記憶が正しければ、あれは僕が大学6年生だったころ、イタリア語専攻の3、4回生を対象にしたとある授業だ。クラス全員がそれぞれにイタリアの地方紙(ネット版)を読み、各人が毎週トピックを持ち寄って記事の要約とコメントを発表する、という形式で、15人前後の学生が集う授業は、毎回驚くばかりの豊富なネタを提供し、イタリア語との苦闘に頭を抱えながらも、同時に腹を抱えて笑うこともしばしばだったのを覚えている。
その前年に初めてイタリアに遊び、中でもサルデーニャ(Sardegna)での自転車旅行で得がたい経験を多く積んだ僕は、この、シチリアに次いで2番目に大きな島サルデーニャ(シチリアと同様、島であり、州でもある)の新聞「ルニオーネ・サルダ」(L’Unione sarda)を選んだ。
結論から言えば、この選択は大正解だった。新聞がこんなにも面白いものであると思ったのは後にも先にもこの時かぎりと言ってもいい。記事は実に多岐に渡った。村の祭りで供された料理がどれほどすばらしかったか、その料理はどこのおばさんが作ったのか。なぜ、町の若い娘たちは地域活性のために文字通り「ひと肌脱いで」カレンダーを作ったのか(あと一回の僕のクリックで、そのカレンダーは日本にも届くところだった)。夜の歩道でつまづき怪我をした老婆が自治体を糾弾し(なぜ街灯がないのよ!)、学校の水道が出ないから困っていると少年は町長に切々と訴えた(トイレにも困るんです!)。狩猟解禁の季節になれば、山中での銃強奪事件を取り上げる記事はあとを絶たず(この島にはまだ山賊がいるのです、たぶん)、年金受給のために長すぎる列を郵便局の窓口に作る老人たちの悲痛な声が紙面をにぎわす(標高差の激しいサルデーニャでは、お年寄りにとって最寄の郵便局はけっして近くない)。本来であれば頭を悩ませるはずの予習の苦労は、この島が提供する幅広い話題とその地域性によってほとんど楽しみに変わり、めでたくこの授業で、それまで僕の成績表には無縁だった「A」が記されることになった。
新聞一面を飾る世界規模、国家レベルの記事から見えてくる世の中があることはよくわかる。反面、小さな小さなできごとや取るに足らない三面記事から見えてくる世間もきっとあるはずだ。サルデーニャの新聞が教えてくれたのはそういうことだ。イタリアのような「小さな国の寄せ集め」で成立しているような国家を総論化する試みが例えばあったとして、そんな大それたイタリア論が間違いなく取りこぼすであろう些細なできごと、目を凝らさなくては見えないようなわずかなきらめき、耳を澄まさなければ聞こえないかすかなささやき、そういう小粒ながら雄弁で魅力的なできごとたちを僕は愛していたい。ただでさえ今の世界とそこでの騒がしいできごとは少し、僕にはデカすぎるのだから。
前置きがずいぶん長くなってしまったけども、ボローニャから地理的にも時間的にも遠く離れて生きている今、ますます「今のボローニャ」が気になってきた。心理的、心情的には近くにいたいのだ。そんなときに、前記のイタリア語の授業を思い出したのである。あの頃の僕は、楽しかったサルデーニャをさらに知りたくて、必死で辞書を繰っていたはずだ。ならば今こそ、ボローニャの新聞を読めばいい。大阪にいながらにしてボローニャの新聞が読めてしまう時代である。こういう便利さは利用しない手はない、そう考えるのは「世界はデカすぎる」と書いた数行前の僕に反するだろうか。否。インターネットは、デカすぎる海に浮かぶ小さな宝島を目指すための航海術である。「情報の氾濫」がほとんど枕詞のようにミーニングレスになってしまった今の時代にあって、必要なのは GPS携帯ではなく、メディアの荒波にも飲まれない素朴だけれど丈夫な羅針盤、すなわち「知りたい」というその思いである。今の僕は、今のボローニャを知りたいと思う。「今、ボローニャでは何が起こっているのか?」、このことが今日から始まる連載の指針となる。
ボローニャを知るために、ボローニャの地方紙「イル・レスト・デル・カルリーノ」(Il Resto del Carlino)と、一般紙の「ラ・レプッブリカ」(La Repubblica)の地方版を読むことにした。いずれもボローニャとその近郊都市のできごとをメインに取り上げている。試しに、数ページ繰ってみよう。試航行に出発だ。
最近でもっとも胸ときめいたのは、7月21日のレプッブリカ紙にある「川から明らかになる街の姿 “La citta che si svela attraverso i suoi fiumi”」(訳は筆者)という見出しだ。ボローニャを少しでも知っている人は考えるかもしれない、「ボローニャに川なんかあったっけ?」。確かに、フィレンツェのアルノ川やローマのテヴェレ川のような河川はボローニャの旧市街地を流れてはいない。街の西側のずいぶん行ったところにレーノ川というわりと大きな川が流れていることを知っている人も多くはあるまい。そもそも、この見出しによれば、ここでいう川は複数あるらしい(「川」という単語が複数形なのだ)。実はこの「川」、ボローニャ市内にめぐらされた運河のことで、記事は夏の盛りに催された運河イベントを取り上げていたのである。前小コラム『シネマテークにしねまっていこ』の第14回でも取り上げた、今もボローニャの道々の下を流れる隠れた運河だ。19世紀ごろまでは物流の要であり、農業用水としても活用されたこの運河を、この夏を利用して楽しみつくそうという企画である。昼夜の運河下りあり、運河めぐりサイクリングあり。垂涎の催しである。
「ボローニャに普及している複雑な水のシステムをより良く知るためには、歩き回ったり、自転車にまたがったり、あるいはボートで漕ぎ出すなりして、自ら動くことが大切なのです。“Per conoscere a fondo l´esteso e complesso sistema delle acque bolognesi occorre muoversi a piedi, in bici o in gommone”」(訳は筆者)という主催者の弁は、「じっとしていては何も知ることができないよ」というメッセージにも聞こえ、新コラムを始めようとしていた僕は大いに励まされた。
ちなみに余談ではあるが(余談ではあるが見過ごせない)、ボローニャ市内にめぐらされた運河の本流であるレーノ川(カザレッキオ・ディ・レーノ市)では、8月9日に69歳の女性が飛び込み自殺を図っている。しかし、通りがかったジャン・ルイージ・サッソリ氏(67)とアレッサンドロ・ブレヴィリエーリ氏(61)によって救われている。3人が橋の欄干越しに放せ放さぬの一幕を演じているときに、パトロール中の警察が介入し、女性は病院に送られた。外傷はないものの、ひどく取り乱した様子だと言う。
その他にも、8月2日には、恒例行事となった1980年8月2日の列車爆破テロ事件の追悼デモが行われているし、最新のニュースでは、僕が暮らしたサラゴッツァ通り(via Saragozza)のパラッツォ・アルベルガーティ(Palazzo Albergati)が全焼する火事が起きている。この火事では、消火栓がアスファルトで埋められていて使えなかったという消防士の証言もあって、物議をかもしているようだ(レプッブリカ紙、8月11日)。
時にひとつのニュースを掘り下げたり、あるいは複数の三面記事をモンタージュしたりして、今のボローニャがパズルの図案のように浮かび上がることを念頭に置いてはいるけれども、深追いや捏造によって僕の作り上げた「ボローニャ像」を読者諸兄に押し付けることは意図していない。むしろそんなちっぽけなイメージは木っ端微塵粉々にして、そうしてできあがった「ボローニャのかけら」の数々を愛でることを、このコラムの喜びとしていたい。