京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

山岳文学の新しい峰『帰れない山』

不定期に行っている習慣、本屋パトロール。より目を光らせる海外文学の棚で見つけたのが、新潮クレスト・ブックスから10月末に出た『帰れない山』。著者はパオロ・コニェッティ(Paolo Cognetti)。僕と同い年の1978年、ミラノ生まれ。はて、どこかで見た名前だ… 

帰れない山 (新潮クレスト・ブックス)

帰れない山 (新潮クレスト・ブックス)

 

 そうだ! イタリアの直木賞と言われるストレーガを2016年に受賞した作品じゃないか。『帰れない山』という邦題と「八つの山」(Le otto montagne)という原題がうまく結びつかなかったけれど、そうか、邦訳が出たんだ。訳は旧大阪外国語大学(現大阪大学国語学部)の先輩であり、書籍に映画にと翻訳家の第一線で活躍されている関口英子さん。信頼できる。ためらうことなくレジへ急いだ。

 

その日、勤務しているFM802で自分のロッカーを開けると、関口さんから謹呈いただいた同書が届いていて苦笑したけれど、とにもかくにも読書という名の山ごもりを僕も始めることにした。

 

ピエトロと山好きの両親は、ミラノに暮らす3人家族。彼らは夏休みをモンテ・ローザというヨーロッパ・アルプスで2番目に高い山の麓の寒村で過ごしていた。そこで親しくなるのが、村育ちで畜産農家の息子ブルーノ。違ったバックグラウンドを持ちながらも、沢や森で一緒に遊んでは親交を深めた少年時代。ピエトロの父に連れられて3人で登った雲上の峰々。ところが、反抗期にピエトロは父と反りが合わなくなり、だんだんと両家の人間関係の力学が変化していく。それから20年ほど。都会に出て映像作家になったピエトロは、父の死を経て、ブルーノと再会を果たすのだが…

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父と息子の関係。友情。そして、新しい家族。彼らの人生を語るうえで取っ掛かりになる、クライミングで言えば、人生のホールドになるような出来事を中心にエピソードが綴られていくものの、決してダイナミックな展開で読者をアッと言わせるような小説ではない。登場人物はごく少なく、だいたいが寡黙。その分、彼ら/彼女らの心理は、繊細かつ丹念な自然描写が補うようにして透かせて見せる。アルプスの山も大事な登場人物なのだ。

 

特に前半は作者コニェッティの自伝的要素が色濃いらしい。確かに、経歴に目を通すと、一致するところも多い。繰り返すが、僕は同い年。大学時代はワンダーフォーゲル部に所属してあちこちの山に登り、大学院では映像制作に夢中になった。挫折も経験しながら、30代にラジオDJの道へと進み、40歳を前にこじれた関係だった父を亡くした。主人公ピエトロと一致する要素がとても多いので、途中からは、これからどうなることかと気が気ではなかったが、切なさとやるせなさ、そして一抹の爽やかさが立ち込める読後の余韻は、これまで味わったことのないものだった。

 

山は川や湖、海などの水辺に置き換えてもいいだろう。あなたにありありと様子を思い出せる自然があるのなら、そこがこの物語の舞台だ。青春時代と、やがて来るイノセンスの終わり。そしてそれをずっと見つめるかのように佇む山々。僕らを包んで安らぎをくれるかと思いきや、頑とした厳しさで命を奪いかねないこともある。僕がふと思い出したのは、サザンオールスターズの『山はありし日のまま』。原由子が歌う、山に生きた友の死を悼む歌だ。

キラーストリート(リマスタリング盤)

訳者の関口さんは、あとがきによれば、奥多摩山麓に長くお住まいだそうで、そこでお子さんを育てられたのだとか。訳しながら、その記憶も参照されたことだろう。読んでいると手で直に触れられそうなコニェッティの自然描写を、日本語ですらりとすくい取る見事な仕事をされたと思う。邦題が関口さんのアイデアによるものなのかは不明だが、後半で明らかになってくる「帰れない」という言葉の意味を考えると、原題よりも味わい深いくらいだ。

 

作家としてのキャリアにおいて、どちらかというと短編に重きを置いてきたパオロ・コニェッティ。他の作品も手にとってみたい。

『くるみ割り人形と秘密の王国』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年12月6日放送分
映画『くるみ割り人形と秘密の王国』短評のDJ's カット版です。

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今週月曜日に、ドイツ・クリスマスマーケット大阪2018をご紹介しましたけれども、そのドイツのクリスマスに欠かせない実用品であり民芸品でもあるくるみ割り人形。19世紀前半、文学・音楽・絵画・法律などマルチに活躍したホフマンが執筆した『くるみ割り人形とねずみの王様』で広く知られるようになりました。それが19世紀後半にはチャイコフスキーの音楽によるバレエ作品『くるみ割り人形』となり、そのメロディーとともに世界中で時を越えて愛される物語となりました。これまでも何度か映画化はされていたんですが、今回はディズニーということで、2018年のクリスマス映画として注目が集まっています。
 
舞台は19世紀後半のロンドン。愛する母を亡くして心を閉ざしていしまっていたクララが、クリスマス・イヴに形見として受け取ったのは、卵型の入れ物。「あなたに必要なものはすべてこの中にある」と書いてあるものの、ロックされていて鍵が見当たらない。科学技術好きで博識のおじが主催するクリスマス・パーティーに家族で参加したクララは、鍵をくわえたねずみとフクロウにいざなわれるようにして、屋敷の中からいつの間にか不思議な世界へ。そこは、花の国、雪の国、お菓子の国、そして謎めいた第4の国からなる秘密の王国。そこでプリンセスと呼ばれ、亡き母がその王国を創り上げたと知ったクララ。出会ったくるみ割り人形と共に、鍵を取り戻す冒険を始めます。

ギルバート・グレイプ [DVD] 僕のワンダフル・ライフ (字幕版)

監督は、名匠ラッセ・ハルストレム。『ギルバート・グレイプ』や『ショコラ』で知られるスウェーデンの監督ですが、僕のCiaoでの短評ではやはりディズニーの『マダム・マロリーと魔法のスパイス』、そして『僕のワンダフル・ライフ』を扱い、どちらも高く評価しました。監督はもうひとり、『ジュマンジ』などのジョー・ジョンストンが、どうやら途中からのサポートのような形で参加していて、ふたりのクレジットになっています。
 
クララを演じるのは、『インターステラー』で娘の幼少期を担当したマッケンジー・フォイ18歳。キーラ・ナイトレイヘレン・ミレンモーガン・フリーマンがそれぞれ印象的な役で登場する他、世界トップクラスの黒人女性バレエダンサーであるミスティ・コープランドの舞も堪能できます。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

ピクサースター・ウォーズ、マーヴェルを取り込み、CGたっぷりの映画で王国を築いているディズニーですが、こちらはむしろ手法としては昔懐かしいものでした。もちろん、CGもたくさん使っているものの、あくまでその役割は補助的なものであって、大事なシーンでは大規模なセットを組み上げ、贅を尽くした衣装を役者にまとわせて、うっとりとさせてくれます。それから、ぜんまいや歯車のようなアナログな技術がたくさん登場するのも楽しいところでした。舞台は19世紀末です。つまりは映画という技術が生まれた頃でもあります。監督はそのあたりを意識しながら、人間のイマジネーションと科学が新しいもの、魔法のようなことをクリエイトするのだというメッセージを打ち出しています。冒頭、屋根裏部屋、クララがピタゴラスイッチ的な機械を弟に披露していましたよね。そこにネズミがちょこちょこ走る。カメラを誘導するのは、知恵のシンボルであるフクロウ。作品を貫くモチーフを早速出しながら、母を亡くしたことで閉じこもってはいるけれど、受け継いだ聡明さは失わずにいるという主人公クララの紹介もさらりとやってのける的確なオープニングでした。

リメンバー・ミー (字幕版)

他にもメッセージはいくつも、そしてはっきりと観客に伝わります。何事も見た目や先入観に騙されてはいけないこと。自分に自信を持つことの大切さ。知識とそれを活かす勇気が身を助けること。『リメンバー・ミー』的な思い出の尊さと、そうした愛しい記憶を音楽が深めてくれること。女性たちや黒人といった、ともすると現実の19世紀末には軽んじられたり虐げられたりしていた人たちも、今や平等に活躍できるのだよという、ここ10年ほどでディズニーが確立したリベラルな価値観。ハンサムなくるみ割り人形は黒人でした。クララはプリンセスと呼ばれながらも、くるみ割り人形に助けられるのを待つなんてことはせず、当初は部下である彼に命令を下すわけですが、続いてクララ自身も軽やかな身のこなしで冒険と戦闘の先頭に立ち、やがては上下関係もほどけていく。支配欲や、防御ではなく攻撃を目的とした武力の虚しさ…
 
やはり、ファンタジーであり童話なので、こうした教訓をはっきりと盛り込むのは良いと思います。古い話を今語るならこうでなきゃっていう、アップデートのうまくいった好例と言えます。ここで無闇にラブロマンス的なものを入れないのも懸命な判断でしょうね。

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一方で、ここからは僕が満足できなかった要素を指摘しますが、お話そのものが膨らみきっていないんです。直線的でテンポも良くて、見せ場もハイライトもあるんですよ。なのに、何だかお話としては物足りない気がする。理由はふたつ。せっかく4つある王国と、その中心にある宮殿を端折りすぎているのがまずひとつ。だって、雪の国と花の国なんかほとんど出てこないんだもの。僕としては、予告を観ていて、4つのエリアをお遍路のように、あるいはディズニーランドのアトラクションのように、巡っていくもんだと思いこんでいたので、これには拍子抜けしました。そして、もうひとつは、冒険が実にあっけないこと。日本語で王国と訳してあるわりに、第4の国なんて、確かに謎めいてるけど、あれじゃ狭すぎるでしょうよ。クララの頭がいいってのはわかるけど、解決策をすぐに思いついちゃうのも問題ですね。水車のくだりなんて、僕のおつむが弱いからか、なんでそこまでしなくちゃいけないのかわからないってくらいに、とにかくあちこちコンパクトにしすぎているので、感じるカタルシスが弱くなるし、クララの成長にもインパクトを与えきれなくなっています。
 
ただ、子どもと一緒に観るクリスマス映画として、100分という尺はちょうどいいし、圧巻のダンスの美しさも味わえるし、科学への興味や普遍的な倫理観は養えるし、僕みたいなおじさんがくさすのはほどほどにすべきだぜって意味で、この冬間違いなくオススメの1本です。


イタリアが世界に誇るテノール歌手アンドレア・ボチェッリとエド・シーランのデュエットをオンエアしました。ボチェッリは息子さんと主題歌を英語で歌っていて、そちらもかっこいいのですが、今日はエドの来阪ニュースも交えてPerfectをチョイス!


さ〜て、次回、12月13日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『来る』です。ダメだって、ほんとに。噂の傑作『へレディタリー/継承』もためらっているのに、『来る』が向こうから本当に来ちゃったよ。は〜。そんな僕のビビリはほっぽって、あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

 

『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年11月29日放送分

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J・K・ローリング文学史に残るベストセラー小説とその映画『ハリー・ポッター』シリーズの前日譚的な位置づけの、こちらは大人版というべき「ファンタスティック・ビースト」。Ciao MUSICAの頃、2016年11月25日に短評した『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』を皮切りに、こちらは全5部作の予定で製作が進められていまして、今作は2本目となります。
 
90年代にハリー・ポッターが使うことになるホグワーツ魔法魔術学校の教科書『幻の動物とその生息地』を編纂した、魔法動物学者ニュート・スキャマンダーが一応の主人公。彼は世界中を旅して魔法動物を集め、4次元ポケット的な不思議なトランクに詰め込んでいます。前作は1926年のニューヨークを舞台にしていましたが、今回はあの騒動を経て、翌1927年の物語。ロンドンに戻っていたニュートは、魔法動物を調査するため、今度はパリへ向かう準備をしていました。そこへ訪ねてきたのが、魔法使いのクイニーと人間のジェイコブ。結婚を視野につきあっているふたりでしたが、魔法使いとノーマジ(人間)の結婚は認められておらず、苦悶したふたりは大喧嘩。クイニーはパリで闇祓いをしている姉ティナの下へ向かいます。一方、アメリカで捕らえられていた闇の魔法使いグリンデルバルドが、ヨーロッパへ移送中に脱走して、やはりパリへ。ダンブルドア先生は、「黒い魔法使いを倒せるのは君だけだ」と教え子のニュートに告げるのですが、果たしてグリンデルバルドは何を企んでいるのか?

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監督はハリー・ポッター5作目から一貫してデヴィッド・イェーツ。そして、このシリーズの脚本は、原作者J・K・ローリングが自ら執筆しています。ニュートをエディ・レッドメインダンブルドアジュード・ロウ、ティナをキャサリン・ウォーターストン、ジェイコブをダン・フォグラーが引き続き演じる他、今回は黒い魔法使いの親玉的なグリンデルバルド役のジョニー・デップが大暴れします。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

前作を僕がどう評価していたか、先に軽くまとめます。魔法動物たちの顔見世興行としてシリーズの幕を開けながら、人間と魔法使いの世界を大胆に交錯させて、むしろ人間の現代史のダークな側面を浮かび上がらせながら描いた、チャーミングで苦い味わいの、なかなか見事な1本でした。
 
このシリーズは1945年がゴールとなると発表されています。第一次大戦の終わりから、第二次大戦が始まって終わるまでってことですね。今回は黒い魔法使いの親玉グリンデルバルドがパリで何をするって、ヒトラーばりの演説を打って、魔法使いが人間たちをどう扱うべきかという内容で、ここがポイントですけど、魔法使いたちの分断を煽るわけです。さらに、人間たちがどういう奴らかってことを説く場面で、まるで第二次大戦を予知するかのように、戦車やら原子爆弾のようなキノコ雲まで見せていく。ローリングはこのシリーズで「人間とは何か」と解釈することを大きな目的としているようですが、こうした僕たちの闇、業の部分をグリンデルバルドに重ねながら、いよいよ本題に入ってきたなという印象です。

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前作で大きなウェイトを占めていた魔法動物たちのキャラ紹介が、今作ではこれから歴史の渦に運命的に巻き込まれていくだろう魔法使いたちのキャラ紹介にスライドしています。なので、前作のあのかわいらしく滑稽なやり取りは鳴りを潜めていて、代わりに魔法使いたちそれぞれが胸に抱える葛藤と背負っているキツい運命が続々と語られていくので、明らかにダークかつシリアスなファンタジーへと様変わり。結構、面食らう人も多いと思います。必然的にニュートやジェイコブの存在感は相対的に薄くなり、グリンデルバルドが一応の主人公に昇格した格好です。このあたり、はっきり言って、構成がうまいとは言い難いです。どれがサイドストーリーなのかメインなのか、かなりわかりにくいので、映画全体の求心力が弱いんですね。

 
加えて、前作では観客にあまり要求していなかった観客のハリー・ポッター知識がかなり問われるんです。僕みたいなハリポタ弱者にとっては、「その魔法は何?」とか「そんな動物おったんや」とか、かなり戸惑いました。もちろんシリーズなんで、観てない方が悪いってことなんだろうけど、全体としては情報の交通整理がうまくいっていないと言われても仕方はないと思います。軸が見えにくいし、エピソードも小ネタも多いので、セリフがどうしても増えちゃってるし、説明不足も目立つ。これは前作でも言ったことですが、魔法の万能っぷりが度を越しているところもあって、「そんなことができちゃうんだったらさ」とぼやきたくもなります。最後に次作へのフリとして出てくる強大なパワーも、もう魔法がインフレを起こしてるんでビビらないんですよ。ドラゴンボールがZになった時に近いというか、天下一武道会でキャッキャやってた頃が懐かしいなという記憶を僕はなぞることになってしまいました。
 
とはいえ、大人気シリーズです。やっぱり続きは観たい。次が出る前に、僕もハリー・ポッターの原作に手を延ばそうかなと考え始めているところです。

ハリー・ポッターシリーズ全巻セット

さ〜て、次回、12月6日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『くるみ割り人形と秘密の王国』です。クリスマス・シーズンに入っていくので、ファンタジーが続きますね。ディズニーですよ。できばえやいかに? あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

映画『人魚の眠る家』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年11月22日放送分
映画『人魚の眠る家』短評のDJ's カット版です。

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自宅でフラワーアレンジメントの仕事をしながら娘と息子を育てる薫子。IT機器メーカーを経営する和昌。ふたりの関係は冷え切っていて、娘の小学校受験が終われば離婚することになっていました。ある日、娘の瑞穂が遊んでいたプールで溺れ、意識が戻らなくなります。医師から提案された脳死判定を受け入れられず、夫婦は先の見えない延命治療をスタートさせます。和昌は自社の先端技術で娘の身体を動かせるのではないかと気づき、若手研究員の星野に実験を指示。本人の意志とは無関係に身体を動かされる瑞穂は、意識がないことを除けば、健やかに成長していくのですが、それによって家族や職場の人間関係には次第に亀裂が入っていきます。

人魚の眠る家 (幻冬舎文庫)

毎年何本も小説が映像化される作家東野圭吾が、自身のデビュー30周年を記念して3年前に出版した同名小説を、テレビドラマ出身の篠崎絵里子が脚色し、堤幸彦がメガホンを取って映画化しました。主人公の薫子を篠原涼子、夫の和昌を西島秀俊が演じる他、若手研究員として坂口健太郎、そのガールフレンドとして川栄李奈、さらには山口紗弥加田中泯松坂慶子田中哲司などが脇を固めています。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

発売から1ヶ月で27万部を売ったベストセラー小説を、映画会社、出版社、テレビ局、広告代理店、webメディアなどがお金を出し合って映画にするという、典型的な日本型製作委員会方式。あまりにもできすぎた構図で、ひねくれ者の僕はちょっと身構えてしまう上、監督は近年の作品をこのコーナーで高くは評価してこなかった堤幸彦ということで、劇場へ向かう僕の足取りはそこそこ重めでしたが…
 
開映したらもう最後まで食い入るように観て、脳死を巡って命をどう扱うかという倫理、その法律面での日本の特殊性、さらには臓器移植について、しっかり考えさせられてしまいました。サスペンス、ホラーの香りをまとわせてエンターテイメントとして成立させながらも、全体としてはヒューマンドラマとして人の心理をある程度深いところまで多面的に描写し、そこに社会的なメッセージを含ませるという、そのまとまりは評価に値します。

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いわゆる植物状態にある娘。脳以外は正常に機能しているので、意識はないけれど、身体は温かい。ただ、人工呼吸器を外せば、そのまま死にいたってしまう。いつか目を覚ますことを信じて延命治療を続けるのか、それとも脳死判定をして、場合によっては臓器移植のドナーになることを選ぶのか。脳の機能停止をもって死とするのか、あくまで心臓が止まることをもって死とするのか。突如降ってわいたこの問題に翻弄される家族。たとえ予め話し合っていたとしても、いざとなったら決断が揺らぎそうな究極の選択ですから、話し合っていなかったとしたら、周囲の精神的な混乱はなおさらです。ただ眠っているだけに見える娘に寄り添うことを決めた薫子。電気信号を使って筋肉を動かす自社のテクノロジーを応用して、娘の健康状態を保とうとする和昌と、その技術を瑞穂に活用しながら疑似家族化していく研究員。事故現場にいながら救えなかった祖母。弟、いとこ、おば。それぞれの心理と関係性、そして研究員のガールフレンドの視線に代表される周囲というか世間の目。
 
こうしたものが、時間とともに緩やかに変化していく様子を堤監督は表現しようとしています。具体的には、それぞれのシーンの天候、照明、音楽、そしてここが堤演出っぽいんだけど、画質にまで画質にまで変化をつけてあるんですね。ちょっとやりすぎだろうと感じてしまうところもあるものの、そうした視点の変化と心理描写を文字通り色分けするだけでなく、そこにジャンルの違いまで盛り込んでくるところがうまいあたりでした。簡単に言えば、献身的な愛情が、部外者から見ればホラーに見えることもあるということですね。リスナーのかばじゅんこさんがツイートで指摘する通り、我が子の体を動かしてやる健康状態を保つ行為が、人をマリオネットのようにしてしまう人魚というより人形にしてしまう、科学と倫理が背中合わせになっている部分です。
 
篠原涼子の演技はお見事でした。『SUNNY 強い気持ち・強い愛』の好演もあいまって、今後主役級の映画での配役が増えるんじゃないでしょうか。子供演出も良かったです。人間関係の緊張が一気に高まるクライマックスも、倫理的なピークとぴたり重なるし、問題提起としてとてもいい効果をもたらしていたと思います。それだけに、エンディングの物語としてのきれいな着地はかなり拙速です。どういう決断をどんな心の整理の末に下したのかってことを、僕はもっと突き詰めるべきだったと考えています。でないと、これじゃきれいごとに逃げたという批判は免れないです。
 
あなたも持っているだろう免許証やマイナンバーカードには、臓器提供意思表示の欄があるのをご存知でしょうか。あなた自身やあなたの身の回りの人が不慮の事態に陥った場合にどうするのか。しんどいけれど考えておかねばならない問題です。僕は僕の考えのもと、意思を表示していますが、スルーしてしまっている人は、まずはこの映画を観て考えてみてください。いただけない部分もあると指摘しましたが、考える入口となるエンターテイメントとして、どう判断するにせよ、観ておくべき一本です。

関連作として、イタリア映画界の巨匠マルコ・ベロッキオの『眠れる美女』を挙げておきます。こちらはさらに多面的に、宗教、政治、そして個人の想いを丁寧に描いていて、日本でもDVDやネットレンタルが気軽にできる作品として、鑑賞を強く勧めます。

眠れる美女(字幕版)


さ〜て、次回、11月29日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』です。またシリーズ物がカムバック。前作も評しましたが、今回はどんなあんばいなのか。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

映画『ボヘミアン・ラプソディ』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年11月8日放送分
映画『ボヘミアン・ラプソディ』短評のDJ's カット版です。

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73年にデビューし、今もなお多くの人を魅了するイギリスのロックバンド、クイーン。不世出のボーカリストフレディ・マーキュリーがどのようにしてメンバーと出会い、バンドが結成されたのかという逸話。名曲誕生の秘話。バンドの成長と崩壊の危機。血の繋がった家族、友人、恋人たちとの関係といった私生活。伝説的に語り継がれる1985年のチャリティーコンサート「ライヴエイド」でのパフォーマンス。HIVウィルスへの罹患、AIDS発症。フレディ・マーキュリーの波乱に満ちた人生のうち、ロックと関わる20代以降の半生を描いた伝記映画です。

ユージュアル・サスペクツ (字幕版)

映画の製作そのものも、かなりの紆余曲折を経ていまして、企画が発表されたのは2010年ですから、公開までに8年もかかりました。当初フレディを演じる予定だったサシャ・バロン・コーエンが、映画のテーマ設定を巡って製作側と意見が合わずにこのプロジェクトを去るなどし、結局撮影が始まったのは、昨年の9月でした。監督は『ユージュアル・サスペクツ』や「X-メン」シリーズのブライアン・シンガーで撮影の大部分を行いましたが、キャストやスタッフと色々揉めたようで、途中降板。デクスター・フレッチャーがその穴を埋めました。フレディ・マーキュリーを最終的に担当した俳優は、エジプト系アメリカ人で『ナイト ミュージアム』などのラミ・マレック
 
音楽面ではブライアン・メイロジャー・テイラーがプロデュースに関わっていて、クイーンの28曲がバンドの歴史に寄り添っています。
 
それでは、特にクイーンに詳しくはなく、曲は好きなものも多いけれどファンとはとても言い出せない僕野村雅夫がどう観たのか。制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

先に僕のスタンスを表明しておくと、音楽を題材にした伝記ベースのフィクションとして、相当高いレベルの作品だと思っています。
 
まず、音楽映画として、よくできてますよね。20世紀フォックスのファンファーレをブライアン・メイロジャー・テイラーがクイーンそのものとしか言いようがないサウンドで奏でるオープニングから心くすぐられるし、134分の上映時間中に30近いクイーンの曲をバンドの歴史にうまく寄り添う形で、時にストレートに、そして時にシンボリックに配置して、たっぷりと大音響で音楽そのものを楽しめる喜びがあります。
 
そして、伝記映画としても、よくできてます。誰もが知っているようなメインのエピソードと、ライトな客層にとっては新鮮な逸話の配分・バランスをうまく取っています。さっきも言ったように、僕はクイーンのことをさほど知らなかったので、より製作側の思惑通りに感動しました。ここで持ち上がってくるのが、コアなファン達からの批判でして、あの人物が出てこないとか、あの出来事が無視されているとか、時系列を映画に都合良く並べ替えているとかいった指摘がその代表です。

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気持ちはわからなくもないんです。これまでドキュメンタリーも作られているし、パートナーのひとりだったジム・ハットンによる手記や関連本もあるので、詳しくなればなるほど、これでは不完全だと思うことだと思います。ただ、2時間強の映画としてまとめるには一定の取捨選択が必要ですよね。省かれるエピソードが出てくるのはやむを得ない。史実に忠実にするあまり、観客の感動を損なうようでは本末転倒でしょう。
 
これは他のメンバーも関わるプロジェクトなので、フレディーを軸にバンドの歴史をまとめることに主軸があるわけで、彼らのキャリアの到達点とも言えるライブエイドにクライマックスを持ってくるのは必然だし、そこでそれまでのエピソードを回収するという王道の構成にしたのは英断でした。そのうえで、ある種のフラッシュバックとして彼らのヒット曲を機能させました。歌詞がフレディやバンドの道のりとリンクする、というより、観客の頭の中でリンクさせるように演出している脚本の手腕は輝いていました。

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さらに言えば、エピソードをチョイスする段階での恣意性(身も蓋もなく表現すればご都合)も介在してきます。これは当然のことです。フレディはとても多面的な人物だったので、全方位ではなく、そのどこかにスポットを当てなければならない。おそらくはそのスポットの当て方で、たとえばサシャ・バロン・コーエンは納得がいかなかったのでしょう。わりと幅広い層の観客を想定してあるので、HIVに罹患する経緯であったり、ドラッグの描写などは、示唆する程度にとどめてオブラートに包み、誰でも見やすいように配慮してあります。マネージメントやレコード会社の人間で明らかに悪役として一面的に描かれている人物も出てきます。ただ、それもフィクションなら当然のことですよね。
 
フレディの女性のパートナーであるメアリーをヒロインのように描くことに対する批判もあります。異性愛的な、マジョリティーの価値観で物語をくるむことで、フレディの人生や表現への理解を妨げているという指摘。僕はこれも的外れではないと思うけれど、その批判もまた一面的です。この映画を観て、それこそ異性愛者がLGBTへの差別感情を強めるとは思えないんです。むしろ、その理解を深める一助になっているはずです。
 
フレディが型にハマらない男だったと映画的にわからせる演出も、ちゃんとあちこちに張り巡らせてあります。僕が気づいたのは、フレディのピアノ。白鍵と黒鍵が逆で、黒ベースに白がある。サングラスに映り込む逆像も多用されていました。
 
これは関西の映画宣伝ならびにライターをしている田辺ユウキさんがFacebookで書いていたことを拝借しますが、歯が出ていること、愛の対象、彼が股下から観客及び世界を逆さまに観ることなど、色んな「逆」を見せている。

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それから、猫がピアノの上を歩くところは、フレディの愛するものが文字通り不協和音を奏でるのも、その後の展開を映画的にうまくリードしてました。
 
役者たちの物真似を遥かに超えるなりきりぶりには、圧倒されるし、登場人物たちの視線や何気ない仕草だけで、その時の人間関係をそっくり僕らに伝えてしまう演出も確かでした。特にブライアン・メイの視線や顔の傾け方とか、もう笑っちゃうレベルで似てるし、顔が物語ってましたね。僕はだんだん彼に感情移入して、終わる頃にはノムライアン・メイと化して涙していました。

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結局、この映画は、フレディ、そしてクイーンとその周辺の人物がいかに時々の思惑やしがらみや常識を超えて、広い意味でのファミリーとなったかということと、彼らの音楽が、なぜ彼らにしか鳴らしえないものだったのかを余すことなく描き、クイーンの評価を今新たに高める作品として、見事な出来栄えだということを僕は断言します。

放送では、サウンドトラックから『Radio Ga Ga』ライブエイド・バージョンをオンエアしました。名曲「ボヘミアン・ラプソディ」の誕生秘話として、6分という長尺はラジオにそぐわないからダメだとレコード会社にリリースを反対される場面があります。そこでフレディは、親しいラジオDJのところに曲を持って行って、オンエアの直談判をしてかけてもらうところがあるんです。

 

そんでもって、ライブエイドみたいな全世界に映像を中継するようなライブでも、この『Radio Ga Ga』をセットリストに入れていたことに、ラジオに携わる僕としてはかなりグッときたのです。

さ〜て、次回、11月22日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『人魚の眠る家』です。人の命とか、倫理観に触れる物語なんだろうなということくらいの、かなりうすぼんやりした知識ですが、とりあえず行ってきます。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

映画『ヴェノム/VENOM』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年11月8日放送分
映画『ヴェノム/VENOM』短評のDJ's カット版です。

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医療や宇宙開発など、最先端の科学研究で知られるライフ財団が、その裏で人体実験を行っているという噂を聞きつけたジャーナリスト、エディ・ブロック。真相を暴くべく、代表に突っ込んだ質問をしたところ、彼は業界を干され、財団の訴訟に関わっていた弁護士のガールフレンドに振られ、社会的に転落してしまいます。自暴自棄になっていたエディのもとに、ある日届いたのは、ライフ財団研究員からの内部告発。施設に忍び込んで人体実験の証拠を押さえるうち、彼は財団が宇宙から持ち帰ったシンビオートと呼ばれるドロドロした生命体と接触。そのまま寄生されて特殊能力が身につくと共に、その声が幻聴のように聞こえるようになります。
 
スパイダーマン映画化の権利を持つソニー・ピクチャーズが、マーベルのキャラクターを使って新たに構想するユニバースの1作目と位置づけられています。要するに、このヴェノムもそうですけど、スパイダーマンにまつわるキャラクターを、スピンオフというよりは、それぞれ単体で勝負するシリーズにしていきつつ、スパイダーマン本体とも、それこそ蜘蛛の巣のように複合的に繋げていこうということだと思います。

スパイダーマン3 (字幕版) ゾンビランド (字幕版)

 サム・ライミが2007年に手がけていた『スパイダーマン3』に敵として登場したヴェノムではありますが、はっきり言って、事前の知識は特に要りません。これが新しいユニバースの1本目なんで、構える必要なし。主役のエディを『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のトム・ハーディが、ガールフレンドをミシェル・ウィリアムズ、そしてライフ財団のトップであるドレイクを『ナイトクローラー』や『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』のリズ・アーメッドが演じています。そして、監督は『ゾンビランド』や『L.A. ギャング ストーリー』のルーベン・フライシャーです。

 
それでは、相も変わらずアメコミに対していつもわりとフラットかつクールめな僕野村雅夫がどう観たのか。制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

マーベル史上最も残虐とか謳われてたし、ポスターのビジュアルもしっかり気持ち悪いし、ヘタレな僕は『クワイエット・プレイス』の時みたいに、また両手で顔を覆うことになると思って覚悟して出向いたんですけど、あれはキャッチコピーのミスリードですね。思ったよりはグロくない。もちろん、ネバネバした形の定まらないやつが人間の身体に寄生するっていう気持ち悪さはあるけど、PG12指定なんで、『デッドプール2』よりもマイルドということになりますね。血しぶきなんて、まったく出ないですから。ただ、それを良しとするかどうかは、好みの分かれるところでしょう。描写に腰が引けているという見方もできるでしょうが、僕としては、むしろこれは『スパイダーマン』の世界観としては、ありだと思ってます。

スパイダーマン:ホームカミング (字幕版)

ほら、スパイダーマンはこの間のホームカミングもそうでしたけど、とにかくゴチャゴチャとくっちゃべってるじゃないですか。その軽口が、ユーモア、ウィットに溢れていて面白いっていう。ほら、ホームカミングだったら、ハイテクスーツに人工知能的なものが内蔵されていて、それまではスパイダーマンひとりの小言だったものが、途中から対話になる面白さがありましたけど、今回はエディとヴェノムの漫才みたいな掛け合いがひとつの大きな魅力になっていきます。はっきり、バディーものなんですよね。
 
ジャーナリストとして、テレビカメラの前では舌鋒鋭いエディが、実は普段はそこそこ腰の引けた男であるというギャップがまずあって、そこにヴェノムとドッキングして特殊能力を身につけることで、以前なら見て見ぬ振りをしていたような身の回りの悪事にも解決に乗り出す。あのガタイのいい男が、意外と腰抜けで、その実人格者でヒューマニスト。そういうエディの魅力を、すったもんだを繰り返しながらヴェノムが引っ張り出すのが面白いです。
 
たとえば、ある目的で高層ビルに潜り込む必要が生じた時に、ヴェノムがその能力を発揮して一気に壁をよじ登るんだけど、エディからしたら、そういうのは怖いからやめてほしい。だから、帰りは窓を突き破って空中へダイヴしようとするヴェノムを抑え込んで、普通にエレベーターで降りるとか爆笑でした。
 
アクションも基本的に楽しかったです。舞台となる坂の街サンフランシスコの特徴を要所でうまく画面に活かしていました。バイクチェイスのシーンもそうだし、ただエディが歩いてるだけでも、坂道の線が画面を斜めに横切ることで何となく不安に感じさせるとか、さりげないところにも工夫がありました。

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ただ、脚本ははっきり言って、かなり力づくです。決定的なところとして、シンビオートというエイリアンが結局何なのか、そしてヴェノムの考えていることとその変化がよくわからないんです。たとえば、お腹空いたっていうんだけど、特に手当たり次第って感じもないし… 寄生する先、宿主との相性があるっていうんだけど、その説明も曖昧。そして、途中からえらくものわかりがいいんですよね、ヴェノムは。なんでそうなったの? 
 
どうやらシンビオートにも社会があって、そこには世渡り上手もいれば、負け犬もいるっていうんだけど、それならそれで、少なくとも中盤くらいのところで、シンビオートの中のエリートであるライオットがどんな奴かってことをヴェノムに語らせるなりなんなりしておかないと、クライマックス直前になって急にそんな話しされても、ついていけないですよ。そのクライマックスも、いきなりものすごいハンドルの切り方をするので、振り落とされそうになります。だって、いきなり地球レベルの危険が湧いてきて、それを阻止するためのタイムリミット5分て! 短か! バイクとドローンのチェイスシーンの方がよっぽど長いやん!
 
あと、ガールフレンドがいけ好かないので、エディは振られてもI Miss Youってなってるけど、僕からすれば、あんな強欲弁護士は放っておけと言いたい。
 
本編は90分ちょいしかなくて、そのコンパクトさは僕は好きでしたけど、せっかくの面白いキャラクターと設定を活かすための脚本が練りきれていないかなと僕は思ってます。次作でその設定や物語展開の面白さを提示できないと、興味が先に立って集中力が持続した今回のようにうまくはいかないぞと釘は差しておきます。とはいえ、なんだかんだで笑って観てたので普通に次も観たいんですけどね。

リスナーからの感想が一際多かった今週。詳しくはTwitterで #まちゃお802 で検索をかけてみて覗いてみてほしいんですが、うちのディレクターの一言がうまかったです。

バディーものっていうか、「二人羽織り映画」! 確かに!


さ〜て、次回、11月15日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ボヘミアン・ラプソディ』です。曲が32も使われて、フレディの波乱万丈の人生に「心臓に鳥肌が立つ」らしいです。どんだけ~! あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

 

『search/サーチ』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年11月1日放送分
映画『search/サーチ』短評のDJ's カット版です。

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アメリカ、カリフォルニア州シリコンバレーの中心地サンノゼ。友達の家で泊りがけのテスト勉強をしていた16歳の女子高校生マーゴットが忽然と姿を消します。父デビッドは当初思春期の気まぐれぐらいに思っていたものの、翌日学校に行っていないことを知って慌てます。警察に通報して捜査が始まるものの、彼も独自に調査をスタート。娘のパソコンを閲覧してSNSにログインしてみると、父の知らなかった娘の交友関係や悩みが浮き彫りに。膨大な情報の中から真実を掴み、父は娘を救い出せるのか。
 
全編パソコンの画面を通して語られることで話題を集めているこの作品。監督のアニーシュ・チャガンティーは現在まだ27歳のインド系アメリカ人。これが劇場長編デビュー作。映画制作を学んでいた南カリフォルニア大学で当時指導助手をしていた脚本家のセヴ・オハニアンと共同で脚本を執筆したこの作品は、インディペンデント映画の祭典にして新人の登竜門であるサンダンス映画祭で観客賞など複数の賞を獲得。主役はアジア系で、スター俳優のいない映画ながら、当初9館だけだった公開規模はあれよあれよと全米1100館へと拡大して、堂々のヒットを飛ばしました。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、そろそろいってみよう!

トム・ハンクスメグ・ライアンが共演した98年のヒット『ユー・ガット・メール』がひとつのターニング・ポイントだったと思いますが、登場人物の考えていることをテキスト情報として観客に見せるという手法は、古くから手紙を小道具とすることで存在していました。『ユー・ガット・メール』も、実は文通で恋を育む1940年の映画『桃色の店』(エルンスト・ルビッチ)のリメイクでしたからね。手紙やメモがPCメール、携帯メール、チャット、ラインへと様変わりし、今ではスカイプやフェイスタイムなど、ビデオ電話もあって、映画でもそうした通信技術を物語に取り込んできました。文字情報が画面に出てくることは実際に多いですよね。安直なものも多いですけど、それはともかくとして、今挙げたものは、基本的に一対一のコミュニケーションなのに対して、TwitterFacebookInstagramなどSNSの特徴は、そのメッセージが特定の誰かに向けたものではないということでしょう。公開された日記のようなもので、そこには書き手の声にはならない気持ちが表現されていることもしばしば。もちろん、そこには本音を装った嘘も混じります。ベクトルがはっきりしていた手紙から考えれば、どれだけ複雑で混沌としていることか。さらには、スマホが登場したことで、人物の位置情報が残り、街中に点在するカメラが市民の動きを記録する。この映画は、こうした現代に飛び交う膨大なデータログ、つまりデジタルな記録・履歴とリアルタイムの交信だけで映画を成立させようという実験的な野心作です。

ユー・ガット・メール (字幕版) 街角 桃色の店 [DVD]

それと同時に、ミステリーとしてよく練られていて優れています。マーゴットはなぜいなくなったのか。誰かにさらわれたのか。手をかけられたのか。あるいは自分の意志なのか。そこには誰かの関与があるのか。失踪からの時間が長くなればなるほど、場合によっては生存も危うくなるわけで、ハラハラドキドキ。父の焦りも手に取るように伝わるし、予想が空振りに終わった時の悔しさと安堵感が入り混じった気持ちの複雑さ。真相はなかなか先が読めないし、伏線がしっかり後で回収される快感もある。執筆にあたって多くのクライム・サスペンスを参照して分析したというだけあって、筋立てはよくあるっちゃよくあるものだけど、よくできてます。
 
こういう疑念の声が聞こえてきます。「全編PCモニターってのは、話題作りであって、その必要性って本当にあるの?」。僕はこう答えます。「確かに普通に撮っていたら、普通のミステリーになっていただろうけれど、これはPCモニターを通したからこそ何倍も面白くなり、映画の伝えたいメッセージもよりクリアになっているんだ」と。

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ミステリーで大事なのは、観客に与える情報の量とタイミング、その物語の手綱を作り手がしっかりコントロールすること。たとえば、いかにも怪しそうな人を先に見せておいて、その人こそ犯人だと観客を間違った方向に誘導するミスリードも、このパソコン・モニター限定画面構成だとやりやすいんです。何しろ、僕らの視線はほとんどそのまま父デヴィットのものと一致するので、視野が狭い。なにしろモニターしか映らないので、画面の外、つまり現実に起きていることのほとんどは僕らは想像するしかない。その想像を監督は巧妙にミスリードする。
 
これはタイトルにも関わりますが、父が娘をサーチするために、彼女のライフログをパソコンでサーチすることで、結果として、ある理由から隠されていた彼女の悩みの本質が浮かび上がるようにもなっている。いくら技術が進んでも容易くはないコミュニケーションの難しさと喜び、そして家族愛がこのミステリーのテーマになっているんだけど、それはこの語りの手法とプロセスだからこそ、より説得力を持つんです。そのうえで、親が子を想うことのやるせなさとすばらしさを同時に味わえるラストなんて、もう最高でしょ。
 
画面は退屈するんじゃないのか。なんなら、それこそNetflixかなんかで、PCモニターで観るのがいいんじゃないかというのは間違いですね。この映画、撮影はたった13日で終わってるんだけど、編集と画面構成には何ヶ月もかけている。スクリーンの中にマルチ画面で出てくるすべての文字情報と画像が、実はかなり高度にデザイン化されていて、退屈とは程遠いどころか、驚くことにそのバランスが美しくもあるという。
 
また、この手のものは技術が日進月歩で進んでいくので、同時代にリアルタイムで観るべきでもあります。その意味で、面白さは僕が保証するので、これはもう迷わず映画館へお出かけください。

劇中には、Justin BieberとTwenty One Pilotsの名前が会話の中に出てきました。彼らがどれほど向こうのティーンネイジャーの心を撃ち抜いているかを教えてくれましたが、ここは父デヴィッドが独自捜査の途中で何度も娘に対して思っただろう「What Do You Mean?」という気持ちを汲んで(笑)、この曲をオンエアしました。
 
番組に届いた感想の数々で触れているリスナーもいたんですが、オープニングがそれだけで涙モノでしたね。この映画自体のチュートリアルであり、そこで家族の歴史をうまく提示し、あの一連のシーンがパソコンやネットの進化の振り返りにもなっていて圧巻。無駄なセリフもなく、あそこでしっかりテンポも作ってしまう見事な導入でした。
 
あと、これは文字演出としてベタっちゃベタですが、伝えようとしてやめておくといった、ためらい表現にはラインやショートメッセージは向いてるんですよね。そこにもしっかり伏線を用意してあるし、最後の一言ならぬ、ためらったけど最後に結局送信する言葉にもしっかりグッときてしまった僕です。


さ〜て、次回、11月8日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『ヴェノム』です。怖いよ〜。寄生する地球外生命体なんて、絶対にヤダ! 怖いもの見たさで観てきます。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!