京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

Home Movie Day in Italia 2006 参加ルポルタージュ

=ポンデ雅夫による前口上=
 皆さんはホーム・ムーヴィー・デイというイベントがあるのをご存知ですか? 実はこれ、アメリカで始まった催しなんですが、日本やイタリアを始めとした世界各地で行われているんです。とりわけ日本ではまだまだ知名度が低いので「そんなもの聞いたことない」という人も多いと思います。実はさる2006年8月12日、ODCローマ支部の面々はイタリアで行われたこの家庭映画の祭典に参加してきました。

 家庭映画と聞いて、どんなものを思い浮かべるでしょうか? 皆さんの家にもビデオカメラが押入れの奥に眠ったりしていますよね。七五三や運動会、出産や結婚式、家族旅行といったイベントになるとお父さんが張り切って取り出してくるやつです。撮るだけ撮ったら一度見ただけで満足して、後は放り出してあったりすることが多いですけどね…

 今でこそデジタルビデオカメラが普及して、映像もテレビで簡単に鑑賞でき、編集もパソコンのおかげで簡単になりましたが、一昔、いや二昔くらい前までは8ミリフィルムを装てんするカメラが主流でした。8ミリフィルムといえば、現在では一部のマニアと自主映画製作をする人ぐらいしか扱わなくなってしまいました。死んだメディアとは言いませんが、ほとんど瀕死の状態であることは確かです。けれど、ちょっと前までは一般家庭に広く普及していたものなんです。撮影するカメラ、映像を投影する映写機、フィルムをつぎはぎするスプライサー。そういった器具一式が、ごく身近なところにあったものなんです。(といっても、僕はぎりぎりその時代より遅れているので、自分の体験に基づいた話ではないんですが…)

 ところが、80年代にもなるとビデオがフィルムを駆逐するようになるわけです。ビデオは当然ながらテレビで見ます。映写機は使いません。そのようにして、それまで撮りためられてきた8ミリフィルムが次第に押入れから天袋へと移動していくわけです。要するに、だんだん忘れられていったわけです。場所をとる映写機も電球切れや故障を機に処分されるようになる。で、引越しだ何だといったときに、段ボール箱に詰まったフィルムが出てくる。しかし、もはやそれを映写する機械もない。行き場を失ったフィルムは、そうやって相当数処分されたものと思われます。もちろん、幸運にも生き残ったフィルムもないわけではありません。探せば結構出てくるものです。何せ、普及率の高いメディアだったんですから。ただ、フィルムは保存の難しいデリケートなメディアでもあります。だから、せっかく見つかっても既に映写機にはかけられない状態になっていたりすることもあるんです。そうやって、また処分されてしまう。 
 こういった状況では、8ミリフィルムは減る一方です。まぁ、いいんじゃないの? どうせ古いメディアなんでしょ? 時代の趨勢だよ。だいたい、家族の映像なんて当事者ならともかく、他人が見たってたいてい面白くないもの。こういった意見は、半分は当たっていて、半分は間違っています。古い技術が新しい技術に取って代わられるというのは、確かに時代の流れだし、技術の発達は喜ばしいことです。しかし、古い技術は僕たちの社会が歩んできた道のりの通過点としてきちんと保存しておく必要があるでしょう。そしてこの場合、もっとも大事なのはフィルムが記録してきた20世紀の記憶なんです。劇場で公開される映画やニュース映像が記録できなかった、家庭や地域の記憶がフィルムには定着しています。それを失うというのは大いなる損失であると立ち上がった人たちがいます。これが、ごく大雑把ではありますが、家庭映画を保存していこうという運動の興りです。僕たちはそんな映画保存の祭りに参加してきたわけです。率直に言えば、古い家庭映画を観ることは、若い僕らには新鮮な体験でした。そして、その時代を実際に生きた人にとっては、記憶を呼び起こす画期的な体験であり、老人には一種のセラピー効果があるという側面も注目されているんです。

 そんなようなわけで、ODCとしては日伊にもまたがるこのイベントを取り上げることにしました。ドーナッツ名を獲得したばかりの「柴田“甘党”幹太」改めオールドファッション幹太のルポを紹介します。彼は実際に映画保存の運動にも携わっているので、その報告にはかなり力が入っています。ぜひともご一読ください。

 もうちょっとざっくばらんなものを読みたいという方や、彼という人間に興味を持ったという奇特な方は、どうぞ彼が個人的に開設しているブログの記事をご覧ください。

 また、こちらはイタリア語になりますが、僕が提供した情報も挿入しながらシルヴィア・ヘルテル氏(Silvia Hertel)が執筆したこのイベントについてのコラムがイタリアのサイトに掲載されています。興味のある方は、そちらも合わせてご覧ください。

=関連リンク=
映画保存協会ホームページ
HOME MOVIE DAY 小さなフィルムのための小さな祭典
オールドファッション幹太の外部ブログ:KANTA CANTA LA VITA
シルヴィア・ヘルテル氏の記事: 「記憶の修復」(イタリア語)

Home Movie Day 2006 in Italia
Giornata Internazionale del Film di Famiglia ? IV edizione
San Gimignano (Siena), Sabato 12 agosto 2006


第4回 家庭映画国際記念日「ホームムービーの日」
於 :トスカーナ州シエナサン・ジミニャーノ(イタリア)
日時:2006年8月12日(第2土曜日)
 10:00〜19:00 持ち込みフィルムの受付とフィルムの状態確認(ドゥオーモ広場)
 21:30〜 上映(モンテスタッフォリ城砦 → 雨天のためレッジェーリ劇場に変更)

「ホームムービーの日」とは何か

「ホームムービーの日」とは、家庭映画とアマチュア映画に捧げられた国際的な記念日です。20世紀、世界中でフィルムに撮影されたアマチュア映画は、私たちの過去と、個人的でありながら社会的な歴史について、土台となるべき資料を作り上げるものです。その膨大な遺産に再び光を当て、それらを忘却と消失から守ることがこのイベントの目的です。


皆さんの8mm、スーパー8、16mm、9,5mmフィルムをお持ち寄りください
自宅の物置や床下に葬られたフィルムに再び光を当てることによって、そこに刻まれた家族の記憶を取り戻そうとしている全ての方々を、私たちはご招待致します。そうしたフィルムは、きちんと作動する適切な映写機が失われてしまったために、多くの場合、見ることさえ不可能になってしまっているのです。協会ではもちろん、最も普及し長命であったダブル8、スーパー8、16mmから、イタリアでは20年代から40年代にかけて出回ったより稀少な9,5mmパテ・ベイビーに至る、(いわゆる小型映画と呼ばれる)アマチュア映画の全てのフォーマットに適した映写機、ムヴィオラ、その他の機材が設備されております。会場にお持ちいただいたフィルムは試写確認、場合によっては選択された後、夜の上映会で映写されます。主催者側はさらに当日、フィルムを適切に扱うために役立つアドバイスを提供し、個人的で総合的な歴史の代替不可能な一つ一つの断片の重要性を訴え、フィルムの復権と家庭映画国立アーカイブへの参加についてご案内致します。  (Home Movies ホームページより報告者翻訳)。

 2006年8月12日、イタリアはトスカーナ州シエナ県、町中いたる所にそびえるその塔で有名なサン・ジミニャーノで開催された「ホームムービーの日」(以下HMD)に参加した。及ばずながら、一昨年の大阪会場、昨年の京都会場に協力・参加した経験を元に、イタリアにおけるHMDの現状を報告する。

 2003年にアメリカ合衆国で初めて開催されて以来、今年で4年目を迎えるHMDは、イタリア国内では2004年のマルケ州ペーザロ(Pesaro)、2005年はトスカーナ州アレッツォ(Arezzo)に続き、今年のサン・ジミニャーノ会場での開催で第3回を数える。いずれも家庭映画国立アーカイブ(Archivio Nazionale del Film di Famiglia)と関係組織のホームムービー協会(Associazione Home Movies)が主催し、各自治体や当地の映画関連団体の協力を得て開催されている。アメリカや日本では国内各地でそれぞれ何らかの団体が主催し開かれるのに対し、イタリアでは同一の主催団体が毎年開催地を選出するという方法を採っている。これは、イタリアでは8月15日の聖母被昇天の祝日に前後して休暇期間に入ることが関係している。普段大都市部に集中した人々はこの時期一斉に帰省し、人影も疎らとなった大都市部とは対照的に、日頃人気の少ない地方都市が活気づくという背景がある。お盆休みのある日本やバカンスシーズンのある欧米と共通する事情ではあるが、「地元に帰って」、「家族や友人と共に休暇を過ごす」という傾向はより顕著であるように思え、まさにこの2つの要素がイタリアにおけるHMDの土台となっている。今回、イタリアのHMDに参加して強く感じたのは、「ホームムービーの日」という家庭映画の祭典の「地域性」とそこにある「時間の共有」という側面である。

 サン・ジミニャーノには当日11時頃に到着する。生憎の空模様である。というのも事前に確認したところによると、21時半からの映写は野外上映を予定していたからである。

 まずは、門をくぐって城壁内(旧市街、いわゆるサン・ジミニャーノ)に入り、フィルムの持ち込み場所となっているドゥオーモ(司教座教会)広場(Piazza del duomo)に向かう。前記のようにサン・ジミニャーノは世界的に有名な「美しき塔の町」であり、花の都フィレンツェや近隣の主要都市シエナからの交通も整備されているため、ひとつひとつの通りやそれぞれの広場にあふれる観光客の多さに驚く。そのうちの何割か、あるいは何分何厘かの人々が、一般的にはまだまだ無名に等しい慎ましき映画の祭典に集っていることを願いながら歩く。

 ドゥオーモ広場に到着し、最初に目を引いたのはその教会ではなく、他でもないクラシックな映写機と撮影機、それらを見物する人々の群れであった。機材はそれぞれ、コレクターであり、その場の監督者でもあるアントニオ・ピニョッティ(Antonio Pignotti)氏によって美しい状態で保存されたもので、幾らかなりとも映画に関心のある者、アンティークに興味を持つ者、あるいは通りすがりの観光客の目さえを引かずにおかない。集まった人々の質問に丁寧に答える氏の姿が印象的であった。

 しばしそれらの機材に見惚れ同時に写真撮影した後で、展示の横でモニターに視線を送る人、フィルムを光にかざして点検している人、真剣な面持ちで話し込む人たち、フィルムを囲んで談笑している人たちに目をやる。傍にあるテーブルには8mmフィルムのパッケージが無造作に並べてあり、同じテーブルに薄型テレビが設置され、デジタル化された家庭映画が映っていた。そこに集まっている人々は見るからに関係者である。その中に見覚えのある人物がいる。パオロ・シモーニ(Paolo Simoni)氏である。直接の面識はないが、一昨年のHMDについての映像に映っていたのは間違いなく彼であり、幾つかの関連文章にもその名前を見かけたことがある。忙しそうに立ち回っている彼の手が空くのを見計らって声をかけてみた。日本で同じ映画祭に関わっていた者である旨を伝えると、仲間を呼び、それぞれに紹介してくれた。個人的に知り合ったHMD関係者ではロンドンの人物に次いで2人目とのこと。ボローニャで映画の研究をしていること、チネテーカに居る時間が自宅の次に長いこと、アーカイブの存在は知ってはいるがまだ訪ねていないことを伝えると、「ボローニャに住んでいるなら、いつでも来てくれ」と好感触である。日本ではどのようにしてHMDが始まったかを問われ、知る限りで答える。名刺を渡し、アーカイブの訪問を約束して、一時その場を離れる。

 昼食を取り、宿にチェックインを済ませたところで、懸念していた雨が降り出す。幸か不幸か、土砂降りではあるが通り雨のようでもある。長くなりそうな夜に備えて休息を取り、18時ごろに再び旧市街の中心地に向かう。すでに映写機の展示とフィルム受付のテーブルは撤収済みで、雨天による上映会場の変更を伝える張り紙がある。ドゥオーモ広場に面するレッジェーリ劇場が代替会場として用意される。暗くなる前に本来予定していた会場、モンテスタッフォリ城砦も訪れる。丘の上に作られた町サン・ジミニャーノの、さらに一番高いところにある元会場は夏の野外上映と共通の施設だった。オリーブの木が植えてある庭のようなスペースに、予想に反して大きなスクリーンが設置され、座席数は100を超える。この会場で上映できなくなったことは残念だが、代替の劇場に期待する。

 21時少し前に代替会場に到着。数人のお年寄りが入り口前で談笑している。21時を回るも依然として開場せず。スタッフが急遽変更になった会場の設営に走る。21時30分には開場できるだろうとのこと。21時半を過ぎてようやく入場。地方の小都市としては立派な劇場である。修復された18世紀の建物とのこと。いつの間にか人々が集まっており、なかなかの賑わいである。しかも、次から次へと増えていく。客層は主に年配層ではあるが、若い人たちも少なくはない。最後部に席を取り劇場内を撮影する。22時を過ぎ、主催者の代表であるシモーニ氏と協力者であるクラウディオ・ジャッポネージ(Claudio Giapponesi)氏の挨拶。前氏はその言葉の中で、HMDが世界中で開催されているイベントであることに触れ、前HMD京都のスタッフも日本から来ていると述べる。「画面が揺れたり止まったりするが、フィルムとはそういうものだ」的な発言に共感する。

 上映開始。まずはDVDの映像を映写し、これから映写されるフィルムとの違いを感じて欲しいとシモーニ氏が言及。映写中、観客たちがずいぶん大きな声で喋っている(独り言、あるいは会話)ことは大変興味深い。それもそのはず、そこに映る映像は彼らが生きた町の映像なのである。客席のあちこちからスクリーンに向かって名前が呼ばれる。映っている人を呼んでいるのだ。それも一度や二度ならず、さらに様々な席からその声は聞こえてきた。イタリアの映画館ではしばしば、映像に対して向けられる観客の言葉が驚くほど露骨に上映室に響いたり、字幕を声に出して読む光景を目にしたりすることがあるが、そのとき僕が体験したものはそれと似ているようではあるがずいぶん違うものである。そもそも家庭映画は黙って見るものではなく、思い出を語り合い、あるいはその場面を思い返してその場に居合わせなかった者に映像と言葉でもって伝えることによって、そこにある映像を共有するものであることを考えれば、映写中に喋ることは、家庭映画の鑑賞においては当然のことなのである。HMDでは映写中やその前後に、撮影者やフィルムに映っている人がコメントを求められることがあるが、それは家庭映画のそうした性質によるのだ。映像に映る人々が思い出を共有するばかりではなく、映らずともそこに暮らしたことのある人々、今まさにその場を訪れている人々とそうした映像を共有することが重要であり、そうすることによって映像は記憶・保存される。映像では小さな女の子だった女性が自身の映像を前に思い出を語っていると、客席からその母親が「そうじゃないのよ」とでも言わんばかりに立ち上がりマイクを握った光景は、それだけで映画的な体験であった。

 小さな劇場とは言え、最後部の2階席から舞台上のスクリーンに投射できる映写機と、その光源に耐えうるフィルムの力に、総じて驚く。

 いくつか印象的なフィルムをここに記す。

 1957年のサウンドフィルムは、両親の銀婚式の旅行(シエナサン・ジミニャーノ間)を撮影したもので、編集もしてあった。ひとつしかないサウンドトラックに音楽と台詞を交互に入れる方法は、シンプルだが独特の効果を持っていた。

 開場前の時間に歩いた道と城門が映ったフィルムを見ることは、そこに暮らしたことのない僕たちのような旅行者でも共有できる興奮である。

 ドゥオーモ広場で行われたカーニバルのパレードの映像では、赤はどこまでも赤かった。

 兄弟が遊ぶ見たこともない玩具の映るフィルムは、映像として残っているだけですでに映像資料である。

 1953年のドゥオーモ広場が映るサン・ジミニャーノ初の16mmフィルム。

 作物を脱穀する農夫を撮り続けたフィルム。

 サッカーの試合を撮ったフィルムは、競技の映像と昼食のそれが同じくらいの分量で含まれていた。プレイの一つ一つに客席から声が上がる。

 教会内を撮影した映像がほとんど真っ暗で知覚できないのは映写機の光量のせいか。画面サイズを小さくして何とか観ることができる。


 以下、報告に添えて、感想を二、三記す。
 まず特筆すべきは、今回のサン・ジミニャーノ会場の盛況ぶりが示すとおり、イベントとして確立しているイタリアのHMDの成功である。バカンス・シーズンに人が集まる開催地の選択、その町の中でもより集客が見込める中心地でのフィルム募集と客寄せのための映写機の展示、集まった人々に対する家庭フィルムの面白さとそれを鑑賞・保存する意義の啓蒙活動、フィルムの鑑賞をより容易にするデジタル媒体へのテレシネサービス、そうした周到な計画と宣伝、そして何よりも催し物として意味あるものにするための尽力が、上映会に100人以上の集客を可能にし、それぞれがこのイベントを楽しいものとして享受できるのである。裏を返せば、そうあってこそ初めて、開催地に暮らす人々、そこに育った人々、当地を初めて訪れた人々が、あくまで私的な映像であるはずの家庭映画を共有できるのではないか? 個人的に考えるHMDのあるべき姿とは、開催地に関係する映像(その景色が主役であれ、あるいは背景にそれが脇役として映っているものであれ)をその場に居合わせた人々が同時に楽しむことである。映像の楽しみ方はそれぞれであろうが、それらひとつひとつは全て同一の映像にその根を持つ。それがこれまで繰り返し述べてきた「映像の共有」であり、その最小単位が「家庭」である映画を家庭映画と呼ぶのだろう。この場合にはそこにある共有は「思い出の共有」であり、HMDのように「不特定多数」が共有の単位となる場合にはそれは「映像資料の共有」になるのだ。であるとすれば、同時に興味深いのは、イタリアにおける「移動するHMD」というその開催形態である。前述のようにイタリアでは、家庭映画国立アーカイヴとホームムービー協会が主催し、毎年異なる各開催地の団体の協力を得てHMDは企画されている。思い出でありながら資料でもある映像の共有を呼びかけながら、家庭フィルムの重要性を訴え国中を啓蒙して周るイタリアのHMDは、さながら地方巡業の旅芸人であり、また同時に布教活動を続ける宣教師でもある。家庭映画大国のアメリカのそれとは異なる、小国イタリアが見出した独自の、それゆえに自国に適したHMDのあり方なのである。毎年8月第2土曜日を開催日とするHMDと、その時期を所謂「地元」で「家族」と過ごすという世界に比してより顕著なイタリアの事情、さらには主催団体と地方の協賛団体の強力な共同作業という自らが見出した開催方法の合致が、毎年開催地を替えながら各地方都市間を「旅するホームムービーの日」の成功をもたらしている。

 やや空論をこねくり回してしまった。一番の感想を一言で言ってしまえば、「ホームムービーは楽しい」のである。2006年、日本以外で開催されるHMDに初めて参加した今年、このことを実感できたことをとても喜んでいる。なぜ楽しいのかはまた場を替えての話題ではあるが、イタリアと日本の国民性の違いなどというものが仮にあるにせよ、日本よりも人口も面積も少ないこの国での成功には大変勇気づけられたのは事実である。と、同時にそれは、このイベントの可能性の再確認でもあり、ますます世界中に広がるであろうHMDの未来に期待せずにはいられない。HMDがその規模を縮小する時、それは世界中の全ての家庭映画が救われた時のことである。その時HMDは新たな局面を迎え、それまでとは違った発展を遂げると信じている。しかし、それにはもう少々時間を必要とするだろうし、ならば私たちにできることはその発展の土台であるべき今のHMDをさらに普及させることである。