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京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

おススメの本 『アルトゥーロの島』 エルサ・モランテ著 2010/09/20

 ナポリの海に浮かぶ、火山活動によってできた観光客もほとんど訪れない小さな島。島を出て放浪する父の帰りを待ちながら、自らを産み落としたときに亡くなった母を星座のなかの女王のように憧れ、ひとり気ままに、美しい自然のなか、少年時代の王国を小さな獣のように謳歌するアルトゥーロ。そして突然、ある冬の午後、彼が伝記や物語のなかの偉大な王や騎士たち以上に崇拝し、熱烈に愛する父親が、彼とわずかしか歳のかわらない幼い妻を島に連れてくる。嫉妬や反発を抱きながらも、父親はすぐ旅に出てしまいなかなか戻らず、アルトゥーロと幼い父の妻との二人だけの生活が始まる。やがて惹かれあっていく二人のあいだに、さまざまな愛の形や、性の誘惑への抵抗がおこりはじめる。

 この小説を、十代という綱のうえを渡っていくような危うい時期に読んでいたら、おそらく心がもたなかったのではないかと思うほど、文のそこかしこに幼かったかつての自分を見つける気がしました。少年期の魂の真実を書ききったエルサ・モランテの完璧といってよいみずみずしく豊かな筆致は、主人公アルトゥーロを神話の少年のように、普遍的な存在にまでしてしまったかのようです。今、十代まっただなかの子たちが、これを読んでどう感じるのかひどく聞いてみたい気がします。
アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-12)
 人生で初めて恋におちて家族以外の誰かを深く愛したとき、誰もがかつてもっていた幼い自己愛の、あの幸福な王国は、永遠と似た匂いのするまあるい閉じた時間とともに崩れ去り、わたしたちを無理やりに死がやがて待つ直線の時間へと引きずり出し、虚栄心と抑えがたい欲求に満ちた脅えた存在にしてしまいます。人生であの時ほど、自信を失い、自分を忌み嫌い、体や心の器の居心地の悪さを感じるときはないのではないでしょうか。まるで、蝶が幼虫から蛹になるとき、あの不器用に存在を主張していた体が、あの殻のなかで一度消え去り、どろどろの液体になるときのようです。
 しかし、そんな恐ろしい時がやがて待っているとわかっていてもやはり、愛の火が小さく灯りはじめるその瞬間の美しさはすばらしいものです。アルトゥーロと父の妻のヌンツィアータが心をかよわせるはじめての晩がしるされた章では、原初のまだ文字をもたなかった時代の愛のような、何ものにも毒されていないあたたかい命のざわめきのようなものが満ちていくのが感じられます。

『アルトゥーロの島』(L’Isola di Arturo、エルサ・モランテ著、中山エツコ訳、河出書房新社、2008年)