FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 12月29日放送分
映画『私をくいとめて』短評のDJ'sカット版です。
31歳、みつ子。会社員。独身。一人暮らし。休日はひとりで気ままにどこへでも。特に不自由も不満も不安もないのだけれど、なんか足りないような、そうでもないような。そんな彼女が久々に恋に落ちたのです。お相手はみつ子の会社に出入りする少し年下の営業マン、多田くん。両思いかもしれないけれど、なかなか踏み込めない。どうしようかな。彼女に助言をするのは、Aという男性の声。実は、みつ子の脳内には、いつも親身になってくれる相談役Aがいて、みつ子の問いに正しい答えAnswerをくれるのです。
監督・脚本は大九明子。原作は綿矢りさの同名小説。あの痛快な映画『勝手にふるえてろ』のタッグが再び実現です。みつ子を演じたのは、のん。多田くんは林遣都。そして、みつ子の親友でイタリアに嫁いだ皐月を橋本愛が担当したほか、臼田あさ美や片桐はいりも個性あふれる演技で作品に華を添えています。コロナ禍で予定していたイタリアロケができなくなるなど、いくつものハードルを乗り越えながら公開にこぎつけたこの作品。第30回東京国際映画祭では観客賞を獲得しました。
僕は先週水曜日の昼過ぎにテアトル梅田で観てまいりましたよ。それでは、今週の映画短評、いってみよう。
大九明子X綿矢りさのタッグ、今回もすごくいいです。パンフレットによれば、監督は原作を読んで、こう思ったそうです。「切れ味のいい言葉たちの間を、さまざまな色が漂い、ある時はスパークする。この色と言葉をどう映像で描こうかと考え始めていました。私、これ撮らなくちゃ」と。実際、確かに言葉が多いんですよね。みつ子は一人暮らしなんだけど、なにしろ家だろうが外だろうがどこだろうが、常に脳内のAと会話をしている状態なので、めっちゃ喋ってます。これ、ある程度は誰でも経験があると思うんですよ。別の人格というか、Aと名づけるところまでいくのはレアケースかもしれないけれど、ぶつくさ脳内で何か言ってみたり、ひとりでボケてひとりでツッコんだり。何を隠そう、僕がそうですから。でも、これって、映画で普通にやると、主人公のモノローグとして同じ声でアフレコすることになるので、視聴覚的な変化に乏しくて、観客はすぐに飽きちゃうんですよね。言葉数は多いけれど、なんか閉じちゃうというか。それに対して、このAは一応別人格で、感覚としてはSiriとかAIに近いですね。冷静沈着にみつ子を分析して、的を射た提案や助言をしてきます。しかも、声が男性なんですよね。って、考えたら、似たような設定の作品がありましたね、最近。沖田修一監督の『おらおらでひとりいぐも』ですよ。あれは一人暮らしの老婆を、彼女の空想上の別の「おら」が3人も画面に登場して取り囲む。あれは、そのビジュアルが面白かった。3人のおらも、ひとりひとり似ていないという驚異の設定に笑えました。一方、この『私をくいとめて』はというと、逆にAのビジュアルは基本出さないんですよね。だから、この声の主はどんな人なんだろうかと想像が膨らみます。それはラジオを聴いているような感覚に近いんですよ。みつ子は脳内ラジオのリスナーでもあり、DJでもあるということ。
大九監督が原作に見て取ったカラフルな文字表現を、映画ではそのまま映像化するってよりも、バリエーション豊かな音声表現に翻訳してみせたのではないかと僕は考えています。ファンタジックな脳内世界が現実と地続きに展開するという映画ならではの表現ももちろんあるんですが、そのトリガーになる要素としての音使いが冴えに冴えていたのではないかと。ご近所さんのホーミー。食品サンプルを作る揚げ物さながらの音。洗濯機の回る音。玄関ドアや蛍光灯の切れかかる音。ホテルの製氷機の音。などなど。かなり印象に残ります。それから、イケメンなんだけど、スカしているあまり社内で浮いてしまっている「カーター」と呼ばれる青年が登場する時のラテン系の音楽なんかも笑わせてくれます。音使いのうまい監督は信頼できるなと。
ラテンと言えば、ローマに嫁いだ親友皐月のシーン、みつ子が意を決してローマへ尋ねるパートも良かったです。本来なら向こうへ行って撮影するつもりだったそうですが、コロナ禍でかなわなかったんです。でも、転んでもただでは起きないというか、撮影機材をあちらへ送って、現地のチームにこういう映像を撮ってくれと指示。届いたものに、日本でイタリア人と一緒に撮影した屋内や半屋内の演技パートを引っ付けて成立させています。訪問してみたら皐月が妊娠していたという設定は映画オリジナルのようですが、それに加えて、COVID-19を想起させるマスクの演出や、外出を不安がる皐月という要素も加えて、彼女が遠い異国に移住したことをちょっぴり後悔しているという感じが物語に奥行きを出していました。いくらイタリア語ができても、そりゃ不安ですよ。海外に移住して家族を持った友人って、みつ子からすれば格好良くて頼もしい親友なんだけど、それは記号的な捉え方であって、生身の人間としてあえいでいるんだという様子がよく伝わりました。そして、ある種、音使いの変化球として、向こうで皐月の家族・親戚が話すイタリア語に字幕に出さないのがすごく良かったです。僕はイタリア語がわかるけれど、みつ子にはさっぱりなわけで、外国語が言葉でなしに意味のわからない音として入ってくる感じがとてもリアルですね。
大九監督の人の描き方が丁寧だなと思うのは、サブキャラクターの造形です。会社の先輩ノゾミさん、上司の澤田さん、コロッケ屋の親父、姿は見えないけれどクリーニング屋のおばあさんまで、ひとりひとり、あの街に暮らしている実感が持てます。ひとづきあいは大変。ノゾミさんが言うように、人といるためには努力が必要なんだけど、その努力をしたくなるって素直に思えてくるくらい、誰もが愛おしい。みつ子は20代と30代の恋愛の違いにもんどり打っていますが、多田くんとの恋愛が物語の中ですごく大事でありながら、恋愛至上主義になっていない、ただのハッピーなラブコメになっていないのがすごく現代的。みつ子よ、型通りの幸せなんかどうでもいい。君の幸せを抱いて生きていくんだってエールを送りたくなる、そして誰かにやさしくなれる1本でした。
最後にやさしくないことを言えば、尺が長い。あのイタリア・パートと日帰り温泉旅のパートはもっとタイトに運んでほしいって感じました。まぁ、でも、起承転結のくっきりした物語ではなくて、登場人物が自分の感情をどう受け止めるか、あるいは受け止めそこねるかが主眼の話だし、コロナ禍での奮闘もあったろうしって、あっさり良しとしています。それよりも何よりも、おひとりさまの哲学がますます重要になっていると感じる現代社会にとって、ひとつの指標とも言える映画がここに生まれたことを、僕はとても歓迎しています。
最後に音楽について。僕はひとりっこでもあるし、みつ子のおひとりさまな思考にとても共感するし、似たような経験もあるなって思うんですね。そんな好意的な観客の一人である僕の「わかりみ」が沸点に達したのは、彼女が大滝詠一の『君は天然色』をココぞという時の勝負曲、人生のテーマソングのひとつにしているとわかった時でした。僕にはいないけど、お前は妹なのかと!
映画のサントラではありませんが、歌手のんの歌も聴きたいなと、物語の内容を踏まえて、『わたしは部屋充』お送りしました。