京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

パオロ・タヴィアーニ『遺灰は語る』レビュー

タヴィアーニ兄弟の弟パオロ・タヴィアーニが監督を務めた映画『遺灰は語る』が日本で公開される。兄ヴィットリオが2018年に亡くなり、弟パオロが一人で撮影した初めての映画だ。もともとのタイトルは”Leonora addio”といい、日本語にするなら「さらば、レオノーラ」だ。邦題『遺灰は語る』とは大きく異なるが、いろいろな事情で邦題が原題と異なるのはよくあることなので、それは大きな問題ではない。問題はレオノーラという女性の名前がタイトルに入っていながら、作中にはまったく登場しないということだ。いったいこのタイトルには、どのような意味が込められているのだろう。

 

 


まず、映画のあらすじを簡単に紹介しておこう。ノーベル賞作家ルイジ・ピランデッロが1936年に亡くなった後、「自身の灰は故郷シチリアに」という彼の遺言に基づき、紆余曲折を経て故郷のシチリア島まで送り届けられる。その珍道中を描いたオリジナルの中編映画だ。1984年にタヴィアーニ兄弟がピランデッロの短編で構成された『カオス・シチリア物語』を撮影した際に、この中編の構想はすでにあったらしいが、資金が底を尽きて実現には至らず、2022年になってようやく日の目を浴びた。その中編に、ピランデッロが亡くなる少し前に書いた短編小説「釘」から着想を得た短編映画がエピローグとして挿入されている。こちらはニューヨークのハーレムに住む少年が、たまたま落ちていた釘を拾って、年上の女の子と喧嘩をしていた赤毛の少女ベティを、その釘で動機もなく殺してしまうというもの。本作の前半に重きを置くなら、そのタイトルは邦題『遺灰は語る』が正しいし、エピローグに重きを置くなら「釘」となるはずなのだが、原題は、そのどちらでもない「さらば、レオノーラ」となっている。

 


実はこれはピランデッロの別の短編小説のタイトルだ。正確には句点と感嘆符がついて”Leonora, addio!”なので、「さらば、レオノーラ!」となる。士官のリコ・ヴェッリが、シチリアの田舎町でモンミーナに恋をする。彼女は四姉妹の長女で、オペラを歌い、男の同僚の士官たちを喜ばせながら奔放に暮らしている。ヴェッリは他の男たちを退け、モンミーナと結婚するが、嫉妬心からモンミーナを監禁してしまう。夫から暴力を受けながらも、二人の娘を授かったモンミーナは、時が経ったある日、夫の上着のポケットに入っていたチラシで、ヴェルディのオペラ『運命の力』が町で上演されることを知る。彼女は結婚前の過去を懐かしみ、娘たちの前でヴェルディの名作『イル・トロヴァトーレ』の一節を披露し、「さらば、レオノーラ!」と歌い切ったところで死んでしまう。

 

© Umberto Montiroli

 

イタリア現代文学を代表する作家ピランデッロは、メタ的要素を取り入れた演劇作品『作者をさがす六人の登場人物』が有名だが、その真骨頂は短編小説にあるとも言われている。彼は生涯を通して短編を書き続け、死によって全巻刊行は果たせなかったものの、『一年間の物語』と銘打ち、365編の短編集シリーズの編纂を試みるほど、短編の執筆に情熱を燃やしていた。本作のもととなった「釘」は1936年に、「さらば、レオノーラ」は1910年に、それぞれ発表され、後にいずれも『一年間の物語』に収録されている。

 

© Umberto Montiroli

 

映画に話を戻すと、遺灰をシチリアに運ぶ話と「釘」という二つの物語は、ピランデッロの死という共通点で結びつけることができるだろう。では、それよりもずいぶん前に書かれた「さらば、レオノーラ」と、二つの物語には、どのような共通点があるのか。

 

それはやはり、時に非情で不可解な「人間の死」ということになる。本作でピランデッロは死んで遺灰となって数奇な運命をたどる。「釘」では、釘が落ちていたこと、ベティを殺したことは「定めだった」という言葉が繰り返される。作中に存在しないレオノーラは、監禁生活から解放されるようにオペラを歌って死ぬ。これらの不可解な死は、ピランデッロではなく、タヴィアーニの表現として描かれている。文学作品に始まり、それを単に映画化する忠実さから離れていって、自分たちの映画に作り変えてしまう。それがタヴィアーニ兄弟の特徴だ。

 

© Umberto Montiroli

 

一つ例を出すと、本作の「釘」のパートで、シチリア島からアメリカに無理やり移住させられる少年が、犬の後ろ足を持って遊んでいる場面がある。渡米後、レストランの仕事が終わって一人になった少年は、もう一度犬の後ろ足を持って遊んでみる。母親のいるシチリアを懐かしく思い出しているように見えるが、実はこれもピランデッロの別の短編からの引用だ。日本語にも訳されている「手押し車」という作品で、社会的地位のある弁護士の男が、誰も見ていない隙に、老犬の両後ろ足を掴んで手押し車のように歩かせるという狂気じみた行為にふけることで、日常での正気を保つというあらすじだ。ゆえに「釘」の少年がこの行為に及ぶのは、陽気にレストランで働くいっぽうで、正気を保てない何かを心のうちに秘めていたという深読みも成立する。短く、何気ない場面だが、そういった場面や引用の集積が、ピランデッロの短編をタヴィアーニの映画へと変化させているのだ。謎多きタイトル「さらば、レオノーラ」もその集積の一部だ。


もう一つ付け加えると、タヴィアーニがピランデッロの短編をもとに映画を撮ったのは今回が初めてではない。タヴィアーニ兄弟の代表作『カオス・シチリア物語』、そして1998年の『笑う男』もまた、ピランデッロの作品から着想を得た作品だった。さらに言うと、特に後期のタヴィアーニ兄弟は文学作品から着想を得ることがほとんどだった。前作、2017年、パルチザン作家ベッペ・フェノーリオの小説を映画にした『ある個人的な問題 レインボウ』時には、兄ヴィットリオの体調がすぐれず、パオロがほぼ一人で撮ったらしいが、名義はタヴィアーニ兄弟とされた。完全に一人になった本作は、ピランデッロに立ち戻り、兄に捧げられている。「さらば」というタイトルは自ずと兄との死別も連想させる。いろんなことを深読みさせるタヴィアーニらしい映画だ。

 

文:二宮大輔

 


『遺灰は語る』

2023年6月23日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次公開
原題:Leonora Addio|2022|イタリア映画|90 分|モノクロ&カラー|監督・脚本:パオロ・タヴィアーニ|出演:ファブリツィオ・フェラカーネ、マッテオ・ピッティルーティ、ロベルト・ヘルリツカ(声) 字幕:磯尚太郎、字幕監修:関口英子
配給:ムヴィオラ