒つけちゃいかん」と言うんですけど、ドキュメンタリー論になると白黒はっきりさせたがる傾向がある(笑)。僕はここでもうひとつ踏みとどまって、ドキュメンタリーの性質そのものも実はすごくグレーであるということを言いたいですね。
たとえば、「ドキュメンタリーには加害性がある、ドキュメンタリーを撮る人間は悪人である」と定義づけるとスッキリして、開き直れるんだけど、現実はそうとは限らないと思うんですよ。もちろん加害性もありますが、逆に、撮影が癒しの契機になったりとか、あるいは受容の契機になったりとか、色んな側面があるはずだと思うんです。そのことをひっくるめて考えていかないと。まあ、宙ぶらりんは苦しいんですけどね。だけど、その宙ぶらりんの苦しさをむしろ楽しんで、グレーの領域を泳いでいくというか、そういう風にしていかないとドキュメンタリーはおもしろくならないんじゃないかと思います。

野村:監督自身も泳いでらっしゃるんですよね?

想田監督:僕は泳いでますよ。ある時は、フィクション性に近づいたり、またある時はドキュメンタリー性に近づいたりとかっていうことをしながらですね、ひとつの作品でもそういう運動をしながら制作するわけです。
野村:白黒つけた方が楽というところはあるんでしょうですけど。
想田監督:そうですね。だから、加害性についてもそうですよね。たとえばひとつの行為でも、このショットを入れることで自分は加害者になるのだろうか、 それとも、そうじゃないんだろうか、ということを考えながら入れるわけなんですけど…。そこで白黒つけないで、両方の可能性があるんだということを背負いながらやるスタンスが必要ではないのかと思う。
野村:宙ぶらりんと、おっしゃいましたけど、言い換えれば、ある種のサスペンスですよね?
想田監督:ええ、そうですね。サスペンスですね(笑)。
野村:ジャンル映画としてのサスペンスも、どこかに落ち着いちゃったら誰も見ないですよね?
想田監督:そう、実はあらゆる映画の本質はサスペンスであり、ドキュメンタリーもまさにサスペンスなんですよ(笑)。僕なんか、観察映画を編集する際には、謎をひとつひとつ解き明かすと同時に、それがまた新たな謎を呼ぶように、つまり観客の意識を常に宙ぶらりんに保つように編集しているしね。それに、色々な意味でグレーゾーンにあるっていう感じが、実はドキュメンタリーの魅力であって、それをどっちかに片づけちゃったとたんに、サスペンスが失われてしまうんです。「これ全部やらせ、フィクションですよ」とはっきり言われたら、観る気しなくなっちゃうのがドキュメンタリーなんですね。
野村:よくわかります。だから、著書での『ブレアウィッチ・プロジェクト』のくだりはめちゃくちゃおもしろかったですね。あれなんて、確かに作りものだと思って観てしまうと、まるっきり違ってきちゃいますもんね。
なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書)
野村:さて、台本至上主義というものがある一方で、想田さんは台本を排していらっているということですが、台本について映画の外に話を広げて考えてみると、僕らの日常生活や広く社会にもいろんな台本があると思うんです。僕たちも台本がないと不安なことってあるじゃないですか、人生においても…。FM802の僕の番組を聴いているリスナーは、受験生、大学生、20代の社会人が多いんですね。
やっぱり台本というものは、ある制度でもあるから、社会という制度の中に自分をどう組み込んでいくかと悩んでいる人が多いと思うんです。
映画を作るときに想田さんは台本を排してらっしゃいますが、台本なしというのは映画でも人生でもリスキーだという評価が大勢を占めていますよね。それを踏まえて、今を生きている若い人に想田さんからメッセージはありますか?
想田監督:台本はあると安心なのですが、幻想なんだと思います。つまり安心そのものが幻想なんです。
たとえば、「会社に就職して安定した幸せな人生を送る」という台本がありますよね。でも、どんな会社も、たとえそれが大企業であっても、いつ潰れるかわからないじゃないですか。だから、入社したら一生安心と思うこと自体が幻想だと思うんです。
実は、僕自身もこのことは経験済みなんです。アメリカで大学の映画学科を卒業して、ドキュメンタリーの制作会社に入社したとき、それは「安定した収入」を意味すると何となく思っていたんですね。従業員20人くらいの小さな会社でしたけどね。ところがある時、会社の業績悪化で急にリストラされました。で、アメリカって何の保証もない国だなと思ったのは、僕は正社員だったんですけど、2週間分の給料が支払われて、それでおしまいだったんですよ。
野村:手切れ金ですか。
想田監督:そう、めちゃくちゃ安い手切れ金!(笑) まあ、それまでだって貯金もろくにできないような薄給だったんですけど、2週間分の給料を出されて路頭に放りだされたとき、「何を俺は安心していたんだろう」と思いましたね。
野村:台本をどこかで信じていた自分というか…。
想田監督:そうそう。「正社員」という言葉とか、「毎月給料が振り込まれる」という思い込みとか。だって、単なる幻想だったわけですよね、それ。「正社員」という名の台本を信じていたわけですよ。だけど、そんなのはいかに簡単に崩れ去るか。だから僕に言わせれば、台本を100%信じて、そこに入れ込むことの方がリスキーですよ。今回の原発なんかもね、まさにそうでしょう。たとえば、政府や電力会社が示した台本では、原発は爆発しないはずだったんですよ。
野村:それが突然書きかえられましたからね。
想田監督:この国の生活や文化や経済は、「原発は事故を起こさない」という台本の元ですべてが設計されていた。だから、今回の事態ですべてが足をすくわれてしまったわけです。実際、日本人は政府も一般人も、みんな茫然としてるでしょう。どう対応していいのか分からない。そういう意味では、一つの台本を絶対視したりとか、これで安心できるとか思うこと自体が逆に危ないと思います。合理的に考えれば。
精神 [DVD]
野村:『精神』のDVDの特典映像の中でも、監督が大学時代に燃え尽き症候群になったと語ってらっしゃいましたが、それもある種、台本通りに行かなかったということでしょうか?
想田監督:そうかもしれないですね。
野村:台本通り、というか、途中まで台本通りで来たんだけど、そこで、書き換え、更新ができなかった?
想田監督:更新する時期だったのかもしれませんね。
台本にあわせて進むことに身体と精神が拒否反応を起こし、「台本を変えろ〜!」と叫んだってことかもしれません。
僕の場合、一生懸命勉強して、東大に入って、たとえば大企業に入って、とんとん拍子に行く、というような台本を無意識に採用していたのかもしれないですね。いわば社会から与えれた「立身出世」という台本を素直に受け入れてたわけだけど、そうやっているうちに心と体が拒否反応をおこすというか、それに合せられなくなってきたんじゃないかな。そういう意味じゃ、実は健康的な反応だったのかもしれないです。
野村:台本をまったく持たないということは、人生においては現実的には難しいかもしれませんが、それを信じきる、一本の台本でやっていくのはかえって非合理的だということですか?
想田監督:非合理的ですよ。サバイバルの方法としては、穴だらけじゃないかと思います。
リストラされたときに気がついたんですけど、会社員だと収入の糸が1本しかないんですよ。それが断たれると本当に何もないんですね。 「糸1本に頼ってたのか、オレは!」ってな感じで、すごく「生き残りの方法」として危険が大きいと思いましたね、僕は。強制的にフリーになって気がついたのは、収入源をいくつか持てるということです。そのうちの1本が切れても、別の糸が生きていれば、なんとか食べていける。リスクが分散されるんですね。
脅かすつもりはないけど、そういう意味では、正社員って安全なようで本当に危ない。太い糸かもしれないけど一本しかないっていうのは、原発みたいですよ! 冷却系がやられたら、メルトダウン。バックアップがないわけです。正社員になるなとは言わないけど、少なくともその危険性は認識した方がいいと思います。
日本の社会の在り方自体も、これまで正社員型で来たんじゃないかな。つまり、分散型というよりも集中型で来たという感じがする。国とか大企業とか、大きな単一のシステムで問題を解決しようとする、というね。でも、今や国そのものが機能不全に陥ってるでしょ。そのことは今回の震災とかで、みんな嫌というほど痛感しているんだけど、代替のシステムを作ってこなかったから、右往左往するしかない。危ないですよ。やはり、僕が思うに小さいシステムがたくさんあって、何かが壊れても大丈夫だという状態を作っていかないとまずいんじゃないかな。電力会社についても同じですよね。関東地域を独占する巨大電力会社が1つしかないから、原発が1カ所ダメになっただけで、計画停電みたいなことになっちゃう。
野村:こんなに脆いのかと思いましたもんね。
想田監督:そうそう。
想田監督:たとえばこれが、風力やら太陽光やら、小さな発電所が無数にあるのなら、そのうちのいくつかが壊れても、他が生きているので大丈夫ですよよね。そういう小さいシステムっていうのがいっぱいある方が、特に危機的状況には強いはずなんです。リスクが分散されるから。僕が思うに、これから日本という国は「乱世」になっていくから、大きいシステムに頼ろうとする人はサバイバルできない。
野村:大船に乗ったつもりという言葉がありますが、「大船は怖いぞ!」と。
想田監督:大船はタイタニックかもしれない…。
野村:なるほど!
★★★
次回は、「観察映画はアンチ数字だ!」ということについてのお話をお届けします。