京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

『ぼくが生きてる、ふたつの世界』短評

FM COCOLO CIAO 765 毎週火曜、朝8時台半ばのCIAO CINEMA 10月1日放送分
映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』短評のDJ'sカット版です。

宮城県の小さな港町に暮らす五十嵐家に生まれた男の子、大。両親はともに耳が聞こえず、手話で会話をしています。親戚筋からは不安の声もあがる中、大はすくすくと育ち、大好きなお母さんの「通訳」をすることも当たり前だったのですが、小学校に入り学年が上がってくると、周囲から特別視されていることに気づいていきます。思春期に入るとあからさまに両親に苛立ちをぶつけてしまい、やがて20歳の大は東京へと旅立ちます。

「コーダ」のぼくが見る世界――聴こえない親のもとに生まれて

原作は五十嵐大の自伝的エッセイで、監督は、これが9年ぶりの長編となる『そこのみにて光輝く』の呉美保。脚本は『正欲』の港岳彦が担当。主人公の大に扮したのは吉沢亮。そして、母の明子をろう者俳優として活動する忍足(おしだり)亜希子です。他にも、父親役として同じくろう者俳優の今井彰人やユースケ・サンタマリア烏丸せつこ、でんでんなどが出演しています。
 
僕は先週木曜日の夜、MOVIX京都で鑑賞してきました。それでは、今週の映画短評、いってみよう。

これはひとりの青年のありふれていると同時にユニークな成長と物語です。それは多くの人が辿る道のりでありながら、辿り方には固有のものがあるということ。主人公の大くんの半生から浮かび上がってくるのは、特殊とカテゴライズされる家族と向き合う普通の葛藤なんじゃないかと僕は思いました。抽象的で何を言ってるかわかりにくいと思うので、具体的に言及していきましょう。
 
原作の五十嵐大さんが1983年生まれだから、現在40代前半ですね。その時代に地方都市で生まれ育つひとつのパターンというのが、しっかり映像化されています。僕よりも5つほど下だし、関西と東北でエリアは違うものの、スクリーンに映る大という子どもを巡る大人の言動や環境には馴染みがあるというか、あの時代はこういう感じだったよなという懐かしさを覚えました。監督の呉美保さんは大小の道具や美術をいつもしっかり、いや、徹底して作る人ですから、自ずと立ち上ってくる時代の匂いがあります。ただし、懐かしいって言ったって、あれは嫌な感じだったなぁってのも多数含むって感じです。男性が女性にとる言動であるとか、親戚や近所のおばちゃんの心配と興味本位が地続きな行為とか、今ではさすがに減りつつあるようなあれこれを見るにつけ、きつかったよなって思います。これは大という人が生まれ育った時代の言わば「引きの画」なわけですが、今度は彼固有の状況にも触れていくと、まずこれが決定的ですが、両親ともに耳の聞こえないろう者であること。大くんは聞こえるんですよね。だから、両親とは手話を通して話すようになり、たとえば同居している祖父母とは声で会話をするという、いわゆるコーダという環境の子どもならではの状況です。これについては、この番組でぴあの華崎さんが今作を紹介してくれた時に『コーダ あいのうた』を引き合いに出していたように、あの作品が世界中に知らしめたコーダの子どもたちの葛藤の日本版なんだろうということは僕も想像がついていました。

©五十嵐大/幻冬舎 ©2024「ぼくが生きてる、ふたつの世界」製作委員会
だけど、大くんにはまだ他にも特殊な状況があったのはまったく想像していないことでしたよ。だって、おじいちゃんは引退したヤクザだし、おばあちゃんは宗教にのめり込んでいるんです。祖父母は両親と比べればあくまで背景ではあるけれど、なにせ同居していますから背景の主張が思った以上に激しいうえ、これも環境としてすごく大事な要素ですが、大は一人っ子なんですよ。つまり、祖父母のことも両親のことも、基本的にはそれが当たり前というか、他の家もこういうものだろうぐらいに思うわけですよね。なんか、おじいちゃん、時々めっちゃ怖い。おばあちゃん、しょっちゅう何か唱えてる。でも、かわいがってくれる。好き。そして、お父ちゃんのこともお母ちゃんのことも、すごく好き。だったものが、次第に変化していくわけです。学校へ上がると、周囲の状況も見えてくるし、同調圧力もある。世の中で普通とされるものの情報が続々と入ってくることにより、自分の置かれている状況が恥ずかしく思えてきて反発してしまう。否定してしまう。ごく自然な反応だと思います。しかも、一人っ子なんで、誰にも相談できないわけですからね。僕も一人っ子だったし、母親が外国人であの時代に育ったので、自分がどうやら普通ではないらしいということを受け入れるのにはそれなりに葛藤があったから、その辛さはよくわかります。でも、はっきり言ってそんなの、多かれ少なかれ、みんなあることなんですよね。遠目には普通に見える人や家庭でも、近寄ってみれば、みんなどこかおかしいものなんです。障害だろうとジェンダーだろうとエスニシティーだろうとなんだろうと、マイノリティの問題というのはここに本質があると僕は思っています。それをこの映画はしっかり見せていたので、コーダ固有の状況を描きつつも、それが決して観察しているのではなくって観客が自分たちの人生やコミュニティに引き寄せられるようにしてあるところが見事なんです。

©五十嵐大/幻冬舎 ©2024「ぼくが生きてる、ふたつの世界」製作委員会
僕が思い出したのは、リチャード・リンクレイター監督の傑作『6才のボクが、大人になるまで。』です。特にそのストーリーテリングのスタイル。人生の断片を点描のように見せていくんですよね。そうやって短いシーンをつなぎ合わせた果てに、モザイク画のように主人公の半生と家族との関係の変化がエンディングで観客に押し寄せる手法です。点描のたとえをそのまま使えば、点の打ち方が抜群にうまい。色使い、大きさ、配置が見事です。そして、基本的には時系列に進んでいく編集の中で、その流れが変わるところに工夫があるので意識してみてください。そこでの登場人物の目の動きも重要。お母さんがほぼカメラ目線になる劇映画としては通常避ける手法の使い方と使い所。そこに、この物語だからものすごく意味のある無音演出も絡んできますから、呉美保監督はもうさすが! あっぱれでした。

©五十嵐大/幻冬舎 ©2024「ぼくが生きてる、ふたつの世界」製作委員会
まだ観ていないという方、これはぜひ構えずに観てほしいです。すると、ろう者の置かれてきた状況も一定程度わかると同時に、自分の中にもある孤独をくすぐられるし、その孤独とどう折り合いをつけて人は大人になるのかにも思いを馳せることになると思います。「これは自分の話でもある」って思える。そして、自分は決してひとりじゃないし、そう思う限り世界は捨てたものではないと感じたら、きっとあなたにとってかけがえのない映画体験になるでしょう。

さ〜て、次回2024年10月8日(火)に評する作品を決めるべく、スタジオにある映画神社のおみくじを引いて今回僕が引き当てたのは、『憐れみの3章』です。来たな、ヨルゴス・ランティモス。今や世界屈指の新作が期待される監督ですが、エマ・ストーンとのタッグもこれで3作目。これでそのすべてを番組で扱うことになります。そして、今作はオムニバス。なんと、同じキャストが違う話で違う役を演じているとか? いろいろ仕掛けがありそうだ。全体として尺は長いものの、オムニバスなので、そこは見やすそう。さぁ、あなたも鑑賞したら、あるいは既にご覧になっているようなら、いつでも結構ですので、Xで #まちゃお765 を付けてのポスト、お願いしますね。待ってま〜す!