京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『スオミの話をしよう』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 9月24日放送分
映画『スオミの話をしよう』短評のDJ'sカット版です。

都内にそびえる著名な詩人の豪邸に、清掃業者のふりをして入り込んだ刑事とその部下。それというのも、詩人の妻であるスオミが昨日から行方不明だというのです。実は刑事はスオミの元夫でもあって、彼としては警察に正式に捜査してもらうべきだと言うのですが、大事(おおごと)にしたくないの一点張りで詩人は聞き入れません。そうこうするうち屋敷に続々と集まってきたのは、それぞれにスオミの過去を知る男たちなのですが、さて、スオミはどこへ消えたのか。
 
監督と脚本は、これが5年ぶりの新作映画となる三谷幸喜です。スオミを演じるのは、長澤まさみ。刑事を西島秀俊、詩人を坂東彌十郎が演じたほか、遠藤憲一松坂桃李瀬戸康史、宮澤エマなども出演しています。
 
僕は先週金曜日の朝、TOHOシネマズ二条で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

先週のこの時間、この場所で映画神社のおみくじを引いてこの作品が当たった時、僕はカタカナ3文字を読み違えて、ひとり、「スミオの話をしよう」ってデカい声で言ってましたけどもね。それというのも、「スオミって、フィンランド人のことじゃないか。だけど、これは長澤まさみなんだから」ってのが頭のどっかにあったんだと思うんです。その結果としての、スミオ。これはこれで、おじさんの可能性が出てくる名前出し、やっぱり長澤まさみでは違和感があるわけですが、まさかフィンランドのことが劇中で本当に出てくるとは! これは観た人ならわかることですね。「スオミって、そうだったんだ」っていう。そう、この物語は、ひとりの人間のいろんな側面を見せるのがねらいになっています。三谷幸喜がどこまで意識しているかは別として、作家の平野啓一郎がエッセイで提唱している「分人」という考え方がベースにあるんだと思います。社会的な生き物である人間は、「本当の自分」というものをひとつだけ持っているのではなく、家庭、友人、恋人、所属する組織といった様々な局面で少しずつ違う別の顔を持っていて、自分というのはそんな多面体の総合なのだということです。

(C) 2024「スオミの話をしよう」製作委員会
実際のところ、スオミという女性がある朝姿を消してしまう。行方も理由もまったくわからない中で、スオミのことに当然詳しいはずの元夫たちが現在の夫のもとに集まってくるわけですが、そこで語られるスオミ像というのがひとつひとつまったく異なっている。そんなに違うのなら、それは別人じゃないかっていうレベルで異なっている。これは、さっき言った分人という人格の捉え方をベースに大げさにカリカチュアしたコメディーだと言えます。本当のスオミというのは、どのスオミなのか。はたまた、本当のスオミなんてそもそもいるのかいないのか。そういう人間という生き物の面白さを追求しつつ、ひとりの女性をめぐって大の大人の男性が右往左往するおかしさ、逆に言えば、女性が男性を手玉に取って操ってしまう痛快さが、この喜劇のポイントです。

(C) 2024「スオミの話をしよう」製作委員会
長澤まさみは、それはすばらしいですよ。彼女の変身を楽しむ作品ですよね。髪型もファッションもしぐさも喋り方も、時には使う言語も変えながら、多面体のマトリクスがどの角度も振り切れた人物像を好演しています。そして、ちょくちょく顔をのぞかせる宮澤エマの姿にもニマニマしてしまいます。正直、失踪の理由については途中からある程度想像できる範疇ではありますが、これは古畑任三郎のようなミステリーではなく、先述したように人間の多面性を面白おかしく見せるのがテーマなので、謎解きについてはあくまでスパイスだし、ちょうど良いバランスになっているかと思います。三谷幸喜らしい細かいセリフの面白さもあちこちに点在しているし、役者それぞれの演技の楽しそうなこと。1回では味わいきれないぐらいなので、もう一度それぞれの芝居をじっくり観たいってくらいに僕も楽しみました。

(C) 2024「スオミの話をしよう」製作委員会
ただ、もう一度観るなら、今度は演劇が良いなって思ったのは思ったとおりだったんです。つまり、映画としてどうかと問われれば、僕はあまり評価していません。舞台のほとんどは詩人の豪邸敷地内だし、予告にもあるようにセスナ機が登場するくだりがあるんですが、それもセット丸出しです。別にそれ自体はまったく問題ないんですが、僕が言いたいのは、むしろ演劇のほうがこの物語は面白さが発揮されるんじゃないかということ。その方が、長澤まさみの衣装や人格の変化もスリリングなんですよ。それに、同じ部屋での大声での会話が、後ろの方にいる別の登場人物に聞こえていないっていうのも、完全に演劇的な約束事なわけで、それをそのまま映画に持ち込まれるのにも違和感がある。これまでも映画化された三谷幸喜の戯曲はありましたが、これは逆に映画を演劇化してもらった方がしっくりくるなと思えたのが映画ファンとしては食い足りないところでした。
物語を最後の最後まで楽しいものにしたいと三谷幸喜が用意したのが、終盤のミュージカル的な場面。これが物語を総括する内容の歌になっていまして、長澤まさみがのびのびと吹っ切れたスオミとして歌い踊るんですね。

さ〜て、次回2024年10月1日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『ぼくが生きてる、ふたつの世界』です。僕がその手腕を信頼している呉美保監督の作品です。この番組では、ぴあ関西版の華崎さんが『Coda コーダ あいのうた』と並べて紹介してくれていました。耳の聞こえないお母さんのもとで育った、耳の聞こえる青年の葛藤のお話。呉監督の繊細な心理描写がどう発揮されているのか。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!