京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

映画『マスカレード・ホテル』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年1月24日放送分
映画『マスカレード・ホテル』短評のDJ's カット版です。

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東京で起きた3件の殺人。殺害方法はバラバラで、被害者同士の関係も見当たらないものの、現場に数字の暗号が残されていたことだけが共通していました。それを解読し、これは連続殺人事件だと推理したのは、警視庁捜査一課の刑事、新田浩介。どうやら、その数字は次の殺人場所を予告しているらしいのです。かくして導き出された第4の場所は、ラグジュアリーなホテル・コルテシア東京。捜査一課はホテル側の協力を得て、潜入捜査を始めることに。新田はフロントクラークに扮して犯人逮捕を目指しますが、従業員の最前線で利用客をもてなす本職のフロントクラーク山岸尚美とことあるごとに衝突してしまいます。次々と現れる素性の知れない客の中から、新田たちは犯人を見抜けるのか。狙われているのは誰なのか。そして、殺人は未然に防げるのか。 

マスカレード・ホテル (集英社文庫) マスカレード・イブ (集英社文庫) マスカレード・ナイト 

原作は、集英社文庫から出ている東野圭吾の同名小説。これは「マスカレード・シリーズ」になっていて、今のところ3作出ています。今回はその1作目の映画化。登場人物がとても多いわけですが、豪華キャストが目白押し。刑事新田を木村拓哉、ホテル従業員山岸を長澤まさみがW主演で担当する他にも、渡部篤郎小日向文世篠井英介生瀬勝久前田敦子濱田岳松たか子菜々緒石橋凌梶原善鶴見辰吾笹野高史宇梶剛士、橋本マナミなどなど、とにかくすごい。
 
監督は、鈴木雅之。フジテレビ所属の演出家で、『王様のレストラン』『ショムニ』『HERO』など、数多くのドラマでチーフディレクターを務ている他、映画でもフジテレビ製作のものを手がけています。『GTO』『HERO』『プリンセス・トヨトミ』『本能寺ホテル』といったところですね。
 
平成が生んだ大スター木村拓哉の人気はまだまだ健在とばかりに、観客動員はもちろん1位の独壇場。先週金曜の公開から金土日の3日間で61万人を動員していますが、その内容はどうなのか。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、そろそろいってみよう!

日本型、テレビ局主導の映画製作。十把一絡げにするのは良くないですけど、ドラマからの流れで、その延長としか言いようのない、THE MOVIE的な映画作りがあって、その代表格がフジテレビですよ。今回も、特に宣伝では明らかに成功作『HERO』に寄りかかったような感じじゃないですか。テレビのファンじゃなくて、映画ファンである僕としては、劇場へ向かう足取りが軽くなかったのも事実です。
 
ところが、実際に観てみると、日本版『オリエント急行殺人事件』的なキャスティングの魅力に、思いもよらず楽しむことになったんです。オリエント急行的というのは、要するに、出てくる登場人物ひとりひとりの役者に、いずれも知名度と存在感があって、スクリーンが華やぐだけでなく、誰もが犯人に見えてくる、先が読めなくなる効果もあるってことです。
 
木村拓哉小日向文世松たか子と来ると、『HERO』を思い浮かべるわけだけど、僕がこのキャスティングと物語の設定で思い出したのは、やはりフジのドラマで三谷幸喜出世作王様のレストラン』ですね。演出の鈴木雅之、出演の梶原善(かじはらぜん)、田口浩正が共通する他、松たか子のお父さん松本幸四郎も大事な役で出ていました。サービス業の表と裏、本音と建前、それぞれの役割と立場を活かした人間模様をコミカルに描くこと、そして何より物語を密室劇にすることで求心力を保つこと。今回、鈴木監督はあのドラマで培った演出術を遺憾なく発揮していました。

王様のレストラン Blu-ray BOX 

映像的な見せ場として、僕の目を引いたところを一箇所挙げます。前田敦子演じる新婦が、結婚式場から披露宴会場へと移動するシーン。何か起きるんじゃないかと緊迫している場面。彼女を含む3人の人物の距離がだんだん近づいて、さあどうなるってタイミングで、現場に配置された何枚もの鏡を使って、その距離を混乱させるような見せ方をすると共に、鏡という虚像が蠢いて交錯するという画作りは映画全体のテーマとも一致していますよね。
 
一方、これは演劇的かつテレビドラマ的だぞと白けちゃったのは、生瀬勝久演じる客がロビーで新田に食ってかかるところ。大声を出すもんだから、その場にいる人がみんな固まるのはわかるんだけど、それからしばらくの間、みんな固唾をのんで棒立ちでふたりの芝居を見続けるという。あれはいただけないです。日本のドラマでよく見る構図ですよ。もっと工夫できる。あと、別れようとしたところで、まだ言葉をつないで、相手を振り返らせる構図も繰り返しすぎ。これもドラマっぽい。そして、無闇にカメラをくるくる回しすぎ、とかね。
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でも、とりあえずそういう弱点は置いておこうって思えたのは、はやり木村拓哉長澤まさみの放つ存在感でした。人を疑う刑事と、人を信じるホテルスタッフ。水と油のふたりですよ。ところが、登場する宿泊客たちが巻き起こす騒動をひとつひとつやり過ごしていくうちに、木村拓哉はだんだんホテル従業員らしくなり、長澤まさみは推理を働かせるようになる。水と油が乳化して強力なバディーになる。そのプロセスを愛でる映画と言っていいでしょう。
 
第4の殺人事件が動き出すまでの時間が長いんですよ。次こそか、いや、まだだったか。その繰り返しの中でバディーが構築され、一般人の知らないホテルの裏事情も知れ、知らぬ間に伏線も敷かれていく。僕に言わせれば、伏線の回収やトリックが鮮やかな物語ではないです。むしろ、そこまでが楽しいって感じかな。
 
事前放送のドラマに頼らず、主題歌も取ってつけず、フジの強みであるキャスティングでちゃんと映画を作ろうとした『マスカレード・ホテル』。お客様が詰めかけるのも納得の出来栄えでした。

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リスナーからも届いた指摘でしたが、僕も思っていたこと。ホテルが舞台なのに、高嶋政伸(弟)を使わず、高嶋政宏(兄)をキャスティングするんだ! それは何か、ドラマの「HOTEL」がTBSだからなのか。勘ぐりすぎか。とにもかくにも、僕としては、これは「姉さん、事件です」と言いたくなる案件でした。

あと、オリジナルのサントラが、ところどころ「古畑任三郎」っぽく聞こえたのは苦笑しました。古畑もフジテレビだし、SMAPも一度出てるし、鈴木監督も何話か演出していたし、それはあまりにもだぜって。でも、どうして似てると思えたのかな。たぶん、コード進行だとは思うのですが…

さ〜て、次回、2019年1月31日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『十二人の死にたい子どもたち』です。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく! 

『クリード 炎の宿敵』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年1月17日放送分
映画『クリード 炎の宿敵』短評のDJ's カット版です。

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あの「ロッキー」シリーズを継承してみせた2015年の傑作『クリード チャンプを継ぐ男』の続編です。
 
かつてロッキーのライバルにして盟友だった男アポロ・クリードが愛人との間に設けていた息子アドニスクリード1では、彼がボクシングへの情熱をたぎらせ、ロッキーに師事して身体を鍛えながら、フィラデルフィアで歌手のビアンカと恋に落ち、迷いながらも自分のアイデンティティを確立し、チャンピオンのコンランに挑むまでを描きました。

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今回、ボクサーとして順調にキャリアを重ねるアドニスのもとに、かつて『ロッキー4/炎の友情』で父アポロをリングの上で殴り殺したソ連の殺人マシーンことイワン・ドラゴの息子ヴィクターからの挑戦を受けることに。父のかたきを討つことになるアドニスですが、ロッキーへの憎悪の念に駆られて訓練を積んできたドラゴ親子の気迫と執念を前に、ロッキーは試合そのものに反対し、セコンドを下りてしまいます。ガールフレンドの歌手ビアンカとの結婚と出産、ドラゴ親子が抱えてきた葛藤、そして前作から病を抱えるロッキーの人生と家族への想いを巻き込み、アドニスとヴィクターはリングへと上がります。

ロッキー4 (字幕版)

まだ20代の時に前作の監督を務めたライアン・クーグラーは、マーベル『ブラックパンサー』の監督に大抜擢されたこともあり、手が回らなかったということでしょう。今回は製作総指揮という役回りでした。代わってメガホンを取ったのは、こちらも若き才能、現在30歳のスティーヴン・ケープル・ジュニア。シルヴェスター・スタローンは、今回脚本にも参加しています。クリードは、もちろんマイケル・B・ジョーダン。『ブラックパンサー』では、キルモンガー役でも絶賛されていましたね。ビアンカ役のテッサ・トンプソンは、今回歌唱シーンも増えて大活躍。イワン・ドラゴは、もちろん『ロッキー4』のドルフ・ラングレンが演じています。ちなみに、ドラゴの息子ヴィクターを演じたのは、ルーマニアのボクサーで映画初出演となるフロリアンムンテアヌです。
 
どなたもご承知のように、続編は難しいものです。「クリード」なんて、ロッキーシリーズという下手をすれば呪縛になりそうな存在を背負っているわけなので、なおさら。しかも、今回はスタローンが監督もするというところで企画が動き始めたものの、結局は若きスティーヴン・ケープル・ジュニアにそのメガホンが託されました。ロッキーシリーズの良さと、前作の良さ、双方を引き継いで、なおかつフレッシュに見せ、願わくば物語全体に奥行きを与えるという、これは試練ですよ。プレッシャーを想像するだけで、僕はKOされてしまいます。
 
それでは、制限時間3分、1ラウンド勝負の炎の短評、そろそろいってみよう!

前作は、シリーズ全体を踏まえてはいるものの、やはり「ロッキー1」に呼応する作品でした。何者でもなかった社会の日陰者が、無骨な恋愛をしてパートナーを得ながら、拳でのし上がっていきました。今回は、アドニスが二世ボクサーであることから、まさに宿敵であったイワン・ドラゴの息子ヴィクターを登場させて、商業的には一番の成功作でありながら内容的には散々に言われがちな「ロッキー4」と呼応させます。かつて拳を交えたロッキーとイワンがそれぞれセコンドに立つ、二世同士の宿命の対決です。はっきり言って、設定ができすぎてるだろってくらいの王道ですね。大丈夫なのか。大丈夫どころの騒ぎじゃありません。スティーヴン・ケープル・ジュニアは、ロッキーからクリードへの世代交代と継承をきっちり描くのみならず、「ロッキー4」にも落とし前をつける、グッドじゃない、グレイトな仕事をしています。

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今回フォーカスされるのは、守ることの難しさです。ボクシングなら、頂点を防衛する困難。人生においても、愛情、友情、そしてプライド、互いへのリスペクトといった守るべきものが、ドラマの各段階で浮かび上がるんですね。攻めではなく、守りについての映画なんですよ。アドニスビアンカは、今回関係が一歩二歩進んで、出産を経て親になっていきます。あのプロポーズシーンは、コミカルな味つけによる幸せ描写と、ビアンカ聴覚障害が進行している暗雲垂れ込め描写が表裏一体になっていて素晴らしかったなあ。そう、人生において、幸せはずっとは続かないですよね。幸せがひとつ生まれれば、それを失う不安も生まれるというもの。それは子どもを授かっても同じことが言えました。

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一方のドラゴ親子は、当初こそただのモンスターにしか見えなかったものの、クライマックスに向けて、加速度的に観客に肩入れさせますね。イワンにとっては、自分の復讐の道具として息子の技と肉体を研磨してきたわけですが、その心情がある人物の登場によって、次第に変化していって、最後には親子関係がまったく違ったものへと様変わりする熱い展開でした。ちなみに、あの結末は当初の脚本と違うようですが、変更して大大大正解でしたね。今振り返れば古臭くなっている旧シリーズの価値観を、ちゃんとリスペクトを持ちながら刷新しているのは、クリードという新シリーズの長所です。
 
たとえば女性の扱いについても、エイドリアンがとにかく男性を見守る存在だったのに対し、ビアンカは歌手として難聴と戦いながら、レーベルと契約し、ライブの動員も増やしていました。アドニスも子育てに奮闘するし、ビアンカは出産後も曲作りをやめない。クライマックスの試合が始まる前、僕はそんなビアンカにもっとスポットを当てろよって不満があったんです。ロッカールームでアドニスが彼女の曲を聴くとかあるじゃんかよ!ってね。そこからの決戦に向けた入場シーンの演出はもう、僕の凡百の演出を遥かに超える感動を呼びました。

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それぞれのキャラクターの成長と成熟を見せる必要から、尺が長くなっているも事実です。成長痛としてのそれぞれの苦悩を描くあたりに多少のダレがあるという指摘にも頷けます。ロッキーなんて、3日間列車に乗って旅情を楽しんだりするくらいだから。でも、そこから試合に向けて火が付いてからの、恒例のトレーニング・ダイジェスト・シーンがあって、一気にアクセルが踏み込まれるじゃないですか。そこは緩急だし、彼らの苦悩ひとつひとつに意義ある回答を用意してくれているので、僕にはあまり気になりませんでした。
 
まとめよう。確かに、ロッキーにまだまだ依存したクリードではありましたが、恐らくは3もあるでしょうし、彼もまだこれから人間的に大きくなるはず。ロッキーが言いますね。「お前の時代が来たな」。クリードと書かれたジャージを着てアドニスを見つめるロッキーの後ろ姿のしびれること。
 
ロッキーからアドニスへ。スタローンからライアン・クーグラとスティーヴン・ケープル・ジュニアへ。物語的にも映画史的にもこれ以上ない継承が成された『クリード/炎の宿敵』に、僕は猛烈に感動しました。

それぞれのその後を見せるエピローグにグッと来た方も多いでしょう。ロッキーも自分の人生を総括し始めていました。言わば、終活ですよ。そこで出てくるあの子! あのかわいさは完全に反則でした。


さ〜て、次回、2019年1月24日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『マスカレード・ホテル』です。キムタクが刑事で、長澤まさみがホテル勤務。そして、東野圭吾原作。ヒットが約束されたような豪華なメンツが揃っていますが、こういう時こそ冷静に評したいもの。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく! 

映画「いつだってやめられる」三部作DVD-BOX発売記念レビュー

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十数年前、私が大学院に進学した頃の大学には、改革の波が到達していた。イタリア関係の学術界はもともと大きくないこともあって、ある先輩は大学でイタリア語を教えたいと夢見ていたものの、諦めることにしたようだと聞いた。別のある先輩も、そこで生きていこうとしているけれど、講師を務めるあちこちの大学での授業の準備に追われて、とても研究まで手が回らないと言っていたように記憶している。教員のポストには任期制限付きのものが増えていて、大学を職場にするのも難しいものだなと思っていた。さらに近年では、京大の立て看板や吉田寮の話に聞くように、自由な空間も次々に奪われている気がしてならない。

 

「いつだってやめられる」は、そんな学術の世界に身を置いて、肩身の狭い思いをしながら生きてきたインテリたちのコメディ三部作だ。


主人公のピエトロは、研究員として稼ぐなけなしの収入を奪われることになってしまった。収入の補いに家庭教師の仕事も掛け持ちしていたため、せめて滞納中の月謝を払ってもらおうと、ある夜、教え子の少年を追う。その過程でみじめな目に遭った後、アイデアがひらめいてインテリ仲間を招集、合法ドラッグでひと儲けを企む。

 

これがシリーズ一作目、『いつだってやめられる―7人の危ない教授たち』のストーリーだ。2014年の制作ということは、私が大学を出て、5年ほど経った頃。以前から若者の失業率が問題になっていたイタリアだ。研究者も日本と同じように(もしくは、日本よりも)厳しい状況にあった。また、日本で「脱法ハーブ」という言葉がニュースをにぎわせていたのも、記憶に新しい。そんなテーマをコメディに仕立てて、劇場を笑いで沸かせた本作は大ヒットを記録した。

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それで続編として制作されることになったのが、二作目の『いつだってやめられる―10人の怒れる教授たち』と、三作目の『いつだってやめられる―戦う名誉教授たち』だ。こちらは二作でひと続きのストーリーになっている。

 

かのインテリ・ギャング団には新しい仲間が合流し、今度は合法ドラッグの撲滅に力を貸す。任務の完了がすぐそこまで迫ったとき、ドラッグの影に隠れて別の犯罪が計画されていることに気がつき、物語はさらに展開する。

 

この続編は≪悪に立ち向かう正義≫の定型に近づいてしまうのかなと、期待しないようにしている部分もあった。でも、そう単純にはいかない。一作目のエピソードを利用して、全てがはじまる前の登場人物たちの接点が描かれるなど、心にチクリとトゲが刺さるよう な仕掛けがしてあり、鑑賞後には、鈍い痛みが余韻として残る。

 

そしてなにより、この三部作の一番の魅力は個性豊かなインテリたちだ。

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副題にあるように、このシリーズにはインテリだけで7人とか、10人とかいう数の人物が登場する。人物を把握するのが苦手な私にとっては、多い。多すぎる。ところが、全員を簡単に覚えられてしまうのだ。セリフにも、ふるまいにも、それぞれの専門性が際立っていて、いちいちキャラクターが濃いので間違えようがない。

 

身を呈して資金を調達する経済学者に、どんな人物にもなりすます人類学者。ドラッグを製造する計算科学者はその使用感をどうしても正確に調査したくて、結局、自分で試してヤク中に陥る。輸送係の考古学者は車で遺跡を疾走して、古代ローマ文化財を破壊、死んで詫びると取り乱す。それはオリジナルではなく、帝政期のコピーだから気にするなと慰めるのは、ラテン語学者だ。

 

自分の興味に逆らわず生きてきた彼らは少年のようで、滑稽で、面倒くさくて、愛おしい。まっすぐな姿は笑えるし、泣ける。

 

そんな彼らが躍動する映像は、シリーズを通じて原色の強い鮮やかな色彩をしていて、この物語はフィクションだと語っているようでもある。

 

では、現実はどうだろう。大学の改革はピエトロの荒稼ぎのアイデアと同じように、「いつだってやめられる」と思ってはじまったかもしれない。その流れの先にある今、私利私欲のために、人を傷つけるために、恵まれた頭脳を使わせてしまっていないか。誰もがどこかに持ち合わせているだろう、人の役に立ちたいという思いを踏みにじっていないか。そんなことを考えさせられる。

 

文:京都ドーナッツクラブ セサミあゆみ

 

『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年1月10日放送分
映画『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』短評のDJ's カット版です。

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1994年、札幌。筋肉がしだいに衰えていく難病の筋ジストロフィーを小学生で発症した鹿野靖明。20歳まで生きられるかどうかと言われていた彼は34歳。動かせるのは、首から上と手だけ。24時間365日、誰かの介助がないと生きられない身体なんですが、医師の反対を押し切って自宅で自立生活を送っています。助けてくれるのは、彼が自ら集めた大勢のボランティアたち。わがままで図々しく、惚れっぽくて、とにかくよく喋る。ある日、医大生のボランティア田中のガールフレンド美咲は、たまたま鹿野の家を訪れたところ、新人ボランティアだと勘違いされます。しかも、鹿野は美咲に一目惚れしてしまったから、もう大変。鹿野の常識破りな生き様と、周囲の人間模様を描いたヒューマン・ドラマです。

こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち (文春文庫 わ)

「愛しき実話」という副題が付いているくらいですから、鹿野靖明さんは実在の人物。ノンフィクション作家の渡辺一史が2003年に出版し、講談社ノンフィクション賞などを獲得した『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』(文春文庫)を原作に、『ブタがいた教室』の前田哲監督が映画化しました。鹿野靖明を大泉洋医大生田中を三浦春馬、その恋人の美咲を高畑充希が演じる他、ボランティアたちを萩原聖人渡辺真起子宇野祥平らが担当。他にも、竜雷太綾戸智恵原田美枝子佐藤浩市などが脇を固めています。
 
鹿野靖明が実際に暮らした団地などの札幌市内や美瑛など、オール北海道ロケとなっています。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

正直、観る前はあまり心躍らなかったんです。恥ずかしながら原作も読んでいなかったし、難病ものの湿っぽい話を、大泉洋が孤軍奮闘するぼんやりしたコメディータッチで見せられるのはしんどいだろうなぁ。予告で何度も目にした、あのオセロやってるとこにバナナをドンって叩きつけられてからの「なんか、今のグッときた」が恐らくは一番面白いところなんだろうなぁ。あのポスターとか公式サイトにある夕陽バックにメインの3人がバナナの上にいるみたいな手抜き感が醸し出す教育映画感に気が重くなっていたんです(↓ これね)。

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ところが、この映画は僕の予想をバッチリ裏切って楽しませてくれました。考えさせてくれました。想像してたよりずっと笑えて、想像してたよりずっと湿っぽくなくて、鹿野靖明という男に想像以上に惚れることになってしまいました。
 
まずは鹿野さん登場シーンを思い出していただきたい。彼は車椅子の上ではなく、風呂に入れてもらってるんですね。しかも、女性ばかりに囲まれて体を洗ってもらっている。ボランティアのひとりが、「鹿野ハーレム」みたいなことまで言うんです。みんな楽しそうなんだけど、そこに踏み込んでしまうのが、事情のわかっていない美咲です。彼女はボーイフレンドの医大生田中があまり一緒にいてくれないから、ボランティアとかなんとか言って二股かけてるんじゃないかと偵察にやって来たところ。鹿野との出会い方としては、美咲にとっては最悪ですよね。しかも、会話で普通に下ネタ飛び交ってるし。美咲にはギョッとするんだけど、観客は爆笑する傑作な場面でした。序盤からコメディータッチで行くぜっていうことと、障害者の性の問題にもきっちり踏み込んでいくよっていう宣言になってます。で、例のオセロにバナナの場面もかなり序盤に出てくるんです。僕はついつい、こんな早くそのネタを出して大丈夫かって思うんだけど、まったく問題ないです。だって、その後もおもしろ釣瓶撃ちなんだもの。その笑いを支える大泉洋の演技がもう絶品です。だって、使える場所が顔と手とセリフに限られるわけでしょ? それなのにあの表現力ときたら。
 
僕が強く感じたのは、声の力です。鹿野はずけずけモノを言う毒舌家だけど、そこにはユーモアと深い洞察が備わっています。だからこそ、途中声が出なくなる危機に見舞われた時の絶望感が深まるし、それでも会話を模索する様子は泣けます。苦労して伝えた内容のバカバカしさも含めてね。そして、90年代半ばなんで、メールもラインもない時代だからこそ、直接的なコミュニケーションの強さもうまく浮き彫りになっていました。

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同時に、三浦春馬高畑充希についても、僕がこれまで観てきた作品ではベストな演技でした。三浦春馬演じる田中の、やさしいというよりは、ただ自分で決められないだけの優柔不断な偽善者すれすれの迷える若者像ははまり役。そして高畑充希演じる美咲は、感情の動きが一番大きな役で、その変化のたびに周囲の人間との関係性も変わるという難しいものだったのに、特に表情の微細な動きひとつひとつに感心しました。すごい!
 
その意味で、前田監督の演技を引き出す手腕は確かだったと思います。長回しも多かったですよね。色々あってしばらく会っていなかった田中に鹿野が大学まで突撃して、車椅子と白衣でキャンパスを歩きながら喋るところなんて、ずっとカメラが並走しての長回しでかなり印象に残りました。その分、欲を言えば、監督にはあまり奇をてらうことはせずに、役者を信じてストレートに映像を紡いでほしかったという思いがあるのも事実です。突然の雷、唐突に昇るいかにもな日の出、パーティーでの仰々しい照明の変化なんかは、演技の舞台装置の作り方として疑問を感じました。せっかく北海道オールロケで90年代感もばっちり出せているのに惜しいなと。
 
この作品への批判として、後半が結局湿っぽくてダレたっていう意見も目にしますが、僕はそうでもなかったと思う。逆に「ただただお涙頂戴一辺倒なところってありましたか」と僕は聞きたい。鹿野の病状が進んで、あわやということがあっても、必ずそこには笑いがまぶされたじゃないですか。それが鹿野イズムですよね。そう、この映画のねらいは、彼がいかに革新的な人だったかを知らしめることです。鹿野さんはどんな人間も対等だってことを身をもって証明した。医者だろうがボランティアだろうが難病患者だろうが、誰だろうがみんな対等。人間は互いに与えあえる。助け合える。そこにこそ、生きる喜びがある。

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難病患者だからって病院でずっと天井の穴の数を数えてなきゃいけないのか? そうじゃないだろうと。医者の言うことだけ聞いてたって、人生は謳歌できない。かといって、病院を出て社会生活を送るうえで、その支えを家族に押し付けてはいけないこともうまく描けていました。日本が美徳とする価値観のひとつに、「とにかく他人に迷惑をかけるな」ってのがあるけれど、それを突き詰めるから無関心が横行して、何かあれば自己責任論が大手を振ることになるわけですよ。「思い切って人の助けを借りる勇気も必要」なんです。家族は大事だけど、家族だけしかいなかったら、友情も恋も生まれないでしょう。病院より社会で生きることを選んだ鹿野の言葉が、やがて人を勇気づけ、人を優しくすることが、終盤示されていきます。彼は革命家ですよ。感動しました。
 
誰だっていつかは動けなくなる日が来る。そんな時に、自立はしても、孤立しない。つまらない常識に囚われて人間らしく生きられない状況のほうが、よっぽど難病かもしれないねって教えられました。勘違いしないでほしい。障害者でもがんばってるから泣けるんじゃないです。下手すりゃ感動ポルノに成り下がる可能性がある題材だから僕は心配していたわけだけど、そんな心配を笑い飛ばしてくれる痛快な1本でした。

とあるシーンで、爆弾ジョニー演じるコピーバンドがオープンスペースでこの曲を演奏。歌詞の物語へのリンクもあり、素敵にハジけた映画全体の節目を作っていました。 

さ〜て、次回、2019年1月17日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『クリード 炎の宿敵』です。ついに来てしまいました。あの『ロッキー』シリーズに連なる『クリード チャンプを継ぐ男』の続編! 前作をコーナーで扱ってなかったんですよね。心して迎え撃つとしましょう。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

『シュガー・ラッシュ:オンライン』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2019年1月3日放送分
映画『シュガー・ラッシュ:オンライン』短評のDJ's カット版です。

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アメリカのとある寂れたゲームセンターに設置されたレトロなアーケードゲームの中で暮らすキャラクターたち。好奇心が旺盛なアクティブ・ガールにして天才レーサーのヴァネロペと、ゲームの中では悪役だけれど心優しきガタイのいいおじさんラルフ。ふたりは大親友です。ある日、レースゲーム「シュガー・ラッシュ」が故障するんですが、その部品はもう生産されていないとのこと。インターネット・オークションでなら手に入ると知ったふたりは、店に設置されたばかりのWi-Fiからネットの世界に飛び込み、部品探しの旅に出るのですが、そこには思いもよらない危険も待ち受けていました。
2012年に公開された前作『シュガー・ラッシュ』から6年。監督は前作から続投して、TVシリーズザ・シンプソンズ』、そして傑作『ズートピア』のリッチ・ムーア。アカデミーの前哨戦として注目されるゴールデングローブ賞では、『インクレディブル・ファミリー』『未来のミライ』『犬が島』など、このコーナーで短評した作品と並び、アニメ作品賞にノミネートしています。日本時間で今月7日の発表が楽しみな、ディズニーによる3DCGアニメ映画です。
 
ネットの世界に舞台が移るということで、ネットならではの小ネタ満載なんですが、予告でも登場していたように、白雪姫、シンデレラ、ラプンツェル、アナ、エルサなど、ディズニーのプリンセスたちが14人もお目見えするのが話題となっています。
 
続編ということで、前作を観ていない方は鑑賞に不安を覚えるかもしれませんね。基本的には特に深い予備知識がなくても楽しめる内容なので安心していただきたいのですが、ざっくりとテーマだけお伝えしておきます。ゲームというプログラミングされた世界で動くキャラクターが主体性を持ってはいけないのか?ってこと。僕たち人間もまた、社会において様々な役割が与えられています。もっと強い言葉を使えば、役割やふるまいが押し付けられることもある。それを乗り越えてはいけないのかどうかということを問いかけるお話だったと思います。たとえばラルフはゲームでは悪役だけど、ヴァネロペというわかりあえる友達がいれば、それでいいじゃないかという流れがありました。しんどい仕事があっても、世界はそれだけじゃない。世代や性別を越えた友情があってもいいなんて解釈もできる展開でした。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

今作で、ふたりの関係は次なる展開を迎えます。ここで効いてくるのが、ふたりの属性の違いです。年齢が離れていることで、友情というよりも親子に見えてくるんですよ。ヴァネロペは好奇心の塊ないたずらっ子。決められたコースを走り続けることに満足がいかなくなっています。対して、ラルフは前作で納得のいった自分の居場所とヴァネロペとの関係を維持したい。言わば、ラルフの保守とヴァネロペの革新が拮抗するわけです。それでも、心優しいラルフはヴァネロペのために特別なコースを作ってやったことが災いして、「シュガー・ラッシュ」は故障。ヴァネロペは役割と居場所を失うんですね。ふたりは親子関係だと僕は見立てましたけど、同じゲームの女子レーサーたちも居場所を失って、シューティングゲーム「ヒーローズ・デューティ」の女性キャラ「カルホーン軍曹」とフェリックスJr.のふたりが彼女たちを引き取ったら、子育てで一苦労というエピソードもありましたね。

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さあ、ラルフとヴァネロペ、この疑似親子はインターネットの中へ。この可視化されたネット社会が、はっきり言いますけど、この映画の一番の楽しみです。さすがはあの『ズートピア』を作り上げたひとり、リッチ・ムーア監督。今回もカオティックでありながら整理されていて見やすく、『レディ・プレイヤー1』的な小ネタ満載なので、何度も観たくなる。僕らが依存しているネットなので、あるある感が圧倒的。楽天AmazonSpotifyGoogle、eBayといったネット企業が実名で登場。Googleをゴーグル専門店だと勘違いしたり、eBayを聴き間違えてeBoyという男の子がいると思ってしまったり。ユーチューバー的におもしろ動画をバズらせてお金を稼いでみたり、いかがわしいポップアップ広告が出てきたりって、もう拾いきれません。ゲームも進化していて、猥雑な街をコース関係なく自由に走る「スローターレース」はゲーム「シュガー・ラッシュ」との対比もあって面白かったです。ヴァネロペがそこで憧れるシャンクという女性は、『ワイルド・スピード』に出てきそうな感じもありましたね。ここは、ヴァネロペが大人の階段を登ろうとしている、そのシンボルとして抜群でした。

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さらに、今やピクサー、マーベル、スター・ウォーズを傘下にしたディズニー帝国ならではのキャラたちも総出演。通底するのは、ネットやディズニーという巨大な虚構世界への風刺です。それをやってるのがディズニーというのが、懐が深いし、今っぽいし、余裕すら感じるし、とにかく最高です。特にプリンセスが一堂に会する楽屋シーンはやはり印象的でした。シンデレラはガラスの靴を砕いて武器にするし、白雪姫はポイズンってTシャツ着てるし、アナのTシャツには「JUST LET IT GO」って書いてあるし、もう大変です。しかも、単なる小ネタではなく、突然歌い出すミュージカルへのツッコミも入れつつ、ヴァネロペが子供から大人へ、そして自分の生き方を選択していくことになるきっかけにすることで、きっちり物語的な意味を与えています。
 
原題は『Ralph Breaks the Internet』です。お父さんなラルフは、娘のようなヴァネロペのために良かれと思って必死に行動するんだけど、それが裏目に出て暴走してしまいます。これは実際にネットでよくあることじゃないですかね。でも、ラルフはそこから学んでいきます。そして、ラストを迎える。具体的には言いませんが、ほろ苦い着地です。哀愁すら漂うんです。僕はそこに驚きました。ディズニーらしくないと思う人もいるだろうし。ただ、ネットの危険を描いてから、それでもネットの良さを見捨てず、現代的な親子の距離感、そして他者の尊重というところまで持って行ったことはとても評価できます。
 
インターネットの功罪と生き方の選択をテーマに、笑いと興奮をたっぷり盛り込んだ一級のエンターテインメント。ぜひ親子でご覧ください。


僕は吹き替えで観たので、主題歌の『In This Place』は、Julia Michaelsから青山テルマへと切り替わっていました。もうひとつ、Imagine Dragonsの既存曲がエンドクレジットで鳴るんですが、書き下ろしではないのに物語と適度にリンクします。カオティックな世界でどうバランスを保つのかを歌ったこの曲を採用するのは、なかなかセンスが良かったと思います。

 

さ〜て、次回、2019年1月10日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』です。難病ものということになろうかと思いますが、演技達者な大泉洋が笑いとペーソスをどんなバランスで混ぜてくるのか、確認してきます。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

イタリアの移民児童文学『ぼくたちは幽霊じゃない』書評

アルバニアから対岸のイタリアへ命がけで海を渡ったヴィキは,どんな困難なときも希望を失わなかった…(岩波書店サイトより)

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今年6月、イタリアは難民の人々を乗せたNGOの船『アクエリアス』の受け入れを拒否した。新聞等で目にされた方もいるだろう。ヨーロッパで移民・難民が社会問題となって久しい。本書は、命からがら故郷を後にした人たちが、イタリアに到着したあとどのように暮らしているのか、作者のファブリツィオ・ガッティが当事者へ取材し新聞に連載した記事を小説化したものである。イタリアでは2003年に、日本では『帰れない山』と同じく関口英子さんによって翻訳され、今年8月に岩波書店から出版された(レーベルは、海外のYA=ヤングアダルト小説を扱うSTAMP BOOKS)。

アルバニア出身イタリア在住の中学生ヴィキが、夏休みの宿題である作文に苦戦しているところから物語は始まる。タイトルは「古くて新しい世界―世界におけるヨーロッパ人、ヨーロッパにおけるEU以外の地域の外国人」。なんて難しいテーマなんだ、どうしてヨーロッパ人とEU圏外の人を分けるんだ?とヴィキと一緒に頭を抱えたくなるところへ「ぼくはヨーロッパ人なのかな?それとも幽霊?」という悩みが目に飛び込んでくる。私たちの驚きに応えるように、ヴィキは7歳のときの記憶をたどって語り始める。

 

アルバニアの祖父母との別れ、屋根もないボートでの渡航、イタリア南部から父親の待つミラノへの移動、再会、新しい暮らし。アルバニアのテレビで見たイタリアの暮らしと現実は、全く違っていた。しかし彼らに味方する大人たちと、「学校はすべての人に開かれる」と明記されたイタリアの憲法に守られて、ヴィキはイタリア人と同じように公立小学校に通い、自分らしくいられる場所をもつことができた。会話の描写が多く、まるで映画を観ているように、テンポよく読める。子どもたちの素朴な「なぜ?」「どうして?」という疑問に、両親や小学校の先生といった大人たちが、言葉を選んで丁寧に答えているのが印象的だった。陽気なイタリアのイメージを持つ人には驚きの内容ばかりだろう。けれど、イタリアに住む人たちがそれぞれの事情のなかで生きる力強さ、他人のために動く情熱、といった「人間の熱」を感じられることは確かだ。

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日本人にとっても「ヨソの国のこと」と無関心ではいられない。外国人労働者を積極的に受け入れていこうという法律が成立したからだ。家族と一緒に住みたい人も当然増えるだろう。残念ながら、労働環境の厳しさや文化の違いによる孤立感などから、行方をくらましてしまう人たちがすでに存在する。教育を受ける権利があるのに、学校へ行けていない外国人の子どもたちもいる。新たな幽霊を生まない、現実的な仕組みを日本は作っていかないといけない、と実感した。「旅に出るときには、なにかをあきらめる覚悟が必要だ」という、ヴィキのおじいちゃんの言葉には切なくなる。たとえ合法であっても、人情に頼るのは最終手段として、あらゆる覚悟をもってやって来る人たちを私たちも安心して迎えられるような社会にしたい。30歳くらいになっているであろう、本物のヴィキは、今もイタリアにいるのだろうか。

 

翻訳本の良いところは、当たりまえだが母国語で異国の作品を読めることだ。本書にはぜひイタリア好きの人以外にも、この効能を発揮してもらいたい。

 

(文:京都ドーナッツクラブあかりきなこ)

『アリー/スター誕生』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年12月27日放送分
映画『アリー/スター誕生』短評のDJ's カット版です。

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歌の才能に恵まれ、歌手として生きていきたいと願いながらも、業界では容姿が水準に達していないなどと言われてきたアリー。ウエイトレスとして働きながら、小さなバーでステージに立ち続けていました。ある日、彼女は世界的なカントリー・ロックスターであるジャクソンに見初められます。ふたりは共に曲を作って一緒にステージに立ち、アリーはそのままショービジネスの世界で一気にその才能を開花させて人気を博していくのです。一方、ジャクソンは持病である聴覚障害、アルコール依存、ドラッグの使用、そして自分の出自にまつわる精神的な不安から、アリーとは逆にだんだんと身を持ち崩していきます。ミュージシャンとして、そして恋人ととして、ふたりはどうなるのか。
ハリウッドの映画業界を舞台にした1937年のオリジナル版から、1954年、そして舞台を音楽業界に移した1976年と、これまで3度製作されてきた物語が、40年以上の時を経て4度目のリメイクです。原題はいずれも『A Star Is Born』。主演はご存知レディー・ガガブラッドリー・クーパー。そして、メガホンもクーパーが取っている他、彼は製作と脚本にも名前を連ねています。もともとは7年前にクリント・イーストウッドが監督をしてビヨンセを主演にするという企画としてスタートしたものの、紆余曲折の後、現在の座組に落ち着き、昨年春に撮影がスタート。これが、ブラッドリー・クーパーの初監督作となります。
 
クーパー、ガガ、そしてカントリーの大御所ウィリー・ネルソンの息子ルーカス・ネルソンが中核となって作り上げたサウンド・トラックは、全米・全英のチャートを含む各国で軒並み1位を獲得。映画ではアカデミー賞、音楽ではグラミー賞をうかがう、この冬一番の話題作と言っていいでしょう。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

前回のリメイクから40年以上経っているので、これが初めての「スター誕生」というリスナーが多いと思います。映画を観れば、これがいかに普遍的な話かということは理解できるし、その分、王道というか、ある程度は物語の行方も想像できるものです。それだけに今改めて映画にする難しさがあったことでしょう。企画が具体的に動き出すまでかなり難航したという事実がそれを裏付けています。上っ面をなぞるのではなく、いかに現代的に説得力を担保できるかが大事になってくるわけですが、その点でブラッドリー・クーパーレディー・ガガというコンビはとんでもない偉業を成し遂げたと僕はひっくり返りました。
 
先ほどまとめたあらすじからもわかるように、これはアリーだけの物語ではなく、あくまでジャクソンとのバランスですべてが成り立っています。アリーは右肩上がりに知名度を上げ、ジャクソンは右肩下がりに落ちぶれていく。スターにはスポットライトが当たるもの。本人の輝きが増せば増すほど、その人の輝きに負けじとばかり、スポットライトはより強く当たるもの。その光が強くなればなるほど、それによって生じる影もより濃く暗くなります。この物語は、アリーとジャクソンの光と影、その明暗のコントラストがどう逆転していくのかを克明にスクリーンに映し出します。その意味で、邦題はジャクソンを無視していて、僕にはどうもいただけないんですよねぇ。ま、措いときましょう。

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クーパーとガガのタッグがなぜこうも成功したのかと言えば、それはふたりの実人生がどうしたってオーバーラップするからです。ガガもアリー同様、クラブダンサーからフックアップされたわけだし、クーパーはアルコール依存を経験しています。そんなふたりが文字通り心身ともに役にのめりこんでいきます。一緒に作曲し、一緒に歌う。サウンド・トラックはすべて脚本と見事にシンクロしています。クーパーは音楽経験がなかったにも関わらず、ギターと歌唱のトレーニングを連日受けたと伝えられていて、ライブシーンは観客をCGにせずに大量のエキストラを動員。場末のスーパーの駐車場で深夜ふたりで共有した歌が初めてライブで披露されるシーンでは、僕は鳥肌を通り越して、思わず身震いしながら涙を流してしまいました。
 
たとえばテイラー・スウィフトが好例だと思いますが、カントリーからブレイクすると、ダンサーを従えてポップス路線に転向する。今作でもそんな流れがありました。ジャンルとしてのポップスを軽く見ているんじゃないかっていう批判がアメリカでは一部上がっているようです。僕も実は映画を観ながら、ちょっと首を傾げてしまった部分もあります。でも、アリーは自分を売り出す若いプロデューサーに対して毅然と振る舞って、決してマリオネットにはならないという姿勢を示しますよね。映画が進むにつれ、彼女は明らかに表現者として成長していくわけです。その意味で、僕はむしろ現代的な女性アーティストとしてのあり方を提示できていると思います。
 
序盤にジャクソンが歌う『Maybe It’s Time』という曲があります(上の予告動画で最初に流れるもの)。「古いやり方を葬る時が来たようだ」という歌詞。彼は古いミュージシャン像を体現していたとも言えますね。今回のリメイクでは、ジャクソンのバックグラウンドがしっかり示唆されたことでやるせないし悲しみが増すんだけど、理由はどうあれ、子どもっぽくて酒浸りでダメダメ。なんだけど、どう見たってかっこいい。かっこいいんだけど、落ちるところまで落ちる。その落ちっぷりは目を覆わんばかりです。何もそこまでってくらい。でも、だからこそ、ふたりの愛が哀しくも燃え上がって、ある種必然的なラストを迎えます。これも、古い表現者像を葬る『Maybe It’s Time』ってことかなと僕は解釈しつつ、そこまで含めて現代的なテーマにちゃんと落とし込めています。

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アメリカン・スナイパー』でイーストウッドの薫陶を受けたクーパー監督。手持ちカメラのぶれ。極端なクロースアップ。ガガの脱ぎっぷり。場面ごとの色使いの巧みさ。説明過剰にならない抑制のきいた演出。どれを取っても、立派でした。映画全体を俯瞰してみれば、クーパーという映画人のスター誕生です。あっぱれでございました。
 
って、我ながら褒めすぎたかなという思いもあるんですけど、それほどにクーパーに惚れ、彼の今後の活躍を願ってファンファーレを鳴らしたかったんでしょうね、僕は。

さ〜て、次回、2019年1月3日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『シュガー・ラッシュ:オンライン』です。「ディズニーがここまでやる!?」という噂は耳にしているし、予告でその片鱗は確認済み。期待が高まってきました。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!