京都ドーナッツクラブのブログ

イタリアの文化的お宝を紹介する会社「京都ドーナッツクラブ」の活動や、運営している多目的スペース「チルコロ京都」のイベント、代表の野村雅夫がFM COCOLOで行っている映画短評について綴ります。

映画『音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年10月18日放送分

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4オクターブの音域と驚異的な声量を誇るロックシンガーのシン。スター街道まっしぐらの彼でしたが、その声は実は声帯ドーピングという喉に負担のかかり過ぎる方法で作られたものでした。長年にわたるドーピングの無理がたたってボロボロになっていたシンの喉は限界間近。そんな時、彼は歌声が小さすぎて何を歌っているのかろくに聞き取れないストリートミュージシャンのふうかと出会い、彼女の姿に自分を重ねるようになっていきます。ふたりの声はどうなるのか。そして、ミュージシャンとしてのふたりの行方は?
 
監督・脚本は三木聡。このコーナーで彼の作品を扱うのは初めてなので、軽くどんな仕事をしてきた方か触れておくと… もともとは放送作家として、タモリ倶楽部ダウンタウンのごっつええ感じトリビアの泉など大ヒット番組に関わりながら、シティボーイズの舞台演出を手がけました。その後、ドラマ演出にも活躍の場を展開します。2006年の「時効警察」が代表作。映画は2005年の『イン・ザ・プール』が長編デビュー作。他にも『転々』や『インスタント沼』など、笑いの小ネタを無尽蔵に挟み込む独特な作風で知られています。

イン・ザ・プール 転々

前提として言っておくと、僕は三木聡作品で好きなものも結構あります。とりわけ、一見何の変哲もない人物が、あくまで日常的な風景の中で生きているのに、いつの間にか得体の知れない体験をしてしまったり、その人の深層心理が表面化してシュールな展開を見せていくタイプのものが、僕は観ていて痛快に感じます。彼の演出の基礎となる笑いと物語の大小の歯車が噛み合った時の突き抜けっぷりは素晴らしいと思います。
 
シンとふうかを、阿部サダヲ吉岡里帆が担当。千葉雄大小峠英二、さらにはふせえり松尾スズキ麻生久美子岩松了など、三木聡作品常連のキャストも揃いました。音楽映画ということで、HYDEいしわたり淳治あいみょん、KenKen、never young beach橋本絵莉子と、802ゆかりのミュージシャンたちも、サントラへの曲提供や演奏、あるいは出演をしていて、それも話題になっています。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

タイトルからもわかるように、最大のモチーフは声です。ふうかはなぜ声が小さいのか。生まれつきのことではなくて、簡単に言えば、自分に自信が持てないでいるから、どうしても周囲の目ばかりを気にして、その結果として堂々と歌えない。その姿を見て、しんとしては、そんなんなら、音楽なんてやめちまえ、と。ふうかの自信のなさは行動にも現れています。たとえば、このギターはまだ弾きなれてないから、今回のオーディションはやめとく、とかね。そこで、「やらない理由を探すな」という、最大のメッセージが登場します。本当にやりたいんだったら、一度とことんやってみないと始まらない。力は試せない。その通りだと僕も思います。だけど、そのメッセージを声の大小だけに集約させているのが、僕は最大の問題だとも思ってます。
 
これは僕が予告で感じていた疑問なんですけど、声が小さいとダメなのかと。確かにストリートで弾き語るなら、せめてストロークするギターに負けないくらいの声を出せよタコっていうツッコミが成立するのはわかりますよ。あとは、シンがやってるようなラウドロックも、そりゃ声がデカくないとダメだろうし、デスボイスのひとつもできないと話にならない。でもさ、ふうかのやってる音楽って、そういうんじゃないでしょ? 音楽ジャンルは何もロックばかりじゃないんだし、ステージに立つならマイクがあるわけで、ある程度の声量はあるに越したことはないけど、より問われるのは表現力と説得力でしょう。こうした疑問は解消されるどころか、気づけば精神論にすり替えられるんです。ロックだロックじゃないってなぼんやりした話になっちゃう。どうも、話として、声のシンボルが機能しきってないから、乗り切れないんだと僕は分析してます。

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僕が三木作品で評価している笑いと物語の歯車が噛み合う場面は、あるにはありました。店構えも店主も料理も怪しすぎる「喜びそば」のくだりなんかは最たる例です。この店はやめておこうというふうかに対して、ふせえり演じる魔女みたいなおばさんは、食ってみようぜと誘う。その結果、めちゃうま! 食べログの評価ばかりをあてにして、自分の味覚が置いてきぼりになりがちな風潮へのツッコミになってるし、それがまたふうかの何かと弱腰なスタンスとも合致してるから、笑いに意味があります。ただ、その他はもうどれもこれもテンションで押し切る笑いばかりで、やりたいだけになっちゃっていたのは残念でした。急に入るギャグ、ショートコント風の過剰な芝居が、物語から完全に浮遊してる。ハイテンションでの罵詈雑言、キレ芸みたいなのも、あまり使いすぎるとしんどくなるじゃないですか。映像の流れも同様で、やたらカメラがガチャガチャして、せっかくの「喜びそば」の場面だって、導入で無意味にカメラをひっくり返したりするもんだから、ただでさえ筋が弱い物語なのに、余計に集中できなくなります。
 
あと、一連の韓国のシーン、あれは本当に必要なんですか? 妙なステレオタイプを補強するだけに思えて、笑えないし快くもないし、まったくもって誰得でした。
 
やたら部品の数が多い車に乗って、豪華には見えるんだけど、エンジンをかけたら、途中でガソリンタンクもアクセルペダルも吹っ飛んで失速。慣性の法則で最後まで走りきりはしたものの、ドライブの爽快さからはほど遠いみたいな、そんな印象を受けてしまいました。


さ〜て、次回、10月25日(月)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、なんと『2001年宇宙の旅』です。マジか… どの映画史の本も触れるようなスタンリー・キューブリックの超のつく名作に何を言えばいいんだ、僕は… 製作から50周年。IMAXで観られる貴重な機会をとにかく楽しむ、というか、浴びるようにして体験することにしましょう。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

 

『イコライザー2』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年10月11日放送分
映画『イコライザー2』短評のDJ's カット版です。

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元CIAのロバート・マッコール。妻を亡くし、ひとり修道士のように静謐な暮らしを続けています。ホームセンターの職員だった前作から転職し、現在はUberのようなタクシーサービスの運転手。余暇には読書をしたり、ラジオを聴いたりという日々を送りながら、周囲の人々の身に何か困り事や災難が持ち上がれば、時にさりげなく、時に実力行使をしてでも、悪や不正を正す=イコライズしています。ある日、CIA時代の上官で親友のスーザンが殺害されたとの報告を受けた彼は、独自に捜査を開始。彼女が携わっていた任務の裏に横たわる闇を突き止めると、マッコールの身にも危険が迫ります。

イコライザー (字幕版) 

主演は引き続き、オスカー俳優デンゼル・ワシントン、現在63歳。これがキャリア初の続編出演となる他、製作にも名を連ねています。思い入れのある作品であることがうかがえますね。監督は、デンゼル・ワシントンとのタッグがこれで4度目となるアントワン・フークア。また、道を外れそうになる美術家志望の黒人青年マイルズを、『ムーンライト』で主人公の少年期を演じたアシュトン・サンダースが担当しています。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!
 
前作の頭で、マーク・トウェインの言葉が引用されていました。「人生で最も大事な日は2日ある。生まれた日と、生きる意味を見つけた日だ」。妻を亡くしてしまった悲しみを抱えながら生きているマッコール。前作では、クロエ・グレース・モレッツ演じる歌手志望のコールガールを泥沼から引きずり出してやることで、CIA時代とは違って名もなき人々を悪や不正から守るイコライザーとしての覚醒、哲学や生き様を見せつけました。今回もスタンスは変わりません。むしろ、続編だから説明も省けるということで、特に前半の人助けエピソードのバリエーションを増やし、彼の価値観=正義感により厚みと奥行きを持たせています。その意味で、タクシー運転手という設定は効果的でした。色んな客が乗ってくるわけですから。別に鉄拳制裁まで及ばなくても、さりげない一言で乗客をより良き方向へと導いていく。その姿はまさに修道士のようでした。

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とりわけ印象に残ったのは、前回のモレッツちゃんに相当する黒人青年マイルズとの関係。僕が思い出したのは、10年前の名作『グラン・トリノ』のクリント・イーストウッドです。今やほとんど天涯孤独の身である老境の男が、ふとしたきっかけで世代の違う血縁もない若者と疑似的な親子関係を築くにいたり、やがて身を挺してでも相手を救おうとする。似てますね。今回はマッコールの住むマンションの庭を整備している婦人がイスラム圏の出身でした。そのあたりも、現実にはないがしろにされている開かれたアメリカという国家の理想を象徴する役柄の配置だったと思います。考えてみれば、『グラン・トリノ』のイーストウッドもマッコールも、それぞれ元は国家に使えていた人間です。それが今では、もっと実態の伴う身近な市井の人々に関心を寄せる存在になっているのがポイント。これはマッコールの読んでいる本のセレクトからも静かに浮かび上がってくるメッセージでもありますが、マイルズに対してはっきりと口にしています。確かに、現実は人種差別や貧困などで人生を投げ出したくなるほどに理不尽だし取り付く島もなく見えるけれど、それを言い訳にしていては身を滅ぼしてしまう。なりたい自分になるべきだし、そのためにも正しきことを為すべきだという哲学です。イコライザーはその手助けをしているわけですね。もちろん、これは現代のおとぎ話なので、マッコールの取る行動は極端だし褒められたものではないんですが、こうした作品が受けるのは、とかく無関心の事なかれ受け身態勢が横行する世の中だからこそってことも言えると思います。その意味で、枝葉のエピソードを回収したエピローグはひたひたと静かな感動が押し寄せましたね。

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それにしても、マッコールは今回も怒らせたら大変です。身の回りのもの武器に変えてしまう戦闘方法は数としては少なくなっていたものの、たとえば薬物で女性を弄んでいたサイテーな金持ちのボンボンをその象徴たるクレジットカードで斬りつけるところとか、乗客になりすました暗殺者とタクシーの中でやり合う場面、そしてクライマックスの爆発シーンなんかは前作とは一味違う新鮮さがありました。何より、デンゼル・ワシントンの演技がもう絶品。ただ椅子に座っているだけでも感情が伝わってくるんですよ。凄みが半端ない。そして、今回はマッコール探偵とでも呼びたくなる推理シーンが楽しめたのも良かったです。それも、あくまで映像で彼の頭の中の思考の流れを僕らに悟らせる演出で、好感が持てました。
 
ということで、イコライザー2は続編として立派な成功作だと言えます。守るべきルールは守り、変化させるところはためらわない。まだマッコールの過去がすべて明らかになったわけじゃないし、早くも3を楽しみにしてしまう、興奮と期待が昂ぶる1本でした。
 
このJacob Banksって方、ナイジェリア出身で、現在はUKで活動するシンガーソングライターのようですが、僕はかなり気に入りましたね。予告とエンド・クレジットで使われています。
 
僕らって特に都会に生きていると、衣食住、そして人生のあらゆるステージで消費者になってしまっていると常々思っているんですけど、マッコールのこの「自分が何とかしないとダメになる。僕が解決の糸口をつかむんだ。困ってる人がいたら、手を差し伸べるんだ」ってなスタンスそのものは、やっぱりかっこいいです。対応策はまったくもってやり過ぎだし、見習えないし、見習うべきじゃないんだけど、娯楽作でそこまで伝えてくるこのシリーズは、僕は断固支持なのさ。
 


さ〜て、次回、10月18日(月)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!』です。三木聡監督、阿部サダヲ出演。そこに、吉岡里帆。そして、麻生久美子松尾スズキ。この濃ゆい足し算が吉と出るのか凶と出るのか、品定めしてまいります。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく! 

『クワイエット・プレイス』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年10月4日放送分
映画『クワイエット・プレイス』短評のDJ's カット版です。

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音にのみ反応して所在を突き止め、即座に人間を捕食する謎のクリーチャーが大量に出現し、壊滅的な被害を受けた世界。アメリカの片田舎にある農場に身を潜める一家がいました。夫のリーと妻のエヴリン。思春期を迎える耳の聞こえない長女リーガン、まだあどけなく臆病な弟マーカス、そして4歳の末っ子3人の子どもたち。声が出せないので会話は手話。生活動線には砂をまいてその上を裸足で歩くなど、何をするにも音を立てないように気を配る生活。そんな中、エヴリンは妊娠し、出産予定日が迫ってきた。一家は生き残ることができるのか。
 
監督、脚本、製作総指揮、そして夫リー役での主演と大車輪の活躍を見せたのは、ジョン・クラシンスキー、38歳。実生活でもパートナーであるエミリー・ブラントをエヴリン役に抜擢しました。長女リーガンを演じたミリセント・シモンズは、彼女自身も聴覚障害者です。弟マーカス役は、ノア・ジュプが担当。この男の子は将来有望ですよ。『サバービコン 仮面を被った街』『ワンダー 君は太陽』と、それぞれ存在感を発揮していたこの13歳が、今回もいい仕事をしています。
 
ちなみに、ジョン・クラシンスキーが脚本も手がけたとお伝えしましたが、クレジットには彼も含めて3人の名前があります。もともとこの設定は、その残る2人の若手脚本家コンビ(スコット・ベックとブライアン・ウッズ)のアイデアです。なんでも、大学時代に浴びるようにサイレント映画を観ていたそうで、音が鍵となる今回の設定はその経験に着想の源があると言われています。
 
今年3月、ミナミホイールのお手本とも言うべきアメリカのSXSWで初上映されたこの作品は、比較的低予算にも関わらず、口コミによるヒットが拡大し、『レディ・プレイヤー1』や『グレイテスト・ショーマン』を超える興行成績を叩き出しての日本上陸です。
 
それでは、息を殺し、時には両手で目を覆い、それでもその隙間から薄目でスクリーンを凝視したホラーが苦手な男、僕マチャオが挑む制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

僕の評価を結論から先に言います。設定のアラは確かに目立つものの、それを上回る魅力のある作品です。先に説明不足や設定に無理があると指摘されている代表的なところをいくつか挙げておきましょうか。
 
まずはあのクリーチャーについて。どうやら目は見えないか、そもそも存在しないようで、その分、聴覚が異常に発達しているようです。全身は甲殻類のように強靭な殻で覆われているので攻撃に対してとても強いうえ、何よりも動きがスピーディー。超高速移動して現場へ急行する狩人なので、「音を立てたら、即死」すると。確かに手強い。ていうか、太刀打ちできない。従って、声を潜めて生活音も極限まで抑えながら暮らすことになる。何か物を落としたら、奴が飛んでくるんじゃないかと怯える、死の恐怖と隣り合わせの生活です。ただ、いかんせん説明があまり無いため、ではどれくらいの音ならセーフで、これ以上はアウトだっていうボリュームの線引きが何となくしかわからない。奴らが捕食するのは動物全般のようだけれど、生き物が立てた音とそうでないものをどう区別しているのかは謎です。

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そして、エヴリンの妊娠ですね。映画はクリーチャーたちがこの世界を蹂躙し始めて80日くらい経ったところから始まります。その後も、章立てするような調子で、「あれから何日」みたいな字幕が途中で挟まれるんだけど、途中で僕らは気づくわけですよ。「おいおい、奴らが来てから妊娠したんかい!」と。赤ん坊って、音を出さずにはいられないわけだから、出産するってのは、つまり一家心中ですよ。
 
他にも、電気の調達の仕方や、あんなところに釘は打ってないだろうとか、色々言いたいことがある人はいるでしょう。こうした要素がそれこそノイズになって、映画にノレないということになりかねない。僕もそこは否定しません。僕は僕で、あの農場全体に張り巡らせたライトに疑問を持ちましたからね。こんな大掛かりな仕掛けを、よくもまあ音を立てずに設置できたなと。
 
がしかし! こうしたつっこみどころをもって、それこそあのクリーチャーみたくこの映画をザクって切り捨てるのはあまりにもったいない。魅力はふたつに大別できます。
 
物語の抱えるテーマの芯の太さ。そして、物語運びなど、なかなか巧みな演出です。
 
これは「親とはどうあるべきか」と「来るべき自立に向けて成長する子ども」を描いた家族の物語です。意外にも思えるかもしれませんが、その意味で似ているのは、電気の止まってしまった日本でさすらう家族の姿を描いた矢口史靖監督の『サバイバル・ファミリー』かもしれません。実際、クラシンスキー監督がこの話に惚れ込んだのは、親が子を脅威から守るという設定だったからだそうです。この設定の最大のポイントは、音を立てたら自分が死んでしまう恐怖ではない。自分の不注意が、自分の最愛の人を死に追いやってしまうかもしれないという点です。ご近所さんが不意に出てくる場面がありますが、あそこも愛する人を失う恐怖というテーマを補強しています。実のところ、序盤である悲しい出来事が起こりますね。家族はそれぞれにその欠落を表面上は埋めたようでいて埋めきれてはいない。それでもコミュニケーションをそれぞれのやり方で取っていく。あるいは取れないでいる。そうやって、親として子として、たくましくなっていく。妊娠についても、僕はその文脈で納得しています。極端な話、そこが描ければOKなんです。

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だから、脚本からは極端に説明が削ってある。たとえば、クリーチャーについて。そんなもん説明し始めたらもう大変でしょう。結果的には英語でも字幕処理をしてある手話での会話も、本当は字幕を入れたくなかったようです。でも、それではさすがに補聴器のくだりとか観客に伝わらないという判断をしたと。このエピソードが教えてくれるのは、監督がそれほどに説明を排し、観客の想像力を研ぎ澄ませようとした志です。これ、ナレーションとか付いてたら興ざめですもん。
 
多くのSFやホラーがそうであるように、この設定も現実の何かを象徴しています。たとえば監督は「危機から目を背けるアメリカの政治を風刺できる」と考えたようだし、僕なんかは家族のあり方にいちいち攻撃をしてくるモンスター的な親戚や世間の常識みたいなものについても考えを巡らせることになりました。
 
情報を出すタイミングと量に細やかに気を配った演出だけでなく、予告にもあるオープニングのロケットのおもちゃを巡るくだり、エヴリンの妊娠について観客に悟らせるさりげないカット割り、そしてあれだけの危機が長期戦で続く中で人間性を失わずに生きる彼らのささやかな団らんをも見せつつの全体としての緊張感の持続。監督の腕は確かでした。
 
予算はそりゃB級だけれど、それによる制約をむしろ逆手に取ったチャレンジとして、僕はこれは拾い物の忘れがたい1本に出会えたと、まだ興奮しています。

ありものの曲は使わないものだとてっきり思っていたら、意外なところでこの曲が流れてきてほっこり。というより、すごくロマンティックでキュンときました。歌詞もリンクさせたりしていて、良かったです。

 

 さ〜て、次回、10月11日(月)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『イコライザー2』です。マッコールさんは1の時のホームセンター店員からタクシーの運転手に転職した模様ですね。今回もすごそうだ! 2週連続、劇場で手に汗握ります。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく! 

『コーヒーが冷めないうちに』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年9月27日放送分
映画『コーヒーが冷めないうちに』短評のDJ's カット版です。

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時田数という若い女性の働く喫茶店フニクリフニクラ。ある席に座ってコーヒーをカップに注いでもらうと、それが冷めるまでの間は過去に戻れるという都市伝説がありました。その噂につられてやってくる客たちのタイムスリップを題材にしたオムニバス形式のヒューマンドラマです。幼馴染と喧嘩別れしたOL。いつも様子のおかしい熟年夫婦。両親や妹を避けて暮らすご近所さんの女性。数に想いを寄せていく大学生。そして、ある席をいつも陣取る謎の女性とマスター。季節の流れとともに、移ろっていく彼らの人間模様が描かれます。

コーヒーが冷めないうちに

原作はサンマーク出版から出ている同名小説なんですが、著者の川口俊和さんはかつて劇団の座付き作家、演出家として活動していた方で、この物語ももともとは戯曲なんです。2010年に演劇ワークショップ用に書かれ、やがて舞台となり、それを観た出版社の編集者が感動してノベライズを依頼したという流れなんだそうです。
監督は『重版出来!』や『アンナチュラル』など、TBSのTVドラマでキャリアを積んできた女性、塚原あゆ子。映画はこれが初メガホンです。脚本は、『時をかける少女』などの細田守作品で知られる奥寺佐渡子。
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主演は有村架純で時田数に扮した他、深水元基薬師丸ひろ子松重豊、吉田羊、松本若菜石田ゆり子などが参加しています。
 
それでは、制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

僕は時間にまつわる表現が好きです。映画、音楽、そして演劇。どれにしたって、作品それ自体が、一定の上映(演)時間や再生・演奏の時間を伴うものだから、時間表現と相性がいいと思うんですね。そして、僕らだって、死んでからでないとそれがどれくらいの尺なのかはわからないけれど、人生という作品の上映時間のようなものから逃れられない。しかも、僕らが乗せられているタイムコードには、この作品の中に出てきた、火のついた蚊取り線香のように、ただひたすら現在というものを紡ぐしかなくて、チャプターを飛ばすことも、逆戻りすることもできない。だからこそ、時間を編集して自在に配置できる特に映画というメディアに人は文字通り夢中になるし、タイムトラベルというもとはSFのジャンルだったものが、こうしてファンタジックにそれこそ繰り返し物語の道具立てとして利用されてきました。
 
ただ、タイムトラベルにはいつも、映画内の言葉を借りれば「面倒くさい」ルールが設定されるわけです。でないと、何でもありになるんでね。最近の秀作だったリチャード・カーティスの『アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜』なら、その一家の男性だけが、なぜかクローゼットに入ってギュッと手を握るとかいった調子。で、今作は冒頭にご丁寧に文字化されて出てきますが、5つもあるんですね。より大事なものをまとめて言うと… 過去に戻って何をしようと、現実は変わらないし、空間移動はできないから喫茶店は出られない。そして、過去に戻っていられるのは、コーヒーが冷めきるまでの短い間だけ。だから、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』みたいな大それたことなんてはなからできないわけです。 

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たとえば、過去に戻って、わだかまりのある相手に当時の心境を聞いてみるとか、どうしたって、わりとささやかなことしかできない。それでも、過去は改変できなくても、あの時に言えなかったことや、すれ違ってしまっていてわからなかったけれど相手は本当はこう思っていたんだっていうことに気づくことによって、今の自分自身のスタンスや心の持ちようは変えられるし、それに伴って未来だって変わるかもしれない。そんな、ささやかなことでも、僕らの人生は変わるのだろう。そして、現実の僕らにはフニクリフニクラという喫茶店はないけれど、過去の記憶を映画のカメラのようにカットバックして見方を変えることで、似た体験はできるかもしれない。
 
この物語に人々が惹かれる理由はおおよそそんなところでしょう。喫茶店には雑多な人が集うから、幼少期、青春、壮年、熟年とライフステージも取り揃えられるし、恋愛、自立、病気、事故といった誰にも関心があるテーマを少しずつ配置できるという利点がある。設定として、よくできていると思います。
 
ただ、これはあくまで設定としてって話ね。具体的に映画としてどうだったかと問われれば、僕はすんなりとは褒められないところも多かったです。
 
まず脚本から。原作からの大きな改変ポイントとして、喫茶店のマスターの妻を省いて、共に働く主人公の時田数(有村架純)にその役柄を集約させてあります。悪くはないんですが、もともとは狂言回し的な立ち位置だった前半と、彼女にぐいぐいフォーカスが当たっていく後半への移行がスムーズでなかった印象があります。そして、映画オリジナルのクライマックスのからくりは、どうもはぐらかされたような感じがするでしょう。矛盾があるような気がしてならない。ストンと腑に落ちない。これは原作を改変したひずみです。

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細かいところは、いっぱいありますよ。現在では熱々だったコーヒーが過去に行くとなぜいつもぬるいのか。コーヒーにこだわるのは当然として、この店はドリップなのかサイホンなのか、どっちなんだ。おい、過去からモノを持って戻れるなんてルール知らないぞ。原作にあるのか知らないけど、フニクリフニクラっていう店名の由来は入れてほしかった。あと、タイムトラベルに驚く客を前に、数が口にした「手品みたいなもんです」ってセリフは軽すぎやしませんか。
 
続いて、演出。一言でまとめれば、全体的に軽いんです。大画面で観る映画になりきれてはいないです。もとが演劇だからって、役者の演技もオーバーに導くことはないでしょ。タイムトラベルをする場面は腕の見せどころで、あの水と無数の額縁を使った装置は僕はそれ自体良かったと思うけれど、あるキャラがそれを見越して取った行動はもうノイジーなギャグでしかなかったです。そういう笑いを取りに来るわりには、サントラが仰々しい。そして、そのわりには、カット割りが顔アップ多めでテレビっぽいし、照明もスポットの当て方とかテレビっぽいというか演劇っぽい。つまり、映画らしさに乏しいのは残念でした。
 
その結果として、タイムトラベルがなんかゲームっぽく見えちゃって、確かにいい話ではあるけれど、どれも踏み込みの浅さが否めません。有村架純松重豊薬師丸ひろ子あたりはかなり好演していただけになぁ。映画だから派手にするってのが必ずしも正解ではないってことを、この種のささやかな話を映画化するにあたっては考えてほしかったです。
 
ともあれ、僕も不覚にも目頭が熱くなる場面があったし、何より自分の人生についても考えるきっかけになる物語ではあるので、ご覧になってみてください。

さ〜て、次回、10月4日(月)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『クワイエット・プレイス』です。もう、この映像を観ているだけでもガクブルなんですけど、果たして僕の心臓は終映までもつんだろうか… あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

 

『プーと大人になった僕』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年9月20日放送分
映画『プーと大人になった僕』短評のDJ's カット版です。

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幼い頃にプーさんやその仲間たちと近くの森で遊んでいた少年クリストファー・ロビン。その後、寄宿学校に入り、大人になって恋をし、戦争に行き、結婚して娘を育み、大企業で中間管理職に就きながら、ロンドンで暮らしていました。楽しみにしていた実家のあるサセックスへの家族旅行の直前。威圧的な上司から、クリストファーのいる高級旅行鞄のセクションの事業効率化と人員整理を命じられます。休日返上して働けというお達しを受けて、クリストファーはひとりロンドンに残ります。公私共にうまくいかず途方に暮れた彼のもとに突如現れたのは、かつての友達、くまのプーさんだったのですが…

クマのプーさん (岩波少年文庫 (008)) くまのプーさん/完全保存版 スペシャル・エディション [Blu-ray]

 1926年に発表されたA・A・ミルンの児童小説”Winnie-the-Pooh”。世界中で翻訳されていますが、日本での紹介も早く、1940年にはもう石井桃子による訳が岩波書店から出ています。映像面では、ディズニーが60年代から短編を作ってきましたが、長編としては1977年に『くまのプーさん 完全保存版』っていうのがまず発表されて、これで6本目。そして、初めての実写映画化となります。

 
監督は、49歳のマーク・フォースター。『チョコレート』『007 慰めの報酬』『ワールド・ウォーZ』など、幅広く、そして手堅く演出できる人物です。脚本には、『スポットライト 世紀のスクープ』を監督・脚本したトム・マッカーシーや、黒人差別と宇宙開発をモチーフにして大ヒットした『ドリーム』のアリソン・シュローダーがクレジットされています。このあたり、さすがはディズニーっていう盤石の座組ですね。
 
そして、主人公の大人になったクリストファー・ロビンを演じるのは、ユアン・マクレガーです。
 
それでは、熊と言えば、パディントンあるいはテッドが好きな大の大人マチャオがどう観たのか。制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

ぬいぐるみを持ったこともなければ、原作を手に取ったこともなく、なんならこれまでの映像化にもまったく接してこなかったプー弱者の僕です。さすがにこれはまずかろうということで、お告げがくだってから、とりあえず観たのが初の長編『くまのプーさん 完全保存版』でした。これがかなり忠実というか、面白い演出になっていて、オープニングは実は実写なんですよ。無人の子供部屋があって、そこにプーさんの原作が置いてある。その本にカメラが寄っていって、ナレーターが物語っていうか、本の中へと誘っていく感じ。本編に入ってからも、ちょいちょい、原作ではこれは何ページだとか言っちゃうようなメタ・フィクションっぷり。フィクションであることを隠すことなく、むしろ意識させる演出なんですね。
 
そもそも、プーっていうのは、原作者のミルンが、実在の息子であるクリストファー・ロビン・ミルン持たせていたテディベアで、サセックス近郊の100エーカーの森ってのも、実際にそういう場所があるらしいんですよね。つまり、これはもともと現実とフィクションが互いにもたれあったような物語世界なわけです。そのあたりを、今回の映画化でも強く意識していると思います。なにせ、実写映画化ですからね。そして、手がけるのはディズニーですよ。別に何かアニバーサリーっていうタイミングでもないからには、お得意の社会的なメッセージが織り込まれているはず。原題はシンプルに「クリストファー・ロビン」。プーは入ってないんですよね。
 
映画が始まって、ロビンの半生をダイジェストでザッと見せるところで、ここでも原作の挿絵のタッチと実写映像が何度も出てくるのは同じなんですが、実は決定的な違いがあって、本が出てこないんですよ。つまりですね、クリストファー少年は、100エーカーの森でプーたちと「実際に」遊んでいたっていうことなんですよ。設定としてね。正直、ここがちょっと混乱を招くところではあるんですけどね。この世界はどうなっているんだという。ロンドンでプーさんと再会したクリストファーは、喋れるし、動けるぬいぐるみのプーを人目に触れないようにするあたりで「そういうことか」と分かって、その後の展開では、特殊なぬいぐるみたちだってことがバレないように行動するっていうのが、特に後半ハイライトにかけてのコミカルなドタバタ劇を生み出す効果を生んでいました。

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ただ、それ以上にテーマやメッセージにとっても、とても大事な効果があったと思うんです。それは、当たり前だけど、プーたちに「実際に」会えるってことですね。それによって、本を読んで思い出すとかじゃなくて、彼自身の幼い頃に「現実に」引き戻されるってことです。しかも、あのマジカルな100エーカーの森へも「現実に」行くわけです。こうすることで、より説得力を持つし、よりエモーショナルですよね。この設定変更はかなり功を奏していたんじゃないでしょうか。
 
で、肝心のメッセージですが、これはもうはっきりと、「何もしないをすること」の大切さを思い出せってことだと思います。「何者でもない」人が「何者かになる」っていうのは、人生における大事なことと世間では言われるわけですよ。「社会的な役割を持つ」と言い換えてもいい。でも、それって、本当にあなたの望んだことなんですか? 社会に夢を見させられて、役割を背負わされてるだけじゃないんですか? まだ何者でもなかった、自由に今だけを柔軟に楽しんでいた頃の喜びを完全に捨て去っていいんですか? 簡単に言えば、そういう合理的な生き方へのアンチ・テーゼでしょう。

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極端な考えに見えるかもしれないけれど、僕は思うに、Doing Nothingというのは、本当に何もしないというより(プーさんたちも何かはやってますよ。特に何かしてるわけじゃないってだけです)、取るに足らないことでも、これは意味があるのか、無駄かどうかを考えずに、やるってことです。何かをする時に、事前に合理的(だと大人が信じているような)判断をしないってこと。
 
僕がこの作品を最終的にとても現実的で感動を呼ぶ映画だなと思えたのは、あの着地です。やむなくではあるけれど、Doing nothingを実践したことで、頭でっかちだったクリストファーに降ってきたアイデアを思い出してくださいよ。仕事もうまくはかどってるじゃないですか。
 
これは、これから何者かになろうとする学生、そして何者かにならされた大人に響く、人生の価値観を問い直す心地よく苦い一本でした。

こちらは、いくつかある本国の予告編の中でのみ使われていた1曲。なんでWALK THE MOONなんだろう。そんなにイメージとは合わないんだけど、「人生という荒野へ相棒と一歩踏み出していく」っていう内容がフィットするという判断かなと思いつつ、歌詞を調べたら、The king of nothing at allなんてフレーズがあって、ここもnothingだと気づいたのでした。かといって、やっぱりしっくり来ないところもあるっちゃあるけど。それよりは、コーラスラインが「プ〜〜♫」って言ってるように聴こえるって方が理解できたりして(笑)

 

さ〜て、次回、9月27日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『コーヒーが冷めないうちに』です。無類のコーヒー好きな僕ですが、予告を観ている限り、「またタイムスリップものか」とか、「是枝監督の『ワンダフルライフ』みたいな話かなと想像するけど、あっちは傑作だぜ」とか、わりと冷めた感じなのが現状です。がしかし、来週はあつあつの状態に僕がなっている可能性もありますからね。しっかり観てまいります。あなたも鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!

 
 

『SUNNY 強い気持ち・強い愛』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年9月13日放送分
映画『SUNNY 強い気持ち・強い愛』短評のDJ's カット版です。

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90年代半ば。同じ女子校に通っていた高校生6人は、サニーというグループを組んでダンスをするなど、何をするにも一緒。他のグループと時に小競り合いを繰り返しながらも、あの時代の青春を謳歌していました。20年以上の時が流れて現在。専業主婦の奈美は、かつての親友でサニーのリーダーだった芹香と偶然再会します。しかし、芹香は末期がんのため入院中で、余命はわずか1ヶ月。「死ぬ前にもう一度サニーのみんなに会いたい」。奈美は芹香の願いをかなえるため、高校時代以来会っていなかった4人の友だちを探し始めます。
 
日本でもスマッシュヒットした2011年の韓国映画『サニー 永遠の仲間たち』を、川村元気の企画により、『モテキ』『バクマン』などの大根仁が脚本を書きメガホンを取ってリメイク。現在パートと過去パートがあるということで、基本的にそれぞれのキャラクターがダブルキャストになっています。たとえば現在の奈美は篠原涼子で、過去の奈美は広瀬すずみたいなことです。板谷(いたや)由夏、小池栄子ともさかりえ渡辺直美らが顔を揃えた他、池田エライザ山本舞香三浦春馬リリー・フランキーなどが出演しています。

サニー 永遠の仲間たち (字幕版) モテキ DVD通常版

90年代J-popが計11曲流れるサウンドトラックが話題となっていますが、オリジナルの劇伴24曲を手がけたのは、まさに90年代のシンボル小室哲哉です。
 
それでは、94年に高校に入学した僕、つまりドンピシャで主人公たちと同世代のマチャオがどう観たのか。制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

企画が動き出したのは6年前。主人公たち「コギャル世代がアラフォーになるまで待っていた」とのこと。実はオリジナルの過去パートというのはもっと時代が前で、1980年代の韓国の民主化運動を背景にしていました。監督を含めた製作陣は、お話の流れはそのままに、時代設定を90年代半ばに変更。だから、たとえば奈美には高校生の娘がいるということを踏まえると、確かにアラサーよりはアラフォーでないといけないっていう必然性が出てくるんですが、やはりこのリメイクを評価するにあたり、なぜ90年代半ばなのかということを考えないといけません。
 
既にバブルは崩壊。主人公たちはまだ高校生ということで、そのあぶく銭の恩恵を受けることも直接はなく、阪神淡路大震災、そして地下鉄サリン事件が続けざまに起こり、どんよりとした不安が社会を覆っていました。そんな中で、刹那主義だとか快楽主義だという批判はあるかもしれないけれど、とにかく今を謳歌する、でっかい夢なんて無くてもいい、小さな喜びを大切にする価値観が出てきた。先日さくらももこが亡くなった時にもいいましたけど、そういう個々人のささやかでも確かに幸せなことを尊び始めた平成の始め。音楽業界はバブルを後ろ倒しして、ユーロビートを取り入れたダンスミュージックが席巻。その中心にいたのは、ご存知小室哲哉であり、trfであり、安室奈美恵でした。
 
コギャル、ガングロ、ルーズソックス、ブルセラ、テレクラ、援助交際。世間を賑わせた女子高生たちのこうした表面的・記号的な要素を、この映画ももちろんベースにしてはいるんですが、サブタイトルは「強い気持ち・強い愛」なんですよね。そこは小沢健二なんです。物語的な理由は映画を観てもらうとして、彼女たちの心を捉えたのは、オザケン的価値観なんだというのが大根監督のメッセージじゃないでしょうかね。
こんな歌詞があります。
 
「すべてを開く鍵が見つかる そんな日を捜していたけど なんて単純で馬鹿な俺
 
いくつの悲しみも残らず捧げあう 
 
長い階段をのぼり 生きる日々が続く」
 
家族でも恋人でもない、友だからこそ分け合える喜怒哀楽があって、「今のこの気持ちほんとだよね」と。
 
今回のリメイクには、安室奈美恵も引退を報じるワイドショーのTV画面に登場。それを眺める奈美は篠原涼子。こういうキャスティングがもう絶妙です。大根監督お得意の小ネタ満載な時代描写もお見事、どの役者も好演していて、選曲も良し。ストーリーの骨格はもともと評価の高いオリジナルを踏襲。一旦の結論として、平成30年、今リアルタイムで観ることに強烈な意味がある快作だと言えます。
 
ただし、いくつか言いたいこともあります。話の性質上、どうしても比較してしまう先週の『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』と比べ、過去と現在の行ったり来たりの見せ方がわりとストレートなので途中ダレが来てしまうこと。J-popをある種のギャグとして使うのはいいけど、全体的にこれもストレートにマンガ的過ぎてスローとか入ると浮いちゃうこと。そして何より、いくら何でもノスタルジックに過ぎないかと。そのせいで、この世代で閉じてる印象もあるのが、どうなんだと。
 
というのも、この話の最大のポイントはラスト、これからもイキイキと女性たちが仲間で感情を分け合って生きていけるんだってところだと思うんで、そのスピリットが広がる描写もあればと僕は思いました。「マンマ・ミーア」と続けて観たから余計にね。
 
とはいえ、日本版青春音楽映画の快作ってのは間違いなし。いつ観るの? 今でしょ。

さ〜て、次回、9月20日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『プーと大人になった僕』です。鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく! と、いつものように書いていますが、この記事をアップしているのは、20日(木)の番組終了後。番組を1週間まるごと休んで休暇を取っていたため(映画コーナーは録音での対応でした)、すっかりこちらへの掲載を失念しておりました。でも、そこはプーのスピリットに習ったものとして(?)、ひとつお許しを。

 

『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』短評

FM802 Ciao Amici!109シネマズDolce Vita 2018年9月6日放送分
映画『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』短評のDJ's カット版です。

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ギリシャエーゲ海に浮かぶカロカイリ島。シングルマザーであるドナの娘ソフィが、自分の結婚式を前に父親探しを行おうと、可能性のあるドナの元彼3人を島に呼び寄せたことで巻き起こる騒動を描いたのが、2008年に完成した前作でした。スウェーデンの男女混合4人組ポップ・グループABBAのヒット曲で彩られたブロードウェイ・ミュージカルを映画化したもの。
 
今回は映画版オリジナルの10年ぶりとなる続編です。監督は交代しまして、脚本家でもあるオル・パーカー。『マリーゴールド・ホテル』シリーズとか『17歳のエンディングノート』を手がけた人物です。そして、僕がキーパーソンだろうと思っているのは、原案と製作総指揮のリチャード・カーティスです。『ラブ・アクチュアリー』とか『アバウト・タイム』とか、群像劇や過去の描き方が得意で、何より音楽のセンスがある人ですからね。

マリーゴールド・ホテルで会いましょう (字幕版) アバウト・タイム ?愛おしい時間について? (字幕版)

 物語は、前作からどうやら数年後の模様。母ドナとの念願だったホテルのリニューアルを終えて、支配人とオープニング・パーティーの準備に奔走するソフィ。「3人の父親」やドナの親友たちなど、招待状を次々と発送。一方、ホテルビジネスを学ぶためにニューヨークで暮らしている夫のスカイは、むしろNYで一緒に暮らさないかと提案され、ふたりの人生設計は一致しません。そこへ、ソフィの妊娠が発覚。そんな中、カロカイリ島を嵐が襲い、島もホテルもあちこちに被害を受けてしまいます。パーティーは無事に開催されるのか。ソフィは母ドナが自分を身ごもった頃に思いを馳せます。

 
ソフィ役のアマンダ・セイフライド、ドナ役のメリル・ストリープ、さらには3人の父親を演じるピアース・ブロスナンコリン・ファースステラン・スカルスガルドなど、前作キャストは続投。そこに、若きドナ役としてリリー・ジェームズが加わった他、シェールやアンディ・ガルシアなどの大御所も登場するなど、新旧のキャストが大所帯でわいわいやっております(それにしても、ジェームズ・ボンドキングスマンが混じってるってのが豪華すぎ。そして、ドナはスパイ好き?)。
 
それでは、ミュージカル好きからは程遠く、ABBAへの思い入れも平均以下で、前作の公開時は迷うことなくスルーしていた僕がどう観たのか。ちゃんと前作も観てから劇場へ向かいました。制限時間3分の映画短評、今週もそろそろいってみよう!

はっきり言っちゃいますけど、前作の方は終始半笑いで観ました。ドタバタというか話はガタガタだし、過剰なテンションとちょいちょい入るブリティッシュな下ネタにも乗れず、歌唱パートも物語と噛み合っているのやら何やらよくわからず、画作りも編集もとにかく強引。ここまで来ると、何か実験映画でも観ているのではないかという印象でした。ただ、もちろん、そもそもの曲の良さと、無邪気にはしゃぐ大人たちを見ていると、「まあ、いいじゃん」と思えてしまう不思議もあった。
 
そこから考えると、今作は飛躍的に映画としての完成度は上がり、わかりやすくおもしろくなり、より広い世代の心をくすぐる1本になっています。正直びっくりしました。前作終始半笑いだった僕が、まさか落涙するとは!  しっかり感動させられたし、笑わせられた。
 
まず物語としてよくできてるんですよ。ここはやはりリチャード・カーティス参加の成果でしょう。過去と現在を並行させることで、若者たちの葛藤と成長、親になることの不安と感激は、世代や環境が巡っても変わらないんだなってことを悟らせる。あの頃があって今の私がいるってことを確認して受け止め、仲間たちと共有し、その感慨を胸に未来に希望を持つことがどれほど人を幸せにするのか。若気の至りも含めて、若いってことのすばらしさと、歳を重ねることの喜びをどちらもうまく盛り込んでいます。
 
お話の段取りとしても、パーティーで集合できるのか、子どもが生まれるけれど夫婦関係の行方は?っていう現在パートにピークが予め配置された上で、過去パートでは「ドナさん、あんたモテモテやったんやなぁ」っていう、あの3人とのロマンスがしっかり出てくる楽しさも挟んでいって、最後にはすべて揃って大団円としっかりまとまってます。
 
しかも、あらすじでは僕が伏せた、ある驚愕の事実が開始早々判明するんだけど、もう「それはズルいよ」ってくらいにその事実が映画全体を引き締める出汁として機能するから、まんまと落涙させられるんです。もう最後にあの人が登場するくだりなんて、タメにタメただけに演出の効果てきめんでした。
 
ただね、前作が好きだったという人ほど、納得はいかないかもしれないです。だって、前作との整合性なんてどこ吹く風ですからね。特にドナが関係を持った男3人の設定なんて、ほぼ前作無視なんだけど、僕に言わせれば、どうでもいいです。あれは手の施しようがないレベルでガタガタで行き当たりばったりだったから。
 
そう言えば、3人のひとりハリーの現在のパートで、東京で会議をしてるっていうズッコケ日本演出の場面があるんだけど、会議室の壁にかかってる書道になぜか「整合性」って書いてあったのはセルフツッコミなのかっていうくらいに、整合性はないけど、とにかくそこは無視してください。

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こうした物語的なできの良さ以上に僕の気に入ったのは、過去と未来のシーンの入れ替え方です。ドナとソフィが取る同じアクションをきっかけにパッとタイムスリップしたりっていうのが、いちいち気が利いてるんですね。そして、肝心のミュージカルパートも映像的な工夫がいっぱい。大学の卒業式、レストラン、船着き場などなど、前作みたいにただただ歌って踊るだけじゃなくて、ちゃんとその場所の特性と物語的な流れを活かした内容、振り付け、カット割りになっているので、映画的醍醐味が格段に増しています。
 
まあ、一応言っておくと、嵐のシーンをだけはそうした工夫がまったくなくて、僕の目は死んでましたけどね。
 
それでも、全体的にキャスティングもキャラ立ちも最高。シェールやガルシアといったゲストもおいしいところを持っていく。傑作と呼ぶのは躊躇するけど、僕も含めて多くの観客の心を捉える愛おしく忘れがたい作品です。迫力の大画面と大音量が味わえる映画館での鑑賞が一番。マチャオが珍しくミュージカルを強くオススメします。

 

それにしても、邦題から「アゲイン」を取っちゃダメでしょ。ヒア・ウィー・ゴーまで来て、なんでアゲインを省くんでしょうか。なんなら、アゲインだけでもいいくらい大事な単語でしょうが。ま、カタカナにすると長かったんだろうな。でもさ…
 
ちなみに、イタリアでのタイトルはCi risiamo!
その場所に再び集うという意味内容もあるけれど、ニュアンスとしては「またやってるよ」って感じもあって、これはこれで素敵でしょ。やっぱり、タイトル大事。

さ〜て、次回、9月13日(木)の109シネマズ Dolce Vitaで扱う映画 aka「映画の女神様からのお告げ」は、『SUNNY 強い気持ち・強い愛』です。過去と現在が行ったり来たりの構造が似ていて、しかも音楽映画だと『マンマ・ミーア』と共通点も多いこのリメイク。オリジナルは2011年の韓国映画でしたね。鑑賞したら #まちゃお802 を付けての感想Tweetをよろしく!