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京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝紹介グループ「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM802で行っている映画短評について綴ります。

おススメの本 『遠い水平線』 アントニオ・タブッキ著

 「何故あの人が死に、私は生きているのか」
 数年前、幼い日を共に過ごした友人が亡くなったと聞いて、すぐさま実感など湧かず、しかし、遺影とお骨になった姿を見てはじめて、言いようのない動揺が襲ってきました。死という現前とした事実を前にしてそんな想いを抱くのは、ひどく不合理かもしれません。感傷だと非難されるかもしれません。しかし、私にとってその想いは、悲しみを増幅させるためでも、辛さから目を逸らそうとするためのものではなく、友人の死を現前にした瞬間にぱっと体の底から浮かび、そしてずっと離れない想いなのです。
 誰にも口にすることはありませんでした。そんな疑問は冒涜かもしれないと畏れてきました。しかし、一人でいる時、不意に不可解で言い知れない気持ちになることがありました。
 今回この本を読んで、そんな想いに同伴者を見つけたような静かな安らぎを感じました。私にとっては、本当に慰められる作品でした。人生のなかには、こういう贈り物のような読書があります。
遠い水平線 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
 作品自体の筋書きはとてもシンプルなものです。死体置き場に勤める主人公のスピーノが、警察と若者達の銃撃戦のなか殺されたカルロ・ノーボディという青年の死に興味を持ち、誰に頼まれるでもなく影のような探偵として彼の生い立ちを追っていきます。大まかな筋書きで作品を分類するなら、ミステリーに入るかもしれません。しかし、カルロ・ノーボディを殺した犯人探しはスピーノにとっては重要ではないのです。彼にとって重要なのは、「向こうは死んだのに、こっちは生きているという」想いなのです。青年の生い立ちと死を結び合わせようとするスピーノ捜索の日々と、彼自身をとりまく静かな生活や、心象や思索が絡み合い、いつのまにかスピーノがたどったカルロの像は水に落ちた絵の具の染みのように頼りない曲線をえがきながら消えていってしまいます。
 存在や偶然の秘密のような難しいものがさらりと、淡い印象で書き込まれ、誰が本当のことを言っているのかも嘘を言っているのかも分からず、死んだものに関する記憶のほうが生き生きとし、生きているものの影は薄い。死んだカルロ・ノーボディと生きているスピーノの面影が重なり合っていきます。

 読後、生きて存在しているということと死との境は、じつは水平線のように淡くおぼろげなものだということが心に残ります。愛や悲しみや存在の本当の秘密なんて、生と死の汀にあるのかもしれません。そして、その境目を見つめ続け追いかけすぎるのは、ふいにあちらへ踏み越してしまうような危険な行いなのかもしれません。

 私が持ち続けてきた疑問も、その汀にある気がします。明確な理由など挙げられませんが、その疑問は、わたしが生きているということと結びついているように思えてならないのです。

「それは、直感で理解できても、合理的な順序で表現したり、理由づけすることは不可能な、なにか、だった」
(p131)