翻訳とは「同じことを他の言語で言うこと」だそうだ。そう言われてみると、翻訳という作業は言葉に特化したものに思えてくるが、例えば、前回扱った小説を映画化するというようなことだって、言ってみれば文字で書かれた内容を映像に翻訳しているわけである。さらには、自分の頭の中にある考えや感情を文字にして表現することだって、自分の気持ちの翻訳と言えるかもしれない。それを現実世界で具現化してくれる媒体が文字でなく、音楽、彫刻、絵画、演劇であるにせよ、広い意味では、すべての表現活動は翻訳であると言えるかもしれない。そう考えてみるとわかりやすいのだが、翻訳には既存の答えなど用意されていない。媒体?上での表現Aを媒体?上で翻訳する場合、表現Aをよく理解した翻訳者が、媒体?上で同じ表現を一からつくり出さなければならない。しかし一からつくり出すわけだから、当然同じものにはならない。そこには表現Aによく似たものが完成する。というわけで、基本的に翻訳者は、自分の表現をオリジナルにどれだけ近づけられるかということに苦心するのである。例えば、音楽の世界では、頭の中で思い描いた音をいざ現実のものにしようとすると、これがなかなかに難しい、ということがよくある。頭の中で自由にイメージできる音とは違い、現実に実際出せる音にはさまざまな制限があるわけで、ゆえにこのような困難が生まれるのである。つまり翻訳とは、オリジナルの表現に従いながら、さまざまな制限下で行われる自己表現なのだ。
そんな考えを持って、日本文化会館に務めるパオラといっしょに俳句の翻訳作業を行った。俳句といってもイタリア人が書いた俳句に日本語訳をつけるというもの。作家ティツィアーナ・コルッソ(Tiziana Colusso)が編集長を務めるネット文芸誌『フォルマ・フルエンス』(Forma Fluens、Click!)で俳句特集が組まれ、そこに体裁上日本語も載せたいということらしい。日本の俳諧に対する興味は、西洋でも過去、エズラ・パウンド(Ezra Pound)やロラン・バルト(Roland Barthes)などによって示されており、現在、イタリアの文学関係者の間では定着した文化となり、俳句コンクールなども開催されている。こちらで
見られる雑誌上では、フォントにばらつきがあってなんだか編集が適当なのだが、中でも気に入っているものを二、三句紹介したいと思う。
Lingua, sei un letto
come un fiume segnali
t’attraversano
(Paolo Guzzi)ああ、舌よ
言の葉流れる
川床よ
(パオロ・グッツィ)
Inavvertito
è lo strazio furente
del grillo muto
(Mario Lunetta)蟋蟀の
黙せし狂気
誰ぞ知る
(マリオ・ルネッタ)
Non mi seccare
Disse la foglia al sole
E filò via.
(Tomaso Binga)
「お日様よ
嫌が(枯)らせないで」と
飛び去る葉
(トンマーゾ・ビンガ)