かくして、ポンデ雅夫の命により、チネチッタ・スタジオの内部に設置されている映画の大学ヌクトゥ(NUCT=Nuova universita` del cinema e televisione)へ潜入することになった私。
ヌクトゥとは直訳すれば、「映画とテレビのための新しい大学」といったところか。大学と言っても、在学期間は2年なのだから、専門学校と言ったほうが正確かもしれない。
イタリア映画の低迷が続いていた90年代半ば、21世紀の新時代の映画人を養成すべく、新規開設されたのであった。
私が入学した2005-06年度はちょうど開校10周年にあたるらしく、それを機に授業のシステムにも新たにするということだ。
監督、撮影、編集、脚本、俳優といった各専門のコースの他に、映画言語学、イタリア文学、美学などの一般教養の授業を受けて試験にパスすると、ローマ大学3回生に編入ができるというシステムだ。これがこの大学の新しい売りのようだ。
そんなことよりも、私のイタリア語力で入学を受け入れてもらえるのだろうか?
これは大きな疑問だった。学生の頃に第2外国語として学んだ記憶はあるけれど、旅行会社の添乗で多少は使ったことがあるけれど、そんなの所詮はままごとみたいなもんではないか。疑問は容易に不安となり、不安は容易に焦燥にかわった。出国前、必死にイタリア語の勉強に明け暮れる私に向かって、ポンデ雅夫はこう言った。
「今さらそんなにがんばってもねぇ。どうにもならないんじゃないの?まぁ、何とかなるでしょ」
よく見ると、彼は私が食べ差しで冷蔵庫に入れておいたワラビもちをぱくついているではないか。
彼にはぜひとも一度痛い目にあってほしい。
9月下旬、ローマ到着。
入学するのに試験というほどのものはないが、面接を実施するらしい。
胸が高鳴る。チネチッタ・スタジオへの再潜入を試みるわけだ。
しかも、今回はれっきとした目的を持って。
「私はここに入学する学生で面接があるんです」
たどたどしいイタリア語で告げる私に、門番はあえなく首を横に振った。
なぜだ?
私のイタリア語が通じてないのか?
私がいかがわしいのか?
何なのだ?
6年前のあの苦い思い出が頭をよぎる。 (1月25日参照)
気がつくと、彼は黙って詰め所を指差している。
詰め所で門番に今しがた言ったことを繰り返してみた。
すると「予約はとっているんですか?」と聞き返されてしまった。
虚を衝かれるとはこのことだ。
予約が要るなんて聞いてない。考えてもみなかった。
勝手に大学の事務所に行けばよいと思っていたのだ。
しかし、大学とは言ってもスタジオの中。
まだ部外者の私が入るには予約が要るということか。
完全に出鼻を挫かれてしまった私。
「いいえ」と小さな声で言うと、彼は電話番号が書かれた小さな紙切れを渡し、
「そこの公衆電話からかけてみるといい」と優しく一言。
おお、何てイカシタ門番だ。
この門番最高!
礼を言うと、すぐさま電話を試みてみる。
しかし、ちょうどお昼休み時間だったのか、電話は一向につながらない。
こうなったら意地でも帰らないぞ。
30分ほどねばった。
意地でも帰らないとは思いつつも、いきおい不安が私を襲う。
もう3時だ。
昼休みにしては長すぎる。どうなっているんだ。
これが最後の1回と決め込み、リダイヤル。
するとどうだろう、すぐにつながったのである。
それはそれで困る。
待たされすぎたせいで、気が緩んでしまっていたのだ。
何たる失態。
もつれる舌で、前日必死に書いてきた文章を読み上げる。
どうやら私の意向は伝わったらしい。
事務員も話し終わるまで静かに聴いてくれていた。
そして、私はそのとき最も言いたかったことを事務員に告げた。
いや、告げようとした。
「で、今チネチッタの門のところまで来ているんですけど」
私がそう言い出そうとするよりも一瞬早く、彼女が私の言葉を遮った。
「OK、ファンシーゆず。4日後の土曜日の10時に来て!」と。
何々?
「もうここまで来とるけん、中に入れてくれてもよかたい」
とっさに脳裏に浮かんだ言葉は、残念ながらイタリア語ではなく、郷里の長崎弁だった。
さすがにそのまま言うわけにはいかない。
そのときの私には「スィ(はい)」と答えるのが精一杯だった。
この時ばかりは長崎弁を呪った。
何もこんなときに登場してくれなくても良いのに。
なかなか自分の出自は消せないものである。
今度こそはと思っていたのに、2度目の挑戦も失敗に終わってしまった。
自宅に帰り、ポンデ雅夫に顛末を話すと、彼はにやにやしながらこう言った。
「もうちょっとイタリア語を勉強しとけば良かったんだよ、付け焼刃でもさ」
このオタンコナス!!