京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

それでもオレたちはやってない 〜サッコ=ヴァンゼッティ事件〜

 周防正行監督の『それでもボクはやってない』(2007)という映画があります。話は就職活動中の冴えない若い青年(配役:加瀬亮)が、「やってない」のに女子学生に痴漢だと疑われ、逮捕されるところから始まります。彼は留置所に入れられ、警察からの一ヶ月弱にわたる脅迫的な尋問にも耐え、起訴されて一年の裁判をたたかった結果、有罪判決を受ける、という冤罪の話です。

 「裁判所は無実の者を有罪にしない」というのは当たり前の話ですが、実際には誤審もあり、判決といっても不確実な判断のようです。映画を見ていると、「有罪」か「無罪」の判断には様々な要素が関わっていることがわかります。たとえば、被告人の証言・裁判官の性格・第三者の証言・被害者の証言など。しかし、被告人が緊張ではっきり証言できなかったり、裁判官の思想が判決に影響したり、第三者や被害者の証言が曖昧な記憶に基づいていたりと、裁判の判決が括弧つきの「真実」になってしまう可能性は大いにあるようです。「電車内の痴漢に関しては、すべての男にアリバイと動機がある」らしいので、もしあなたが男なら、または「前科一犯」という悪しき称号がほしくないなら、十分気を付ける必要があるようです。

 …と、これで終わると、イタリアでもなんでもないので、今回は「冤罪」+「イタリア」にしたいと思います。とはいっても、べつにイタリア人の男が痴漢で捕まって、無実の罪を着せられた話じゃなくて、サッコ=ヴァンゼッティ事件についてです。

 サッコ=ヴァンゼッティ事件。話の発端は、1920年、アメリカのマサチューセッツ州サウス・ブレイントリーにある靴製造工場で起こった強盗殺人事件でした。雇用主と一人のイタリア人が殺害され、大金が盗まれたこの事件の犯人として挙がったのが、フェルディナンド・ニコーラ・サッコ(Ferdinando Nicola Sacco)とバルトロメーオ・ヴァンゼッティ(Bartolomeo Vanzetti)です。彼らはイタリア系アメリカ人で、イタリアから移住し、労働者(サッコは靴職人、ヴァンゼッティは魚屋)として働いていましたが、一方でアナーキスト(強制力を伴う政府は要らない、という考え方をもつ人)としての顔も持っており、この点が逮捕につながった主な要因とされています。というのは、当時、イタリア系アナーキストたちは、爆破テロや暗殺を含む暴力革命を目指す危険分子として米国政府にマークされており、そして実際にサッコとヴァンゼッティもこうした活動に関与していたため、事件の容疑者になったわけです。

 判決の結果から言いますと、彼らはふたりとも有罪となり、電器椅子による死刑が言い渡され、1927年夏、死刑を執行されました。彼らがもし事件の犯人であったなら、この判決は(死刑の是非は別として)「有罪」で間違いはなかったのですが、当時を含め現在でも彼らは無罪だったとの見解が有力です。そのため、小説家アプトン・シンクレアや哲学者ジョン・デューイ、ジャーナリストのウォルター・リップマンらがサッコとヴァンゼッティを弁護するなど、判決に対する非難がアメリカ国内で巻き起こり、さらには国内に留まらず、ヨーロッパ・アジア(日本)にまで及び、国際的な関心も集めました。

 裁判の判決に対するこうした批判は、「偏見」に行き着くように思います。つまり、当時のアメリカの判事には、イタリア人・移民・アナーキストに対する偏見があり、それが判決に影響を与えた、つまり「推定有罪」の判断をしていたのです。こうした偏見から、サッコとヴァンゼッティ側が一審と二審で自らのアリバイを主張したにもかかわらず、証言者がアナーキストであったなどの理由でたいして考慮されず、裁判所は証拠不十分のまま死刑判決を出し、「不公平な裁判」であるという批判に繋がりました。周囲から「人種差別」・「思想弾圧」といった非難を受けても仕方がない、そんな裁判になってしまったのです。

 人はある人間を判断するとき、客観的な事実とともに、意識的にせよ無意識的にせよ、その人間に付随している属性や社会の風潮といったものを判断材料にしているようです。たとえば、もしあなたが、イタリア人に対する人種差別意識、移民に対するネガティヴなステレオタイプや、アナーキストたちへの敵対心をもっているとすれば、またはそうした風潮が社会に蔓延しているとすれば、「イタリア人」・「移民」・「アナーキスト」といった属性をもつ人間を肯定的に見ることは難しいと思います。ましてや、彼らが重大な犯罪を犯したと指摘されている場合、人は客観的な事実そっちのけで、彼らに対して有罪の推定をしてしまうかもしれません。現在の日本でも、国内で特定の国籍をもつ者の犯罪が増えれば、「その国籍をもつ者=危険」といった単純な図式で特定集団を見てしまうことだってあるでしょう。

 人間の歴史は不寛容の歴史だったじゃないか、と言われればそれまでですが、いずれにせよ、人間が下す判断なんて、本人は正しいと確信しているものであっても、実際はあやふやで不確実で、歪んでいて、間違っていることも多々ある、ということだけは言えるようです。サッコ=ヴァンゼッティ事件という出来事を、「人間の不寛容」という点に一般化すれば、同様の間違いは今も起こっているし、これからも起こるだろうと思います。

 ちなみに、「サッコ=ヴァンゼッティ事件」は、イタリアの映画監督ジュリアーノ・モンタルド(Giuliano Montaldo)が映画化したり(『死刑台のメロディー』、Sacco e Vanzetti、1971年)、フォークシンガーのジョーン・バエズが歌にしていたり(Here’s to You)と、いまでも様々な大衆文化の窓口を通じて垣間見ることができます。
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