『劇場版おっさんずラブ 〜LOVE or DEAD〜』短評
なんて具合に、テレビよりも映画をよく観ている人には正直しんどいシーンが多いのは間違いないんですが、実はそこも計算のうちというか、製作陣はこれまたあっけらかんと開き直って撮っているようにも感じました。「とりあえずスケールアップしときました(笑)」みたいな、「すべてひっくるめてのコントでござい!」っていう感じ。とりわけクライマックスの誘拐&救出劇なんて、コントそのものじゃないですか。なんですか、あの時限爆弾のふざけた設定は? 現在地を巡る騒動は? だいたいがポスターでも、燃え盛る炎がハートの形してるんだもの。みんなリアクションが過剰だしさ。っていう意図もわかるんだけど、僕としては、あのサウナシーンのようなバカっぽいけど、それが故に愛おしいやり取りをどんどんやってほしかったです。むしろ、「劇場版なのにスケールアップしませんでしが、何か?(笑)」ってな方向で、彼らのちまちました恋愛模様を生活とともに見せてほしかった気はします。
と、主に演出に触れました。同様に、脚本にも色々言いたいことはありますが、そろそろ時間いっぱい。新キャラのミスリードのうまさとか、旧キャラへの愛情のなさとか、やはり良い面と悪い面がありますが、ドラマから引き続いて、こうしたテーマの作品に多くの人が接するという事態そのものは僕は大歓迎していますので、ぜひあなたも劇場でご覧ください。
さ〜て、次回、2019年9月12日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』です。さぁさぁさぁ! やってまいりましたよ、タランティーノ監督最新作。しかも、ブラピとディカプリオの顔合わせ。そのうえ、映画業界の裏側を描くってんですから、期待が高まらないわけがない。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!
『ロケットマン』短評
演出の決定的な違いは、こういうことです。『ロケットマン』は自分語りなんです。冒頭、アルコール依存症のグループセラピーの部屋へと悪魔モチーフの奇抜なステージ衣装に身を包んで入ってくる。というより、乗り込んでくる勢い。他の患者やセラピストと車座になって、落ち着きなく自分の人生を振り返っていく。つまりは、長い回想という構造を採用しているわけです。こうすることで、視点は主観となり、客観的な事実や、時系列からわりと自由になれるという利点があります。『ボヘミアン・ラプソディー』だと、史実と違うとか、順序や年号がおかしいといった声がファンから上がりましたが、『ロケットマン』の場合は最初から主観なんで、そんなことを意識して集中できなくなる人はいないんじゃないかな。これは英語のキャッチコピーですけど、based on true fantasyというフレーズが使われているんです。普通は、based on truthですよ。「史実に基づく物語」。ところが、これは「実在のファンタジーに基づく」ってこと。面白い表現ですよね。そして、これがまさにその通りというミュージカルになっています。
『ドッグマン』レビュー
どうも、僕です。野村雅夫です。現在公開中というイタリア映画をまた紹介できることがとても嬉しい。しかも、強烈なインパクトを残す作品。僕も公式サイトに以下のようなコメントを載せている『ドッグマン』です。今年4月、イタリア映画祭2019の告知を兼ねてTBSラジオ アフター6ジャンクションに出演した際にも軽く話題にしていましたが、今回はオールドファッション幹太がレビューを書いてくれました。以下、映画とあわせてお楽しみあれ。
カンヌ国際映画祭の最高賞であるパルム・ドールに次ぐ審査員特別グランプリを『ゴモラ』(Gomorra/2008年)と『リアリティ』(Reality/2012年)で二度受賞しているマッテオ・ガッローネMatteo Garrone監督。『剥製師』(L’imbalsamatore/2002年)が2003年のイタリア映画祭で上映されたのを見たときから、チクチクといつまでも後に残るトゲのような不思議な後味のサスペンス映画を撮らせたらすごい才能を発揮する若手監督(当時30代なかばだったと思います)が出てきたなあと思っていたら、その後のカンヌでの揺るがぬ評価を経て、気がつけば2015年のグロくて美しい『五日物語−3つの王国と3人の女−』(Il racconto dei racconti)で世界的に活躍する大監督になっていた。
マッテオ以前、イタリア映画のガッローネといえば、(スペルはlとrが違うけど)サイレント歴史劇代表作のひとつ『ポンペイ最後の日』(Gli ultimi giorni di Pompei/1926年)や、50年代に八千草薫はじめ宝塚歌劇団をチネチッタに呼んで撮った『蝶々夫人』(1954年)の監督カルミネ・ガッローネと決まっていた(繰り返すが、こちらはGallone)。ところがいまや日本で一番知られているのは、現代イタリア映画の旗振り役とも言えるマッテオ・ガッローネであることは誰も否定しない。そんな押しも押される大監督の一人となったマッテオ・ガッローネ監督がまたまたとんでもない作品を届けてくれました。それが今日紹介する『ドッグマン』(Dogman/2018年)です。
主人公のマルチェッロは海岸の町で犬専用トリミングサロン「ドッグマン」を営んでいる。サロンとは名ばかりで、ずっと昔の精神病院か冴えない研究をしている実験室を思わせる、薄汚れたこの町にお似合いの仕事場だ。しかし彼は、そこでの仕事を愛している。客である犬たちや飼い犬ジャックを愛している。別れた妻との間のひとり娘をこよなく愛している。そして仕事終わりにバールで仲間たちとたむろする時間、友人とサッカーボールを追いかける時間を愛している。
ところがそんなマルチェッロのささやかながら愛情に満ちた日常に暗い陰を落とす存在が冒頭から登場する。ドラッグ(コカイン)と悪友シモーネ。
マルチェッロ自身がドラッグをやめたがっている素振りはなく、むしろ積極的に楽しんでいるようだ。シモーネについては、マルチェッロの友達という言葉は誤りかもしれない。あるいはマルチェッロは、シモーネにとって単なるドラッグの共有元で、暴力でねじ伏せて言うことを聞かせる下僕としか思っていないようにも見える。それでもマルチェッロは、ドラッグと手を切らないようにシモーネとの関係もズルズルと続けてしまう。友情のカスのようなものが、二人の腐れ縁にハサミを入れることを拒ませる。
それでもひとつのできごとをきっかけに噛み合った破滅の歯車は加速度的に回り始め、マルチェッロは自ら突き進むように、あるいはどうしようもなく引き摺り込まれるようにある計画を実行に移す。
マルチェッロを演じるマルチェッロ・フォンテがとにかくすごいです。そして言うまでもなくそんなマルチェッロ・フォンテを(どす黒く)輝かせたマッテオ・ガッローネ監督の演出手腕はキレてます。事実、脚本を固めすぎずにフォンテはじめとする演者たちと話し合いながら、共同作業として撮影を進めていったのだとか。
フォンテの演技は「演技」というにはあまりにも生々しく、娘に微笑み返す父親の歪んだ笑顔、暗闇の中でニヤニヤ笑っている顔、呆然と立ち尽くす無表情、無意識の顔面の痙攣、誰にも届くことのない虚しい叫び、そうしたひとつひとつの表現が、まさに冒頭「いつまでも後に残るトゲ」と書いたように、何度も夢の中でよみがえりそうで、本当に怖いです。
そしてそんな鬼気迫るマルチェッロ・フォンテの演技は、カンヌで主演男優賞という誰の目にも明らかな評価を獲得しました。今も昔もイタリア人俳優の代名詞であり、カンヌ男優賞の先輩であるマルチェッロ・マストロヤンニやヴィットリオ・ガスマンとは違う、(そして直近で受賞した少し年下のエリオ・ジェルマーノとも違う)イタリア映画史にいつまでも残る(トゲと呼ぶにはあまりに素晴らしい)存在感を示したと思います。
さらに演技賞のノミネートがあるすれば、シモーネを演じたエドアルド・ペッシェも良かったのですが、あえてジャックほか無名の犬たちを忘れることができません。むき出しの牙やCGかなと思ってしまうほどの巨体、檻の中から聞こえる鳴き声、マルチェッロの「アモーレ」という呼びかけに対する無関心など、この映画にはじめから終わりまで漂う不吉な臭いはまちがいなく彼らが作り出したものです。ヴィットリオ・デ・シーカの『ウンベルト・D』(Umberto D./1952年)以来ひさしぶりに、犬に演技賞をあげたくなる気持ちは、見た人にはわかってもらえるはず。
マッテオ・ガッローネの映画の「画作り」は『リアリティ』と『五日物語〜』でキャリアの頂点といっても良いほどに実験し尽くしひとつの完成形を見ますが、『ドッグマン』ではそれ以前の『剥製師』や『ゴモラ』に近い形を採用している印象です。つまり被写体にいやらしいほどにつきまとう手持ちカメラと、冷酷な固定カメラのロングショットの合わせ技。ただ、役者の演技と「ドッグマン」周辺の不毛な風景との化学変化で、その切れ味は成熟からさらなる洗練の領域に到達しているんじゃないかな(このロケ地は『ゴモラ』の時に見つけたのだとか)。違う撮影監督を起用しても現れる「ガッローネらしい映像」というのは、やはり彼の持ち味・彼の才能によるところが大きいのではないでしょうか。
マッテオ・ガッローネは最新作でなんと「ピノッキオ」を取り上げるのだとか。しかも、マルチェッロ・フォンテも起用されているようです。どうしてもロベルト・ベニーニ監督作品を思い浮かべてしまうのだけど、まさか、フォンテがピノッキオ役ってことはないよね? それ、最高なんですけど。
文:オールドファッション幹太
『ダンスウィズミー』短評
監督・脚本は矢口史靖。2001年『ウォーターボーイズ』のヒットで一躍有名となり、近年も『WOOD JOB! 〜神去なあなあ日常〜』は傑作でしたし、このコーナーでは2年前の前作『サバイバルファミリー』を扱って僕も好意的に評価しました。
物語が終わって、エンドロールで流れるのが、この大名曲。オフショットってな感じで役者たちが集ってみんなでこの曲でノリノリ。ま、打ち上げで盛り上がる調子なんだけど、この曲については主人公静香が小学校時代のトラウマを引きずっていたという設定からも、頷けるチョイスかなと思います。
さ〜て、次回、2019年8月29日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ロケットマン』です。来ましたよ、僕のこの夏の大本命が!! 『ボヘミアン・ラプソディー』のデクスター・フレッチャー監督が、今度はエルトン・ジョンを題材に。エルトンはなぜあのド派手な格好でステージに上るのか。エルトンの歌を口ずさみながら劇場へ向かうことにします。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!
『ライオン・キング』(2019)短評
さ〜て、次回、2019年8月22日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ダンスウィズミー』です。ミュージカル続きとなりましたが、こちらはミュージカル嫌いな女性が主人公ということで、さすがは矢口史靖監督だけあって、いきなりひねりがありますね。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!
『ようこそ、大統領!』をNetflixで観てみよう
どうも、僕です。野村雅夫です。ここ20年ほど、日本で公開されているイタリア映画は、主にゴールデンウィークのイタリア映画祭でまずお披露目され、その中のいくつかが劇場公開、そしてソフト化という流れがありました。ただし、数年経って廃盤になったDVDは入手しづらくなったり、そもそも公開から漏れている作品もあったりというのが実情でした。
Netflixなどの動画配信サービスは、そうしたイタリア映画をめぐる状況をこれから変えていくことになるやもしれない。オリジナル・コンテンツもありますしね。ま、これは別にイタリア映画に限ったことではないわけですが、とにかくそう思っています。
そこで今回は、5年前のイタリア映画祭で上映され、今のところはNetflixで独占的に観ることができる映画『ようこそ、大統領!』について、クルーラーこと有北雅彦くんが文章をしたためてくれました。どうぞ!
いきなりだけど、イタリアにこんなバルゼッレッタ(笑い話)がある。
ピエリーノがお父さんに聞いた。
「パパ、政治って何?」
「よし、例を挙げて説明してやろう。お金を稼いでいるパパは資本家というものだ。お金を管理しているお母さんは政府だな。メイドさんは労働者。やがて社会人になるお前は国民だ。生まれたばかりのお前の妹は国の将来だ。わかったかい?」
その日の夜中、妹が泣き出した。ピエリーノはお母さんを起こしに行ったが目が覚めない。そこでメイドの部屋に行くと、お父さんがメイドとベッドインしていた。ピエリーノは言った。
「政治というものがよくわかったよ。国の将来が困ってるというのに政府はバカみたいに寝てる。資本家と労働者は義務を果たさないで遊んでいて、国民が助けを求めても誰も相手にしてくれない。だからイタリアはこんなにメチャクチャなんだ」
こんなふうに、しばしばイタリアの政治は笑い話のネタになる。イタリア映画『ようこそ、大統領!』(Benvenuto Presidente!)は、そんなイタリアの政界を舞台にしたコメディー映画。2014年のイタリア映画祭で日本で公開され、現在はNetflix (ネットフリックス)で観ることができる。監督は『これが私の人生設計』などでも有名なリッカルド・ミラーニだ。
ピエモンテ州のとある田舎の村で図書館職員として働く中年男、ジュゼッペ・ガリバルディ(愛称ペッピーノ)。各政党の政治的駆け引きで大統領の選出が困難を極める中、運命のいたずらで彼が大統領に選出されてしまう。法令や様式にも疎く、いかにもな田舎の陽気なオッサンである彼だけど、持ち前の誠実さと人柄で、さまざまな政治的課題に取り組んでいく。
多数の政党が入り乱れる現実やマフィアの暗躍といった、イタリアの政治における問題点を提示しつつ、彼が活躍するさまが痛快だ。裏社会の刺客にもひるむことなく、ブラジル大統領や中国の首席などとも個人的な人間関係を築いて、壊滅的な債務処理問題を次々と成功させていく。人と向き合って深く関わるからこそ、問題を解決できるというメッセージにはとても共感できる。
日本ではいま、「凪のお暇」が人気。空気読んでばかりで思うように振る舞えないOL大島凪が、空気を読みすぎたストレスが爆発し、仕事も恋もすべての人間関係を断ち切って人生をリスタートさせる……というストーリーだ。第22回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞など受賞、黒木華主演で現在、ドラマ化もし絶好調のようだ。
「凪のお暇」では、ヒロインの凪と、その元カレ・慎二、このふたりの視点をメインに物語が進行する。現在進行形の状況に加えて、過去にふたりがつきあっていた時、ひとつの物事に関して二人がどうとらえたか、どう感じていたか、というのがとても緻密に描かれる。恋愛ドラマにすれ違いは必須の要素だけど、この物語では特に、「空気読みすぎ」「他人と深く関われずに表面的なつきあいをしてしまう」という現代の病が、徹底的にふたりを遠ざけてしまう展開になっている。「ごめんね」「誤解なんだ」の一言を言えれば、あの物語は次回にでも完結するんじゃないかな。
現代は常にSNSに監視されてる。他者の視点、他者の評価をダイレクトに感じられる環境が整ってるんだね。その弊害で、空気を読みすぎる、道を外れるのを怖がる、といった病が特に若い世代に蔓延してると感じる。
その空気は、『ようこそ、大統領!』で描かれる、多数の政党の思惑と裏社会が入り乱れ、閉塞感が蔓延するイタリアの政治に通じるところがある気がする。ペッピーノは人と真っ正面から向き合うことでその状況を打開した。その心のあり方は、日本の社会でも今、必要とされてるような気がするね。
そういえば、かつて女性スキャンダルに事欠かないイタリアの元首相、シルヴィオ・ベルルスコーニについて、こんなニュースが報じられたことがあった。
【美人議員をナンパして妻にキレられ、全国紙に謝罪文を発表】
「世界で最も美しい閣僚」とも評されたマーラ・カルファーニャ(写真)を「わたしが未婚なら、すぐにでもきみと結婚する」などと口説き続けていたことに、夫人の堪忍袋の緒が切れ、夫人への公開謝罪文を発表する騒ぎになった。バルゼッレッタを超えた醜聞を提供してくれるところが、さすがベルルスコーニだ。
親愛なるヴェロニカへ。許して欲しい。こうやってみんなの前で謝っていることが、きみへの愛の証だ。仕事、政治、様々な問題、出張…プレッシャーの毎日だった。クレイジーな日々だったんだ。きみにもわかるだろう。きみの尊厳は、そのこととは一切関係がない。私の口が軽はずみなジョークをまくしたてる間にも、私はきみの尊厳を第一に考えている。でもこれだけは信じてほしい。プロポーズはけっしてしていないということを。シルヴィオより。
ここまでスケールのでかい「ごめんね」になると、話が終わるどころかふくらみすぎて大変だ。彼にはもうちょっと空気を読んでもらいたいね。
文:有北雅彦