FM COCOLO CIAO 765 毎週月曜、11時台半ばのCIAO CINEMA 4月7日放送分
映画『白雪姫』短評のDJ'sカット版です。
ストーリーをまったく知らない人もあまりいないと思いますが、かつて希望に満ちていた王国が舞台です。今は外見の美しさと権力に執着する邪悪な女王に支配される中、白雪姫は継母の生み出す闇ではなく、再び希望の光で国を満たしたいと考えていました。ただ、そのピュアな心は女王の嫉妬を招き、命を狙われてしまいます。白雪姫は、逃げ込んだ森で出会った7人のこびとやジョナサンという反体制派の青年と力を合わせていきます。
監督は、「アメイジング・スパイダーマン」シリーズや『(500)日のサマー』のマーク・ウェブ。白雪姫を演じたのは、『ウエスト・サイド・ストーリー』で注目を集めたレイチェル・ゼグラーです。女王には、『ワイルド・スピード』シリーズへの出演やワンダー・ウーマンでおなじみのガル・ガドットが扮しました。プロデュースは、『ラ・ラ・ランド』でもおなじみのハリウッドの名製作者にして、実は今大ヒット中の『ウィキッド ふたりの魔女』も手掛けているマーク・プラットです。
僕は先週金曜日の朝にMOVIX京都のドルビーシネマで字幕版を鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。
先日、こんなニュースが報じられました。ディズニーの実写化シリーズの新しい企画として進んでいた『塔の上のラプンツェル』の製作が一旦保留になったというんですね。理由のひとつとして挙げられているのが、『白雪姫』の興行的な不振です。日本では3月31日付けの映画ランキングで『ウィキッド』に次ぐ3位ですから、決して悪くはない出だしだと思うのですが、とにかくアメリカでの評判が暗い影を落としてしまっているのは否めません。なんとなく「評判が悪いらしいじゃん」という声がはびこってしまっていて、僕もそれが耳に入った状態で映画館へ行ってみたら、どっこい十分楽しい作品じゃないかと感じたので、今日は基本的に白雪姫を擁護する姿勢、白雪姫の味方という立場でまいります。
まず、なぜ北米で不振なのかを簡単にまとめておくと、それは作品の内容よりも政治的な理由が多分にあります。ひとつは、主演のレイチェル・ゼグラーがコロンビア出身のラテン系であること。これは、最近のディズニー実写化のたびに「行き過ぎたポリコレだ」言われることですけれど、そんなのははっきり言って思い込みだと思いますね。クラシックと言われるような作品が時代に即して改変されるのは当たり前のことでして、歌も演技も折り紙つきで、『ウエスト・サイド・ストーリー』での活躍を受けてスピルバーグが力強く推薦したというゼグラーに白羽の矢が立つのはごく自然なことだと思います。しかも、雪のように白い肌というたとえを雪の降る日に生まれたからとスムーズに改変してあるので、彼女のキャスティングでとやかく言われる筋合いはないはずです。そもそもグリム童話だってグリム兄弟がオリジネーターではなく、各地に伝わっていた物語を収集して改変したものなわけですから、「かくあるべし」という鋳型に縛られる必要はないんです。もうひとつ、興行的な不振の理由とされているのが、これが本当にくだらないんだけれど、ゼグラー個人のパレスティナ人道危機に胸を痛めているという発言。イスラエル資本が影響力を持つアメリカ、そしてハリウッドのそれこそ行き過ぎたリアクションの餌食に白雪姫が晒されている状況。それを言うなら、実は女王様を演じたガル・ガドットは逆にイスラエル支持を表明していて、それはそれで反発もあり、なんだかトランプ2.0における溝の深い分断というのが白雪姫のファンタジーにも及んでいて切なくなるし、なおかつそんなガル・ガドットが女王を演じていることに皮肉な状況だと思ってしまいます。
でも、そんなことって、本来は作品の評価とは関係のないことですよね。ウォルト・ディズニーがアニメーション映画の基礎を築いたと言える1937年版の『白雪姫』がすばらしかったことに議論の余地はないのだけれど、90年近く経った今、新しいものを作る意義は十分にあるし、集まった布陣はそれに見合う強力な面々でした。たとえば、白雪姫をより積極的で主体的な女性にすることで現代的な魅力が加えてあるし、白馬に乗った王子様がそのキスで彼女を眠りから覚ますくだりにも、より流れを物語的な流れと必然性を重視した改編を施すことで違和感を大幅に減少させています。毒リンゴを受け取るくだりも、原作では「呆れるほど無垢」に思えてしまうものを、やむなく食べさせられるという動機づけが行われているので、僕たちもかなり受け取りやすく、飲み込みやすくなっていました。なにより、今作では新たな歌も加わって、ミュージカルとしての魅力が大幅に増しているのは、誰もが認めるところじゃないでしょうか。
一方で、白雪姫の魅力を分厚くした結果、ヴィランである女王の描写の特に心理的な部分が深められておらず、かなり単純で薄っぺらいキャラクターになってしまっていることも指摘しておきます。単純な悪に閉じ込めてしまうには惜しいくらいの面白いキャラクターなはずなんですけどね。それから、実写化において最も難しいと言わざるを得ない7人のこびとの存在は、低身長症への偏見をどう回避するかという苦労の甲斐は認めるけれども、白雪姫と言えばこれという彼らのキャラクター的なバリエーションの楽しさを遺憾なく発揮するところまでは到達できていなかった印象です。
それよりも何よりも、僕が気になったのは、恐れを知らず、公平で勇敢、そして誠実をモットーとする白雪姫が、結局は王国という封建的な社会の枠組みそのものを更新する意図がないように見えることです。これはせっかく現代的な実写版を作るならズカズカ踏み込んでほしかった部分だなと思いましたし、共に女王に立ち向かう青年ジョナサンがしっかり白馬にまたがっている描写には僕は思わず笑ってしまいました。結局白馬に乗るんかい、と。
こんな風に、僕としてはむしろ、現代的な改変が中途半端に終っていることこそ、この作品の問題であり欠点だと思っています。でも、それを補って余りある長所があちこちにあるのも事実。だからこそ、冒頭に話したアメリカでの作品の主に外側の批判は本当に邪魔なものでして、当たり前によくできた作品なのでまずは映画館でご覧いただいた上で、ここは良い、ここはもうひとつ、ここは明らかに力及ばずみたいな正当な評価をされるべき作品だと強調して今週の短評を終えます。
レイチェル・ゼグラーの歌は説得力がありました。自分のいる場所がこうあってほしいという夢がほとばしる曲です。