京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 7月7日放送分

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19世紀半ばのアメリカ。ということは、しばらく前に評した『ハリエット』と同じ時代の物語ですが、こちらは白人女性たちが女としてどう生きるかを描いています。マーチ家の4姉妹。次女のジョーは、情熱あふれる人物で、周囲とぶつかることも厭わない作家志望。他の3人にもそれぞれ才能があります。長女のメグは、演劇。でも、彼女が望むのは幸せな結婚。三女のベスはピアノ。でも、病が彼女の未来に影を落としています。そして、末っ子のエイミーは絵画。やがてパリへ留学しますが、自分の限界を知ることに… 幼少期と、青年期、ふたつの時期を交互に見せながら、映画は4人の生きざまを浮き彫りにします。

若草物語 (字幕版) 若草物語 (角川文庫)

原作は、ご存知、ルイーザ・メイ・オルコットの自伝的小説『若草物語』。これまで何度となく映像化されました。日本のアニメだけでも、シリーズ化が3回。漫画にもなっているし、ドラマ化も各国でされました。映画は1917年に始まり、今回で9度目。愛されていますね。脚本・監督は、なんとまぁ若い36歳のグレタ・ガーウィグ。3年前、『レディ・バード』で高い評価を得ました。

レディ・バード (字幕版) ミッドサマー(字幕版)

ジョーを演じたのは、『レディ・バード』でも監督とタッグを組んだシアーシャ・ローナン。末っ子のエイミーは、『ミッドサマー』のフローレンス・ピュー。長女はエマ・ワトソンが担当したほか、4姉妹の幼馴染、ローリーには、ティモシー・シャラメが扮しています。あとは、メリル・ストリープが4姉妹のおばとして強い印象を残しています。
 
アカデミー賞では、作品賞、主演女優賞、助演女優賞、脚色賞、作曲賞、衣装デザイン賞にノミネートしました。
 
僕は先週金曜日の朝一番、Tジョイ京都で鑑賞してまいりましたよ。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

この作品がアカデミー賞に多数ノミネートというニュースに接した時、『若草物語』の映画化をなぜ今さらって、まったく興味を惹かれなかった過去の僕を、今の僕はひっぱたいてやりたい気持ちです。グレタ・ガーウィグ監督はパンフレットに掲載されているインタビューで、独自の解釈がなければ、名作文学の映画化なんてやるもんじゃないと発言していますが、これははっきりと彼女が自分の色を打ち出し、なおかつ原作への最大限の賛辞を表明もするという、お見事な作品です。『ロビンソン・クルーソー』や「ズッコケ三人組」シリーズに夢中で、あんなの女の子向けだと見向きもしなかったマチャオ少年に、今なら差し出しますね。映画を観て、まんまと原作を読みたくなったし、そこから現代に通じる生き方模索の物語を僕も解釈したいと思わされました。それぐらいに、これはグレタ・ガーウィグの『若草物語』だし、メイン・キャラクターであるジョーにとっての「わたしの若草物語」になっています。
 

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©2019 CTMG. All Rights Reserved.

冒頭、作家志望のジョーが、自分の娯楽小説を雑誌に掲載してほしいと、男だらけの職場、出版社へと単身乗り込んでいくところ。文字通り、未来への扉にもなるあのドアを前に、息を整え、決意を固める後ろ姿。さぁ、行ったるで! よく伝わりますね。だけど、早速、事実は隠すんですよ。これは私の作品ではなくて、私の友達のものでして… その時に、サッと短い編集で、カメラは彼女の手元を見せます。その指はインクで汚れている。女性が作家として世に出ることのまだまだ少なかった頃の話です。ジョーが勇気を振り絞りつつも、慎重にことを運んでいるのがすいすいわかりますよね。で、原稿料の話も出てきます。趣味じゃない。これは仕事。そう、ガーウィグが打ち出したのは、女性の経済力という、今も解決していない問題。本来、原作にもあった要素をブロウアップしているんです。

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©2019 CTMG. All Rights Reserved.
考えてみたら、この物語には、すごく要素が多いんです。幼少期の家族やご近所との関係。ぼんやりと描く将来の夢。恋愛。大人になることの意味。結婚。仕事。趣味。そして、何より、女性であること。これを余すことなく、ほどよく整理して描いてあります。難しいさじ加減ですけど、この整理しきらないのが大事。だって、四人ともすごく迷っているから。
 
19世紀半ばのアメリカでは、女性である、ただそれだけの理由で諦めざるを得ないことも多かったわけです。それが、ほぼ同じ時代を描いた『ハリエット』であれば、黒人である、ただそれだけの理由で、と言い換えることもできるでしょう。生まれ持っての性質が、人生の可能性の大部分を決めるようなことがあって良いのか。これはBlack Lives MatterやらMe Tooという、ここ数年の運動を考えれば、残念ながら、今もなお有効な問いのはずです。

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©2019 CTMG. All Rights Reserved.
原作者オルコットが実際に育った土地でのロケ撮影。美しい景色もすばらしかったし、キャスティングがどなたをとってもバッチリ。描写の量に多少の差はありますが、四姉妹も、両親も、ご近所さんも、おばさんも、みんな愛おしくなってきます。とりわけ、書くことに全身全霊を傾けるジョー。結婚はゴールにしていません。そんな彼女が、シャラメ演じる、ルキーノ・ヴィスコンティヴェニスに死す』ばりの美青年っぷりを発揮するローリーとは、付き合っていたものの、別れちゃうんです。これ、ネタバレではなくて、過去と現代を行ったり来たりで先に明かされる。では、なぜ別れたのか。もう泣ける。ジョーの言葉ひとつひとつが、迷いが、自分でも気づいている矛盾が、すべてすくい取られていて、もう大変。
 
最終的に、僕にも響きまくったわけですから、大人になることと、自立して生きていくこと、その葛藤を覚えたことのある人には、鑑賞の意義があることと信じます。あ〜、四姉妹が今も愛おしい。
劇伴は、名匠アレクサンドル・デスプラが期待通りの仕事をして、アカデミーノミネートとなりましたが、ここでは予告編で使われた、アメリカのカントリー、シンガーソングライター、ケイティー・ヘルツィヒ(Katie Herzig、ケイティーだと思うんだけど、Apple Music他、ケルティーと表示されているものも…)のWasting Timeをお送りしました。この方を知ったのも収穫でした。

さ〜て、次回、2020年7月14日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『カセットテープ・ダイアリーズ』です。今週は自分のくじ運を褒めてやりたいです。ブルース・スプリングスティーンの音楽について、そのスピリットについて、知識ではなく、もっと体感するような形で僕は学びたかったんです。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『野性の呼び声』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 6月30日放送分
映画『野性の呼び声』短評のDJ'sカット版です。

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カリフォルニアのとても裕福な家で飼われていた大型犬のバック。人間にとてもなついているものの、いたずら好きでしょっちゅう人を困らせています。ある日、犬を販売する業者にさらわれ、これまで接したことのない大自然の広がる、アラスカへと連れてこられます。そこは雪原の広がる厳しい世界。犬ぞりの引き手として働くことになる中で、流浪の男ソーントンと出会い、彼とバックは互いに心を許した相棒となります。一緒に旅をしてユーコン川の奥地へと赴くうちに、バックの耳には、森の中から聞こえる遠吠えが響きます。

野性の呼び声 (光文社古典新訳文庫) ヒックとドラゴン (字幕版)

 1903年ジャック・ロンドンが書いた、アメリカ文学史に残る同名小説が原作で、1908年のD.W.グリフィス監督以来、繰り返し映画化されてきました。今回の監督は、アニメ『ヒックとドラゴン』のクリス・サンダース。製作は20世紀スタジオ。ご存知20世紀フォックス映画がディズニーに買収されて最初の作品です。

 
ソーントンを演じるのは、ハリソン・フォード。他に、アラスカの犬ぞり郵便配達夫として、『最強のふたり』で名を上げたオマール・シーも出演しています。
 
日本公開は今年2月28日でしたが、そのタイミングでは映画神社のおみくじが当たらず、コロナ禍によって配信作品を候補作に入れるようになってから、先週ついに課題作となりました。僕は、アマゾンのレンタルで先週水曜日に自宅リビングで鑑賞しました。それでは、今週の映画短評いってみよう!


先週火曜のエンディングでは、「ハリソン・フォードがワンコと大冒険」の映画、みたいな、強引な要約をしていた僕です。観てみると、間違いではないが、まず、それは後半の話であって、基本的にはとにかくバックの話です。序章があって、舞台が北の大地に移ってからのメインパートが前後半に分かれるという構成となっています。順を追って、ポイントを確認していきます。

 
序章では、カリフォルニアでののんきな暮らしぶりが描かれます。街の名士である判事の犬だってことで、多少行儀が悪くとも、街を勝手にひとりで、違う、一匹でうろついていようとも、多少のイタズラはおめこぼしというご身分でした。いかにバックが野性とは程遠い環境で生きてきたか、そして愛嬌のあるキャラクターを観客に植え付ける導入ということになりますが、正直に言って、僕は早速戸惑い始めました。むず痒くなってきたというか。人が動いたモーション・キャプチャーを前提としたCGではあるのですが、最新技術を駆使しているはずなのに、そこそこ画面ではそのCGっぽさが出ているんです。これは、サンダース監督がアニメ畑の人だからだと思いますが、動きがかなりコミカルに誇張されたものになっているので、技術というよりも動きで現実の犬っぽくなくなるところがあるんです。

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とまぁ、そこは何とか僕も食らいついての、メインパート。前半は、オマール・シー演じる犬ぞりの郵便屋さん、そしてソリ犬たちとの交流です。バックにとっての第二の人生、いや、ワンダフル・ライフの始まりですって言うと、別の映画になりますが。実際、犬のモノローグこそないものの、あくまでバックという一匹の犬が他の犬、狼や人間と交流するという意味では、『僕のワンダフル・ライフ』と似通っています。こちらは、バックの心身の変化を描くのが主眼であるという違いはありますけどね。身体は野性の呼び声に導かれて、大自然の中で働いてさらにたくましくなり、心もどんどんその奥行きを増していくというか、しなやかになっていきます。

僕のワンダフル・ライフ (字幕版)

ただ、犬に噛まれたことこそ何度かあっても、犬を飼ったことのない僕にしてみれば、これはずいぶんと物語的に都合の良いワンちゃんだなと思わざるを得ない場面もありました。何度かある救出劇もそうだし、バックはもう人の心も犬の心も狼の心もわかるみたいになっていって、だんだん神がかってくるわけですよ。そもそも、ちょいちょい挟まれる、彼を導く野性の象徴たる呼び声が聞こえるってんだけど、もう姿すら見えるんです。先週の『ハリエット』かと思いましたよ。犬ぞりで奴隷化されたバックを『ハリエット』が助けに来たのかと思ったくらい。そのあたり、ワンちゃん映画の達人、ラッセ・ハルストレムの方が上手だったと思います。もうナレーションを使ってもいいじゃないですか。犬は犬らしく見せて、実写っぽくしたいなら妙にキャラクター化せずに、そこは言葉でフォローしても良かったと思います。
 
だから、僕としては、だんだんユーコン川の自然や、当時の郵便事情、そして金の採掘に命をかけた開拓者たちの歴史や風俗の方に興味が移ってもいきました。その頃、バックはようやくフォードと本格的に出会って、後半の冒険へ。このあたりから、いよいよテーマ的なものが前景化します。文明ってなんだろう。金銭がもたらす幸福とは? そして、もちろん、犬にとっては… なんだと思いますが、後半はもう、誰が何をどう描きたいのか、主軸が見えなくなっているので、正直僕にはよくわかりませんでした。一貫した語り手がいないこと、人間と犬の心境の変化を同時に描こうとしたことが、少なくともこの映画化を焦点のはっきりしないものにしてしまっていると僕は見ています。楽しい場面もたくさんあるし、美しい場面も当然あるがゆえに、もうひとつ食い足りないかなと、キャンキャン吠えてしまいました。
主題歌はアメリカらしいロックバンドの音。似合います。未知なる大自然ってとこですかね。

さ〜て、次回、2020年7月7日(火)に評する作品を決めるべく。スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、リュック・ベッソンの『ANNA / アナ』だったんですが… 残念ながら京阪神の大半の劇場では今週公開が終わるということらしく… レア・ケースですがもう一度おみくじを引いた結果、『ストーリー・オブ・マイ・ライフ わたしの若草物語』に決定しました。これは期待大! あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『ハリエット』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 6月23日放送分
映画『ハリエット』短評のDJ'sカット版です。

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(C)2019 Universal Pictures International, Focus Features LLC and Perfect Universe Investment Inc.
時はまだ奴隷制度のはびこる19世紀半ばのアメリカ合衆国中部のメリーランド州。幼い頃から奴隷として白人の農園で働かされてきた小柄な女性ミンティ。近くの農園で、こちらは自由黒人として勤務する夫と、いつかは自由の身となって仲良く暮らしたいと思っていた矢先、ミンティの奴隷主が急死します。農園を継いだ息子は経済事情を立て直そうと、ミンティを売り払おうと、買い主を募り始めます。これでは愛する家族と離れ離れになってしまう。彼女は脱走を決意。奴隷制が廃止されたペンシルベニア州をひとり目指すのですが…
 
アメリカの新しい20ドル紙幣の肖像になったハリエット・タブマンの伝記映画。監督・脚本は、アフリカ系女性のケイシー・レモンズ。女優としてキャリアをスタートした彼女は、97年の『プレイヤー 死の祈り』で監督になって以来、脚本も書ける映画作家として、数は多くないですが、映画界に貢献してきました。

プレイヤー/死の祈り(字幕版) ムーンライト(字幕版)

 主人公のミンティ、後のハリエット・タブマンを演じるのは、ブロードウェイで高く高く評価されているシンシア・エリヴォ。熱演のみならず、歌声もあちこちで聴かせてくれますし、主題歌の『Stand Up』は、アカデミー歌曲賞にノミネートされました。

 
他にも、ブロードウェイからレスリー・オドム・Jr、『ムーンライト』の演技も思い出される歌手のジャネール・モネイ、そしてテイラー・スウィフトのお付き合いも長くなってきているジョー・アルウィンも出演しています。
 
僕は先週火曜日、番組が終わってすぐに京都シネマへ向かいまして、感染対策抜かりない状態で鑑賞しました。販売されている席は結構埋まっている印象でしたよ。それでは、今週の映画短評いってみよう!

時代と土地がこの映画を理解するための重要なファクターになっています。まず、時代。1849年というのが、ミンティが脱走を図る年なんですが、アメリカで初めて奴隷制度廃止運動団体ができるのは、1775年です。クエーカー教徒たちが宗教的な違和感から作りました。その後、北部の州は1804年までにすべての州で、制度的には廃止されます。実際のところは別として。映画ではエピローグとしてでてきますが、その後、南北戦争が勃発し、リンカーン大統領が奴隷解放宣言を発布するのは、1862年。つまり1849年は、長い端境期の終わりの方にあたります。
 
もうひとつは、土地。舞台はメリーランド州です。東部の大西洋岸に位置していて、ワシントンD.C.ペンシルベニア州に隣接する中部なんですね。奴隷制度を最後まで堅持して抵抗したディープサウスとは違うものの、それでもここは南北戦争が始まるまで制度がしぶとく残っていて、お隣のペンシルベニアは制度がない。つまり、ここでも「間(あいだ)」なんです。

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(C)2019 Universal Pictures International, Focus Features LLC and Perfect Universe Investment Inc.
時代も場所もグレーゾーン。そこには混乱が生まれやすい。同じ黒人でも、奴隷もいれば自由黒人もいる。自由と言ったって差別はしっかり受けているんですが、少なくとも誰かの所有物ではない。ミンティの夫は自由。そして、お隣の州でも自由。ところが、もし南へ売られるようなことがあれば、それこそ一生戻れないかもしれない。あの時、あの場所が彼女の逃走を後押ししたことは間違いないでしょう。自由か死か。決死の思いで川へ飛び込んだ彼女は、ペンシルベニアの解放組織「地下鉄道」に潜り込んで、名前をハリエット・タブマンに変えるばかりか、自分の意志で働いてお金を稼ぎながら、メリーランドに戻るタイミングをうかがいます。なぜ、戻るのか、家族を取り戻すためです。やって来るだけでも大変だったのに、帰るなよ! 行くんです。ここから、ミンティ改めハリエットは、行って来いを繰り返すようになるんですが、この反復行為、鉄道になぞらえればスイッチバックにあたるような行為が、脚本の強固なレールです。こうした反復とそこで生まれる違いを見せるという、作劇の基本がここにも見受けられます。だから、実はオーソドックスな作り方をしてあるんですね。大きな話、そのスケール感も出しながら、実は数人の感情と行動の変化を追ってもいるという、ミクロとマクロの共存の仕方が巧みです。
 
自分ひとり生き延びるだけでも大変だったのに、家族を救う。まずは誰それ。勢いでその仲間。さらにはもう、同胞全般をと、最初は一本釣りだったものが、次第に投網になり、やがては底引き網かっていうレベルになる。かつてイエス使徒サン・ピエトロ、ペトロに、「今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」と言ったと聖書にありますが、ハリエットは、奴隷解放運動における伝道師の役割を果たした人物です。少女時代に酷い扱いを受けて頭蓋骨に損傷を負った彼女は、てんかんのような症状に時折陥り、記憶が鋭くフラッシュ・バックしたり、逆に先を見通すフラッシュ・フォワードというような映像が断片的に脳裏によぎるようになります。それをもって彼女は、これはきっと神の啓示なのだ、自分の使命は奴隷を解放することなのだと、ますます利他的な行動に邁進します。最初の逃走のスタートが教会だったこともあり、ハリエットを彩る伝説的、文字通り神がかったエピソードの数々を、レモンズ監督はあえてそのまま映像化しています。合理的には片付けられない彼女の異常かつ崇高な現実の行動の裏には、そうした宗教的な信念とそれに担保された全能感があったという解釈だと僕は思います。

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(C)2019 Universal Pictures International, Focus Features LLC and Perfect Universe Investment Inc.
宗教が出てくると、歌も当然出てきます。単純労働のキツさを紛らわせる労働歌や、識字率の低かった黒人奴隷たちに聖書の内容を歌で伝えた側面もある黒人霊歌。ミュージカルではないものの、歌と声がとても大切なこの映画において、シンシア・エリヴォの才能は見事に開花しました。さらに、僕はジョー・アルウィンの演技も気に入りました。ゴリゴリの差別主義者にして奴隷主の彼は、おそらくミンティ、ハリエットにうっすら恋心を抱いていたんでしょう。プライドもあるし、自分でも認められない微妙かつ繊細な、恋とも呼べない感情と、それがあるがゆえの執着を体現していたと思います。それも踏まえてのハイライト。猛烈な憎しみを背負ったハリエットが銃を持った時の選択には、僕は心を撃ち抜かれました。
 
ご承知のように、システムとしての奴隷制や人種差別は禁止されて久しいとはいえ、形を巧妙に変えながら、いずれも現代に引き継がれている問題です。Black Lives Matter運動を考える意味でも、その原点とも言えるハリエットの生き様、の序章くらいですが、スリリングなエンタメ作品にまとめてあるこの作品をご覧になってみてください。
アカデミー賞歌曲賞に堂々ノミネートとなった主演シンシア・エリヴォの歌声をじっくりお送りしました。で、ちなみに、コーナーに入る前にかけたのは、ニール・ヤングの『Southern Man』。50年前の歌ですが、ジョージ・フロイド事件を受けて、彼は去年のライブ映像をウェブで公開しました。残念ながら、今もなお強い意味を持つ歌として、アクチュアルに響くのが虚しいところです。 
 さ〜て、次回、2020年6月30日(火)に評する作品を決めるべく。スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、現在配信中の『野性の呼び声』でした。ハリソン・フォードがワンちゃんと大冒険! って案内で良いんでしょうかね(笑) まずは僕も家のテレビを通して冒険しよう。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『デッド・ドント・ダイ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 6月16日放送分
映画『デッド・ドント・ダイ』短評のDJ'sカット版です。

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(C)2019 Image Eleven Productions,Inc. All Rights Reserved.
警察官が3人しかいないアメリカの田舎町、センターヴィル。署長のクリフ・ロバートソンと、巡査のロニー・ピーターソンは、住民同士のトラブルを解決すべく、パトカーで町をうろうろ。気がつくと、夜になってもなかなか日は沈まず、時計やスマホは使い物にならなくなり、どうにも様子がおかしい。しかも、それはこの町だけでないらしいと、テレビやラジオは伝えています。曰く、エネルギー企業による北極圏の工事が地球の自転に悪影響を与えたのでは、と。翌朝、ダイナーの女性従業員ふたりが惨殺される事件が発生。それは墓場から蘇ったゾンビたちの仕業だったのだが、果たして町はどうなるのか。
 
監督・脚本は、ジム・ジャームッシュ。キャストには、ジャームッシュ組の常連が揃いました。警察署長をビル・マーレイ、ピーターソン巡査をアダム・ドライバーが演じる他、町で葬儀屋を営む新参者ゼルダを、ティルダ・スウィントンが担当。さらには、イギー・ポップ、ラッパーのRZA、セレーナ・ゴメス、トム・ウェイツといったミュージシャンや、スティーヴ・ブシェミクロエ・セヴィニーダニー・グローヴァーといった面々も強い印象を残しています。

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音楽はジャームッシュのバンドSQÜRL(スクワール)が当てていて、オリジナルの主題歌は、スタージル・シンプソンによる同タイトルの書き下ろしです。
 
ともかく、久しぶり、2ヶ月以上ぶりの映画館。僕にとっての復帰作が、敬愛するジャームッシュの監督作であり、またしても僕がよくよく似ているアダム・ドライバー主演作であったことが、とても嬉しいです。先週水曜日、大阪ステーションシティシネマへ観に行ってきました。先週の観客動員数は、こんな状況ですからあまり意味はないかもしれないけれど、とにもかくにも2位。実際、僕の観た昼過ぎの回も販売している座席はほぼ埋まっていました。それでは、蘇った映画館鑑賞を受けての今週の映画短評いってみよう!

ジャームッシュ監督初のゾンビ映画という触れ込みの今作。彼は脚本に取り掛かるまでに古今東西のゾンビものを観まくったということですが、共通項としてひとつ言えるのは、ゾンビとはたぶんに風刺を含むものであるということです。特に今回の彼らってのは、はやりの全力疾走型ではなく、古式ゆかしいノロノロ徘徊型。死んでも死にきれず、現世への未練タラタラで、コーヒー、ギター、ファッション、WiFiブルートゥースシャルドネ、などなど、生前に好きだったものに固執するという特徴があります。スクリーンを見つめながら、僕だったらどんなゾンビになるんだろうかと考えてしまいましたもん。やっぱり映画館へ行くんだろうか。DJなんで、マイク、マイク〜って言うんだろうか。でも、今一番世界に多いのは、やっぱりスマホゾンビでしょうね。パンフに載っていた公式インタビューでも、街を行き交う人がみな、首をだらりと下げて、まるで何かに取り憑かれたようにスマホに目を奪われている様子を見て、この話の着想を得たとのことでした。そう、広く言えば、僕らはみんなスマホゾンビ化して垂れ流される情報を貪っているとも言えるわけです。しかも、今ならマスクをして、より様子がおかしなことになっていますよね。この物語でゾンビが大量発生している理由かもしれないとテレビやラジオが盛んに知らしめている北極での資源開発も、ありそうな話だけれど、政府はそれを躍起になって否定している。こうした情報の錯綜も、この春僕らが経験したことのひとつのような気もします。

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(C)2019 Image Eleven Productions,Inc. All Rights Reserved.
ジャームッシュはデビューの頃からオフビートな笑いを盛り込むことで、調子っぱずれな物語を作ると言われてきました。そこでは、往々にして、会話のキャッチボールはポンポン進まず、微妙な間が生まれ、話は直線的には進みません。宙ぶらりんになった言葉や行動の数々が、物語論的に言えば、きっちり回収されず、気持ち悪いっちゃ気持ち悪いんですが、それが独特の余韻をもたらす。コミュニケーションの機能不全という言い方もできるでしょうが、世の中そんなものという感じもしてくるのが、僕は魅力だと思っています。観客は傍から見ていて、思わずクスクスしてしまいますからね。僕が一度は無くして取り戻したパンフレット、ぜひご覧になったらお買い求めください。というのも、この作品には常連の役者が多数出演していて、作品をまたいだアンサンブルの妙も加わってくるので、それを理解すると、ますます面白くなるし、思い出し笑いするし、なんならもう一度観たり、過去作への興味が湧くってものです。たとえば、イギー・ポップがなぜコーヒーを求めるのか。クリーブランドという地名がなぜ頻出するのか、などなど。パンフには、過去作がどう関連しているのか、まとめてあるので、今後の鑑賞の手引として、大いに役立つことと思います。で、今回はそんなジャームッシュ節に加えて、先週『テリー・ギリアムドン・キホーテ』短評で僕が繰り返したメタ構造も取り入れられています。オープニングで、同じタイトルのテーマソングが流れた後、街の様子がおかしくなってすぐ、パトカーの中でラジオを付けたら、同じ曲が流れる。それを受けて、ビル・マーレイが「なんだろう、すごく耳馴染みがある曲だな」と。すると、アダム・ドライバーは「そうっすね。テーマソングなんで。スタージル・シンプソンです」。って、実在のカントリー歌手の名前を出して、これはこの映画のテーマソングだと映画の中でぶちまけるわけです。それ以上、特に説明をすることもなく。こうした外部の視点を物語内に入れることで、常に注意深く、僕らを感情移入させない作りになっています。

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そもそも、ただでさえ相手がゾンビですから、コミュニケーションなんて、ますます大変です。人間同士でも大変なのに。ゾンビ映画って、基本的にストーリーの幕引きが難しいジャンルですが、この作品にも希望はあります。誰が生き残るのか。常に観察者だった人。究極の異邦人たる人。そして、社会から何らかの理由で隔離されて、何ならそこでも越境していた若者。ゾンビは他のモンスターと違い、人間が、人間社会が、自ら生み出すものです。壊れまい、流されまいと、自分を律する者にかすかな光を当てるジャームッシュの批評的な視点は最後まで鋭いし、何よりとにかく面白くて、細部までまだまだ味わいたいなと思える、僕にとって最高の映画館復帰作となりました。
では、劇中で何度も流れるテーマソングを。3年前のフジロックにも出ていたグラミー受賞シンガー・ソングライター、スタージル・シンプソンの、The Dead Don’t Die。

さ〜て、次回、2020年6月23日(火)に評する作品を決めるべく。スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ハリエット』でした。正統派が来ましたね。折しも、Black Lives Matterが国際的な合言葉になりつつある今です。心して観てきますよ。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 6月9日放送分
映画『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』短評のDJ'sカット版です。

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主に広告業界で映像を撮っている演出家のトビーは、スペインでとあるCMの撮影をしているのですが、アイデアが枯渇して難航中。彼はある晩、偶然にも10年前に自分が監督した自主制作にして卒業制作映画「ドン・キホーテを殺した男」のDVDを手に入れます。懐かしくなったトビーがそこそこ近くにあるロケ地の村を訪れると、ドン・キホーテを演じてもらった靴職人のハビエルという老人が自分のことを本物の騎士だと思いこんでいたうえ、トビーは従者のサンチョ・パンサだと勘違いされてしまいます。そこからふたりの過去と現在、夢と現実を往復するような旅が始まるのですが…

ドン・キホーテ 前篇一 (岩波文庫)ドン・キホーテ 後篇一 (岩波文庫)

原作は、もちろん、スペインの誇る世界的文学、セルバンテスの『ドン・キホーテ』。監督と共同脚本は、イギリスのコメディーグループ、モンティ・パイソンのメンバー、テリー・ギリアム。『12モンキーズ』『ラスベガスをやっつけろ』『未来世紀ブラジル』の監督ですが、この企画は30年来温めていた、というか、撮影も進めてきましたが、この30年の間に、様々な要因で挫折すること9回。呪われた作品として、既に映画史に刻まれるほど有名だったんです。僕も、公開と聞いただけで、「嘘だろ!?」と思ったほど。
 
今世界で最も売れっ子となっている俳優のひとり、アダム・ドライバー。僕はかねてより似ていると言われ続けてきましたが、今作はアダム・ドライバー史上、最も僕に似ているということで、鏡を見る気分で、アマゾン・プライム・レンタルを利用して、先週土曜日に鑑賞しました。似ているかどうかは、シーンによるという、当たり前の結論が出ましたが、それは置いといて、それでは、今週の映画短評いってみよう!

僕が映画を年間100本程度意識して観るようになったのは、大学生の頃だから90年代後半なんですが、よく覚えているのは、その頃には既にこの映画の話が噂されていたことです。小説『ドン・キホーテ』は、もともとオーソン・ウェルズが50年代半ばから、あのフランク・シナトラを巻き込んで15年ほど実現に向けて動いたものの実現せず、85年に亡くなるまで、ずっと画策はしていたんです。今度はテリー・ギリアムが動いてはいたもののこれまた難航しているのだと。それをもって、これは呪われた企画なんだと言われていました。ギリアム監督の辛すぎる様子については、作品のオフィシャルサイトに、企画のヒストリーが自虐ネタのように掲載されています。さらには、僕も今回鑑賞しましたが、『ロスト・イン・ラ・マンチャ』というドキュメンタリーがあって、そこではスペインで2000年頃、ジョニー・デップジャン・ロシュフォールを主役に迎えて撮影を開始し、やがては失意のうちに企画がストップする様子がよくわかります。映画作りはかくも大変なのだと、僕なんかは涙なしには観られないですよ。あれからまた20年。辛酸を嘗めっぱなしだったギリアム監督が、ついに完成させたという、この事実だけでも、やりました! ブラヴォー! って言いたくなるし、僕は今作の試写状を今も事務所のデスク横に貼りっぱなしです。もうね、テリー・ギリアムさん、あなたが誰よりもドン・キホーテですよって言いたくなるんだけれど、これがあながち突飛な表現ではなく、テーマそのものなんじゃないかってのが、この作品の驚くべきところです。

ロスト・イン・ラ・マンチャ(字幕版)

というのも、これは、マトリョーシカ的に、現実とフィクションがいくつも重なり合う入れ子構造の作品なんです。メタフィクションと言われるやつです。まず原作そのものが、中世の失われた騎士道精神を崇拝するあまり、自分が騎士だと思いこんでしまう老人の話であって、しかも、小説の後半はその小説自体が世に出て売れた後という設定になっています。小説の段階で、既に虚実が入れ子になっている。それをさらに映画化するにあたり、そのドン・キホーテをかつて自主制作映画で撮影した監督を主人公にしていて、そこに出演していた素人役者やその家族の人生を予期せぬ方向に導いた張本人であると。だって、靴屋のハビエルは映画で演じたドン・キホーテになりきってしまい、現実に戻ってこれなくなっているし、居酒屋の娘アンジェリカは女優への道を夢見たものの、その半ばでくすぶってしまっている。こういう話そのものがドン・キホーテ的なる設定です。こうした事実に行き当たり、トビーは過去と現在、現実と夢や虚構を行ったり来たりすることになります。おまけに、僕たちは作品外の情報として、テリー・ギリアム本人がこの映画を撮ろうとして四苦八苦を続けてきたということを知っているがために、さらにもう1枚、虚実のレイヤーがかかるという、何重もの入れ子、夢のまた夢のまた夢みたいなメタメタフィクションを目の前にするので、はっきり言って混乱するわけです。

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(C)2017 Tornasol Films, Carisco Producciones AIE, Kinology, Entre Chien et Loup, Ukbar Filmes, El Hombre Que Mat o a Don Quijote A .I.E., Tornasol SLU
そのラビリンスそのものを楽しめるか。はたまた、なんじゃこりゃ意味わからん、となるか。観客は概ねそうして二分されるだろうとは思います。僕はと言えば、ここまでのテンションでお分かりいただける通り、こんなのは好物です。そりゃ、確かにわけわからんくなってきたって混乱もしますよ。あれはなんだったんだと未だによくわからん部分もあるけれど、映画がすべてハリウッド式の文法にのっとった、みんな似たりよったりな解釈をするものであっては面白くないわけで、人間の非合理で腑分けできない心理すら映像にできるメディアだってことを再認識できて愉快愉快と興奮しました。フェリーニの『8 1/2』であるとか、そういう映画監督の頭の中を覗き込むタイプの名作も思い出したし、それこそオーソン・ウェルズも見たくなる。トビーが引き受けることになる理不尽や不運の数々に思わず笑ってしまいながらも、ものを作る人間の夢追いのロマンと、関係者の人生を左右してしまう業のようなものも突きつけられました。そう考えると、トビー自身が辿ることになる道筋、つまり、ドン・キホーテの物語を撮っていたはずが、いつの間にかサンチョ・パンサになり、やがてはドン・キホーテに同化するというのも興味深い。だって、彼は自分でもしょうもないと考えているCMをディレクションして何とか映像業界にしがみついているような男だったわけです。それがものづくりの原点に立ち返ることになり、過去の自分の生み出したものに引っ張られ、やがては巨大な映画業界にまた槍一本で立ち向かうにしても、それはたやすいことではなく… 

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(C)2017 Tornasol Films, Carisco Producciones AIE, Kinology, Entre Chien et Loup, Ukbar Filmes, El Hombre Que Mat o a Don Quijote A .I.E., Tornasol SLU
テリー・ギリアムが30年前に構想した規模の映画にはおそらく程遠いものになってしまったとは思いますが、それでも映画は作られなければならない。頭に描いたものを、金を集めて、とにかく映像に落とし込まなければならない。その意味で、ギリアムは呪いから解かれ、またドン・キホーテとして立ち上がったんだと思います。そう考えると、僕はまたこの映画を見直したくなる。そんな危うい普遍的な魅力をはらんだ作品に触れられたことを、こうして短評できた喜びをかみしめています。
お送りしたのは、ニック・カーショウです。彼はシンガーとしては84年のアルバムThe Riddleが代表作でしょうが、その中には、表題曲以外にも、こんなヒットが入っていました。そう、『ドン・キホーテ』。
 

 

さ〜て、次回、2020年6月16日(火)に評する作品を決めるべく。スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『デッド・ドント・ダイ』でした。コロナの影響で公開延期になっていたものが、先週ようやく封切られましたんで、僕も久々の映画館です。敬愛するジム・ジャームッシュ監督の新作にして、初のゾンビ映画。そして、2週連続アダム・ドライバーなど、気分は高揚しっぱなしですが、ひとつ気を落ち着けて観てきます。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

『閉鎖病棟 -それぞれの朝-』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 6月2日放送分
映画『閉鎖病棟 -それぞれの朝-』短評のDJ'sカット版です。

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(C)2019「閉鎖病棟」製作委員会
舞台は長野県のとある精神科病院です。そこに暮らす入院患者たちは、統合失調症だけでなく、認知症麻薬中毒者などなど、さまざまな事情を抱えています。そして、中には、母と妻を殺害した罪で死刑判決を受けたものの、執行が失敗した結果脊髄を損傷し、車椅子で暮らす梶木秀丸もいました。他にも、幻聴に苛まれてかつて強制入院となった元サラリーマンのチュウさんや、父親からのDVを隠しながら病院へやってきた女子高生の由紀など。ぎこちなくも肩を寄せあって生きている彼らでしたが、ある日、思いやりが生み出した大きな事件が起きます。

閉鎖病棟 (新潮文庫) 愛を乞うひと

原作は精神科医で作家の帚木蓬生(ははきぎほうせい)が山本周五郎賞を獲得した95年の同名小説です。99年にも『いのちの海 Closed Ward』というタイトルで映画化されていまして、今回が20年ぶり2度目の映画化です。監督と脚本は『愛を乞うひと』や『しゃべれども しゃべれども』の平山秀幸。元死刑囚の梶木秀丸を演じるのは、単独主演10年ぶりという笑福亭鶴瓶。元サラリーマンのチュウさんを綾野剛、女子高生の由紀を小松菜奈が演じるほか、平岩紙高橋和也小林聡美なども出演しています。
 
公開は去年の11月1日でして、主題歌をFM COCOLO DJでもあるKくんが担当しているということもあり、当然映画神社のおみくじラインナップには入れていたんですが、いくら引いても当たらず、今回アマゾンプライムの配信レンタルで先週金曜日に鑑賞することになりました。それでは、今週の映画短評いってみよう!

人にはそれぞれ過去があって、事情があって、生きている限り病があります。精神科病院というと、この映画に出てくるように、坂の上だとか人里離れたところだとか、サナトリウム的に社会から隔離されたような場所にあることが特に昔は多かったですね。綾野剛演じるチュウさんはサラリーマン時代に幻聴が聞こえるようになったということで、統合失調症だと推測できます。この病気の原因はさまざまで一概には言えず、世界のどこでも、だいたい100人にひとりの割合でかかると言われています。その意味では、決して縁遠いものではなく、むしろ身近な病気です。だから、結構古い物語にも統合失調症の当事者が出てくるものがあって、日本ではたとえば座敷牢に押し込めて、家族や地域で独自に管理しようとしましたが、今度はそれを精神科病院に入院させる、つまりは社会で管理しようという流れがありました。

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(C)2019「閉鎖病棟」製作委員会
実は日本は国公立以外にも私立の精神科病院が世界的に見ても非常に多く、私立の場合にはベッドがふさがっている方が経営が安定するわけで、長期の入院が多いのが特徴です。本来ならもう社会復帰したほうが良さそうな人でも、地域に居場所が作れないため、だらだらと居続ける。途中で、病院というこの場所が患者を患者らしくするというようなセリフがありましたが、長く病院に滞在して、仕事もできなくなると、無気力になって、ますます地域に戻れなくなるという悪循環が日本にはあります。さらに最近では、誰にでもなる可能性がある認知症や薬物・アルコール中毒患者も多くなっていて、この病院もそうでしたが、ますますごった煮になっています。加えて、精神科の場合は、他の科と違って、看護師の数が少なくて良いというシステムもあるので、場合によっては手が回らなくなり、それが故にスタッフが患者を虐待したり、適正な人数なら防げたかもしれない事件が起こるというケースもあります。
 
僕の生まれたイタリアでは、僕の生まれた78年に法律が通り、公立の精神科病院を新たに開設することはできなくなりました。別にそれですべて解決したわけではもちろんないけれど、向こうの患者たちは病院ではなく、地域で仕事をしながら社会の一員として生きる道が日本と比べてより開かれていることも確かです。僕はこうしたテーマのイタリア映画を自分の会社で配給したり、コメディーから悲劇まで、色々客としてきても観てきたので、日本の精神科病院から講演に呼ばれたり、見学に来てくださいと言われて行ってみたり、そして、今はいないんですが、病院を退院してきた人たちに僕の会社の清掃業務をお願いしていた経緯があるので、この映画の事情について人よりはもしかすると詳しいのかもしれません。だからすんなり観られたんですが、正直に言って、さすがにもうちょっと説明が必要かなとは思いました。それぞれの抱えている事情と病院の事情について、なんなら時代背景すらよくわからないので、この種のテーマに不慣れな人が見ると、誤解を生みかねないなとも思いました。悪役となった人物なんかはとにかく悪いとしかわかりませんよね。そうすると、深みが出ない。一方で、由紀の家族の事情は一番よく描かれていて、一般の社会で暮らしている、「普通」とか「正常」とされている人だって恐ろしい闇を抱えているってことがわかると思います。参考までに、精神障害者の犯罪率は、実は一般の人よりも低いんです。

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(C)2019「閉鎖病棟」製作委員会

鶴瓶さん演じる元死刑囚の秀丸も、そもそもの事件についてはまぁわかりましたけど、その後、彼が何をどう思って暮らしているのかってことが、伝わりきっていないのかなと思いました。普段、僕は映像できっちり語ろうとする映画が好きだ、そうあるべきだって言っていて、平山監督ははっきりその方向です。役者を信頼して、皆さんベスト級の縁起を披露されています。それだけに、脚本が及んでいない部分もあるというのが、僕の見立てです。

精神 [DVD] 人生、ここにあり!(字幕版) 

とはいえ、過度のストレス社会でうつ病も多く、自殺率G7最下位の日本です。精神の問題をきっちり描こうとする作品がこうして製作された、しかも水準が高い作品でるということは大歓迎です。想田和弘監督のドキュメンタリー『精神』シリーズや、イタリアの『人生、ここにあり!』など、この機に関連作もぜひご覧いただきたいです。
 
主題歌はKくんでした。感情にはだいたい名前が付いていますが、心理があまりに複雑だと、どう呼んでいいかわからないということもあるでしょうね。映画の景色ともリンクさせながらのリリックが巧みでした。

さ〜て、次回、2020年6月9日(火)に評する作品を決めるべく。スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』でした。苦節30年。呪われた作品とまで言われて、映画史にその名を刻まれてきた映画が、ついにお目見え。しかも、そこに、アダム・ドライバー史上僕に一番似ていると噂のアダム・ドライバーが出演しているってんですから、これは観ないわけにはいきません。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!

映画『蜜蜂と遠雷』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 5月26日放送分
映画『蜜蜂と遠雷』短評のDJ'sカット版です。

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新人ピアニストにとって、世界で活躍できるか、その登竜門となっている芳ケ江国際ピアノコンクール。その予選会に集った4人を追った、音楽群像劇です。同じくピアニストだった母親の死をきっかけにピアノが弾けなくなった天才少女、栄伝亜夜は7年ぶりに出場。優勝候補は、かつて栄伝と一緒にピアノを習い、現在は名門ジュリアード音楽院に在学しているマサル・レビ=アナトール。楽器店で働きながら、生活者の奏でる音楽を構築したいと意気込む年齢制限ぎりぎりの高島明石。そして、最近亡くなった著名なピアニストの推薦状を持って風のように現れた謎の少年、風間塵。映画は予選から本戦までを描きます。

蜜蜂と遠雷(上) (幻冬舎文庫)蜜蜂と遠雷(下) (幻冬舎文庫)

原作は、直木賞本屋大賞をダブル受賞して話題を作った恩田陸の同名小説。監督・脚本、そして編集まで手掛けるのは、ポーランドで映画作りを学んだ俊英、『愚行録』の石川慶。キャストは、栄伝亜夜を松岡茉優マサル森崎ウィン、高島を松坂桃李が演じます。他に、斉藤由貴平田満鹿賀丈史臼田あさ美ブルゾンちえみ片桐はいりなどが出演しています。
 
去年の10月4日、公開されましたが、当時はおみくじが当たらず、今回配信でリベンジ。僕はポイントをこれでU-nextの持てるポイントを使い切ってレンタルして、先週金曜日に鑑賞しました。それでは、今週の映画短評いってみよう!

 

世の中には、「映像化不可能と言われた」とか「奇跡の映像化」とかいった常套句がありますが、この映画の場合は、それに加えて、「渾身の音楽的再現」なんて言葉も欲しいところです。残念ながら仕事に追われて、原作をこの機会に読むことはかないませんでしたが、ハードカバー、上下段に分かれて508ページもあるわけです。まずそれを2時間の尺にまとめるにあたってのエピソードの取捨選択が必要になる。それだけでも大変なのに加えて、劇中で演奏される曲の再現も必要です。ここ半年の間だと、『マチネの終わりに』という僕も高く評価した作品があって、あれも小説では文字で表現されていたものを映画ではもちろん聴かせないといけない難しさがありましたが、言ってもあちらはクラシックギターのソロで、演奏はひとりだったのに対し、こちらは4人のピアニストそれぞれの特性を素人にも察することができるレベルで再現できる演奏者が必要で、しかもオーケストラとのコラボレーションまである。『春と修羅』という、小説の中にしかなかった架空の作曲家の作品を映画独自に作曲する必要もあった。これは気の遠くなる作業ですよ。撮影に取り掛かる前に準備すべきことがありすぎる。しかも、下手を打つと、原作ファンが黙っちゃいない。リスクが高すぎる。作曲家、本物のピアニストたちのキャスティングも打ち合わせも入念にしなくちゃいけないし、もちろん俳優たちのキャスティングも。しかも、謎の天才少年、風間塵を演じた鈴鹿央士という、言ってもまだ新人にも主役レベルの存在感を与えられるよう演出しないといけない。脚本、監督、編集と、まさに大車輪の活躍を見せた石川慶はとんでもない才能だし、映画的野心家です。

マチネの終わりに (文春文庫)

原作者の恩田陸に言わせれば、この小説は「ほとんどが心理描写」なんです。映画にとって厳しいですよ。ナレーションや独白も入れられるとはいえ、映画は登場人物の心理を表情も含めたアクションに潜ませる表現です。その意味で映画とは相性の悪い原作に思えるものを、石川監督は真正面から音楽で突破しようと企んで、それに成功しています。小説とは違って、本当の演奏を聴かせられるのだから、その音の流れに、指の運びに、そして演奏している(ように見える)役者の動きに、それぞれの感情を反映させています。つまりは、どのキャラクターにも特徴があって、まだ若手なので未熟さもあって、それがコンクールの間で変化していく。その様子を純粋に楽しむことができる映画なんです。そんな体験はなかなかないです。

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(c)2019 映画「蜜蜂と遠雷」製作委員会
もちろん、コンクールなわけですから、誰が優勝するのか、その結果が大きなサスペンスとして観客の興味をテンポ良く強く引っ張っていく。そんな音楽青春映画、だとまとめることもできるんですが、僕に言わせると、それではこの映画を説明したことにならない。群像劇ですから、それぞれの背景や立場、コンクールにかける想いや、それぞれの関係性とその変化が描かれます。普通はですね、ドラマとして盛り上がるように、ライバル心をむき出しにさせてみたり、何か不正を企てさせたり、恋愛要素を入れてみたり、するものですよ。なんなら、音楽はそこでBGMに後退して、その関係性そのものが前景になるものです。がしかし! この作品は違う。あくまで音楽なんです。潔く、音楽です。それぞれに悩み、もがく4人が、互いに響き合って、誰かを蹴落とすんではなく、それぞれの理想の音楽を奏でる。ただ、それだけです。それがかくも面白いのが画期的なんです。遠くで鳴る雷を察知する才能に恵まれた4人は、その能力を努力で研ぎ澄ませ、世界をすぐれた音楽で満たす。この世界に向き合う。恩田陸は、小説のエントリーでこう書いています。「明るい野山を群れ飛ぶ無数の蜜蜂は、世界を祝福する音符」だと。若きピアニストたちが、ひとりひとり世界を祝福する様子は、観ているだけで幸せな気分になるんです。
 
蜜蜂、そして遠雷という比喩、メタファーも、妙に説明的にならず、映画独自だと思いますが、馬の映像も手際良く挟みます。挟むと言えば、フラッシュバックで過去の場面もいくつか入りますが、それも必要最小限で品があります。こちらの解釈の余地を残しています。そして、何度か、あっと驚く映画ならではの仕掛けも用意されていて、たとえば、演奏中のグランドピアノの天板に過去の映像が映り込むとか、ハッとさせられました。といったように、これは小説とは適度な距離を取った、言わばシネマティック・ディスタンスをキープした健全な映画化です。はっきり言って、この映画を観ても、小説を読む喜びは減じないでしょう。

砂の器 デジタルリマスター版

特に、ラストの鮮やかさにはしびれました。朝日新聞編集委員の市川速水さんが論座というサイトで言及していて、僕も同じように思い出した映画は、野村芳太郎監督、松本清張原作、74年の『砂の器』です。同じように、オーケストラで大団円を迎えます。あの日本映画史に残る作品を思い出させる。内容はまるで違う、下手すりゃ、正反対なんですが、オーケストラシーンの余韻と解放は、勝るとも劣らないのではないでしょうか。惜しむらくは、家ではなく、蜜蜂の羽音すら聞き取れるような、映画館で観たかったことでしょうか。
サウンドトラックからお送りしたのは、松岡茉優が演じた栄伝亜夜の演奏を再現した河村尚子さんのピアノで、ドビュッシー『月の光』でした。


さ〜て、次回、2020年6月2日(火)も、まだ引き続き「お家でCIAO CINEMA」です。スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『閉鎖病棟-それぞれの朝-』でした。精神科病棟を題材にした作品。実はイタリアは公立の精神科病院をとうの昔に廃絶した国でして、僕はこのテーマ、かなり関心があり、同様のテーマのものをそこそこ観ています。あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、ツイッターで #まちゃお765 を付けてのツイート、お願いしますね。待ってま〜す!