京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

深紅の女 〜モニカ・ヴィッティのパリコレ〜

 日本に戻って1年が過ぎた。『チネチッタ滞在記』を終了し、これからはローマという枠を取っ払ってイタリアにかかわる映画を紹介していこうと新コラムのアナウンスをしていたにもかかわらず、今日にいたるまでほったらかしの私でした。あいすみません。ポンデ編集長の「まだかまだか」の声にせっつかれ、久方ぶりの登場です。

 OLとしての、多忙極まる生活。言い訳がましいようだけれど、自分の身体を日々養生するだけでとても大変だった。我らがドーナッツクラブのメンバーが『1日3時間しか働かない国』(シルヴァーノ・アゴスティ、マガジンハウス、2008年)の企画に躍起になっているのを尻目に、私は労働時間15時間+通勤時間1時間半という日々を送っていたのだ。残された時間はたったの7時間半。ご飯を食べたり、お風呂に入ったりといった人間として最低限保証してもらいたい行動をこの間に済ませないといけないのだ。もちろん睡眠も。まぁよくも半年間耐えられたものだと自分でも思う。

 しかし、このままではさすがに身が持たないということで、「1日3時間」とはいかないけれど、1日8時間にきっちりおさまる、より人間的な職場へとトラバーユすることにした(あ、こういう言い方はもう死語ですね…)。その新天地にもだいぶ慣れてきたということで、いよいよ私もコラムに復帰。『今宵はあなたとチン・チン・チネマ』という、どこかいかがわしさが拭えないこのタイトルでスタートしてまいります。

 日本に戻ってからも退屈しないようにとローマ滞在時にストックしていたイタリア映画のDVDを引っ張り出してはリストを作り、日本のプレーヤーではそのまま再生できないので仕方なく「コンピュータのモニタで鑑賞しなきゃいけないのね、味気ないわ」とため息をつきつつも、さてどの作品を初回にチョイスしようかとジャケットをパラパラ見ていると、挑発的なデザインのものが目に留まった。モニカ・ヴィッティ(Monica Vitti、画像下)主演の『ザ・スカーレット・レディー』(La donna scarlatta、ジャン・ヴェレール<Jean Velere>、1968年)。

 モニカ・ヴィッティと聞いて、日本の観客はどの映画を思い出すのだろう。『赤い砂漠』(Desert rosso、1964年)、『情事』(L’avventura、1960年)、『太陽はひとりぼっち』(L’eclisse、1962年)。私が真っ先に思いつくのはこの3本なのだけれど、かといって、眉間と脳に皺を寄せて思い出してみても、他に何か出てくるということでもない。同じような人も多いのではないかと思うが、さて、どうしてこのラインナップなのか。どれもミケランジェロ・アントニオーニ(Michelangelo Antonioni)監督が手掛けた作品だ。そう、モニカ・ヴィッティとアントニオーニの二人は切り離して考えることはできないのだ。1970年まで離婚のできなかったカトリックの総本山イタリアで、二人は戸籍上の夫婦にはなれない恋人同士だった。世間的に祝福されていなかった監督と女優が作り上げた世界は、そうした私生活を反映するかのように、都会に生きるプチブルの悲哀や倦怠感に縁どられていた。スクリーン全体に漂うけだるさ、物悲しさ、虚しさ…。

 アントニオーニの映画の中で、ヴィッティは笑うことが少ない。そして、たとえ笑ったとしてもそこには常に悲しさ、儚さが漂っている。から笑い、から騒ぎ。ゆっくりと時が流れるアントニオーニ色に染められた世界で、物悲しげなヴィッティに同性の私もよく見とれたものだ。

 弾ける爆弾ボディで小麦色の肌がまぶしいソフィア・ローレンSophia Loren)やクラウディア・カルディナーレ(Claudia Cardinale)を代表とするイタリア映画女優陣とは印象を異にするヴィッティは、先にも述べたように、アントニオーニ監督の映画女優というイメージが強い。だけど『赤い砂漠』後、プライベートで破局を迎え、やがて彼の映画には出演しなくなる。
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 だが、その後もイタリア最高齢93歳の現役監督マリオ・モニチェッリ(Mario Monicelli)、私の大好きな監督エットレ・スコラ(Ettore Scola)、イタリアン・コメディーの代表格の俳優兼監督のアルベルト・ソルディ(Alberto Sordi)などなど約50本の映画に出演しているというから、決して映画界から引退したわけではないし、むしろそれなりに精力的に活動してきたと言えるだろう。1980年の『オベルヴァルトの謎』(Il mistero di Oberwald、1980年)でアントニオーニ作品に1度だけ出演しているが、それも含め、アントニオーニ映画にはたったの5本しか出演していないという事実に驚かされた。ヴィッティと言えばアントニオーニというイメージだったから、「え、それだけ?」と拍子抜けしてしまったわけだ。アントニオーニはドキュメンタリー映画も撮ったりしていたが、監督として撮った劇映画はたったの18本しかない。寡作と言えば寡作だが、そのせいか傑作が多く、その傑作にはほとんどヴィッティが出演しているのだから、こうした勘違いが生まれるのだろう。

 さて、話を元に戻そう。『ザ・スカーレット・レディー』だ。裏ジャケを見るにつけB級の匂いが漂う。表(画像右)にはエッフェル塔が映っているけれど、典型的なイタリアン・コメディーだろうと思い、ジャケ買いしていたのだった。昔のイタリア映画を見ていると、主人公らがパリ旅行に出かけて行くという設定によく出会う。日本に置き換えてみると、九州の田舎の一家が、東京におのぼり観光に行くような感じなのだろうか…。これもそういう「パリもの」だろうと先入観を抱きつつ鑑賞した。

 DVDを再生しはじめてすぐに、私はその先入観が根本的に間違いであることに気づかされた。これはイタリア語映画ではあるけど、舞台はフランス、俳優もスタッフもほとんどがフランス人、そして監督もフランス人の異色イタリアン・コメディーなのだ。あの「パリもの」とも違う。いや、ここまでくると、イタリアン・コメディーと果たして言えるか、それすらあやしい。ただ、とにかくこのフィルムはそのすべてをヴィッティに依っているようなものだから、とりあえずはイタコメと定義してもかまわないのだろう。こんな調子で、いきなり余計なフィルム外の情報整理に追われたが、それでもフィルム、いや、ディスクはまわる。ストーリーはこうだ。

 主人公は、プロバンス地方はニースに住む、親の代からの金持ちの20代半ばの美女、ディアーナ。彼女の夫は、借金を重ねた末、彼女の父親が築いてきた工場と大邸宅を売り払うことになった。引き渡しの日、彼女は自分の宝石だけを鞄に詰め込み家を後にした。宝石をちゃっちゃと現金化した彼女は、絶望したように独りパリへ向かう。そして、仕事で毎週パリにやってくる夫を待ち受け、拳銃で殺し、その後自分も死のうと閃く。さてさて、その策やいかに。そんな話だ。

 流行りの服に身を包まれた、うら若き乙女のディアーナを演じるのが、もちろん我らがモニカ。パリ滞在中もモテモテである。破産しながらもなお華やかで、群を抜いて美しい。はしゃぐ彼女はあどけなく、そしてセクシー。でも、それはやはりただのから笑いであり、から騒ぎにすぎないのである。笑顔と微笑みの裏に、悲しげな曇り顔がしばしば垣間見え、なじみのヴィッティの独壇場だ。ただ、アントニオーニ作品のあの表情にお目にかかれるのが嬉しい反面、まだ元カレが演出したキャラクターから抜け切れていないのかなと意地悪い見方もしてしまうところだ。

 ヴィッティ以外には気持ちいいくらいに誰も有名どころがいないこの作品は、超低予算映画であることが容易に想像できる。プロットづくりも容易に安易になったのだろうか。たとえば、こんなシーン。当時は1960年代後半だから、ビートルズがまだまだ活躍していた頃だ。ちゃっかり彼らの人気にあやかろうという魂胆だろう、物語の途中で、ビートルズらしき4人組のバンドと通訳、そして彼らを取り囲む数十人にも及ぶ取材陣が出てくる。でも、制作費の都合上、もちろんビートルズという名前も出さないし、偽物4人はすこぶる安っぽかったりする。パロディーにしても芸のない感じが愛おしくもある。バカバカしくて、ちょいエロ。このへんはB級イタコメの真骨頂だ。どこにでもありそうな小粒な作劇術には、特に深みがあるわけではない(画像下の英語版ポスターの軽率さ、そして安易さときたら…)。
 
 では、映像はどうか。ハッキリ言って、期待はほぼゼロである。だいいち、監督の名前にまったく覚えがない。試しにイタリア語版ウィキペディアを検索しても、記載がない。正真正銘に無名の監督が撮っているわけだ。そして、もちろん低予算。そりゃ、期待もわかないわよ。

 ところが、である。そのどん底期待がうまい具合に外れ、私は思いのほか映像的に楽しむことになった。主人公にしても、その他の登場人物にしても、その心理描写をセリフではなく映像で示してくれるのである。セリフの出来が悪いからこうなるのか、それとも単に監督がはじけちゃったのか、そのあたりの事情はよくわからないし、それはこの際どうでもいいだろう。何はともあれ、なかなか憎い仕掛けがあちこちに張り巡らされていて、これが結構楽しい。鏡に映る顔や体、ガラス越しに見える姿、主人公が初めてお金目当てに男と寝る直前の顔が映る三面鏡、窓越しに見つめあう主人公と彼女の安否を気遣って追ってきた男の姿などなど、終始一貫して、何かに映りこむ映像を散らばしている。ああ、これこそ映画の醍醐味。配電線や鉄柱、エッフェル塔などで顔の一部や体の一部が隠れて見える主人公などもしばしば登場し、知らず知らず観客は映画に引き込まれ、主人公や彼女にぞっこんラブな男の不安を追体験してしまう。

 それから、色づかいもなかなか鮮やかで、この時代の作品らしく実験的だ。そこでもう一度ポスターを見直してみると、深紅・白・黒の三色とモニカ・ヴィッティの金髪で彩られていて、この突飛さだけでもかなり満足。60年代は原色ファッションが主流だったのだろうか。ここでは、色の持つイメージが不安や悲しみとその激しさを端的に示していて、これから起こる(かもしれない)事件を予感させる。ヴィッティが纏う服は、どれもが流行の最先端で、さながらファッションショーを見ているようだ(実際彼女はしょっちゅう「お色直し」をしている)。思いつくままに、その衣装を書き出してみよう。ヒョウ柄コートにオーバーニーの黒いブーツ。女医のような真っ白なシルクのパジャマ。淡いベージュのコートに白いブーツと赤いエナメルのハンドバッグ。群青色のスパンコールをあしらったドレス。道着風のシルクの白いパジャマ。黒いつばの付いた帽子と黒いピーコートに大きなネックレスを合わせた、まるでシスターのような姿。大きな黒いベルトの付いた赤い毛皮のコートと赤いエナメルの靴。白いファーのコート。「よくもまあ、90分そこそこの映画でこんなに着替えられるわね」と突っ込みつつも、しっかりどの衣装にも目を見張ってしまうのであります。さらには美術も鮮やか。彼女が宿泊するヒルトンホテルのレジデンスは、白地の壁に赤いシースルー生地のカーテンがかかっていて、床は同じく赤のじゅうたん。そこへ、白と群青色のソファー、白と赤のチェスト、赤と白と黄緑色のソファーを配置したかと思えば、数々の男たちから届けられる真っ赤な薔薇の花束がそこかしこに散らばっていたりする。ひとつひとつは確かに鮮やかで派手で豪奢なんだけど、こうも色を重ねられると、こちらは否応なく居心地が悪くなるし、視覚的に混乱してしまう。ヴィッティのような大金持ちの気持ちは庶民の私には想像しがたいものがあるけれど、監督はそれを見越してか、頼みもしないのにさりげなく彼女の心象世界へと私を誘ってしまう。やるわね、ヴェレール!

 なんのかんの言いながら、ラストはサスペンス仕立てでストーリー的にもきっちりまとめてくる。新境地を開拓したりするようなことは決してないけれど、モニカ・ヴィッティの既存の魅力は取りこぼさない。音楽はメロディアスで、編曲はフランス映画っぽくオシャレ。しかも、ここぞというところでバシッと挿入してくる。そして、映像的なお遊び(といったら怒られるかな?)の数々。この『ザ・スカーレット・レディー』、見応えあるじゃないのよ。DVD代は損じゃなかったわ。結局のところ、いくら全盛期は過ぎていたとはいえ、まだまだ映画を量産していた時代のB級映画って、やっぱりそれなりによくできてるものなんだと再認識させられました。